ロウハーニー大統領の登場から核協議の進展へ—米国オバマ政権の対イラン外交の転換と日本—

中東レビュー

Volume 1

鈴木 均
2014年2月発行
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概 要

はじめに
2013年の11月24日にイランといわゆるP5+1(国連安全保障理事会常任理事国およびドイツ)とのあいだでの核兵器開発問題に関する協議が歴史的な第一段階の妥結に至った。その前後からイランを取り巻く情勢変化がにわかに注目を集めており、テヘランでも日本や欧米を含む外国人ビジネスマンの姿が次第に多くみられるようになってきた。

筆者はこの変化のただなかにあるイランを10月末から11月中旬にかけて訪れ、地方も含めたイラン国内の雰囲気の変化とハサン・ロウハーニー(Hasan Rouhānī、1948年生)の新政権に対する期待の高まりを肌で感じることができた。同時にP5+1との核協議が妥結に至る直前のこの時期、イラン国内のさまざまなレベルにおける期待の高まりにある種の危うさを感じたことも事実である。その後11月24日には3日間に及んだ長い交渉の末に第一段階の妥結に至り、イランの変化は国際社会のなかで一定の評価を得るに至ったのである。

いったいこの間にイランの何が変わったのか。そしてこの変化ははたして永続的な性格のものなのだろうか。本論考ではこうした疑問に対し、ある程度明確な回答を与えようとするものである。イランの変化の性質を捉えるためには、ある程度時間をさかのぼって考察する必要がある。

現在のイランの変化の起点を考えようとするとき、やはり2009年6月12日に投票が行われた第10回イラン大統領選挙後の広範な民主化要求運動(いわゆるグリーンムーブメント)を革命後のイラン政治における最大の転換点として位置づけなければならないだろう。

この時の民主化要求運動についてはイラン国内外で大きな注目を集め、その後もさまざまな論評が行われてきた 。そこでの議論の焦点のひとつは、投票日翌日に伝えられたアフマディネジャード大統領の「地滑り的な当選」が果たして当局側による票の集計操作によるものであったか否かという点であった。だがここでの考察にとってより重要なことは、この民主化運動が他ならぬ最高指導者ハーメネイーを頂点とする現在のイラン政治体制によって1979年のイラン・イスラーム革命以降で最大の存続の危機として意識されたという事実である。