ラオス チンタナカーン・マイ(新思考)政策の新展開

調査研究報告書

山田 紀彦  編

2010年3月発行

この報告書は中間報告書です。最終成果は
山田 紀彦 編『 ラオスにおける国民国家建設 —理想と現実— 』研究双書No.595、2011年発行
です。
まえがき (38KB)
目次 (18KB)
序章
はじめに
第1節 先行研究の整理
第2節 建国時の課題と党の模索
第3節 「チンタナカーン・マイ」(新思考)の再検討
第4節 各中間報告書の概要

本研究会は、1986年に提示された「チンタナカーン・マイ」(新思考)の約20年を整理し、ラオスにおける改革の全体像を、政治、経済、社会の相互関係から包括的に描き出そうという考えから出発した。したがって、「チンタナカーン・マイ」の意味を再確認することは、必要不可欠な作業である。しかし、編者は、「チンタナカーン・マイ」を再確認する過程で、これまで当然視されてきた「チンタナカーン・マイ」の重要性に疑問を抱くようになり、現在の改革や変化を正確に捉えるには、「チンタナカーン・マイ」を起点とするのではなく、国家建設というより長期の過程に位置づける必要があると考えた。本章は、「チンタナカーン・マイ」を検討する作業を通じて、編者の問題意識や研究会の狙いとともに、ラオス現代史を捉える新たな視点を提示する試みである。

第1章 
はじめに
第1節 先行研究の整理
第2節 建国後の課題と制度
第3節 市場経済原理の導入と党支配体制の整備
第4節 1991年憲法
おわりに

ラオス人民革命党は、1975年の建国からこれまで、いかに中央集権体制を確立し、地方を管理するかという問題を抱えてきた。それは、中央計画経済体制の構築を目指した1970年代も、市場経済化を行っている現在も変わりない。本章では、1975年から1991年にかけて、党がどのような地方管理体制を整備してきたか、その過程を簡単に跡づける。現在の政治・行政制度改革は、1991年までに構築された体制を維持・強化することを目的としている。したがって、1975年から1991年の間に、党がどのような地方管理体制を整備してきたかを把握することは、現在の政治行政制度改革を理
解する上で必要不可欠といえる。

第2章 
はじめに
第1節 建国後の経済・社会開発計画
第2節 「新経済管理メカニズム」と計画作成過程
第3節 経済・社会開発計画作成過程の制度化
むすびに代えて

本章は、経済・社会開発計画作成過程から、ラオスにおける党政関係の一端を明らかにするための準備作業として、1975年以降、経済・社会開発計画に対する党の認識や計画作成過程がどのように変化してきたか、その変遷過程を整理する。


第3章 
はじめに
第1節 国家建設と財政に関する理論的枠組み
第2節 ラオスにおける財政の歴史
第3節 ラオスの財政は健全化するか
おわりに

本章は、健全かつ持続的な財政制度の構築は、国家建設の中心的役割を果たすとの視点から、1893年から現在に至るまで、ラオスの財政制度がどのような変遷を遂げてきたかを整理する。そして、市場経済化以降、特に近年急速に改善した財政の大きな要因を統計データや政策の変化に基づいて考察し、今後を展望する。また、まとめでは、中間報告書で明らかになったことに加え、最終報告書に向けた課題を提示した。分析の時代区分については、近代的な行政組織が構築されはじめた点から、フランスによる植民地化を出発点にし、(1) 植民地期、(2) 内戦期、(3) 集団化・国有化期、(4) 市場経済化期とする。

第4章 
ラオス外国投資法の変遷 (194KB) / 鈴木 基義
はじめに
第1節 対ラオス外国直接投資の概況
第2節 ラオス投資法の変遷
第3節 2010統一ラオス投資奨励法とWTO補助金および相殺措置に関する協定
資料1 1988年ラオス外国投資奨励管理法
資料2 1994年ラオス外国投資奨励管理法
資料3 2004外国投資奨励法
資料4 2010統一投資奨励法(ドラフト)

ラオスが、「新経済メカニズム」(NEM)のもとで市場メカニズムの導入の目玉として外国投資の奨励に着手したのは、1986年である。ラオス初となる外国投資奨励管理法が制定されたのは1988年のことであるが、当初は奨励よりも管理に重点が置かれていた。1991年にソビエト連邦が崩壊し、社会主義のもとでの市場経済化が重要な課題となったが、1994年に2度目の改訂がおこなわれた外国投資奨励管理法には依然として外国投資に対する警戒感が感じられた。しかしラオスは、1997年7月にアセアンに加盟し、関税引き下げ等の地域経済統合にむけての努力が要請させるなか、2004年のラオス外国投資奨励法には、「管理」という文言がなくなったことは注目に値する。1992年からアジア開発銀行が進めてきた大メコン圏経済協力プロジェクトが、2000年代に入り実を結び、東西経済回廊の開通はベトナムとラオスとタイを陸路で結ばれた。ラオス一国というよりも投資市場としてCLMV4カ国が相乗効果を発揮する時代が到来した。こうしたなかで世界貿易機関(WTO)に加盟する開発途上国が増え、ラオスもまた2011年には加盟が予想される。WTOに加盟するには、内外無差別の投資法を策定しなければならない。また「補助金および相殺措置に関する協定」(SCM)に違反しない投資法を策定する必要がでてきた。それが、2010年3月に公布された国内投資と外国投資を一つの法律に統合したラオス投資奨励法である。

