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No.31
序章 要約と東アジアが直面する課題

アジアNIEs、ASEAN諸国、そして中国を含む東アジア経済は、1985年以後、目覚しい高度経済成長の10年を経験し、いま調整の時期を迎えている(詳しくは『アジ研ワールド・トレンド』(1998年新春号外:アジア経済を読む…)を参照されたい)。1986年から95年の年平均経済成長率は、アジアNIEs(韓国、台湾、香港、シンガポール)平均が8.1%、ASEAN4カ国(タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシア)平均が7.5%、中国が 9.9%、これら東アジア全体で8.5%と高いものであった。しかも、それが東アジア全体で6.1%という比較的低い物価上昇率のもとで達成されたことが特徴的である。しかも、この成長のダイナミズムは、1985年9月のプラザ合意後の円高をきっかけとしたアジアNIEsにおける輸出と投資の好循環による高成長に始まり、それがASEAN諸国、そして中国へと東アジア全域をカバーするように雁行形態的に波及した点が他に類を見ない。なかでもASEAN諸国と中国の場合には、投資と輸出の好循環を短期間で形成する上で外国直接投資が果たした役割は大きい。しかし、1996年になるとタイ、インドネシアなどで輸出増加率が急激に落ち込み、経常収支赤字の増大が問題となった。加えて、1997年には、株価と不動産価格の低迷のもとで、急テンポな金融拡大時に各国金融システムが抱えた債権が不良債権化した。この結果、急激な短期資金の流出がおこり、タイ、インドネシア、韓国などにおいて一気に為替レート調整が進んだ。これら諸国通貨の対ドル切り下げ率(現在は、自由変動相場制であるので減価率といった方が正確である)は、97年だけでも30%を超えた。この切り下げ率は、金融自由化や為替管理自由化のもとで可能となった短期資金の国境を越えた動きに大きく影響されており、購買力平価の考え方から見るとやや行き過ぎではないかとも考えられる。勿論、大幅な切り下げ率の原因として金融システムの未整備と不透明性があったことは否定できない。いずれにしても、97年7月以後の一連の調整は、経常収支赤字の縮小が実物経済の産業調整あるいはマクロ調整によって十分になされなかったために、それを為替レート市場が調整したと解釈すべきであろう。いわば一瞬にして進んだ金融部門における調整が、実物経済に与えた打撃は大きく、回復にはしばらく時間がかかる。この意味で、今回のような急激な為替レート・ショックを避けつつ、東アジア諸国が今後も安定的な成長を達成するためには、産業構造の適切な調整がひとつの重要なポイントととなる。

この章の目的は、1985年と90年の国際産業連関表の数量分析結果に基づき、まさにこの産業構造調整において東アジアが直面している課題を明らかにすることである。第1節においては、第1章から第5章にかけて検証されている日本をも含めた東アジアにおける産業構造変化と国際産業リンケージの変化を、10 年間にわたる高成長メカニズムのフレームワークと関連付けながら、産業を中心に据えたフレームワークにしたがって要約する。第2節においては、アジア太平洋協力(APEC)やASEAN自由貿易地域(AFTA)の進展など今後の国際経済環境の変化の中で、東アジア諸国が直面する産業構造及び国際産業リンケージに関する課題を明確にし、これら諸国が採用すべき政策に言及する。

