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海外研究員レポート

新自由主義的な公共サービス

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050070

2006年1月

報告者は以前にアメリカ合衆国で生活したことがありますが、ロンドンに赴任以来ここでの生活はアメリカともまた異なることに気づかされてきました。違いは言葉使いや治安、人々の体格など様々な点で見て取れますが、そのうちの一つとして国民の政治的な姿勢として左派的な傾向が強いように感じます。労働組合は未だに健在で日常的にストを行っています。貧困層向けの政策が厚く、移民の受け入れもアメリカよりもずっと寛容であるように思われます。世論は政権に対して非常に批判的であり、特にイラクへの派兵問題に対する国民の反対は根強く反戦の傾向が現れています。また、アフリカ援助や途上国の貧困削減が選挙対策として有効に働くという、報告者には驚くべき政治的土壌があります。特に昨年はアフリカ援助が広く注目され、テレビ番組、映画祭、コンサートなどあらゆるメディアでアフリカの貧困が取り上げられていました1。同性間の結婚を認めたことも社会的な少数派を尊重する政策と言えます。社会的な弱者への配慮と異文化の理解という点において、イギリスはアメリカとは大きく異なるように感じています。

その一方で、一部の公共サービスのシステムが極めて新自由主義的、より正確には経済インセンティブを利用した仕組みになっています。各種の公共サービスが民営化されているだけでなく、価格を利用した公共財・サービスの配分メカニズムが多用されているという印象があります2。新聞などの論調は、新自由主義的政策が低所得層の福祉に悪影響を与えるとして批判するものが多いのですが、実際にはそうした政策が盛んに利用されていることが、報告者には理解しがたいギャップと感じられます。今回の報告ではそうした政策や行政サービスの一部を紹介します。

1.経済インセンティブ

最も典型的な例は、ロンドン中心部に自動車(バス、タクシーを除く)で乗り入れた時に課せられる混雑税(Congestion Charge)です。その名の通り、ロンドン市内の交通渋滞を緩和する方策として近年実施されたルールで、一日あたり8ポンド(約1600円)が課せられます。ロンドン市中はくまなくカメラによって監視されており、支払っていない車に対しては100ポンドの罰金が課せられます。公害や交通渋滞など外部不経済を発生させる活動に対しては、限界費用に等しい税(または何らかの強制的な費用負担)を課することにより最適な廃棄物量や交通量が実現できるというのが、ミクロ経済学のテキストが教えるところです。8ポンドという金額が適当かどうかはわかりませんが、混雑税の制度は原理的には経済理論に依拠しています。

他の交通ルールに関しても、経済インセンティブを利用した制度になっています。軽微な交通違反に対しては警察署への出頭や点数の減点など懲罰的な措置は一切なく、罰金の支払いのみが課せられます。しかも、早く支払えば罰金の割引(!)、遅れれば加算という徹底ぶりです。交通ルールの遵守は、法的措置よりも経済インセンティブによって支えられているようです。ルールの遵守に経済インセンティブを利用する場合、遵守状況の監視が不可欠ですが、特に混雑税の監視に警察官で対応すると莫大な費用が必要になります。また、税の支払い方法も実施を困難にする要因です。ロンドンでは、世界でも稀な高密度に設置された監視カメラで違反者を捕捉し、デビットカードと通信システムを利用した支払いシステムによって利用者も簡便に支払いができるようになっており、制度の実施費用を実行可能な範囲に抑えることに成功しています3。先日、報告者の所にロンドン交通局から通知があり、違反状況を写した画像ととともに罰金額 (早期割引付き)と、クレジットカードや小切手などの支払い方法を懇切丁寧に説明した書類が送られてきましたが、交通違反というよりは詐欺か、よくても押し売りの手紙のような印象しか受けませんでした4。法的措置が全くないのかどうかは分かりませんが、報告者の場合そうした手続きは一切なく、法律違反という意識はほとんどありませんでした。 ビザの申請料金にも経済インセンティブが利用されています。イギリスでの滞在ビザを延長する場合、本国に戻らずにイギリスに滞在したままで申請すると500ポンド(約10万円)を申請料金として支払わなければなりません。この金額は明らかに事務処理に関わるコストを超えており、高い金額を課することにより申請者を本国に戻るように誘導していると思われます。滞在したままでビザ延長ができる制度自体は外国人の出入国に寛容といえますが、あまりに高額な費用は差別的に感じられます。

その他にも、テレビ視聴ライセンス、路上駐車、図書館の貸出し延滞など公共的なサービスにおいても、高額の罰金によってルールの遵守を促しています5。逆に言えば、罰金を払えば道義的な責任を問われることはなく(もちろん軽微な違反に限ってですが)、お金で解決できるという側面もあるように思います。つまり貧困層には厳しい制度で、弱者への配慮を重視する政治的傾向とのギャップを感じるわけです。

