2016年の中東地域

アジ研ポリシー・ブリーフ

No.88

鈴木 均

2017年3月29日発行

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  • 11月の米大統領選の結果、中東情勢は安定化への見通しがつき難い時代に入った。
  • ロシアの中東における影響力の伸張、米国のイスラエルへの接近などブロック化の兆候。
  • 日本としてはトランプ政権の対イラン政策に引き続き注目していく必要がある。
11月の米国大統領選挙の前と後

2016年の中東地域は、少なくとも域内政治に関する限り専ら米国の大統領選挙による米国の対中東政策の変化と状況変化の方向を注視していたという側面が強いように思われる。それは少なくとも全体として極めて低調だった選挙戦の結果11月12日にドナルド・トランプが大方の予想を覆して当選し、その直後から2017年1月20日の大統領就任までに現在に至るまでの対中東政策の転換とそれに伴う主要な政治的変化が始まっているように見えることは否定できない。

もしヒラリー・クリントンが当選した場合、中東政治のその後の展開はより明確な方向性をもってある種の「安定的なシステム」に向かったことであろう。それはイランの核合意(JCPOA)に象徴されるオバマ大統領のレガシーを当初は継承しつつ、イスラエルなどとの関係改善を視野に次第にヒラリー的な色彩を強めていくという政権交代による政策変化のショックがより少ない経路であり、多くの外交的難題を抱える中東地域としては望ましい選択肢でもあったに違いない。

そこでは米国の政治的・軍事的な持続的影響力のもとで、サウジアラビア・トルコ・イランという各政治アクターが利害の調整を図りつつ、シリア問題・イラク問題・イエメン問題などの中東地域が抱える主要な課題の解決に向けた新たな動きを進めるという安定的なシナリオを思い描くことが可能であったという事ができよう。だが周知のように、トランプ政権の発足によってこうした予想はすべて覆った。

一挙に不透明感を増した中東情勢

トランプ大統領は選挙運動中から対イランの核交渉に否定的な発言を繰り返してきた。またかねて核合意に否定的な立場だったイスラエルのネタニヤフ首相との急速な接近、サウジアラビアとの連携強化など、オバマ大統領の時代とは全く異なるアプローチで中東地域における米国の立ち位置を軌道修正していこうとしているように見える。だがそれは他方では複雑を極める中東政治の現場からの米国の影響力の後退という側面を色濃く持っている。このことを何よりも物語っているのがシリア情勢におけるロシアの発言力の米大統領選直後からの顕著な増大である。

これは2016年12月のロシア軍の支援によるアレッポ陥落で当面のアサド体制継続が確実になったシリア情勢が象徴的に物語っているように、中東地域におけるロシアの影響力の顕著な伸張を一方で伴っている動きである。だが言うまでもなくロシアは中東地域において米国の覇権を代替するような存在にはなり得ない。

そこで現在の中東地域で生じている事態を要言するとすれば、それは20世紀半ばの冷戦時代にも似たある種の政治的なブロック化の進行であり、全体的な政治情勢の不安定化の中で主要な政治アクター間の合従連衡の試みが繰り返され、根本的な問題の解決は先延ばしされ続けるといういささか暗い見取り図しか得られない事になる。もう少し具体的にいえば、シリアからイラク方面におけるロシア(およびイラン)の影響力が以前よりも増大し、イランはロシア(および中国)との連携を強化する。さらにロシアはアフガニスタン方面でも(イランを梃子に)新たに影響力を強化する可能性があるだろう。

これに対して米国はイスラエル、サウジアラビアおよびGCC諸国など従来からの親米国との連携を強化し、特にイランを政治的・軍事的に包囲する方向で中東地域における覇権を維持しようとの試みを続けるであろう。だがその場合に個々の局面においてトランプ政権内の誰が主導権を握るのか(ティラソン国務長官かマティス国防長官か、或いはトランプ大統領本人か)、イスラエルの立場がどの程度反映されるのかなど、主要なファクターは現状において未だに不透明なままである。

中東政治の今後の見通しはどうなるか

ここでごく簡単にではあるが、中東域内の政治アクターごとに改めて現状を通観しておくことにしよう。まずイランに関しては米大統領選後のシリア情勢の急展開によって域内での影響力が増した一方で、トランプ大統領の登場によって米国との関係改善の可能性は当面大幅に遠のいた。経済的にはJCPOAの維持による西側との関係強化が喫緊の課題であるが、その主要な相手先であるEUもまた不安要因を抱えている。とりわけ5月のフランス大統領選の結果次第ではJCPOAの根幹が揺らぐ可能性もあり、イランの外交はあらゆる方面で正念場が続くことになる。

現在中東域内でイランの最大のライバルと目されるサウジアラビアも、厳しい状況に置かれている。ひとつは2015年3月の軍事介入以来、出口の見えない状態が続いているイエメン情勢である。また一時期は反アサド体制側に立って軍事支援を行ってきたシリア情勢もアサド体制の存続を認めるかどうかの局面になっている。さらに国内的にも副皇太子ムハンマド・ビン・サルマンの主導する経済改革にひと頃のような勢いがなくなっていることは大きな不安材料である。

エルドアン大統領が主導するトルコもまた国内的な政治基盤は盤石とは言い難い。そもそもエルドアン大統領は2016年7月の軍部によるクーデター未遂後、首相の更迭やメディアの統制などの強権的な手法で体制の維持強化を目指してきた。だがクルド人政党PKKの徹底的な弾圧や「イスラム国(IS)」攻撃によりイスタンブルをはじめ都市部での治安上の不安が増しており、外交的に中東域内での対周辺国関係を重視するのかトランプ側に乗るのか、決めかねているのが現状であると言うべきであろう。

トランプ大統領の登場で中東域内での立場が改善すると見られたイスラエルにしても、直面している現状は好材料ばかりではない。トランプ大統領が当初表明していた米国大使館のエルサレムへの移管についても当然ながらアラブ諸国からの強い反発と懸念で実現の見通しは立っておらず、パレスチナ問題の「二国家解決案」についてもトランプ大統領の発言で葬られたと判断するのは時期尚早である。

最後に「アラブの春」を経験した2011年以降国内的な混乱と経済不振に悩んできたエジプトであるが、同国はトランプ政権の登場により中東域内での政治アクターとしての地位を若干回復する可能性が出てきている。それは経済的にはスィースィー政権が漸くこぎつけたIMFとの融資合意であり、また域内政治的にはサウジおよびUAEなどの紅海方面への政治的比重のシフトである。だがこれもサウジ・エジプト間の新たな緊張の火種となる要素を内包しており、今後の展開については予断を許さない。

こうした中で特に懸念されるのは、米国トランプ政権が核武装の強化と軍事費の大幅拡大を掲げている点である。これに対しては中国が既に対抗して軍事費を拡大すると表明しているが、米国がかねて標榜している「対テロ戦争」の新たな主要な標的として将来的にイランを想定しているとすれば、中東湾岸地域における米軍基地等の新たな増強・展開と対イランの軍事的緊張、さらには核施設などの軍事目標に対する軍事攻撃の可能性も否定できないと考えるべきであろう。

その背景には38年前のイラン革命とその後の米国大使館占拠事件に由来する米国内のある種歪んだ対イラン認識と、そこを出発点にしてきた中東政策の矛盾の永年の蓄積がある。トランプ政権内において現実的な情勢判断を堅持する勢力(それは多くの場合軍事関係者という事になるだろう)の賢明な選択に期待する以外にはないというのが実相であろう。

以上の情勢分析を踏まえると、日本の政策担当者および中東に関係する企業担当者としては流動化と不安定化を深める中東情勢について日常的な情報収集・分析の精度を高めること、また特に対イラン関係で米国とは異なるアプローチで外交関係を構築してきた日本として米国トランプ政権に対し中東域内の安定化のためのイランの政治的役割の大きさと米国・イラン両国の関係改善の国際社会にとっての重要性を説き続けることが必要であることは言うまでもない。

(すずき ひとし/新領域研究センター)

本報告の内容や意見は、執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません。