PKKからKCKへ:オジャランの戦略とその限界

アジ研ポリシー・ブリーフ

No.106

2018年3月20日発行

PDF (677KB)

  • クルディスタン労働者党(PKK)の党首であるオジャランの戦略変更。
  • クルディスタン共同体同盟(KCK)はトランスナショナルな自治を標榜。
  • クルディスタン民主統一党(PYD)の自治の継続は極めて困難。
主権国家を目指したオジャラン(1978~1995)

トルコにおける非合法武装組織であるクルディスタン労働者党(PKK)は1973年からメンバーを集めていたアブドゥッラー・オジャランを中心に1978年に結党された。マルクス主義思想に傾倒していたオジャランはPKK結成前の1977年、ディヤルバクル県における集会で、組織のイデオロギーに関して「クルド革命への道」という文書を発表した。「クルド革命への道」の骨子は、革命の担い手は農民、賃金労働者、若いインテリである、まず、独立した非同盟のクルディスタン国家を建国したうえで、マルクス・レーニン主義に基づいた国家を設立する。敵は民族主義者行動党に代表される右翼のファシスト、トルコ革命の進展がクルド人の自由を達成すると考える左翼の愛国主義者、地主、国家の支援を受ける人々などであった。クルディスタン国家は、トルコのクルド人だけでなく、クルド人が散在する他の3つの隣国、イラン、イラク、シリアに住む人々もその対象とされた。

このオジャランの目標は、1984年にPKKがトルコ軍との本格的な抗争を開始してからも当初は継続した。しかし、1990年代初頭からPKKの兵士に多数の死傷者が出て、劣勢になり始めると変化が見られるようになった。

トランスナショナルな自治を目指したオジャラン(1995~現在)

オジャランはまず、トルコ政府と停戦を模索し、長期の停戦が失敗に終わると 、95年にその目的を民主的な自治を行う独立した統一クルディスタンと階級がない社会の実現に変更した。加えて、ヨーロッパにおいてPKKの活動を支援する組織を活性化させ、ヨーロッパ諸国がトルコのPKK対策およびクルド政策に圧力をかけるよう、ロビー活動を展開した。オジャランはすでにこの段階でクルド人国家の建設を諦め、主権国家とは異なる、クルド人が多く住む上述した4カ国間でのトランスナショナルな自治という政体を模索するようになっていた。

しかし、新たな政体の模索は1999年12月のオジャラン逮捕によって停滞することとなる。オジャランは長い間シリアのハーフィズ・アサド政権下で匿われていたが、1997年からトルコ政府はアサド政権に対してオジャランの放逐を訴え、1998年にはトルコとシリアがこの問題によって一触即発の状態となった。アサド政権はトルコの圧力に屈し、同年10月20日に両国はアダナ合意に調印し、オジャランはシリアから放逐された。その後、オジャランはロシアへと逃れ、最終的に1999年2月15日にケニアのギリシャ大使館で発見され、逮捕された。

KCKの創設

PKKの新たな段階は、オジャランが獄中生活をおくっている中でむかえられた。オジャランは「民主的共和国」を唱えたレスリエ・リプソン(Leslie Lipson)や「ソーシャル・エコロジー」を唱えたムレイ・ブクチン(Murray Bookchin)の考えに共鳴し、トランスナショナルかつ民主的な自治を基調としたクルド人による自治区の連邦化をさらに推し進めた。また、社会民主主義やラディカル・デモクラシーといった民主主義の概念の導入も図った。オジャランは国民国家という政体に限界を感じ、トルコ共和国という国民国家の限界を指摘するとともに、自身が信奉したマルクス主義も国民国家という政体を採用した点が誤りだったという見解を示した。国民国家が垂直的な権力構造であるのに対し、下からの変革による民主的な自治を基調とする連邦をオジャランは目指すようになった。

この民主的な自治に基づく連邦化の考えを具体化したのが、2005年に設立されたクルディスタン共同体同盟(KCK)である。KCKは政治、文化、経済、社会的な組織を包括する組織であり、社会運動であった。KCKの構造を詳しく見てみよう。KCKのリーダーはオジャランとされ、最高の意思決定者とされる。そして、立法組織として300人からなるクルディスタン人民議会、30人からなる最高意思決定委員会、3つの裁判所からなる司法委員会という3つの主要機関がある。さらに政治委員会、イデオロギー委員会、安全保障委員会、エコロジー委員会、経済委員会、社会委員会という6つの委員会が存在している。

KCKは扇の要であると考えられ、KCKの傘下にPKK(トルコ)、クルディスタン民主統一党(PYD)(シリア)、クルディスタン自由生活党(PJAK)(イラン)、クルディスタン民主的解決党(PCDK)(イラク)が設置されている。そして、各国の党には軍事組織も創設されており、PYDの場合はそれが人民防衛隊(YPG)に当たる。

PYDによる自治の実現

KCKの理念が最も反映されているのがPYDだろう。PYDの活動が活発になるのは、シリア内戦下である。2011年12月にシリアにおけるプラットフォームとしての西クルディスタン移行期民生局(通称ロジャヴァ)が発足した。ロジャヴァはPYD、YPGの他、西クルディスタン民主社会運動(TEV-Dem)、西クルディスタン革命青年運動、さらには女性運動、教育・言語研究所などから構成されている。2012年6月にアサド政権軍がクルド人居住区から撤退したのと同時に、PYDは同地域を掌握し、事実上の自治を開始した。PYDはアサド政権とも戦略的な協力関係を構築することで、シリア領内での影響力をより一層高めた。その結果として、2013年11月、PYDは初めて自治を宣言し、2014年1月にはアフリン、コバニ、ジャジーラという3つの地域を掌握した。

シリア内戦がPYDの行動に大きな3つの変化を与えることになる。第1に、シリア内戦はPYDのKCK型の自治を強める結果となった。第2に、シリアのクルド人というナショナリズムの高まりである。これはKCKの理念とは異なるものである。第3に、アサド政権および域外大国との関係強化である。域外大国との関係は対「イスラーム国」の戦争を通して醸成された。この域外大国との関係は、PYDの国際的な正統性を高めた。ただし、PYDは隣国トルコと鋭く対立しており、トルコはKCKを体現するPYDがシリアで自治を行うことを認めない立場をとっている。

KCKの問題点とPYDの今後

KCKの概念上の最大の矛盾は、下からの民主主義を標榜しているにもかかわらず、オジャランに絶対的な権力と地位を提供している点である。オジャラン自身、トルコ共和国によって拘束されているため、限定的な影響力しか行使できないが、オジャランのワンマン体制から脱却できない限り、KCKが民主的な政体となることはできないだろう。また、KCK傘下のPKKやPJAKはテロという手段に訴えていることも民主主義の概念とは相いれない部分である。  

また、隣国トルコとの関係が深刻なPYDが自治を維持できるのは、域外大国がPYDを支援し続ける場合に限るだろう。PYDはKCKの理念を最も具体化しているが、その将来は不確実である。オジャランが目指すトランスナショナルな自治の実現は極めて難しいと言えるだろう。

参考文献
  • Fikret Bila, The Ideological Codes of the PKK: A Blueprint, Istanbul: Doğan Kitap, 2017. 
  • Paul White, PKK: Coming Down From the Mountains, London: Zed Books, 2015.
  • Seevan Saeed, The Kurdish National Movement in Turkey: From the PKK to the KCK, Ph.D. Dissertation (University of Exeter), 2014.

(いまい こうへい/中東研究グループ)

本報告の内容や意見は、執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません。