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第2次ナゴルノ・カラバフ紛争――再び開かれた戦端

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051865

立花 優

2020年10月

(6,642字)

再燃したポスト・ソ連期の地域紛争

ロシア、トルコ、イランに囲まれたコーカサス地域の一国アゼルバイジャン共和国において、2020年9月27日、大規模な軍事衝突が発生した。重火器による砲撃の応酬や攻撃ドローンの投入、戦闘エリア外の民間人居住域への大砲・ミサイルによる攻撃など、衝突はエスカレートの一途を辿った。ロシアの仲介によって、数度にわたり「人道的休戦」が合意されたが、いずれも実効性のある停戦には至らず、戦闘は拡大し続けている。アゼルバイジャン側はすでに戦闘エリアの南部と北部を一部「解放」したと発表している。

以下では、「ナゴルノ・カラバフ紛争」について説明するが、その前に、地理情報について確認したうえで基本的な用語を定義しておきたい。今回の軍事衝突の一方の当事者であるアゼルバイジャン共和国は、人口約1000万人、国土面積は8.66万km2で北海道よりやや大きいくらいである。今回の衝突は、このアゼルバイジャンの南西部約1.2万km2のエリア(秋田県とほぼ同じ面積)をめぐって発生した。本稿では、上記のエリアを「カラバフ地方」と記述する。このエリアは国際法上アゼルバイジャン共和国の領土であるが、現在はアルメニア人分離派が「アルツァフ共和国(別名ナゴルノ・カラバフ共和国)」を名乗って実効支配している1。この「共和国」はアルメニアを含めいかなる国連加盟国からも承認されていない「非承認国家」である。紛争の呼称ともなっている「ナゴルノ・カラバフ」とは「山岳カラバフ」を意味する言葉であり、カラバフ地方の一部にかつて設置され、その帰属をめぐって紛争の直接的発端となった旧ナゴルノ・カラバフ自治州に由来する。同自治州は1991年11月に廃止されたため、行政単位としては既に存在していない。

地図:濃い茶色の領域がカラバフ地方。赤線の枠内は旧ナゴルノ・カラバフ自治州の領域。

濃い茶色の領域がカラバフ地方。赤線の枠内は旧ナゴルノ・カラバフ自治州の領域。
ナゴルノ・カラバフ自治州の成立と紛争の勃発

現在のアゼルバイジャンを含むコーカサス地域は、オスマン帝国とイラン諸王朝による勢力争いの舞台であったが、ロシア帝国の勢力拡大に伴い19世紀以降順次ロシア帝国の支配下に入った。

第1次世界大戦のさなかである1917年にロシア革命が起きると、対オスマン帝国の前線であったコーカサス地域は大いに混乱したが、1918年5月にグルジア(ジョージア)、アゼルバイジャン、アルメニアが相次いで独立を宣言した。この時、三国の間で国境をめぐって対立が生じ、カラバフ地方はアルメニアとアゼルバイジャンの間で係争地のひとつとなった。1920年、ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国2の影響下で両国にそれぞれ社会主義ソヴィエト共和国が樹立されると、同地方はアゼルバイジャンに帰属する一方、アルメニア人が多く住む山岳部およそ4400km2をアゼルバイジャン領内の自治領域とすることがロシア共産党により決定された。これが「ナゴルノ・カラバフ自治州」である。この時、同様に両国間で係争地となっていたナヒチェヴァン地方はアゼルバイジャン領の自治共和国とし、カラバフ地方とナヒチェヴァン地方の間に位置するザンゲズル地方はアルメニア領とすることも決定された3。アルメニア人住民が多かったナゴルノ・カラバフ自治州の帰属をめぐっては、その後も論争が止んだわけではなかったが、ソ連体制の下で70年近くにわたって制度は維持された。

この状況が大きく変化したのが、ソ連末期の1988年である。2月、ナゴルノ・カラバフ自治州の最高機関である自治州ソヴィエトが、アルメニアへの帰属変更を求める決議を採択した。アルメニア共和国においてもナゴルノ・カラバフ自治州の動きを支持し、自治州との統合を主張する大規模集会が首都エレヴァンで組織され、この集会組織者たちは反ソ連体制民族運動の中心人物になっていった。アゼルバイジャン側はこうした動きに激しく反発し、両民族間の対立感情は悪化した。2月末には、既に多くのアゼルバイジャン人が避難していたスムガイト市で民族間の衝突事件が発生し、多数の死傷者を出した(スムガイト事件)。これ以降、アゼルバイジャンとアルメニアの民族間の衝突が両国各地で発生し、大規模化するに至った。ゴルバチョフ率いるソ連共産党とアゼルバイジャン、アルメニアの共産党指導部は問題解決に有効な策を打つことができずにその権威を失墜させ、代わって両国で民族主義勢力が政治的主導権を握るようになっていった。

1991年末になり、ソ連の消滅、およびアゼルバイジャンとアルメニアの独立が現実的なものとなってくると、ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニア人勢力は9月に独自の共和国の成立を宣言した。12月には独立を問う住民投票を実施し、翌1992年1月初めに独立を宣言した。アゼルバイジャン共和国は対抗措置として1991年11月末にナゴルノ・カラバフ自治州の単位そのものを廃止することを議会で決議し、分離派とアゼルバイジャンとの間で全面的な武力紛争に突入したのである。

旧自治州のアルメニア人分離派は、アルメニア共和国の支援を得て1994年春までに旧自治州領域約4400㎞2だけでなくその周辺も含め約1.2万km2の領域に実効支配を確立し、同年5月にロシアの仲介で停戦した。この紛争で、カラバフ地方とアルメニアから100万人近いアゼルバイジャン系住民が、一方アゼルバイジャン各地から約30万人のアルメニア系住民が、居所を追われて難民・国内避難民となった。これ以降、欧州安全保障協力機構(OSCE)でロシア・フランス・アメリカが共同議長を務めるミンスク・グループが仲介して和平交渉が続けられる一方、散発的な衝突を繰り返しつつ停戦合意は維持され、アルメニア人分離派がカラバフ地方を実効支配する状況は近年まで固定化されてきた。

相互の主張のズレ、建前と実態の乖離

25年にわたって続けられてきた交渉が進展しなかった理由として、紛争当事者双方の主張が大きく隔たっていることがある。これまでアゼルバイジャン側は一貫して、交渉相手はあくまでアルメニア共和国であり、カラバフのアルメニア人勢力は交渉主体でないとの立場をとってきた。一方のアルメニア側は、アルメニア共和国と「アルツァフ共和国」すなわちカラバフ地方のアルメニア人勢力とは別個の存在であるとの立場をとり、和平交渉にはカラバフ地方のアルメニア人勢力を加えるべきと主張してきた。

しかし、この「アルメニア共和国とカラバフ地方のアルメニア人勢力とは別個の存在である」との立場は建前に過ぎず、実際には政治・経済・軍事面で両者は密接に結びついてきた。それが如実に表れているのが、軍事面である。1992年、全面的な武力衝突に対処するためカラバフ地方のアルメニア人勢力は国防軍的な軍事組織「アルツァフ防衛軍」を形成したが、これとは別に数多くのアルメニア兵が「義勇大隊」といった非正規の形でカラバフの戦場に赴いた。現在に至るまで「アルツァフ防衛軍」は表向きアルメニア国防軍と別個の軍事組織として存在しているが、装備・人員の面で密接に結びついており、構成員の少なくとも半分以上はアルメニア共和国居住者で占められているとされる(International Crisis Group 2005, 9)。アルメニア共和国自体は、カラバフ地方にアルメニア軍将兵は展開していないという建前を守りつつ、「1994年の停戦合意に署名した一当事者として停戦時の状態を維持し、アルツァフの安全を確保する義務と権利がある」との見解を示し(Aslanian and Lazarian 2016)、アゼルバイジャンに対する牽制を続けてきた。