2.価格差別と階級社会

お金で解決できるということに似た制度として、お金を払えば良いサービスが受けられることが多いのもイギリスの特徴です。典型例は医療サービスです。イギリスでは国民であれば(長期滞在の外国人も)、無料で国によって提供される医療サービスを受けることができます。ただし、診察の待ち時間は数日から数週間にもなる時があり、またサービスの質は悪く、イギリス人の多くは個人病院に行きたいと考えています6。個人病院は待ち時間は短いのですが非常に高額で、健康保険の負担分を含めた日本の費用よりもはるかに高いという印象があります。また、老朽化した家の多いイギリスではプラマー(配管工、家屋の設備の修理業者)を呼ぶことは頻繁ですが、依頼が多いせいか長く待たされることが日常的です。冬場の暖房設備の故障でもお構いなしで待たされるようですが、聞くところによると富裕層はお抱えのプラマーがあり、すぐに対応してくれるとのことです。日本では最近になって増えてきた富裕層向けのサービスが、こちらでは金融サービスに限らず広く行き渡っているのが特徴です。

お金を払えば良いサービスというのは日本でも珍しいことではありませんが、公共サービスに格差はつけない、一般向けサービスもそれほど質が悪くはないなどの理由からさほど不公平感や経済的格差を感じないように思います7。こちらではそうした格差があって当然という前提で制度が作られているようであり、階級社会の影響が感じられます。もちろん低所得層は不満の声を上げており、特に混雑税は評判が悪いのも事実です。しかしながら廃止される気配はなく、むしろ値上げが実施されたほか対象地域の拡大も計画されており、経済インセンティブを利用した制度は受け入れられているようです。階級社会の歴史の中で、質が悪いながらも低所得者向けのサービスを充実してきたという経緯なのかもしれません。そうした背景があるからこそ、公共サービスの質に格差があることも受け入れられるのかもしれないと考えています。

均質なサービスが当たり前の日本で暮らしてきた報告者は、車で外出するときは混雑税を払う価値があるかどうかを考えたり、貸し出し図書の期限を心配したりすることに慣れておらず、いっそのことお金の心配をしなければ何の心配もなく自由に暮らせるのにと思い巡らしています。自分の効用関数と相談して出費を決めることは意外と面倒だと知りました。


脚注
  1. 20万人を集めたと言われるロンドンの「ライブ8」もその一つです。一般市民がどれほど貧困削減の必要性を理解しているかは疑問ですが、「アフリカの貧困削減は不可欠」と唱えることは善良な市民の半ば義務となっているといえなくもありません。
  2. 報告者は最近になって郵便局と郵便配達業務が異なる会社で運営されていることに気づきました。郵便局会社は保険や携帯電話サービスも行っています。
  3. 監視は完全ではなく見過ごされることも多いですが(報告者も払い忘れていたが請求がなかった経験があります)、ドライバーにとっては十分な脅しとして機能しています。支払い方法はインターネットや電話、さらに携帯メールを利用してカード支払いができるようになっています。事前に登録すれば毎回カード情報を送る必要もなく、携帯メール一つで済みます。カードはデビットカードが非常によく普及しており、店頭で数ポンド(1000円以下)の支払いでもカード決済できることが多いです。
  4. ちなみに報告者の違反は、消防署の前などにある停止禁止区域に信号待ちのために停車したことでした。罰金は100ポンド、2週間以内に払えば半額です。ご丁寧にWebサイトで写真の確認ができます。この程度の軽微な違反でも摘発されるとなると、十分な監視効果があります。
  5. 路上駐車は平日昼間が有料、週末と夜間は無料になります。監視員が頻繁に見回っていて1時間も放置すれば見つかる可能性が高いです。ちなみに週末と夜間が無料であるのは混雑が少ないせいではなく、監視員が見回れないためではないかと報告者は推測しています。これらの時間には監視コストが上昇するため、有料化が合理的でない可能性があります。とすれば、徹底的に合理的な制度といえます。
  6. 報告者は事前に指示されたとおりに午前中に診察予約の電話を入れたところ、明日の9時ちょうどにまた電話するように言われ予約できませんでした。予約できても診療は数日先になるため、医者に行くのは容易ではありません。
  7. イギリスでは、一般向けの質が低いのはサービスだけでなく商品も同じです。普及品の電球はすぐ切れ、靴下のゴムはすぐに伸び、サランラップはゴワゴワして使いにくく、タッパウェアは液漏れするなどなど。しかも価格は日本よりは高いため、イギリスに来た日本人は当初あきれるばかりです。大量の中流階級の存在を背景に、良いものを少しでも安く提供しようとする日本市場との違いが歴然としています。