「クルドのアレヴィー」と「トルコのアレヴィー」

アジ研ポリシー・ブリーフ

No.107

森山 央朗

2018年3月21日発行

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  • アレヴィーは、アナトリアを発祥地としてイスラームから派生した宗派で、クルド人とトルコ人双方の有力な宗教的少数派となっている。
  • アレヴィーという名称はアリー崇敬に由来し、スンナ派・シーア派イスラームとは異なる独特の教義・実践を持つために、スンナ派・シーア派イスラーム教徒(ムスリム)から異端視されてきた。
  • アレヴィーの教義・実践・歴史には不明な部分が多く、クルド民族主義とトルコ民族主義の双方の立場から、それぞれ大きく異なる説明がなされてきた。
アリー崇敬とアレヴィーとアラウィー

クルド人の信仰は多様である。クルド人の中の宗教的多数派はスンナ派ムスリムであるが、シーア派ムスリムのクルド人や、キリスト教・ユダヤ教を信仰するクルド人もおり、ISの犠牲者として国際社会の注目を集めたヤズィード教徒もいる。クルド人の宗教的少数派の中で相当の部分を占めるのが、アレヴィーと呼ばれる宗教に分類される人々である。アレヴィーとは、イスラームの預言者ムハンマド(632年没)の従弟であり娘婿でもあったアリー(661年没)に由来し、アリーというアラビア語の人名の形容詞形である「アラウィー(アリーの/アリー的な)」がクルド語やトルコ語で訛った形である。したがって、アレヴィーとは「アリー派」といった意味であり、アリーを崇敬する宗教ということになる。  

ただし、アリー崇敬はアレヴィーにのみ見られるわけではない。ムスリムの多くもアリーを崇敬してきた。アリーは、スンナ派においては、ムハンマドの死後に正しくウンマ(イスラーム共同体)を指導した4人の正統カリフの最後の1人であり、シーア派においては、ムハンマドの正統な後継者たる初代イマーム(先導者)である。しかし、スンナ派とシーア派においてアリーはあくまで人間で、神格化されてはいない。  

それに対して、アレヴィーと呼ばれる人々は、アリーを神格化するなどの基本的な信条においてスンナ派・シーア派と異なる点が見られ、日々の礼拝やラマダーン月の断食を義務としないなど、信仰実践においてムスリムとは異なる点が多く見られる。そのため、スンナ派・シーア派のムスリムによって、イスラームから逸脱した異端とされてきた。とはいえ、イスラームから派生したことは明らかであり、アレヴィーをイスラームに含めるか否かは微妙な問題である。

そしてさらに複雑なことに、アリーを崇敬して独特な教義と実践を作り上げてきた複数の宗教・宗派が、アリーに由来する類似した名称を名乗ったり、周囲からつけられたりしてきた。クルドに関連する範囲では、クルド人内部の有力な宗教的少数派がアレヴィーと呼ばれる他、トルコ人の中にもアレヴィーと呼ばれる人々がおり、地中海東岸地域のアラブ人の間にもアラウィーと名乗る少数宗派が存在する。なお、アラブ人のアラウィーは、シリアのアサド政権の宗派として知られるが、クルド人とトルコ人のアレヴィーとは起源と歴史が大きく異なり、直接的な関係はないと考えられている。

トルコ共和国のアレヴィー

クルド人のアレヴィーとトルコ人のアレヴィーは類似した教義と実践を持ち、合わせて約1500万人の信徒がいると考えられている。彼らの大部分はトルコ共和国に暮らし、同国の総人口(約8000万人)の約19%を占める。伝統的にはアナトリア内陸部の農村に居住してきたが、現在ではイスタンブルやアンカラなどの大都市に暮らすようになった者も多く、ヨーロッパに移民した者もいる。

彼らは、村落や地域ごとに共同体を形成し、デデ(トルコ語で「祖父」の意)と呼ばれる宗教指導者の下でジェム(集会)を定期的に開催し、アリーと聖者たちを称える賛美歌や舞踊といった宗教儀礼を行ってきた。また、イランの古代宗教に起源を持つとされるノウルーズ(春分)の祭りを重視し、巨木や巨石を崇めることもあるという。ただし、先述のとおり、アリー崇敬はムスリムの間でも一般的であるし、聖者崇敬とノウルーズの祭りも多くのムスリムによって実践されている。したがって、アレヴィーとムスリムの境界は必ずしも明瞭ではない。

