『全アフリカ人民会議 1958・1960』 / 全アフリカ人民会議

All African People's Conference 1958 / All African People's Conference -- [S.l.] : [s.n.] , [19--] [12] leaves, [30] p. (various pagings, some bound), 19 leaves (bound). in case ; 24 X 36 cm
使用言語 : 英語
 
All African People's Conference, 2 nd, Tunis 25-29 Jan. 1960 / All African People's Conference -- [S.l.] : [s.n.] , [19--] [145] leaves, [17] p. (various pagings, some staple bound). in case ; 24 X 36 cm
使用言語 : 英語

【解説】
ここに紹介する2つの会議資料は、パンアフリカニズムの展開やアフリカの脱植民地化を検討する上できわめて重要なものである。「全アフリカ人民会議」は、アフリカ諸国が雪崩を打って独立を達成する直前の時期に、国家の代表ではなく人民の代表という資格で、主要政党や労働組合の指導者が一堂に会して開催された会議である。第1回はガーナの首都アクラで1958年12月に、第2回はチュニジアの首都チュニスで1960年1月に開かれている。

第1回全アフリカ人民会議は、パンアフリカニズムの一つの到達点である。ンクルマの下でブラックアフリカの先陣を切って1957年に独立を勝ち取ったガーナは、その翌年にこの会議を開催した。会議を主導したのは、いずれも1945年の第5回パン・アフリカ会議で書記を務めたンクルマとパドモアである。会議には、トム・ンボヤ(ケニア)、カムズ・バンダ(ニャサランド——現マラウィ)、パトリス・ルムンバ(コンゴ)など、独立後のアフリカ諸国を牽引する錚々たる指導者が出席し、相互に親交を深めた。

第1回の会議資料には、決議案や決議文書に加え、幾つかの演説が収められており、決議採択に至る議論の流れや会議の雰囲気を追うことができる。当時90歳のデュ・ボイスの演説は感動的なものであり、決議からは既存の国境線にとらわれずに地域ごとに統合されたアフリカ国家を樹立しようとのパンアフリカニズムの熱気が伝わってくる。

これに対して第2回会議の様相はかなり異なる。第2回会議資料には、第1回会議資料以上に議事録や決議が網羅的に所収されているが、レセプションやエクスカーションが準備され、組織化された会議運営だったことが窺える。しかし、主催国チュニジアのブルギバ大統領による歓迎演説が議事録のかなりの部分を占めていることに象徴されるように、会議の形骸化も進んでいる。決議には、反植民地主義のかけ声と独立要求こそ随所に盛り込まれたものの、アフリカ統一への熱気はずっと冷めたものとなった。既存国家の融合を鼓舞する文言は失われ、交換留学生の増加やスポーツ・文化交流の促進など当たり障りのない内容である。

わずか1年あまりの間に開催された2つの会議。両者を隔てるこの落差は何だろうか。その背景には、パンアフリカニズムの理想と独立主権国家の現実とが横たわっている。今日のアフリカの苦境を考える上でも、脱植民地化過程の再検討は重要な意味を持つ。本資料は、当時の雰囲気をリアルに伝える貴重なものである。

( 武内進一 )

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