レポート・報告書

アジ研ポリシー・ブリーフ

No.179 紛争において中立的立場は本当に漁夫の利をもたらすのか? ――ロシア・ウクライナ紛争におけるタイの事例

2023年9月14日発行

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  • 紛争時に中立的立場を維持しても、必ずしも輸出は拡大しない
  • タイ政府はロシアに対して貿易制限措置を導入していないにもかかわらず、在タイの外資系企業による輸出自主規制により、ロシア向け輸出を大きく減少させた
  • 中国に対する輸出規制の対象が広範囲に及ぶと、ASEANから中国への輸出も減少するかもしれない

ロシア・ウクライナ紛争の勃発後、中立的な立場を保つことで、貿易を拡大し、経済的な利益を得られると主張されることが多い。インドがロシアとの貿易を爆発的に拡大させているのはその最たる例であろう。この「漁夫の利」論は米中対立の文脈でも語られ、とくにASEAN諸国が中立を保つ論理的根拠の一つと考えられている。

中立を維持することによって得られる利益は経済的なものに留まらないが、経済的利益、とくに貿易利益はその重要な要素の一つであろう。中立国が紛争当事国との貿易を拡大させるか否かは、拡大要因と縮小要因のバランスによる。縮小要因として、例えば、当事国同士間が貿易を制限しているため、当事国の経済、需要が縮小し、中立国との貿易も減少する点が挙げられる。一方、拡大要因には、当事国市場における競争が弱まるため、中立国が参入しやすくなり、貿易が拡大する効果が挙げられる。

本ポリシー・ブリーフでは、これまで注目されてこなかった、一つの縮小要因について取り上げる。「漁夫の利」論の対象となることが多い途上国、とくにタイを対象とし、ロシア・ウクライナ紛争の影響を考える。そして、この縮小要因の影響が大きく、中立的な立場であっても最終的に輸出を減少させることもあることを指摘したい。

見過ごされている視点

タイ政府はロシアに対して貿易制限的措置を取っておらず、またロシアの非友好国リストにも入っていない。したがって、欧米や日本などの非友好国が輸出制限を行っている間、ロシアへの輸出を拡大させるチャンスである、というのは自然な発想であろう。例えば日本においても、農水産品と食料品を除く、ほとんどすべての製品が輸出規制の対象となっている。しかしながら、この発想は必ずしも正しくない。

本ポリシー・ブリーフにおいて、最も重要な視点は、途上国における主要な輸出主体は多国籍企業であることが多いという点である。とくにタイにおいては、貿易における日系企業のシェアが高い。例えば、タイ商務省の貿易企業リストによると、2021年にロシア向け輸出額が多いトップ10社のうち、5社が日系企業であった。トップ20社でも、10社が日系企業であった。また、中国税関で得られるデータによると、中国の対世界貿易に占める外資系企業のシェアは、近年様々な理由から低下しているものの、依然として3割程度を示している。

ここで重要なことは、欧米や日本の多国籍企業は、母国における貿易制限措置に海外でも従う傾向がある点である。つまり、中立国の政府が貿易制限的措置を取っていなくても、そこで主要な貿易主体となっている外資系企業が、母国における措置に基づいて、当該中立国でも貿易を控える可能性がある。このことを次節で見ていこう。

タイのロシア向け輸出

図は、タイのロシア向け輸出額の月次推移を示している。ここでは日系企業の多い、一般機械、電気機械、輸送産業の輸出を取り上げた。ロシアがウクライナに侵攻した2022年2月以降、急速に輸出が減少している。一般機械の輸出は一部増加している月があるが、輸送機械の輸出はほとんど消滅している。

図 タイからロシアへの輸出額推移
(2022年2月を1に基準化)

図 タイからロシアへの輸出額推移 (2022年2月を1に基準化)

(出所)Global Trade Atlasを用いた筆者による計算

実際、2021年時点では、乗用車などが含まれるHS87番において、ロシアに対する非友好国48カ国を除くと、タイのロシア向け輸出額は、中国、メキシコに次いで多かった。言うまでもなく、タイにとって輸送機械は最も重要な輸出産業の一つである。日系完成車メーカーによる輸出が大部分を占めるが、これら輸出が2022年以降、ぱったりと止まった。

タイにおけるロシア向け輸出は、ロシアにおける需要動向など、様々な要因に依存する。そのため、日系企業の輸出動向だけがこれらの減少を招いたわけではないが、主要因となっているに違いない。つまり、タイ政府は何ら貿易制限措置をロシアに対して導入していないにもかかわらず、外資系企業による自主規制により、大きく輸出を減少させることになった1

おわりに

本ポリシー・ブリーフでは、外資系企業の存在により、中立国は必ずしも紛争当事国向けの輸出を拡大できない、減少させさえすることを指摘した。このことは、東西もしくは米中の貿易紛争においても、自身が中立を維持しても、同様の状況が生じ得ることを示唆している。

現在の米国の中国に対する輸出規制は、先端半導体に限定されているため、ASEANにとって直接的な影響は小さく、欧米各社はASEANで半導体工場を拡張している。実際、少なくとも2010年以降、集積回路(HS8542)はASEANから中国への最大の輸出製品となっている。将来、米国の輸出規制が汎用半導体にまで及ぶと、これら集積回路の輸出も激減するかもしれない。

さらに現在の欧米、日本のロシアに対する輸出規制のように、半導体に限らない、広範囲の製品に対する輸出規制が行われれば、外資系企業を通じて、中立国の対中輸出にも大きな影響が及ぶ。ただし、それでもなお、どちらかの陣営につくよりも、「中立」が最大のペイオフとなるかもしれない。いずれにせよ、外資系企業を通じた影響を踏まえて、ASEAN諸国は中立的立場と片方に寄る立場の経済的帰結を、改めて考えてみることが重要であろう。

【謝辞】
本稿の草稿段階において、木村福成教授(慶應義塾大学)および経済地理シミュレーションモデルのチーム(アジア経済研究所)、濱田美紀氏(アジア経済研究所)から有益なコメントをいただいた。ここに記して感謝の意を表したい。なお、本稿についての誤り等の責任はすべて筆者に帰するものである。

(はやかわ かずのぶ/バンコク研究センター)

  1. 2023年度に入ると電気機械、輸送機械のロシア向け輸出が増加する。この原因については今後の分析課題とする。

本報告の内容や意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません

©2023年 執筆者