第1節 東アジア経済の成長過程における国際産業構造変化—要約—

第1章から第5章で検証する国際産業連関構造の変化は、一部では長期の変化を見るために1975年も比較の対象となっているが、主な分析対象期間は 1985年から90年である。本来は、東アジアの中でもASEAN諸国、そして中国が成長を加速してきた90年代半ばまでを分析対象期間とすべきであるが、最新の国際産業連関表の対象年が1990年であるため、90年半ばまでを国際産業連関分析の直接の対象とすることは出来なかった。これら諸国については成長が続く95年までの変化も大きいため、第1章から第5章で検出された構造変化は、実際には95年まで、同じ方向で更に進行したと考えておいた方が良い。90年代前半の特記すべき政策面での変化は、インドネシアなどASEAN諸国における直接投資規制の一層の緩和、タイなどにおける外国為替管理及び金融の自由化、1992年のAFTAの発足、1994年の中国元の為替レート調整(33%の切り下げ)などである。これらは、第1章で概観するように80年代後半を大きく上回る外国直接投資をASEAN各国や中国にもたらし、地域の輸出を拡大させたことにより、東アジア地域の国際産業リンケージを一層深めたはずである。なお、アジア経済研究所の1985年と1990年のアジア国際産業連関表は、日本、米国、韓国、台湾、シンガポール、中国、タイ、フィリピン、マレーシア、インドネシアの10カ国を対象としたものであるが、すべての国についての分析結果を提示すると煩雑にならざるを得ない。このため、本書の第2章から第5章においては、工業化の程度に応じて、NIEsから韓国、ASEAN諸国から先発のタイと後発のインドネシアの計3ヶ国を主たる対象として取り上げ、日米経済との関連に注意を払いながら分析する。

10年間の高度成長の中での東アジア諸国間における経済相互依存構造の量的・質的変化は、次の分野でおこっている。第1は、財の国際間の移動である。国際産業連関分析が最も得意とする分野であり、この変化は国際産業連関表の交易マトリックス部分の変化となって現れる。この変化には、輸入数量規制の廃止や、輸入関税の引き下げなどを内容とする貿易自由化政策が大きく影響している。第2は、資本、労働、生産技術、経営ノウハウなど生産要素の移動である。資本移動の中では、外国直接投資が生産技術や経営ノウハウの移転をも媒介し、さらに輸出に貢献した結果、東アジア諸国の財の移動に大きな影響を与えた。また、 90年以後の間接資本の流入増加も生産設備への投資資金の供給という意味で、財の供給能力に影響を与えたはずである。労働の移動は、フィリピンから香港、インドネシアからマレーシアなどの形で活発化した。また、国内経済への影響は産業構成の変化、国内産業連関構造の深化の変化などの形で現れた。

以下では、(1)国内産業構成の変化、(2)国内産業リンケージの変化、(3)国際産業リンケージの変化、(4)国際産業リンケージを通じた所得波及、(5)生産技術構造の高度化に分けて、第1章から第5章で得られた結論を要約する。

(1)国内産業構造の変化

高度成長がもたらす産業構造への影響は2つに大別できる。ひとつは、一人当たり所得の上昇に伴う需要パターンの変化が産業構成におけるサービス産業の比重を高めるという「サービス化」である。もう一つは同じ理由によって農業から工業へ、工業の中でも労働集約的製造業から資本・技術集約的製造業へと産業構成の比重が移る「産業構造の高度化」である。第2章のスカイライン・マップ分析は、1975年から90年にかけての変化を明確に示した。これによれば、日本と韓国においては、サービス化が進行したのに対し、韓国・タイ・インドネシアにおいては産業構造の高度化が進行した。一人あたり所得水準の違いがこのような国間の差異をもたらしており、NIEsの韓国では二つの変化が同時に現れている。また、韓国での高度化は、労働集約産業からの転換というよりは、資本・技術集約的産業への製造業分野の拡張という形で起こっている。いわゆるワンセット型工業化であり、他のアジアNIEs、特に国内市場規模の小さい香港やシンガポールでは、産業の入れ替わりによる別のスタイルの高度化が進んでいる。

もう一つの産業構造変化の特徴は、東アジアの高度成長が輸出指向工業化によって可能となったことと深く関係している。ASEAN諸国の生産構造は、スカイライン・マップ分析でも明らかになったように、輸出市場向けにシフトしている。とくに、インドネシアでは繊維産業、タイでは繊維産業と電気機械産業、マレーシアでは電気機械産業というように輸出により経済全体をリードする主導部門が形成された。このことは、第1章で詳しく示したように、ASEAN4カ国の輸出依存度(輸出の対GDP比率)が85年の24%から95年には36%となった事からも明らかである。これに対し、アジアNIEsでは輸出は絶対額で増加しているものの、一人当たり所得の上昇による国内市場の拡大が相対的に重要となってきている。同期間の輸出の対GDP比率は、57%から50%へと低下した。つまり、輸出指向工業化戦略といっても、所得水準の上昇に伴い、「外需・内需両軸型成長」へと実態は変化して行くことがわかる。特に、ワンセット型工業化を進める韓国において、次の(2)で触れるように、この傾向は強く表れている。

(2)国内産業リンケージの変化

経済成長とともに産業構造は高度化し、原材料あるいは中間財供給を通じた産業間のリンケージも緊密化して行く。これは、「川下産業」の中でも生産プロセスの長い資本・技術集約的産業の比重が高まっていることに加え、高度の技術と資本を必要とするような「川上産業」と部品供給などの「裾野産業」が国内に育成されるためである。国際産業連関表ではこのリンケージの程度をあらわす指標として、「後方連関効果」が使用される。

第2章では1975年から90年にかけてのこのリンケージの程度の変化を自国への波及効果、他の東アジア諸国への波及効果に分けて示した。そのパターンは 3つに分かれる。自国と他の東アジア諸国への波及効果の合計が増大したのは、タイとインドネシアであり、ASEAN諸国で産業構造がいわゆる迂回生産過程の長い産業へとシフトしたことがわかる。これに対し、工業化が進んだ韓国や日本においては全体の波及効果は減少しており、ここでも産業構造のサービス化が確認できる。国内産業へのリンケージ(波及効果)は、タイとインドネシアでは異なる動きを見せた。インドネシアにおいては国内への波及が増大し産業構造の厚味が増した。これに対し、タイでは国内への波及比率が低下した。この点は、次の国際リンケージの部分で詳しく述べるように、直接投資依存型の工業化戦略と関係がある。韓国では、国内への波及が増加し、ますます多くの部分が自給できるように産業構造が高度化している。

(3)国際産業リンケージの変化

国際産業リンケージは、後方連関による波及効果のうち上の 2)で触れた国内への波及を除いたものである。それは、韓国で大幅に減少し、インドネシアでは少し減少した。ここで注目したいのは、タイであり、国際波及の比率が75年の23%から90年には32%へと大幅に増加したことである。このような国際間の産業リンケージの緊密化をもたらしたものは、主に外国直接投資の増大であり、それを側面からサポートしたのが外国投資に対する規制緩和や優遇策であり、貿易の自由化であった。特にASEAN諸国は、80年代後半からの中国やベトナムへの外国直接投資のシフトに危機感を抱き、90年代には殆ど外資規制を撤廃してしまった。またインドネシアにおいては、輸入規制や関税保護によるハイコスト・エコノミー問題解決のために大幅な貿易自由化が行われ、安価な海外原材料や中間財を調達できるようになった。さらに、92年の AFTA発足は、ASEAN諸国間の貿易障壁を若干なりとも低くした。

この国際産業リンケージの程度は、各国の生産のうち何%が国内需要または諸外国への輸出に依存しているか(生産誘発依存度)という視点から捉えることも出来る。第3章では、国際産業リンケージの強い製造業に着目して、1985年から90年の間の変化を計測している。その傾向は、アジアNIEsと中国・ ASEAN諸国で大きく異なる。韓国・台湾では内需と東アジア諸国への輸出に対する依存度が高まる一方、米国とその他世界への輸出に対する依存度はいずれも約6%低下している。これに対し、85年以後直接投資などによって産業構造が大きく変化した中国とASEAN諸国においては、内需への依存度が低下する一方、まんべんなく世界各国への輸出に対する依存度が高まっている。中でも、マレーシアと中国の米国とその他世界への輸出に対する依存度の増大は、いずれも約10%であり大きい。このように生産誘発依存度の変化を見ても、韓国・台湾の外需・内需両軸型成長パターンと、中国・ASEAN諸国の外需依存型成長パターンが確認できる。

