1.25革命から3年 -遠のく民主化への移行-

政策提言研究

伊能武次 (和洋女子大学国際学類教授)
2014年4月
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※以下に掲載する論稿は、平成25年度政策提言研究「中東・南アジア地域の平和システム構築に向けて」の分科会(「エジプト動向分析研究会」)の伊能武次委員が、研究会活動を通じて得た知見を自らの責任において取りまとめたものです。

はじめに
2011年1月25日のタハリール広場における大衆蜂起以後のエジプトは3つの政治的局面を経過してきた。2012年6月末にムルシー政権が成立するまでの軍部による暫定統治の局面、2013年7月3日までのムルシー政権の統治期、そしてクーデタ後今日まで続く暫定統治の局面である。これまでムバーラク後のエジプトの3年間は、政治的混乱と暴力とによって特徴づけられたが、第1の局面と第3の局面の間には劇的な変化が見られた。1.25革命後に実施された2011年3月の憲法改正国民投票では自由で公正な社会の実現を期待する国民の熱情が長い行列の中で辛抱強く長時間待つ人々の姿に示された。しかし、それが次第に治安の回復と安定を求め、シーシ国防相を大統領候補として擁立する大合唱のうねりへと変化したことである。こうした社会の急激な変化を生み出したのには、1.25革命後の社会の混乱がもたらした国民の疲弊とムスリム同胞団の統治が生み出した怒りと恐怖心とが大きく関わっていた。

2013年7月3日にムルシー大統領が失脚した「ムルシー後」の暫定政権は、2つの革命、すなわち1.25革命と6.30革命が目指した目的を実現することを表明した。暫定政府はリベラルな民主社会党のビブラーウィを首相とし、リベラルあるいは世俗派・リベラル左派とされる人々をも閣僚に加えて、反ムルシー勢力への配慮を示した。だが、ビブラーウィ内閣の下でエジプトは「ムバーラクなきムバーラク体制」の復活、あるいは強権的な権威主義体制の再構築の様相を強めたように見える。そこで以下、エジプトの3年間で生じた民主化プロセスの揺れ戻し現象について考察する。

(1)「ムバーラクなきムバーラク体制」の復活か - 背景 -
「ムバーラクなきムバーラク体制」、すなわち大統領が代わってもムバーラク政権を支えた統治の構造や仕組みは変わらずに存続するという議論は1.25革命直後からなされたが、注目されるようになったのは、ムルシー政権の下で権力闘争が激しさを増してからだった。それは、ムルシー政権(ムスリム同胞団)がムバーラク政権を支えたフルールと呼ばれる旧体制の残存勢力を一掃する必要性を重視して統治機構の掌握を試みた結果だった。閣僚や県知事人事、政府系マスメディアの幹部人事、治安組織および軍の首脳人事など、国家機構の「同胞団化」を短期間に推し進めた。ムルシー大統領の独裁を危惧する反ムルシー勢力による批判を強めたが、なかでも司法当局をはじめとする国家組織の反発と抵抗は激しいものだった。国家組織のトップの首を挿げ替えることに成功したにもかかわらず、ムルシー同胞団政権は国家組織そのものを掌握することには成功しなかった。

そのことを理解するためには、2012年5月から6月に行われた大統領選挙、とりわけ決選投票の結果を確認する必要がある。ムルシーとシャフィークの間で行われた決選投票は同胞団か旧体制かの選択を国民に提示した選挙で、1.25革命後の多くの国民にとって最悪の選択であった。1回目の投票でこの二人以外の候補者が獲得した得票数が過半数を超えていたからであり、3位と4位になったサバーヒー(ナセル主義)とアブル・フトゥーフ(イスラム主義改革派)には1.25革命の支持者の多くが投票したと考えられるからであった。決選投票はそうした人々に苦渋の選択を迫るものだった。結果はムルシー51.7%、シャフィーク48.2%で、ムルシーが僅差で勝利したが、同胞団以外の人々の投票によってかろうじて獲得した勝利であった。一方、同胞団よりは旧体制の復帰を選択した人々がいかに多数であったかをシャフィークの得票数が示している。

このように考えると、おそらく決選投票の結果が旧体制の残存勢力を短期間で排除しようとしたムルシー大統領の政権初期の動きを説明するものだろう。ムバーラク政権下で長期間にわたって政治的弾圧を耐えてきた同胞団は旧体制の力を熟知しており、その残存勢力の一掃が最初に必要だと判断したのだろう。しかし、その性急な動きが旧体制支持者だけでなく、決選投票でムルシー候補に投票した人々の中からも反対の動きを強めさせた。その結果、国民を分裂から和解に導き、政権の基盤を固めるというムルシー政権に課せられた政治的課題に対応するのが一層困難な状況に陥った。

