レポート・報告書

アジ研ポリシー・ブリーフ

No.216 「1027作戦」が変えたミャンマー紛争──民主化運動から民族闘争へ──

工藤 年博

2025年3月4日発行

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  • ミャンマーでは1948年の独立以来、約20年の民主主義の時代を除けば、事実上国軍による支配が続いてきた。この間、国民の民主化運動や少数民族武装勢力の抵抗はあったが、軍政はいずれも武力で抑え込んできた。
  • ところが、2021年2月のクーデタ以降、国軍は抵抗勢力を鎮圧できずにいる。とくに国軍を劣勢に追い込んだのは、2023年10月に「兄弟同盟」によって実施された「1027作戦」であった。
  • 1027作戦を契機として、ミャンマーの紛争は民主化運動から民族闘争へ変容しつつある。こうした変化を受け、少数民族武装勢力と民主派勢力との協力の行方が、戦闘においても、ポスト軍政の展望においても重要となっている。
民主派勢力の武装闘争への転換

2021年2月のクーデタ後、民主派勢力が軍政に対抗して設立した国民統合政府は、同年9月、ミャンマー国軍に対し武力闘争を宣言した。これはそれまで民主化運動を主導してきたアウンサンスーチーがとってきた、非暴力路線からの大きな転換であった。クーデタ後、国軍の弾圧を受けた多くの若者が辺境の少数民族武装勢力(EAO)の支配地域へ逃れ、人民防衛隊(PDF)を組織し、武装闘争を開始した。

しかし、当初PDFにはまともな武器がなく、指揮命令系統は確立されておらず、部隊間の連携もなかった。また、ミャンマーには20を超えるEAOが存在していたが、当初から民主派勢力と共闘したのは「3KC」と呼ばれる4勢力だけで、国軍の軍事的優勢は続いていた。

「1027作戦」の衝撃

事態を大きく変えたのは「兄弟同盟」による2023年10月27日の一斉蜂起、すなわち「1027作戦」であった。その日、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA──中緬国境に拠点をおく漢民族系の少数民族コーカン族)、タアン民族解放軍(TNLA──シャン州北部に拠点をおくパラウン族)、アラカン軍(AA──ラカイン州に拠点をおく仏教徒ラカイン族)の3つのEAOがつくる同盟軍が、シャン州北部でミャンマー国軍への一斉攻撃を開始、国軍拠点を次々と落としていった。さらには、1027作戦発動直後、ミャンマー各地でPDFEAOが国軍を一斉に攻撃した。SNS上では傷ついた国軍兵士が投降する映像が拡散された。

2024年に入ると戦況は一段落し、中国の仲介により同年1月に停戦が実現した。しかし、その後も小競り合いは続き、同年6月25日には兄弟同盟による1027作戦第2弾の攻撃が開始された。8月には北部シャン州の要衝ラシオに位置する北東軍管区司令部が落ちた。全国に14ある軍管区司令部が落ちたのは初めてであった。

一方、TNLAはマンダレーPDFと共にモゴック、マダヤを落とし、マンダレーに迫った。マンダレーが攻撃されるのではないかとの懸念が高まり、2024年8月7日に日本外務省はマンダレーに滞在する日本人に避難を呼びかけた。

AAもラカイン州で快進撃を続け、2024年12月20日、同州アンに拠点を置く西部軍管区司令部を掌握した。これがEAOによって落とされた2つ目の軍管区司令部となった。

なぜ「1027作戦」は始まったのか

クーデタ後、ミャンマー各地に戦闘が拡大するなか、シャン州は比較的平穏な地域であった。なぜクーデタから2年9カ月経ったこの時期に、攻撃が実施されたのであろうか。兄弟同盟に蜂起を決意させた要因はなんだろうか。じつはこの問いに答えるためには、攻撃の動機(motivation)をさぐるよりも、攻撃の実行可能性(feasibility)を検討した方が理解しやすい。

第一に、兄弟同盟が国軍との戦いに戦略的な勝機を見出した点が重要である。じつは兄弟同盟の中核を担ったMNDAAは、2015年にもラウカイ奪還を目指して奇襲作戦を実施したことがあった。この時は国軍の反撃を受け、4カ月の死闘の後に撤退を強いられていた。

