クーデタと増加する政治的暴力 —ムスリム同胞団とイスラーム過激派による暴力行為の分析—

政策提言研究

金谷美紗 (中東調査会)
2015年3月
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※以下に掲載する論稿は、平成26年度政策提言研究「政治変動期の中東地域と湾岸安全保障」の分科会(「エジプト動向分析研究会」)の金谷美紗委員が、研究活動を通じて得た知見を自らの責任において取りまとめたものです。

2011年の政変以降、エジプト政治を悩ます要素の一つは治安の悪化であろう。2013年7月のクーデタ以降はさらに状況は悪化し、毎日のように全国のどこかで爆発事件や警官・兵士への攻撃事件が発生している。治安の悪化により観光客は大幅に減少し、観光収入はエジプト経済の重要な外貨収入源であり雇用創出源であるため、外貨準備高の減少と失業率の増加をもたらした。「革命」から4年が経過してもなお、人々は「革命」の目的であった「尊厳ある生活」すなわち生活水準の向上を手にすることができておらず、社会には政府への不満がくすぶり続けている。こうした不満が前ムルシー政権を崩壊させた一因であることを現在のアブドゥルファッターフ・シーシー大統領('Abd al-Fattāḥ al-Sīsī)は十分に認識している。したがって、現政権はいかに早急に経済を建て直すかという問題を最重要課題に置いている。経済建て直しのためには、治安の安定化が必要不可欠な課題となる。治安状況が良くなければ外国人観光客数は以前の水準に戻らず、外資を呼び戻すこともできないからである。

ところが、治安回復と経済再建を掲げて成立したシーシー政権下で、治安が安定してきた兆候はほとんど見られない。むしろ、以前より大規模で深刻な被害をもたらすような自爆攻撃事件が増加した。事件が起こる場所についても、以前はシナイ半島に限られていたところスエズ運河以西のいわゆる「本土」でも発生するようになった。こうした自爆攻撃はイスラーム過激派によって行われている。一方、街頭ではムスリム同胞団を支持する集団がクーデタを非難しムルシーの復権を訴えるデモを継続し、デモが行われるたびに警官との暴力的な衝突となり、死傷者が発生している。さらには、正体不明の武装集団 1 が警官や兵士を路上で射殺するような事件も毎日のように発生している。

本稿は、なぜエジプトでは不安定な治安状況が続いているのか、また特に2013年7月以降に悪化したのかという問題を明らかにしたい。そのために本稿は、ムスリム同胞団支持派とイスラーム過激派それぞれの暴力事件を発生させる国内要因と地域要因の関連に着目する。以下では、初めに治安悪化の状況を概観し、その後、治安の悪化をもたらした要因として国内要因と地域要因を考察していく。

1.政変と悪化する治安

(1)2011年政変後の治安状況
エジプトでは1990年代に「ジハード団」や「イスラーム団」などのイスラーム過激派による政府要人や外国人を狙ったテロ事件が多発した時代があったが、治安当局の過激派に対する徹底的な弾圧が功を奏して、その後は治安上は安定した期間が続いた。この安定は、警察、特に国家治安局(Amn al-Dawla) 2 による社会の監視によって成り立っていたことは事実だが、人々の生活を脅かすテロ事件が減少したという意味では治安が安定していた時期と言えるだろう。しかし2011年の政変によってエジプトでは再び治安が悪化した。政変の目的の一つは政治的自由を取り戻すことでもあったため、人々から自由を剥奪し恐怖による従属を強いてきた警察が抗議行動で糾弾の対象となり、ムバーラク体制崩壊後には警察は路上から物理的にも象徴的にも消えた。路上に配備される警察の人数が物理的に減少し、人々は警察に恐れを抱かなくなり、警察がこれまで享受してきた人々を従属させうる権威が失われたのである。こうした警察権限の失墜により、政変後の社会には窃盗、殺人、強姦といった一般犯罪が増加した 3 。またシナイ半島ではイスラーム過激派による暴力事件が激増した。

シナイ半島はそもそも、治安はそれほど良くない土地であった。中東戦争でイスラエルと争奪戦をくり広げた土地であることから、エジプトへの返還後(1982年)も国家の管理下に置かれている土地が多く、シナイの住民達(ベドウィン)は自由に土地を開墾したり経済活動を行ったりすることができない。南部の住民は観光業に従事する機会があるが、中部や北部の住民にそのような雇用機会はなく、一部の住民は生活のために武器や麻薬などの非合法な密輸活動に従事する者もいる。パレスチナ自治区のガザと国境を接するため、ガザのイスラーム過激派と武器密輸を行ったり、過激派人員にリクルートされる者もいた。さらにシナイ半島は地元民であるベドウィンが長らく居住・管理してきた土地であるため、本土のカイロから警察が派遣されたとしてもベドウィンが事実上の治安管理を行うことが暗黙の了解とされてきた。このため、シナイ半島でのイスラーム過激派の活動を警察が完全に統制することは困難だった。

そこに起きた2011年の政変で、シナイ半島はいっそう無法地帯と化した 4 。シナイ半島にはイスラエルやヨルダンに輸出される天然ガスのパイプラインが敷設されているが、このパイプラインが2011年1月から2012年7月の期間に15回も爆破された。イスラエルへのロケット弾による越境攻撃、外国人労働者や観光客の誘拐事件、武器の密輸も増加した。これらのうち、パイプライン爆破、ロケット弾によるイスラエルへの攻撃、武器密輸の一部は、シナイ半島を拠点とするイスラーム過激派が関与していた。警察および軍はガザ境界を効果的に管理できなくなり、ガザとエジプト側を結ぶ違法地下トンネルを利用した経済活動(武器や一般物資の密輸)が盛んになった。

政変後にシナイ半島で治安が悪化した理由は、上述の警察権力の低下だけではない。中東地域を席巻した「アラブの春」は隣国リビアでもカッザーフィー体制の崩壊をもたらし、リビア政府の国内治安統制能力が著しく低下した。リビアで生じた治安秩序の空白を利用し、リビアの武装勢力からエジプトのシナイ半島に向けて海路や陸路で武器が密輸されるようになった。政変後のシナイ半島の治安悪化は、「アラブの春」がもたらした国内外での治安秩序の崩壊が原因だったのである。

(2)ムルシー政権からクーデタへ
2012年6月、初の民主的選挙によってムスリム同胞団出身のムハンマド・ムルシー(Muḥammad Mursī)が大統領に就任した。しかしムルシー政権は軍やリベラル派と次第に対立を深め、さらなる治安の悪化という事態をも招くことになった。

ムルシー政権と軍の対立にはいくつかの理由が存在した。大統領就任早々に軍幹部の人事交代を発表し、軍は国防という本来の職務に戻るべきだと述べ、暗に軍の政治的介入を批判した。このムルシーの態度はエジプトという国をこれまで陰に陽に支えてきた軍の威信を傷つけ、ムスリム同胞団およびムルシー大統領に対する批判が軍内部に生まれたとされる。またムルシー政権はシナイ半島の過激派対策に消極的であったといわれており、ここでムルシー大統領およびその背後にいるムスリム同胞団に対する批判は不信感にまで高まった。エジプト国内紙の報道によると、ムスリム同胞団が過激派掃討作戦に消極的だった理由は、ムスリム同胞団はシナイ半島のイスラーム過激派と手を組み、エジプトをイスラーム国家に変革する計画を持っていたためという。ただし、こうした報道の情報源はムルシーと過激派幹部の秘密会話の未公開リーク音源だとか、元ジハード主義者で現在はムスリム同胞団に批判的な人物の証言だとか、信憑性が定かではない情報が多いことは指摘せねばならない 5

