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【著者インタビュー】「現在進行形のシンガポール」を語る 久末亮一研究員インタビュー

書籍:転換期のシンガポール――「リー・クアンユー・モデル」から「未来の都市国家」へ――

『転換期のシンガポール――「リー・クアンユー・モデル」から「未来の都市国家」へ――』
久末 亮一
2021年1月発行
ISBN:978-4-258-04643-0


ビジネスや観光などで日本人にも親しみのあるシンガポールですが、時代の移り変わりに伴うこの国の動態やその背景をあまり意識したことはありません。変わりゆくシンガポールの姿をまとめた『転換期のシンガポール――「リー・クアンユー・モデル」から「未来の都市国家」へ――』の著者である久末亮一研究員に、本書について聞きました。

―― どのような経緯でこの本をまとめられたのですか。

私はアジア経済研究所に入った1年目から、『アジア動向年報 』(当研究所が刊行するアジア各国の1年間の動向を、政治・経済・外交などの側面からまとめた年鑑)の「シンガポール」の章を担当して、情勢を観察してきました。その最初の年が、総選挙での野党「勝利」を契機として大きな変化の始まった2011年であったことは、非常に象徴的です。

以降、毎年の作業を重ねるなか、シンガポールの様々な側面で変化が発生していることを感じました。この2010年代を時系列でまとめつつ、シンガポールにとっての「長期の20世紀」(20世紀の構造が21世紀まで延続すること)に接続して位置づけることで、その変容を浮かび上がらせると面白いのではないかと思いついたのが、この本の端緒です。

そして、この本を学術書ではなく、一般読者に向けて発信しようと考えたのは、現在でも日本では常套句のように使われる「シンガポール=明るい北朝鮮」という語り口を修正し、「現在進行形のシンガポール」を広く紹介したかったからです。それこそが、アジア経済研究所という公的研究機関のはたすべき、大切な役割のひとつではないかと考えたのです。

―― 本書をまとめるにあたって、苦労した点などがあればおしえてください。

実は、私はもともと「シンガポール研究」の出身ではありません。華僑・華人の経済史に関する専門家で、その関連から19~20世紀前半のシンガポールには着目してきましたが、建国以降~現在の同国には、「ある程度人並み以上」の知識と関心しかもっていませんでした。そのため、2011年に研究所に入って職務としてシンガポールを担当することになった時は、正直戸惑いました。そのとき職場の先輩に「大丈夫!土地勘あるでしょ?」と言われましたが、やはり不安な思いもありました。

しかし、研究者のプライドがありますから、しっかりとした仕事をしたいと思い、学生に戻ったつもりで初心にかえり、政治・経済・法律・社会・文化・外交・軍事・歴史など、あらゆることを貪るように勉強しました。また、学生時代から20年間以上をかけて作ってきた華人世界での人脈をたどり、シンガポール各層の「内部に入り込む」よう努めました。報道や学術書を読みアタマで考えるだけでは、「生きた動態」としての社会を理解できないからです。

こうしてシンガポールとの時間を重ねるにつれ、大学院生の時のように、未知の世界への扉がどんどん開き繋がるような「研究の楽しさ」を思い出したのです。バラバラだった知識のピースを、自分なりの分析や理解でつなげ、解を導き出し、表現する面白さ。気が付けば、昔は退屈だったシンガポールが、面白くて仕方がなくなりました。もっとも、それは先輩の言葉どおり、やはり少しは「土地勘」があったからかな?と今更ながらに思います。

本書は、シンガポールと向き合いはじめてから10年間の蓄積の成果でした。未熟な部分はたくさんありますが、私なりのシンガポール考察をカタチにして世に出したという意味では、一区切りをつけた仕事でした。同時に、シンガポール発見の旅は、もともと、研究のフィールドであった香港が「落城」してしまったこともあり、まだまだ続きます。


写真1:久末 亮一研究員
―― 社会面では言論の自由、LGBT、オンラインメディアなど、「未来の都市国家」にとって看過できないトピックを多々取り上げていますね。

リー・クアンユーというエリート主義の権化のような人間は、自らの価値基準によってシンガポールを規定し、人々がそのなかで生きることを強要してきました。しかし、意思をもった人間は、本質的に隷属よりも自由を求めるものです。そして、意思を持つ人間としてのあり方に、若い世代を中心とした国民が覚醒してしまった以上、管理の強弱や自由化へのスピードに多少の変化はあったとしても、もはや社会的自由への希求とそれへの対応という流れ自体は不可逆なものと考えます。