アレヴィーの起源についても不明な点が多く、クルド民族主義とトルコ民族主義の双方で大きく異なる説明がなされてきた。クルド民族主義的な説明は、アレヴィーとは、クルドを含むイラン系の人々の古代宗教に民間信仰やキリスト教、シーア派イスラームが混淆したクルドの民族宗教であると語る。一方、トルコ民族主義的な説明は、アレヴィーとは、13世紀頃に中央アジアからアナトリア東部へやって来た、トルコ系遊牧軍事集団の間で形成された宗教と語る。その頃のアナトリア東部では、ハジ・ベクタシュ(1270年頃没)というスーフィー(イスラーム神秘主義修行者)の導師が活躍しており、彼が唱えたアリー崇敬を強調する思想と実践が、トルコ系遊牧軍事集団によって中央アジアから持ち込まれた古代宗教と混淆して、アレヴィーという宗教が形成されたという。

アレヴィーをめぐる語りと政治

アレヴィーの起源に関する言説は、トルコにおける宗教の位置やクルド問題との関連によって形成された部分が大きい。トルコは、世俗主義を国是とする一方でスンナ派イスラームを実質的な国教とし、それ以外の宗教をトルコ人の宗教とは認めてこなかった。トルコには少数のキリスト教徒やユダヤ教徒が居住しているが、彼らはギリシア人やアルメニア人やユダヤ人であって、トルコ人とは見なされない。イスラームとの境界が曖昧でムスリムから異端視されてきたアレヴィーについては、1990年代まで存在が公認されず、人口の2割近くを占めるアレヴィーの信徒は表向きはムスリムということにされていた。

そのなかで、アレヴィーの起源に関するトルコ民族主義的な説明は、アレヴィーをトルコ民族特有のイスラームとして認めさせる試みとも考えられる。アレヴィーは、トルコの国土であるアナトリアで活躍したハジ・ベクタシュのイスラーム思想と実践に、トルコ民族の故地である中央アジアからもたらされたトルコ民族の古代宗教が結びついた、トルコ的なイスラームというわけである。

他方、クルド人のアレヴィーは、民族的な同化圧力と宗教的な同化圧力に同時に曝されてきた。すなわち、トルコ民族主義国家への同化を迫られると同時にスンナ派への同化も迫られたのである。スンナ派への同化圧力は、スンナ派がクルド人の宗教的多数派でもあったことから、クルド内部においても発生した。二重に抑圧された立場に置かれたクルド人のアレヴィーをクルドの民族宗教の信者とする言説は、クルド民族主義勢力の中でもトルコ政府との対決姿勢を鮮明にしてきたPKKによって宣伝されたと言われる。そこには、「クルド=アレヴィー vs.トルコ=スンナ派」という構図を描くことで、トルコとの民族的な対決を宗教的にも裏書きしようとする意図がうかがえる。

1990年代に入ると、トルコ政府はアレヴィーの存在を「解禁」し、アレヴィーの教義・実践・歴史に関する研究や議論も活発になった。その中には、上記のトルコ民族主義的な説明のように、アレヴィーをトルコの「民族/民俗的イスラーム」と位置づける議論も見られる。こうした議論には、90年代以降の「イスラーム復興」を受けて、アレヴィーを「イスラーム化」しようとする意図があるとも読める。また、トルコ人アレヴィーの正当性を保証し、クルド人アレヴィーを排除することで、アレヴィーの分断を図っていると読むこともできるだろう。

いずれにしても、アレヴィーの教義・実践・歴史にはなお不明の部分が多く、今後の実証的で堅実な研究の進展が待たれる。それと同時に、アレヴィーという宗教的アイデンティティが、トルコ人やクルド人という民族的アイデンティティと結びつけられ、政治的な対立の中で利用され変容してきたことにも充分な注意を向ける必要がある。

(もりやま てるあき/同志社大学)

本報告の内容や意見は、執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません。