「初期」資源・環境政策の形成過程

調査研究報告書

寺尾 忠能 編

2019年3月発行

第1章

1934年に制定された連邦法である,魚類・野生生物調整法(Fish and Wildlife Coordination Act: FWCA)は,終戦直後の1946年に改正強化され,これにより,「保全」の観点から,ダム開発関連の意思決定への制約が高まることになった。しかし 1940年代という時期は,アメリカにおけるダム開発最盛期であり,「保全」関連法の改正・強化を容易になし得るような時期とは考えにくい。そのような時代状況下において, FWCAの1946年改正強化は,いかにして実現をみたのだろうか。本稿では,近年のアメリカ環境政策史研究の成果に多くを負いながら,その経緯を辿り,これまで等閑視されてきた感のある,1940年代,1950年代の同国環境政策研究を今後本格化させるための端緒をつかもうとするものである。

第2章

行政院環境保護署が1987年に設置される以前の台湾の環境政策については,具体的にどのような施策が執行されていたのかは,政策の通史にほとんど記述されていない。台北地区水源汚染改善計画は,最初の環境法である水汚染防治法制定の前年,1973年7月に開始され 1984年6月まで11年間にわたって,中央政府と地方政府が協力して取り組んだ水質保全政策の実施計画であった。台湾で初めての本格的な水質保全政策の執行計画であったにもかかわらず,政策史の中にまったく位置づけられていない。この計画は,当時の水質の状況を把握するための調査研究だけではなく,汚染改善の執行計画であった。「初期」の取り組みの実際を明らかにし,分析することで,現在の政策がなぜ,どのようにして現在のような形で形成されたのかを理解し,その問題点を検討することができると考えられる。

第1節では,台湾の水質保全政策の形成過程を「初期」を中心に法改正に焦点を当てて説明する。第2節では,台北地区水源汚染改善計画の概要を説明する。第3節では,台北地区水源汚染改善計画の背景にあった,翡翠水庫(ダム)の建設計画,経済開発政策の転換,1983年の水汚染防治法の第1次改正,他の水質保全対策プログラムとの関係とこの時期の水質保全政策の全体像について説明する。

第3章

資源環境政策は、後発であることにより,すでに存在していた多くの公共政策の政策体系の隙間で,形成・発展する。資源環境政策の形成過程で調整が最も重要となる公共政策は,経済開発政策である。経済開発政策における産業化を追求する具体的な取り組みが産業政策である。本稿では,産業政策が資源・環境に与える影響の二つの側面を検討する。まず,経済開発政策の主要な政策手段である産業政策が,資源環境政策とどのような関係にあったのかについて,日本の事例を使いながら,環境政策の経済学的分析のその後の進展を踏まえて,論点の確認と議論の再構成を試みる。

産業政策と資源・環境との関係におけるもう一つの重要な側面として,産業政策が深刻な事故,環境汚染,環境破壊を誘発する可能性を取り上げ,1979年のアメリカ合衆国のスリーマイル島原子力発電所の事故を事例に検討する。深刻な事故,汚染を含む突発的なアクシデント,事件は,それ自体が重要な問題であるが,資源環境政策に限らず,公共政策の形成の重要な引き金となることが知られており,間接的に政策形成と関わっていると考えられる。産業政策が深刻な事故,環境汚染を誘発する可能性があるにもかかわらず,そうした事例は顕在化しにくく,過去の経験が蓄積されない。発生当時,史上最悪の過酷事故だったスリーマイル島原発事故は,そのような可能性が顕在化した貴重な事例であり,事故や環境汚染のリスクが高い産業が集積しやすく,産業政策による強力な優遇措置を用いて産業化を推進する傾向にある後発国において,重要な教訓となりうる。