それに逆行することを人民行動党(PAP)政権が実行しようとすれば、現行の憲法や議会制民主主義に制度的改変が加えられることのない限り、確実に選挙で批判の洗礼を浴びることになります。シンガポールの社会的自由をめぐる各種問題とは、その未来に向けた姿勢を観察するうえで、重要なバロメーターになると考えます。

―― 「リー・クアンユー・モデル」の限界を迎えるなか、様々な変化に対してシンガポールとしてはおおむね前向きな姿勢である印象を受けましたが、いかがでしょうか。

為政者が好むと好まざると、内外の環境は時間の流れとともに変化し、それは統治の各方面に影響します。しかも、現代社会ではその速度がますます加速しています。こうしたなかで、リー・クアンユー自身がつねづね述べていたように、国家あるいはPAP率いる政権与党の「サバイバル」(生き残り)のためには、変化に適応せざるをえないのが実情です。

もっとも、こうした変化への決断は、並大抵ではなかったことも事実です。本書の結論部分で、私はリー・シェンロン首相を「偉大なる二代目」と評しましたが、父親の創り上げた国家モデルを、未来に向けて変化させる決断をしたことは、極めて勇気のいる重たい仕事であったと思います。しかし、彼はその決断と変化に向けた方向性を決定づけたことで、自身に課せられた責務をはたしたと思います。

ただ、本当の問題はこれからです。「リー」という主柱を大前提とした国家モデルのなか、エリートとして育ってきた「第四世代」(今後15~20年を担うシンガポールの次世代指導層)が、自らを育ててきた「常識」を打ち破りながら、変化しつづける内外環境のなかで、新しいシンガポールの未来像を現出させていくには、大きな想像力、実行力、チームワークが必要となります。それが成功するか否かは、まだ誰にもわからないのです。

―― 米中対立のなかでの外交は、これからも難しい課題といえるでしょうか。

建国以降のシンガポールが、ここまでの大国間の地政学的抗争に巻き込まれることは経験のなかった事態です。冷戦期東南アジアにも東西対立の影響は存在しましたが、建国以降のシンガポールには直接的脅威とはならず、基本的に1970~80年代は米国の軍事力に担保された安全保障環境のなかで、1990~2000年代は地域統合とグローバリゼーションによる平和安定のなかで、難しいかじ取りの不要な「バランス外交」を展開すれば足りてきました。 しかし、現在の中国は、その言葉とは裏腹に地域的覇権の確立を狙うなかで、東南アジアを硬軟両様で取り込もうとしており、シンガポールは難しい状況に立たされつつあります。これまで依存してきた米国の圧倒的軍事力に基づく大局的な安全保障環境は、米国の衰退と中国の軍事力拡大から揺らぎつつあります。一方で、抜き差しならないほど深めた中国との経済関係は、小国のシンガポールにとって極めて重要です。

米中対立は、双方に根本的な条件変化が発生しない限り、ますます激化していくでしょうし、それによって、シンガポール外交を規定する変数はさらに増加していくことでしょう。しかも、小都市国家という絶対的前提は変わることがなく、この現実のなかでシンガポールの外交は、これまで以上に戦略的な日和見主義にならざるをえないのではないでしょうか。「第四世代」の指導者だけでなく職業外交官のなかからも、いわゆる外交巧者の出現を願うばかりです。

写真2:久末 亮一研究員

―― 今回、シンガポールの転換について多面的に触れていますが、今後特に注目したい点についておしえてください

特に政治面・社会面が多いのですが、次世代指導層である「第四世代」リーダー決定の動向、世代交代後の舵取り、その先の「第五世代」の育成・登用、野党勢力の成長と成熟化、歳出構造を含めた国家財政の行方、社会的自由の改善、若者を中心とした社会価値観の変化、などです。これらは未来のシンガポールが、どのような方向に向かい、新しい国家・社会像を構築していくのかを考えるうえで、カギになる点だと思います。

(取材:2021年7月28日)
(写真撮影:長峯ゆりか)