第5章
はじめに
第1節 ラオスの稲作
第2節 稲作の実践と農村社会の秩序
第3節 農業集団化
第4節 市場経済システムの導入
第5節 森林利用の制限と山地民の移住
第6節 市場経済の浸透と経済格差の拡大
第7節 市場経済化の促進と山地の資源化
第8節 稲作における技術開発
おわりに

本章は、先行研究および政府資料から、建国以降におけるラオス政府による農林業開発への取り組みについて、稲作を中心にまとめた。ラオス政府は、メコン川流域の天水田地域を中心的に開発し、灌漑設備の設置と改良品種の導入によって生産量の増大を目指してきた。一方で、それ以外の地域である山地部では、1990年代後半から、焼畑の停止と焼畑民の山地から低地への移住が進められてきた。山地部に対する政府の開発目標は、傾斜地をパラゴムを代表とする永年性作物による商業的プランテーションとし、焼畑を行っている住民を、商品作物栽培、プランテーションや加工工場での賃金労働へ生業転換させることにあると考えられる。

第6章 
ラオスにおける鉱業発展 (323KB) / 杉本 真一郎
はじめに
第1節 共産諸国による地質調査:1975-1989年
第2節 西側先進諸国の調査と、国有企業と近隣諸国資本による採掘開始:1990-1997年
第3節 鉱山開発本格化への胎動:1998-2002年
第4節 鉱山開発の本格化と、それに対応した監督体制・法律の整備:2003-2008年
おわりに
別添資料

ラオスの鉱業部門は、建国後、社会主義諸国の技術・資金協力による調査が行われた。しかし、ソ連・東欧諸国で相次ぎ社会主義政権が倒れ、対ラオス援助が途絶える1990年以降、ラオスの鉱物調査・開発は、主に国際機関・西側諸国の支援に取って代わられた。また、冷戦終結によって関係の改善した中国、タイからの投資によってセメント工場が建設され、石炭の採掘も行われた。1990年代に入り、鉱業分野への投資が拡大すると、政府は1997年に鉱業法を施行するなど、管理体制の構築を始める。世界的な好景気によって金属価格が高騰した2003年から2008年にかけて、ラオスではオーストラリア資本の2 つの大規模な金銅鉱山が操業を開始した。ラオスのGDP に占める鉱業の割合、輸出額に占める鉱産物の割合は急増したが、土地や転売目的の開発権取得など、問題も発生し始めた。ラオス政府は、急成長する鉱業分野を適切に管理するために、省庁再編でエネルギー・鉱業省を設立する一方、2008年12月には鉱業法を改正し、効率的な管理と問題の解決に乗り出している。

第7章 
はじめに
第1節 教育政策史
第2節 道徳教科書
おわりに

「第一に教育を」のスローガンのもと、ラオス人民革命党は社会主義国家建設に必要な人材育成のため、思想・文化における革命を最重視し、教育制度の整備を最優先事項においた。そうしたなか、道徳は新政権が革命の理想に沿った「新しい人」とは何かを具体的に示し、「理想的国民」を育成していくうえで重要な科目とされた。本稿では、教育政策と道徳教科書の二つの側面の分析をおこない、1986年の第4回党大会を契機に教育改革が進められ、理想とされる国民像が「社会主義的新しい人」から「よい市民」へと変化を遂げたことを明らかにした。

第8章
ラオス現代教育制度の変遷 -量的拡大の実態を中心に- (118KB) / オンパンダラ パンパキット
はじめに
第1節 伝統的教育とフランス植民地時代の教育
第2節 内戦時代の教育
第3節 1975年以降の教育制度整備の変遷
おわりに

ラオスの教育制度は、1975年以前のフランス植民地時代、および、内戦時代においてほとんど整備されなかった。その状況から一転し、1975年以降は教育整備が急速に進められた。本稿は、1975年以降のラオスにおける教育制度の整備状況を、大きく3期に区分し、その量的拡大の実態を中心に整理することを目的とする。第1期は、教育制度整備の基礎が建設され、量的に飛躍的に普及した1975年-1985年、第2期は、新経済管理メカニズム導入に伴う教育指針の転換により、教育制度の再編成を行った1986年-1995年、第3期は、援助の拡大や私立・高等教育機関の増大により、教育制度整備が再び加速した1996年-現在である。本稿は、ラオス現代教育が量的拡大を急ぎ、質的改善がされない背景を、1975年以前の基礎教育の未整備と1975年以降の新経済管理メカニズムに伴う教育指針の転換に大きく関わっていることを示す。