円高、NIEs通貨高以後の外国直接投資は、輸出志向の高いものが多いのと同時に中間財の輸入調達比率も高い。これら直接投資は、従来と異なり、新たな貿易形態を生み出した。それは、製品差別化による企業内分業や、工程間分業である。製品差別化による企業内分業とは、高画質テレビと一般のカラーテレビのように、ハイテク家電製品を日本の工場で生産し、標準化された家電製品をマレーシアの工場で生産して日本に逆輸入するというもので、部品などの中間財の日本からの供給を伴う。また、工程間分業とは生産工程を幾つかに分け、それぞれの工程を最もコストが低い国でおこなうものである。例えば、ICのウェーファを日本で生産し、労働集約的な後工程をマレーシアで行うというのがこれに当たる。また最近は、ASEAN諸国に進出している同一企業の中で、規模の利益追求のために部品生産を各国で分業し、それを融通しあって、各国で製品を完成させるという動きもある。例えば乗用車の生産がこれに当たる。このような新展開は、必然的にASEAN諸国の生産における部品の海外調達比率を高め、東アジア諸国間の貿易を通じた産業のリンケージを高める事になる。特に、90年代になってその傾向は加速しているようであり、90年の計測結果をこのことを考慮したうえで読み直す必要がある。第5章では、この地域に対する累積投資額が最も大きい日本を例にとって、韓国・タイ・インドネシアの製造業がどの程度原材料や中間財を日本に依存しているか計測している。そこでは、韓国の日本に対する依存度が低下しつつあるのに対し、タイでは85年から90年にかけて依存度が増大したことが明らかにされている。まさにタイの場合は、その生産構造の一部が国境を超えて日本の生産構造と一体化しつつあるとみられる。インドネシアの対日依存度は、この間にやや低下したが、90年以後、拡大に向かっているのではないかと思われる。

このような国際リンケージの一つの特徴は、それが特定産業において顕著に表れるという点である。その点を検証したのが、第3章である。そこでは、シンガポールの電気機械産業が原材料・部品調達において日本、韓国、台湾との結びつきを深め、また同時にこれら諸国への製品輸出を増加させていることが指摘されている。韓国の輸送機器については、ワンセット型の工業化の進行によって、国内の原材料・部品調達率が増加している。タイの電気機械は、アジアNIEsからの原材料・部品調達が増加し、米国や日本向け最終製品輸出が増加している。インドネシアの繊維産業についても、変化は弱いものの、同様の影響が見られる。従って、東アジアにおける産業の国際リンケージは強まっているが、いまだ輸出市場としての米国の重要性も軽んじることが出来ない。

(4)国際産業リンケージを通じた所得波及

一国における最終消費財の直接の輸入増加が輸入先の国の所得を増大させることは容易に分かる。しかし、国産の最終消費財需要の増加が、原材料や中間財の輸入を通じて外国の所得をどの程度間接的に増加させるかは国際産業連関表によって初めて計測できる。このような、直接・間接の輸入を通じて一国の需要が外国にどの程度リーク(漏れ)し、その結果、外国の所得をどの程度増加させるかは、国際産業リンケージの緊密さとそれぞれの財の付加価値率に依存する。東アジア地域においては、3)で見たように、韓国のような一部の例外を除いて、全般的には国際産業リンケージが85年以後緊密化してきており、国際間の所得波及も強くなってきていることは想像に難くない。