介入に消極的な周辺国、孤立感を深めるアルメニア

アルメニア共和国、そしてカラバフのアルメニア人側にとっては、1994年の停戦までに勝ち取った現状を維持することは事実上の勝利を意味する。しかしこの「勝利」はアゼルバイジャン、そして「1つの民族2つの国家」という言葉があるほどにアゼルバイジャンと精神的及び歴史的に深いつながりを持ち、かつオスマン帝国時代のアルメニア人虐殺が暗い影を落とし続けるトルコとの関係を切り捨てることを意味する。

東西をアゼルバイジャンとトルコに囲まれた内陸国であるアルメニアにとって、この両国との断絶は安全保障面だけでなく経済的にも甚大な損失であった。1997年から1998年にかけての和平案受諾への前向きな姿勢、2008年後半から2009年にかけてのトルコとの関係改善の兆しなど、アルメニアが経済重視にシフトする姿勢をみせた瞬間もあったが、結局は現状維持を選択してきた。この選択によって生じる安全保障面・経済面での脅威を相殺するためにアルメニアが頼ったのが、ナゴルノ・カラバフ紛争において武器供与や各種支援を実施するなど、当初から結びつきの強かったロシアであった。アルメニアは集団安全保障条約機構(CSTO)やユーラシア経済連合(EEU)など、ロシアが主導するユーラシア地域統合の枠組みに積極的に参加してきた4

一方アゼルバイジャンは、独立当初の激烈なトルコ民族主義、反ロシア・親西欧路線によって北隣のロシアと関係が悪化しただけでなく、イラン北西部のアゼルバイジャン人との「南北アゼルバイジャン統一」構想などから南隣のイランとも険悪な関係となった。この結果、イランはイスラム教シーア派が多数を占めるという点でアゼルバイジャンと共通項をもつにもかかわらず、ナゴルノ・カラバフ紛争においてアルメニアを支援したのである。

しかしアゼルバイジャンは、1993年に政権を掌握したヘイダル・アリエフ前大統領の下、徐々にロシア・トルコ・イランなどの周辺国だけでなくヨーロッパやアメリカとの関係を改善・発展させてきた。こうしたバランス外交は日和見的と批判されることもあったが、カスピ海海底油田の開発や国際的なパイプライン(BTCパイプライン)敷設などのプロジェクトを梃子に、多くの国と戦略的な互恵関係を築くことに成功した。

今回発生した軍事衝突に対する周辺国の反応を見ると、これまでのところトルコの積極的なアゼルバイジャン支持の姿勢が目立っている。トルコは1994年までの武力紛争でも一貫してアゼルバイジャンを支持し、2010年には軍事面も含む戦略的パートナーシップ協定を締結している。また、今回の軍事衝突の少し前となる2020年7月末から8月初めには、合同で軍事演習を実施していた。このことから、アルメニアは今回のアゼルバイジャンの軍事行動の背後にトルコがいるとの主張を繰り返している。しかし、現時点でトルコは直接的介入の姿勢はみせていない。コーカサス地域の安全保障への関与姿勢も、1990年代以降歴代政権でとられてきた積極的外交の一環と考えられる。

むしろここまでの展開でより注目すべきは、CSTO加盟国であるアルメニアに対するロシアの消極姿勢であろう。アルメニアは9月29日にCSTOに対し、安全保障、領土一体性と主権に対する潜在的脅威について通知した。これに対するロシアの反応は、ロシアはCSTO加盟国としてアルメニアを防衛する用意があるが、カラバフ地方はその範疇ではない、というものであった。ロシアのこうした冷淡ともいえる姿勢の背景には、アルメニアで2018年春に起きた「ビロード」革命で成立したニコル・パシニャン率いる新政権が旧体制の一掃を図ったことで両国間関係の雲行きが怪しくなっていたこともあるだろう。

