開発における協同組合—途上国農村研究のための予備的考察—

調査研究報告書

重冨真一 編

2014年3月発行

序章
協同組合は、途上国において開発や貧困削減などに寄与することが期待され、政府によって強く推進された。途上国の協同組合は、協同組合の理念型からはかなり乖離しており、多くが自立的、持続的な組織とはなりえなかった。開発における協同組合の役割にたいして1970年代に厳しい批判が起こったが、それは協同組合の理念や期待された目標から見た規範的なものが多く、各国の協同組合がなぜある形態をとって存在したのかという視点から協同組合を客観的に明らかにする努力は不十分である。1980年代以降、途上国政府は経済への介入を後退させており、協同組合は市場で他の組織と競争することが求められている。そうした「新しい環境」における協同組合の存立する外部条件と内部条件を明らかにする研究が求められている。

第I部 大陸別概観
第1章
アジアでいかに協同組合が設立され、推進されてきたのか、その生成と展開パターンの特色を先行研究のレビューを通じて検討する。南アジア、東アジア、東南アジアの8カ国を代表的な事例として選び、3つの時期区分、そして国家経済発展の志向から分類し、その大きな特徴を捉えることを試みる。その主な特徴は、資本主義的経済発展の中で生じる問題への対応として、一種の社会政策的な性格をもって協同組合が導入されたこと、それが故に農民等の自主的な組織ではなく統治する側(政府等)のイニシアティブによる組織化が中心となり政府の代行機関化する傾向があったこと、さらに生産型協同組合はうまくいかず、サービス供給型協同組合のみが機能しえたことである。

第2章
アフリカの協同組合の典型は、一次産品、とりわけ農産品の集荷機構として、政府により作られたものである。植民地期からアフリカは一次産品の供給地として開発され、独立後もの経済は一次産品によって支えられていた。多くの独立政府はナショナリズムに基づいて一次産品の流通を政府のコントロール下においた。その生産はアフリカ人小農によって担われていたから、協同組合をもって集荷の道具としたのである。一方では、協同組合を農村開発のエージェントとした国もある。いずれにせよ協同組合は国家の統治機構として位置づけられてきた。政府主導で作られた協同組合は、自立的な経営管理をするだけの能力をもたず、多くが失敗したとされる。1980年代からの構造調整政策により、そうした政府統制が緩められ、協同組合の「ルネサンス」が起きているという議論もあるが、協同組合がどのような経済的な環境の上に再興されているのかについての研究は乏しい。

第3章
ラテンアメリカの協同組合 (398KB) / 清水 達也
ラテンアメリカにおける協同組合の多くは、19世紀の欧州移民による相互扶助組織を起源としている。これらは主として、都市部の中間層や農村部の自営農が自主的に組織したものである。20世紀に入ると、所得格差や農村部の貧困を削減するために各国で農地改革が実施されたが、協同組合は農地を配分する受け皿としての役割を担った。このほか、米国、カトリック教会、NGOなども貧困削減の手段として協同組合の組織化を振興した。1960年代はラテンアメリカにおける協同組合のブームといえる時期であるが、多くの協同組合が政府や外部団体などにより外からの組織化された。1980年代の債務危機とそれ以降の新自由主義経済改革の中で、政府の支援を受けた協同組合は淘汰される一方、企業的な経営を採用した協同組合が活動を拡大している。このほか、経済改革の中で負の影響を受けた人々が生き残る手段として協同組合を活用している事例もでてきている。

第II部 国別レポート
第4章
中国の協同組合運動は辛亥革命前後から民間人によって始められた。その後、国民党と共産党がそれぞれの政治勢力拡大のために協同組合を奨励した。共産党が政権をとるまでの協同組合は、もっぱら都市の労働者を対象としたものであった。中華人民共和国が成立すると、まず政府は土地改革を実施し、その結果生じた零細農家による農業生産性の停滞を打破するために、農業の集団化を推進した。その単位となったのが協同組合(合作社)である。合作社は単なる作業共同の段階から生産手段の共有化に進み、5年ほどの間に全面的集団化(高級合作社)にまで進んだ。集団化を推進した毛沢東は、農民による自発性を強調したが、実際には上からの半強制的集団化であった。1980年代に集団農場制が解体した後、新たな協同組合が作られるようになったが、それらの多くは零細農民が市場での交渉力を高めるために連帯したというよりも、農産加工企業が原料調達を効率的に行うために組織したという性格が強いとされる。

第5章
タイの協同組合は、20世紀の初頭に、政府の社会政策として導入された。農村部における現金経済の浸透により、高利の借金で農民が土地を失うなどの問題がおきていた。そうした農民に低利の資金を提供するために、作られたのが信用協同組合であった。資金源は政府あるいは政府の保証を受けた金融機関であった。当初の信用協同組合は組合員の連帯責任に依拠していたが、まもなく会員の所有地を担保として貸し付けるようになった。さらに組織の効率性を高める目的で、1960年代になると政府は信用組合を合併し、一郡にわたる範囲を領域とする協同組合に改組した。こうしてますます協同組合は、民衆の連帯組織というよりも、政府主導の金融機関的な性格をもつようになり、現在に至っている。また「協同組合運動」と呼べるものはほとんどおきなかった。立憲革命当時、エリートの一部から協同組合主義に基づく経済計画案が出されたが、政府、社会のいずれにおいても受け入れられることはなかった。

第6章
サブサハラ・アフリカの農業協同組合の農村における役割について、エチオピアを中心に、タンザニアを比較事例として検討する。歴史的には、もともと協同組合活動の素地のなかったエチオピアと比較すると、タンザニアでは社会主義が導入される以前にすでに協同組合活動が活発であった。その結果、経済自由化後、エチオピアでは多くの協同組合は農業開発のエージェントとしての役割を中心とした活動となる一方で、タンザニアでは、自由化による競争圧力にさらされつつも、政府からは独立した形での活動を行うことが可能になっている。