さらに議会政治の場では、多数派のイスラーム主義勢力と少数派のリベラル派との対立が深刻化した。ムスリム同胞団はリベラル派からの批判に対処するため、数の優位性を利用して憲法草案を強引に可決したり、大統領権限を司法府の判断より優越させる「憲法宣言」を発出したりして、民主主義ルールで獲得した政治権力を少数派の抑え込みに利用した。次第に国民の間でもこうしたムルシー政権の政治手法に批判が生まれ、街頭ではリベラル派によるムスリム同胞団批判のデモが連日行われるようになり、これにムスリム同胞団側も対抗デモを組織し、死者が発生する暴動に発展することもあった。こうして連日の抗議デモにより治安はまったく回復することはなく、革命後の経済回復もままならず、人々の不満はムスリム同胞団政権に向けられた。このような背景において、2013年7月3日、軍は国家を混乱から救うためという名目のもとクーデタを敢行した。

ところが、国家を混乱から救うためムルシー政権を追放したにもかかわらず、その後も治安は一向に改善しなかった。まずクーデタによって、ムスリム同胞団と政権の亀裂は決定的となり、ムルシー支持派と治安部隊は流血の衝突を繰り広げた。さらに、人々の生活を脅かす路上での爆弾攻撃事件、暗殺(未遂)事件、大規模な自爆攻撃事件などが多発し、クーデタ後の治安悪化をより印象付けた。2013年9月にはムハンマド・イブラーヒーム内相の暗殺未遂事件が発生し、同年12月には、マンスーラ治安局とシャルキーヤ軍諜報局がそれぞれ爆破され、前者では16人が死亡し、後者では3人が死亡した。国家治安局幹部や内相側近も暗殺された。2014年2月には南シナイの観光地の一つ、ターバーで観光バスが爆破され、韓国人観光客を含む13人が死亡した。以上に挙げた事件はすべて「エルサレムの支援者団」(Anṣār Bayt al-Maqdis、以下ABMと略)と名乗るイスラーム過激派組織の犯行であった。ABMは北シナイを拠点とする過激派だが、クーデタ後からは頻繁に本土で攻撃を行うようになった。

ムスリム同胞団およびイスラーム過激派の掃討作戦を国防相兼軍総司令官として指揮していたシーシーが大統領に就任した後も(2014年6月)、イスラーム過激派の攻撃は止まなかった。2014年7月、ABMは西方砂漠のファラーフラ・オアシス付近の検問所で兵士を襲撃し、22人を殺害した。カイロを拠点とするイスラーム過激派も新たに出現した。「アジュナード・ミスル」(Ajād Miṣr、「エジプトの戦士」の意味)は2014年1月からカイロ県やギザ県の各地で爆弾を用いた攻撃を行い、兵士や警官を殺害した。さらにABMは、シリアとイラクで活動する「イスラーム国」(al-Dawla al-Islāmīya)を支持すると共にその指導者アブー・バクル・バグダーディーへの忠誠を表明した。

以上に列挙した事件は主要なものに過ぎず、今や北シナイや本土の主要都市では毎日のように兵士や警官を狙った事件が発生している。ここから明白なのは、クーデタ以降の治安悪化はクーデタの反動として生じているということである。クーデタも、シーシー大統領の就任も、国に安定を、国民に安心できる生活を再度提供することを国家的課題として掲げたが、より残忍で暴力的な事件の多発という結果になってしまった。以下では、2013年7月以降の治安の悪化、すなわちムルシー支持派の抗議デモの継続やイスラーム過激派の攻撃の増加をもたらした国内要因と地域要因を考察していく。

2.クーデタが生んだ治安悪化

(1)国内要因:暴力使用の動機
まず国内要因として指摘できることは、目的追求の手段として暴力を採用する動機が形成されたことである。軍はムルシー政権を超法規的手段で追放し、その後の暫定政権(アドリー・マンスール暫定大統領、シーシー国防相)ではムスリム同胞団の徹底的弾圧に乗り出した。ムスリム同胞団はシナイ半島の過激派を支援していたテロ組織と断定され、最高幹部から末端メンバーまで数千人規模で逮捕された。非合法組織の扱いとなり、クーデタ後の政治過程からは当然ながら排除され、ムスリム同胞団およびムルシー支持派と政府との断絶は決定的となった。ここで一部のムスリム同胞団メンバーや同胞団支持者は、既存の政治制度(政党、議会、選挙、組合活動)による政治的意思表明はもはや不可能と判断し、それ以外の方法、すなわち暴力的手段による政治的意思表明を選択したと考えられる。ムスリム同胞団はしばしば発出する声明の中で、自派は平和的抗議を貫いており暴力的手段の採用を拒否すると述べているが、同胞団の末端メンバーや同胞団支持者のレベルでは暴力的行為に関与していることが分かっている 6