これらの事情を踏まえると、トルコの脅威を声高に主張し、アゼルバイジャン側の国境侵犯を誘ってCSTOの相互防衛義務を発動させたいアルメニアと、戦闘をカラバフ地方内にとどめたいアゼルバイジャンという両国の基本姿勢がみえてくる。周辺国も、戦線の拡大は基本的に望んでおらず、アルメニアは孤立感を深めているようである。

軍事行動はいつまで続くか

アゼルバイジャン側にとって、1994年の停戦時の状態維持は敗北と領土喪失の固定化を意味する。停戦からすでに25年以上経過する中で、展望のみえない和平交渉とそれを仲介する国際社会への失望は色濃いものとなっていた。アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領がアルジャジーラのインタビューで語った「我々はもう30年待っている暇はない。紛争は今すぐ解決されなければならない」という言葉は、今回の衝突におけるアゼルバイジャン側の姿勢を如実に物語っている。

一方、今回の軍事衝突の推移は、アルメニアのパシニャン政権にとって深刻な打撃となるだろう。それは、カラバフ地方の一部を失陥したということだけでなく、ロシアから信頼に足るパートナーとしてみられていないことが露呈したからである。パシニャン首相の政権基盤が一気に弱体化する可能性は十分にある。軍事行動がカラバフ地方に限定される限り、「人道的休戦」という腹の探り合いを挟みながら戦闘が継続することが懸念される。

地図の出典
  • Bourrichon, translation by Lesqual, Overview of Nagorno-Karabakh. (CC BY-SA 3.0).
参考文献
著者プロフィール

立花優(たちばなゆう) 北海道大学高等教育推進機構高等教育研修センター特定専門職員。博士(学術)。専門はポストソ連期のコーカサス政治(政党・議会・政治体制変動)。廣瀬陽子編著『アゼルバイジャンを知るための67章』(明石書店、2018年)、松本弘編著『中東・イスラーム諸国民主化ハンドブック』(明石書店、2011年)で項目を担当。


  1. 「アルツァフ」は古代アルメニア王国時代にこの一帯に設置されたとされる州の名前に由来する。
  2. 1918年憲法でこの国名を付された国家は、現在のロシアと全くの同義ではない。1922年12月にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソヴィエト連邦)が結成されるまで、この国家にすべてのソヴィエト共和国(アゼルバイジャンやアルメニアも含む)および自治領域が包摂されることが計画されていた(いわゆる「スターリンの自治化案」)。しかしボリシェヴィキ内部での論争の結果1922年に上位構造であるソヴィエト連邦の一構成国として加盟することでこの国家は性格を変え、中央アジア諸共和国を切り離して1936年に「ロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国」としてほぼ現在の姿となった。
  3. この時ナヒチェヴァンがアゼルバイジャン領となったのは、ロシア共産党の決定に先立って1921年にロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国とムスタファ・ケマル率いる大国民議会政府との間で締結されたモスクワ条約に基づくものであった。
  4. 集団安全保障条約機構は、旧ソ連構成国の一部が1992年5月に締結し、1994年4月に発効した「集団安全保障条約」を前身として2002年に機構化した多国間安全保障の枠組みである(発効は2003年)。アルメニアは条約締結時の1992年からの原加盟国である。現在の加盟国は、ロシア、カザフスタン、タジキスタン、クルグズスタン、ベラルーシ、アルメニアであり、定例的な首脳級・閣僚級会合の開催や、合同演習の実施のほか、アルメニアとロシアは2016年に統合部隊を創設している。ユーラシア経済連合は、旧ソ連諸国の地域再統合を目標として2015年に発足した枠組みである。ロシア、ベラルーシ、カザフスタンが参加した関税同盟を前身として、2015年の発足時にアルメニアが加わった。その後クルグズスタンも参加し、現在5カ国が参加している。