この所得波及構造について85年から90年にかけての変化を計測したのが第4章である。そこでは、インドネシア、タイ、韓国における10%の経済成長が東アジア諸国及び米国の所得を何%増大させるかのシミュレーションがなされている。その程度は、相手国のGDPの規模と反比例し、自国のGDPの規模及び国際産業リンケージの強さと正比例の関係のある。90年のインドネシアのケースでは東アジア全体に0.022%の経済成長をもたらし、85年と比較すると微増に留まっている。タイの場合は、85年の0.020%から90年には0.044%へと顕著な増加を見せている。韓国の場合は0.051%から 0.064%への増加となっている。いずれの場合でも、経済規模が小さなマレーシアやシンガポールへの影響は大きくなっている。また、各国のGDPの規模要因を除去して見るために、東アジア及び米国での所得増加額を自国の経済成長による所得増加額で除した「国際感応度係数」も計測されている。それは、インドネシアにおいては1985年から90年の間に6.7%から9.7%に、タイにおいては13.5%から24.8%に増加した。タイにおける国際所得連関の大幅な増大は、既に見た国際産業リンケージの緊密化と対応している。これに対し、韓国の国際感応度係数は18.1%から16.1%へとやや低下した。これも、韓国におけるワンセット型工業化の進展と対応している。

以上の点から、東アジアの経済発展は域内における製造業の国際産業リンケージを緊密化してきたものの、需要面からの経済発展のサポートという意味で見ると、域内の自己完結性はそれほど高くはない。つまり、その影響力は低下しつつあるものの、米国など域外の諸国の経済成長によって喚起される輸出にも大きく支えられている。

(5)生産技術構造の高度化

ここまでの4つの視点は、いずれも東アジアの産業構造と国際産業リンケージを量的拡大から見たものであった。米国MIT教授のポール・クルーグマンは、アジアの成長は主に資本と労働という生産要素投入の増大によるもので、生産性の上昇はほとんど見られなかったと指摘したが、果たしてそうであろうか。種々の実証研究でも、全要素生産性の向上については、一致した結論が得られていないが、国際産業連関表からはこの問題に対してどのような示唆が得られるのであろうか。直接的な計測は不可能であるが、第5章で製造業について生産技術構造(投入構造)の類似性の変化を検討することによって間接的な検証がなされた。そこでは、日本の投入構造を基準として、それと各国の投入構造の類似度が計測されている。1990年における類似度の高さは、韓国、タイ、インドネシアの順となっている。つまり、生産技術構造あるいは各製造業部門のプロダクトミックスが、工業化が進んだ国ほど最も先進的な日本の構造に近いことが確認できる。また、1985年と90年の比較で見ると、韓国とタイの場合は日本の生産技術構造との類似性が高くなっている。日本の生産技術構造は、一般にこれら諸国よりも効率的であるので、少なくとも韓国とタイにおいては生産の効率化が進んだことがわかる。このことは、クルーグマンの主張と異なり、間接的にではあるが、生産要素のみならず生産性の上昇もこれら諸国の成長に貢献したことを示唆している。インドネシアの場合は、金属製品と輸送用機械産業において類似度が高まったが、製造業平均ではやや低下した。これは、韓国、タイと比べてインドネシアのキャッチ・アップのスピードが遅いことの反映と考えられる。なお、外国直接投資の多い産業ほど類似度が高いことも指摘されている。以上から、例外産業はあるものの、生産技術構造においても、ASEAN諸国およびアジア NIEsの日本に対するキャッチ・アップが一般的には進んだことが確認できる。

第2節 東アジアの産業構造が直面する新たな課題

1985年の円高以後、NIEs通貨の増価に至るまで数年間続いた東アジア地域の為替レート調整は、この地域に国際産業構造調整のうねりを引き起こし、各国産業間の国際リンケージを緊密化する形で地域の高度経済成長をもたらした。しかし、その発展のダイナミズムも、今や大きなチャレンジを受けている。96 年の輸出鈍化と金融部門の諸問題の顕在化のなかで、97年の夏以降、タイ、韓国、インドネシアをはじめ各国通貨の対ドルレートは大幅に下落し、東アジア地域経済の先行きに対する信任が大きく揺らいだ。タイ、韓国における通貨危機はIMFを中心とした国際的な支援策の発動により沈静化しつつあるように見えるが、このような状況下で、変革を迫られているのは金融部門だけではない。今回の通貨・金融危機には、約10年にわたる産業構造変化のあり方が一つの遠因として作用しているし、また今回の通貨・金融危機およびそれへの対応策が産業構造に与える影響も大きい。この意味で東アジア諸国の産業構造もいくつかの課題に直面している。その課題を明らかにするためには、まず第1に成長の10年間の中で徐々に顕在化してきた各国経済の問題点を明らかにし、第2に中期的に予想される国際経済環境の与件変化を正確に見極める必要がある。また、課題を検討する際に念頭に置かなければならないことは、本書での分析が示すように、国際産業リンケージや国際所得波及などを通じた東アジア諸国の経済相互依存がこの約10年で大きく高まっていることである。

(1)顕在化しつつあった経済的課題

今回の通貨・金融危機が発生しなかったとしても、10年間にわたる高度成長の結果、国によって濃淡はあるもののASEAN諸国と中国を中心に次のような経済的課題が顕在化しつつあった。

第1は製造業生産における過剰供給傾向である。一般に、一国経済においては設備投資あるいは在庫投資の変動を原因とした景気循環がみられる。ASEAN諸国においても92年頃に短期の景気の落ち込みがあったが、それを除けば80年代後半から景気は好調を持続し、96年になってタイなどを中心に減速傾向がみられるようになった。この間の景気の牽引車は、好調なアメリカ経済に支えられた輸出とこの地域に流入を続けた外国直接投資であった。特に直接投資にリードされた国内の総固定資本形成は高水準で、各国の投資率(総固定資本形成/GDP)は増加を続けた。例えば、タイの平均投資率は、81-85年が28%、 86-90年が32%、91-95年が41%であった。同期間の数値はマレーシアの場合は、34%、27%、39%であった。他のASEAN諸国や中国では、投資率の水準はやや低いものの、増加傾向にあるのは共通している。ちなみに、高度成長期の日本の投資率は、61-65年が32%、66-70年が 33%であり、タイとマレーシアにおける90年代の高い投資率が際立っている。投資のすべてが直接的な生産設備にまわるものではないが、それでもこの様な高い投資率が各国の供給能力を高めつづけたことは間違いない。それが、好調な米国市場(加えて80年代後半には日本市場)と所得水準の上昇著しい国内市場で吸収されてきた。一般的な景気循環の経験則を念頭に置けば、5年ほどこの様な状況が続けば供給が需要を上回り、景気は下降局面入りするのが普通であるが、ASEAN諸国の場合は輸出増加と直接投資によって好景気が長期間継続したと考えられる。したがって、輸出増加率が減速し、直接投資が頭打ちとなれば、景気は一気に反転する状況にあったといえる。また、高成長の継続は強気な期待形成を生み、さらに投資を増加させるという状況もあった。このような高い投資率が継続した結果、現在はいくつかの産業で供給能力が過剰になっている。このことは、各国において、さらには域内国間において産業内競争が激化し、効率性を求めて業界の再編が進まざるを得ないことを示唆している。

第2は、ASEAN諸国、中国における賃金の上昇である。これら諸国の製造業の多くは、質のわりには相対的に安価な労働力を多用する労働集約産業である。ところが、高度成長の結果、一人当たり所得の上昇に加えて、都市部では労働賃金の上昇が顕著となった。マレーシアを除けば未だ過剰労働を抱えている国々であるが、急速な工業化のために、熟練労働者や中間管理者の不足が深刻化しつつある。例えば、タイにおける失業率は80年代半ばに3-5%であったものが、 90年代にはほぼ1-2%で推移した。また、一人当たり所得(ドルベース)の増加率は、94年が12%、95年が14%であった。まさに、ASEAN諸国においては、単純労働集約的産業における比較優位が消滅しつつある。この意味で、産業構造の高度化が課題となっている。