イスラーム過激派に関しては、クーデタ後から攻撃事件が増加しているのはなぜだろうか。クーデタ直後、シナイ半島を拠点とする複数の過激派組織がクーデタを批判する声明を発表し、クーデタの中心的アクターであった軍や警察、特にシーシー国防相とイブラーヒーム内相に対してジハードを宣言した 7 。ここで注意すべき点は、イスラーム過激派はムルシー政権の復権を求めたのではないことである。彼らは、ムスリム同胞団は民主主義という西欧起源の世俗的政治制度を支持して政権の座を獲得した偽者のムスリムと糾弾する。それでも彼らが治安当局をジハードの対象としたのは、ムスリム同胞団に対する弾圧過程で治安当局が罪なきムスリムの民を殺害したためと説明している。よってイスラーム過激派は、エジプト軍と警察は無実のムスリムを殺した専制君主(ṭāghūt)・背教者(murtadd)であり、また西欧諸国やイスラエルの支持を受けた十字軍の手先であると断罪した。

以上から、クーデタはムスリム同胞団とその支持者、そしてイスラーム過激派に、論理はやや異なるものの、治安当局に対して暴力的な抵抗を展開する動機を植えつけたと言える。

(2)地域要因:イラク・シリアでのイスラーム過激派の台頭
次に地域要因に目を向けてみよう。1節では、いわゆる「アラブの春」によって政権が転換した国を中心に治安が悪化し、国境横断的に武器や麻薬やヒトが往来するようになったため、エジプトのシナイ半島でイスラーム過激派の活動が活発化したと指摘した。周辺諸国での治安悪化という地域要因が、シナイ半島での過激派活動を可能とする人的・物的資源を提供したのである。本稿執筆の2015年3月時点でもこの地域要因はエジプトの治安情勢に影響を及ぼし続けている。むしろ、隣国リビアで国土を一元的に管理する中央政府が存在しない状況となったことで、さらにエジプトに流入する過激派活動の資源の量は増えた。しかしリビアでの治安秩序の崩壊という地域要因はクーデタ前から存在する要因である。ここでは、2013年7月以降にエジプトで治安悪化をもたらした新たな地域要因として2つを指摘したい。どちらの要因もイラク・シリアでのイスラーム過激派の台頭と関係している。

第一に、シリアでイスラーム過激派組織に参加し、戦闘に従事した者が、エジプトに帰国したことである。シリアには有象無象のイスラーム過激派が互いに交戦し、またはシリア軍と交戦し、他方で自由シリア軍と交戦するという複雑な状況があるが、特に「ヌスラ戦線」(Jabha al-Nuṣra)と「イスラーム国」が大きな勢力として存在する。また、両組織にはアラブ諸国や欧米諸国から戦闘参加希望者が流れ込んでいることは周知の事実である。このような外国人戦闘員がシリアでの戦闘後に出身国に戻り、そこで過激派活動を行うという事実が複数の国で確認されている。エジプトでもシリア帰りの戦闘員がエジプトで過激派活動に参加し治安当局に拘束された事例が何件か存在しており、その筆頭にイブラーヒーム内相暗殺未遂事件の実行犯がいる。ABMが発表した犯行声明によれば、ワリード・バドルと名乗る実行犯の男はエジプト軍を除隊後、アフガニスタンやイラクでの「ジハード」に参加し、「アラブの春」の流れでシリアが内戦状態になるとシリアでの「ジハード」に参加した。エジプトに帰国後はイブラーヒーム内相暗殺作戦の実行犯に選ばれ、自爆攻撃の訓練を受けたという 8 。この実例から分かるように、イスラーム過激派として実戦経験を積んだ戦闘員が本国に「逆流」することで、エジプトにイスラーム過激派の人的資源が注入されたのである。

第二に、イラクとシリアでの「イスラーム国」の拡大が、エジプトでのイスラーム過激派をより世間に動揺を走らせる行動に駆り立てていると考えられる。これは戦術の模倣とも言える。「イスラーム国」がこれまでのイスラーム過激派と異なる点は、「カリフ制」国家を宣言し、「国家」として領土的支配を目指している点にある。「イスラーム国」はインターネットでの広報活動を通じて、住民に公共・福祉サービスを提供している様子や住民から支持を享受しているような様子を積極的に宣伝しており、これが他の過激派組織または過激派支持者にはイスラームによる統治を実現した偉大な組織のように映り、「イスラーム国」に惹き付けられる者を増加させている。また「イスラーム国」のもう一つの特徴は暴力性、残忍性である。自派への敵対行為または非イスラーム的行為に関与した者は即座に処刑対象とされ、斬首刑や銃殺刑の映像や画像を次々に発表する。これも過激派支持者からはイスラーム法の徹底的な適用として称賛されている。エジプトではABMが「イスラーム国」への支持を2014年11月に表明し、それと前後して「イスラーム国」と同じような戦術を採用するようになった。住民サービスの宣伝、シナイ半島を領土的に支配している様子の宣伝、敵対行為に従事した者への処刑を頻繁に行っている。処刑対象は、北シナイに駐留する軍や兵士、イスラエルの諜報機関やエジプトの諜報機関に雇われた地元住民が多い。ABMが「イスラーム国」と同じ手法を採用する理由は、単に彼らがその手法をイスラーム的であると考えたからではない。同じ手法を採用すれば、世間に衝撃を与えることで自派の主張を世に周知させ、自派がいかに強大な勢力を誇る組織であるかを効果的に宣伝し、ひいては自派への参加を希望する者を呼び寄せることができるからである。このように他国でのイスラーム過激派の台頭がエジプト国内でのイスラーム過激派の活発化に影響を及ぼしたのである。

3.治安対策の効果

最後に政府の治安対策は効果を上げているのかを論じてみたい。暫定政権、シーシー政権ともにムスリム同胞団とイスラーム過激派の連携を指摘し、これら勢力の一斉取り締まりを実施してきた。政府はムスリム同胞団やイスラーム過激派の完全な殲滅は不可能であることは認識しており、治安対策の実質的な目的はこれら組織の弱体化——具体的には攻撃件数の減少、組織の分裂、組織活動の停止に置かれていると推測される。本稿執筆時点では、政府はこうした目的を部分的には達成しているが、目的とは逆の効果や、政府には好ましくない副次的効果も生まれてしまっている。

(1)MB対策
まずムスリム同胞団に対しては、政府は同胞団の組織活動の停止、メンバーの離反、組織的動員力の弱体化などを目指していたと考えられる。政府はクーデタから間もないときに同胞団の非合法化を決定したため、名目的には同胞団の組織活動の停止を達成した。同胞団内部では次第に今後の方針をめぐり意見対立が見られ、現行のまま対立路線を維持する勢力、政府との和解を推進する勢力、暴力によって現状打破を目指す勢力に分裂した。後の二者のなかには同胞団から離脱したグループもいる。クーデタ直後は毎日のように街頭を占拠して行っていた反政府デモも、次第に毎週金曜日に限定され、動員規模も減少した。治安当局が同胞団メンバーを一斉逮捕したために組織の動員能力が失われたと考えられる。こうして見ると政府の同胞団対策は一定の成果を上げたと言えるだろう。

しかしこうした治安対策の副産物として、同胞団メンバーや支持者の急進化や暴力化を招いたことも同時に指摘しておかねばならない。クーデタ以降、毎日のようにどこかの都市で治安当局者が武装勢力に襲撃され殺害される事件が発生し、国内紙はムスリム同胞団メンバーによる犯行と報道している。この報道の信憑性を確かめる手段を本稿は持ち合わせていないが、同時にこうした報道を否定する材料もない。政府が同胞団への徹底弾圧を継続していることをふまえれば、一部の同胞団メンバーや支持者が既存の政治過程への参加を諦め、暴力的手段で現状打破を試みるようになったことも十分に考えられる。

軍が非合法な手段でムスリム同胞団政権を追放したことで同胞団支持者の間に大きな不満が形成されたが、さらにその後も治安当局は強権的手法で同胞団メンバーを逮捕し、不透明な司法プロセスで同胞団メンバーを裁き、同胞団支持者の不満を増幅させている。つまり現在のムスリム同胞団対策は彼らの態度を硬化させる効果しかもたらしていない。政府は組織としてのムスリム同胞団の弱体化には成功したが、暴力化という結果も招いたのである。

(2)イスラーム過激派対策
軍は頻繁にシナイ半島でのイスラーム過激派掃討作戦の戦果を発表し、「テロとの戦い」が成功していると強調する。軍発表の戦果には、幹部を含む過激派メンバーの殺害、アジトの破壊、武器押収、過激派への情報提供者(地元住民)の摘発などが含まれている。しかし実際のところ、軍にはシナイ半島に関する情報、特に過激派の情報が不足しており、それゆえにABMによる大規模で組織的な攻撃を防ぐことができないでいる。また軍発表の戦果には捏造もしばしば含まれ、過激派とは無関係の住民を逮捕しながらそれを過激派メンバーの逮捕と発表することがあるという 9

また、過激派対策の副産物として過激派のいっそうの過激化が生じている。2節で述べた処刑という残虐な手法は、「イスラーム国」に影響を受けたという理由の他に、組織が生き残るために残虐な手法を取る必要性に追い込まれた可能性も考えるべきであろう。軍はABMメンバーの居場所や移動方法・経路といった情報を入手するために、地元住民の取り込みに必死である。なぜならABMの多くの構成員が地元住民(ベドウィン)であるからだ。軍による地元住民の取り込みに対抗するため、また自派に関する情報漏出を防ぐため、ABMは軍に情報提供を行った地元住民を拘束し、見せしめのために処刑している。人的・物的資源の枯渇を防ぐため、ABMは戦術におけるよりいっそうの過激化という行動に出ているのである。したがってイスラーム過激派対策においても、ムスリム同胞団対策と同様に、手段の過激化という結果が見てとれる。

こうしたシナイ半島における軍とイスラーム過激派の戦いにおいて、地元住民が軍とABMの間に挟まれた苦しい立場に置かれていることは見逃されがちである。住民は軍から過激派情報の提供を求められ、情報提供しなければ国家に背く愛国心の薄い者であるという判断のもとに過激派協力者と見なされる。ABMメンバーは普通の民家をアジトにして活動するため、軍は手当たりしだいに民家を捜索し、ときには家を破壊し、また過激派とは無関係の者が殺され、住民の間には軍の掃討作戦のやり方に相当な不満が広がっているようである。そもそもシナイ半島の住民達は、カイロの中央政府が住民の福祉向上のためにと決定したシナイ半島開発を中止し、過去三十年間シナイの開発を放置してきたことを、中央政府から「見放された」と感じている。こうした不満が蓄積していたところに最近の過激派対策において強引に政府への協力を要請され、命が危険に晒される状況にまで置かれているため、政府への不満や不信感や憎しみが増幅される傾向にある 10 。他方では、住民はABMからも軍に関する情報提供を迫られたり、軍に情報提供した者は処刑するとの脅迫に晒されたりしている。地元住民は軍とABMの情報争奪戦において両者の板挟みとなり、一部の住民は政府への不満から過激派に参加していく。このように政府の過激派掃討作戦を見ると、作戦には情報不足という基本的欠陥があるのと同時に、地元住民の過激派への合流を許してしまう仕組みになっていると言えよう。