しかし、今回、国軍は他地域における戦いのために前線が拡大していた。MNDAAが攻撃しても、国軍は2015年の時のように他地域から部隊を増派できないことが予想された。

第二に、中国の介入がないと考えられた点である。今回、中国はミンアウンフライン総司令官が国境地域での詐欺拠点の取締りに協力的でないことを不満として、兄弟同盟による国軍への攻撃を容認、あるいは黙認した。中緬国境に拠点をおくMNDAAやその後ろ盾であるワ州連合軍(UWSA)は中国経由の物資供給に依存している。少なくとも当面は中国が介入しないことが、1027作戦実行の前提条件であった。

第三に、兄弟同盟およびUWSAの軍事的、資金的リソースの獲得である。武器は中国経由で入手が可能であったし、UWSAやカチン独立軍(KIA)は武器工場をもっており、これらの武器も供給された。EAOの支配地域には国軍に弾圧された多くのビルマ族の若者が逃げ込み、訓練を受けた。資金は主に麻薬、詐欺、賭博、売春、人身売買等の違法活動により獲得された。EAOが中国、タイ国境に支配地域を長年にわたり維持し、実質的に治外法権におかれていたことが、こうした違法活動を可能にした。

第四に、EAOには国軍との長い戦いの歴史と経験があった点である。クーデタ時において、それぞれのEAOと国軍との関係は異なっていたが、いずれにしても彼らには過去に国軍と戦った経験があった。EAOにとって戦闘を再開することは比較的容易であった。

第五に、国民の支持である。2015年のMNDAAによる攻撃の際には、全国で国軍に支援物資を送る運動が盛り上がるなど、国民は国軍を応援した。ところが今回は多くの国民が兄弟同盟の攻撃を歓迎した。「解放」された都市では、入場する兄弟同盟の軍人に住民が花束を渡して歓迎した。国民の国軍への恨みは深かった。

変容するミャンマー紛争

こうしてみると、1027作戦はミャンマー国軍の弱体化と国内・国際環境の変化をとらえた、戦略的判断に基づく蜂起であったと考えられる。ミャンマーのように中央政府に抵抗する少数民族武装勢力が長年存在してきた国において、内戦が勃発するのは、その動機がなんであれ、抵抗勢力の勝算が高まった時である。今回、兄弟同盟は勝機を的確につかんだ。こうして、1027作戦はミャンマーにおける反乱史上、稀にみる成功を収めたのである。

しかし、この成功はミャンマーにおける紛争の性格を大きく変質させることとなった。それは一言でいえば、民主化運動から民族闘争への変質である。国軍を倒して新たに連邦民主主義に基づく中央政府を樹立しようとする戦いから、中央──ミャンマー国軍──を倒して、周辺──少数民族武装勢力──の支配を確立しようとする戦いへと変貌したのである。

「連邦民主国家」は実現するか

EAO(およびEAO同士)と多数派ビルマ族のPDFとが反国軍で団結したことは、独立後ミャンマーの歴史において画期的であった。しかし、このことは仮にポスト軍政時代が到来した場合(これ自体いつ実現するか分からないが)、彼らが一致協力して連邦民主国家を建設できることを保障するものではない。

実際、兄弟同盟を含むEAOは、必ずしも民主主義という価値にコミットしているようには思われない。多くのEAOは現在支配地域において軍政を敷いており、彼らはいわば「ミニ軍政」ともいえる。ラカイン・ナショナリズムを掲げるAAには、少数派イスラム教徒ロヒンギャを虐殺したとの疑義も出されている。EAO自身が民主的な統治に移行する必要がある。

ポスト軍政においては、国軍打倒を目指して共に戦ったビルマ族と少数民族が民主的な価値を共有し、連邦制の具体的なあり方について合意することが必要になる。1027作戦の成功は、ミャンマー独立以来のこの課題──すなわち少数民族を包摂する連邦制の樹立──に再び焦点を当てたのである。

(くどう としひろ/政策研究大学院大学)

本報告の内容や意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません

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