第3は、経常収支赤字の拡大である。タイ、インドネシア、マレーシアで94年から経常収支赤字の拡大が始まり、95年にはタイで132億ドル、インドネシアで72億ドルへと顕著に拡大した。96年には更に悪化している。その主因は、輸出の鈍化と同時に輸入の急増である。直接投資の増加が資本財輸入等の増大をもたらしたことは想像に難くない。直接投資の流入で資本財輸入の増加分がファイナンスされていると考えれば外貨繰りの上では問題ないとも言える。しかし、為替市場が経常収支に長期資本収支を加えた基礎収支ではなく経常収支に敏感に反応するという事実の前では、そのようなことも言っておられない。また、近年の貿易自由化と直接投資の増加は、高品質かつ低価格での製品供給を目指して、国産中間財から輸入中間財に対する需要のシフトをももたらしている。この様な輸入中間財需要の増加は製品が輸出されるならば、経常収支の赤字要因とはならない。しかし、実際には高度成長で国内市場は拡大しており、製品の国内市場への供給も少なくない。大幅な輸入増大をもたらすような形での工業化政策が適正な為替レート政策と対になって実行されていないことが問題となっているのである。自由な変動相場制のもとでは経常収支の赤字が発生すれば為替レートは自動的に赤字を減少させる方向に調整する。しかし、タイのように金融政策によって事実上対ドル為替レートを固定したり、あるいは自発的な間接投資や海外資金調達が急増している時には、為替レートの経常収支調整能力は弱い。その結果としての通貨の過大評価は、輸出の鈍化をまねく。タイの輸出鈍化はまさにこのケースに当てはまる。一般的には、各国経済の将来に対する期待が高まるときには、為替管理が自由化されていれば間接投資が増大する。この様な場合には、各国の輸出産業や輸入競争産業は、通常より速いテンポで、生産の効率化あるいは産業の高度化を進めないと輸出競争力が低下することになる。

(2)予想される国際経済環境の変化

つぎに、中期的に予想または予定されている東アジア地域に関する国際経済環境の与件の変化であるが、おもなものとして、米国経済の減速の可能性と APEC・AFTAの枠組みにおける貿易自由化があげられる。更に既定の要因ではあるが製造業にとって大きな与件の変化は為替レートの大幅な下落である。

第1に、好調を持続した米国経済もそろそろ減速過程に入る可能性がある。このことは、大幅な通貨切り下げが、すぐに大幅な輸出増加となって経済を回復させるという楽観的観測が必ずしも実現しないことを示唆している。タイと韓国の輸出は急回復の兆しを見せはじめたかに見えるが、金融収縮で製造業の供給能力についての不安が出始めている。また、米国経済の減速が進めば、輸出回復の傾向がそのまま持続するとは限らない。むしろ、伸びが小さい米国という輸出市場でのシェア争いとなる可能性もあり、その場合には輸出競争力の強化をめぐって東アジア諸国間で為替レートの切下げ競争の誘惑が高まる。再度、中国元の切り下げがあれば、為替切り下げの第2ラウンドが始まる危険があると思われる。また既定の要因である今回のような為替レートの大幅な切り下げは、輸出面に注目すれば産業構造の高度化と効率化の問題を一挙に解決したかに見える。しかし他方では、それは輸入価格の上昇を意味する。国際産業リンケージが深まっている現在、投入財としての輸入中間財比率は上昇しており、為替レートの下落が国際競争力を増加させる効果は弱まっている。従って、各国が輸出を増加させようとするならば、各国の工業化の程度に応じた適切な産業構造の高度化と生産プロセスの効率化がによって国際競争力を高めるのが採るべき政策となる。

第2にAPECとAFTAの貿易自由化が正念場に差し掛かる。APECの貿易自由化目標は、先進工業国が2010年、途上国が2020年である。これは、それほど直近の問題ではないとも考えられるが、大阪会議での行動指針(Action Agenda)、マニラ会議での行動計画(Action Plan)、バンクーバー会議での分野別自由化の促進などすでにコミットしている自由化計画があり、その実施は成長が鈍化しているといっても避けられない。経済減速の中での貿易自由化は国内の産業調整コストが大きいのは確かであるが、産業構造の効率化のチャンスと考えたほうが長期的には正しいであろう。

AFTAの貿易自由化は、真近に迫っている。特定品目に付いては2000年、一般品目に付いては2003年が目標であり、それぞれについてすでに現行の関税率が20%以下の品目の期限は更に早い。加盟国は自由化期限までに、規模の経済効果を発揮する産業の強力な育成を狙っているようであるが、無理な産業育成競争は地域全体の生産体制の非効率性を高めることになる。インドネシアの国民車計画は結局のところ実を結ばなかった。むしろ、加盟国間での分業体制を促進するASEAN工業協力計画(AICO)を現実にワーカブルなものにすることが重要である。企業が提出するこの様な計画は各国別に承認を得る仕組みになっているために、その計画が各国の工業化戦略と一致しない場合には、すべての関係国から承認を得ることが困難である。したがって、今回の通貨危機までは実現に至らなかったが、通貨危機後は徐々に実現に向かっている。

(3)直面する政策的課題

以上見てきた点を要約すれば、東アジア地域の国際産業リンケージを活用し、地域の経済発展のダイナミズムを持続させるためには、次の方向での政策が必要になろう。

第1は、産業構造に関する政策の前提として早期のマクロ経済安定化が必要である。金融システムの健全化が焦眉の課題であることは言を待たないが、ここでは貿易・投資の自由化を促進しつつ、為替管理については金融市場の発展の程度に応じて一定の制限を設けることも検討の余地があろう。それは、為替レート変動を含む短期金融市場の動きが、中期的にしか調整が利かない産業構造に与える影響があまりにも大きいからである。

第2は、産業の効率化である。高度成長の中で、効率が悪い企業も何とか生き延びてきた。今回の通貨調整をきっかけに、各産業内の企業の再編が進むはずである。この際、政府は非効率産業を保護するような政策は避けるべきである。このことは、過剰となりつつある供給能力の調整とも関連している。

第3は、産業構造の高度化である。すでに見たように、域内の多くの国で単純労働集約型の製造業は比較優位を失いつつある。したがって、政府は、中等教育の充実、職業訓練施設の拡充、そして産業の高度化のための転換資金の貸し付けなどの措置を取ることが期待される。また、その際に、政府はある程度の産業構造高度化のビジョンを持つことが望ましい。「政府の失敗」を排除するため産業選択については完全にマーケットに任せるという考え方もあるが、ASEAN諸国や中国においては、最小限の産業政策はあっても良いのではないかと思われる。

第4に、あまりにも急激な外国直接投資導入を梃子とした工業化政策は、今回のようにミニ・バブルを発生させる遠因ともなりうるので、この面では持続的な成長のための慎重な成長政策が必要となろう。

上記の産業の効率化と産業構造の高度化は以前から指摘されていることで必ずしも目新しいものではない。しかし、それらの政策は国際産業リンケージの深まりを前提として立案されなければならないというのが、これまでとは大きく異なる。第1章から第5章の分析で明らかになるように東アジア地域での生産構造のクロス・ボーダー化が進展し、また第4章で見るように日本を含めた東アジアに米国を加えた地域間の所得連関も強くなっている。従って、産業構造の効率化と高度化に当たっては、国内のみならず地域全体への影響を考慮する必要がある。この意味で、IMF、世界銀行、APECやASEAN等の国際的フレームワークを活用した政策対話と政策協調が果たす役割がますます重要になっていると考えられる。