以上、本稿は政変後政権の重要課題である治安問題について考察した。特に2013年7月クーデタ以降の治安を分析対象とし、この時期の治安悪化を構成する主な要素がムスリム同胞団支持者によるデモや暴力行為、イスラーム過激派による暴力行為であることから、本稿はこれらの暴力が増加した原因を国内要因と地域要因から分析した。国内要因としてはクーデタそのものがムスリム同胞団とイスラーム過激派を暴力行為に駆り立てる動機を形成し、周辺諸国での政変とそれに伴う治安秩序の崩壊によって武器やヒトという資源がエジプト国内に流れ込み、イスラーム過激派の暴力行為の資源になった。

治安対策の効果としては、政府はムスリム同胞団の組織的動員を崩すことには成功したが、ムスリム同胞団およびイスラーム過激派の暴力をむしろ助長する結果をもたらした。ここからは、暴力行為に対する暴力での対応が期待する結果をもたらしていない事実が見えてくる。もちろん現在の方法を今後数年続けることでムスリム同胞団やイスラーム過激派が関与する暴力行為が減少する可能性はある。しかしムスリム同胞団であれ、イスラーム過激派に参加していくシナイの住民であれ、暴力を政治的意思表明の手段として選択した理由が政治過程からの排除であるならば、彼らを政治過程に引き入れることが社会の安定を取り戻す方法ではないだろうか。


脚 注
  1. 「ヘルワーン大隊」(Katā’ib al-Ḥilwān)、「革命懲罰運動」(Ḥaraka al-‘Īqāb al-Thawrī)を名乗る集団が事件を警官や兵士の殺害に関与しているが、それぞれの組織の詳細は不明である。エジプト検察庁は、前者の「ヘルワーン大隊」はムスリム同胞団メンバーが結成したと主張している。
  2. 同組織は2011年の政変後に解体が発表されたが、2013年7月に事実上の復活が決定された。名称はAmn al-DawlaからAmn al-Watanīに変更されたが、組織改編はほとんど行われていない。なお本稿はどちらの組織も「国家治安局」と訳した。
  3. 本稿は、政変後の経済回復と関連する治安問題を考察するため、考察の対象をムスリム同胞団とイスラーム過激派関連の暴力に限定し、一般犯罪の増加は考察対象としない。
  4. 2011年政変後のシナイ半島におけるイスラーム過激派の台頭については、以下を参照。金谷美紗(2013)「揺れるシナイ半島——イスラーム過激派の台頭と民主化への影響」『中東研究』519号、Vol.Ⅲ。
  5. 金谷同論文、p.5.
  6. “Who runs the Brotherhood?” Egypt Independent, December 23, 2013.; Mostafa Hashem, “Sinai Campaign a Boon to the Islamic State,” Sada – Carnegie Endowment for International Peace, December 5, 2014.
  7. クーデタ後に治安当局をジハードの対象とすると宣言した過激派組織は、ABMの他に、「ムジャーヒディーン・シューラー評議会」、ガザを拠点とする「ウンマ軍」、「シナイのジハード・サラフィー主義」、「エジプトのアンサール・シャリーア」、「シャルキーヤのジハード潮流」などがある。ただしABM、「ムジャーヒディーン・シューラー評議会」、「ウンマ軍」を除き、多くの組織においてその後目立った活動は確認されていない。
  8. ABM発出の内相暗殺作戦の犯行声明「エジプトのムスリム達の報復作戦、内務大臣を攻撃」(Ghazwa al-Tha’r li-Muslimī Miṣr Istihdāf Wazīr al-Dākhilīya al-Miṣrī)。 https://archive.org/details/gazeit-althar(2015年3月10日閲覧)
  9. “Egypt Army Struggles to Address Terrorism in Sinai,” al-Monitor, February 11, 2015.
  10. “Sinai Tribal Leaders Lose Local Support,” al-Monitor, April 17, 2014.; “Sinai Residents Feel Betrayed by Egyptian Media,” al-Monitor, February 26, 2015.