その後のムルシー大統領による度重なる憲法宣言の発布は、反対派による厳しい批判を招き、2012年11月以降政治的対立と混乱を加速させる一因となった。そこからムスリム同胞団の政権運営に対する抗議行動(タマッルド運動)が生まれ、ムルシー政権を崩壊させる原動力となった。キファーヤ運動の若手活動家が始めたとされるこの運動は全国に拡大するにつれて、多様な要求をもった人々を動員するようになり、旧政権の復活を望む人々も多数参加したものと思われる。

(2)「ムバーラクなきムバーラク体制」の復活か
1.25革命後の政治過程を支配したのは、3つの政治勢力、すなわち青年革命勢力、ムスリム同胞団(イスラム主義勢力)、そして軍部であったが、大統領選挙後にはムスリム同胞団と旧体制派の政治的対立が際立つようになった。ムルシー大統領の失脚後は同胞団の非合法化によって政治過程から排除された後、組織的な基盤をもって影響力を行使しうるのはムバーラク時代の支配政党であった旧国民民主党(NDP)だけだった。NDPは1.25革命直後に国民の怒りの矛先となり党本部を焼打ちされ、また裁判所による解散命令の処分を受け、さらに党指導者の多くは汚職や国家反逆罪で訴追され、壊滅的な状態に陥った。しかし、ムルシー政権下で反同胞団キャンペーンが高まる中で、旧NDPの政治勢力が再結集する兆しが現れた。

それはムバーラク政権を支えたNDP指導部やエリートの復帰の動きとしてとらえることができる。上述した2012年の大統領選挙でシャフィーク候補の支持者らが結成した「国民運動」は、おそらく1.25革命後の最初の目立った動きとして注目される。その後、新政党(Masr Baladi)などの設立にも旧NDP議員が多数関わっている。さらに新政党の党首にムバーラク時代の治安機関の大物幹部が就任する動きも報道されている。また収監されていたムバーラク大統領の側近の釈放がこれまで続いてきた。例えば、2012年10月にファトヒ・スルール(元人民議会議長)が釈放されたほか、アフマド・ナズィーフ(元首相)、ザカリア・アズミー(大統領府長官)、サフワト・シャリーフ(NDP幹事長)に続いて、2014年3月10日にはアフマド・イッズ(ガマール・ムバーラクの右腕とされた実業家でNDP幹部、閣僚)の釈放が決定された。

このような動きは、2013年11月のいわゆる抗議行動規制法の公布後、「4月6日青年運動」など1.25革命を先導した活動家たちが多数拘束されて、政治的な表現の自由が制約されつつあるのとは対照的である。国民の多くが「テロとの戦い」で政府の行動を支持する中で治安組織による行き過ぎた強圧的な措置が日常的に繰り返されるようになった。ムバーラク政権下における治安組織の手法が復活しているかに見える。

旧NDP政治勢力の復帰と関連して注目されるのは、ムルシー大統領失脚後に拡大した軍部支持の動きであり、シーシ国防相の大統領就任を期待する声の拡大である。その背後には国営テレビ局や実業家らが所有する民間放送による徹底したメディア戦略があり、ムバーラク政権下で軍部との関わりが深かったジャーナリストらによってなされるキャンペーンがある。2014年1月に実施された憲法改正国民投票およびその後の大統領選挙をめぐるマスメディアの動きはムバーラク政権下におけるやり方に酷似しており、1.25革命後の一連の政府系マスメディアの指導部交代だけでは実質的な再編には結びつかなかったことを示唆している。

(3)結び - 1.25革命から3年のエジプト -
1.25革命から3年を経たエジプトで暫定政府はその公式の言説として2つの革命(「1.25革命」と「6.30革命」)の目的実現を掲げている。しかし、現実のエジプトは民主化プロセスを断念して1.25革命の以前に存在した軍と治安機関に支えられた権威主義的な政治的秩序を再構築する道を進んでいるように思われる。ムスリム同胞団の支配でも、軍部の支配でもない、民主化への「第三の道」を望む人々の声は、愛国主義的なムードによってかき消されている。ヒステリーとも形容しうる、そのムードは、エジプト人同士によってきわめて多数の死者、とりわけ次の時代を担うはずの青年たちを失った悲しみと怒りと表裏一体のものだろう。しかし、2013年7月のクーデタ以後、同胞団を中心としたムルシー支持勢力による抗議運動は弱まる気配なく続いている。運動の分裂と抗議行動の急進化も指摘されている。またシナイ半島だけでなく、エジプト本土においてもテロや爆破事件が繰り返されるようになった。

軍部主導の権威主義的な支配が復活したにしても、エジプトだけで国内のテロや爆破事件を封じ込めるには限界がある。また国民生活にとって大きな不満の源であった公共サービスの破綻にどのように対処するか、またそのための国家の行政機構をどのように立て直すかという難問に立ち向かわなければならない。それらはいずれも長期間を必要とする課題であり、国民が辛抱強く待つことができるかどうか不明である。