論考:コートジボワール新憲法の意義をめぐって――制度的側面と政治的側面――

アフリカレポート

No.56

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論考:コートジボワール新憲法の意義をめぐって――制度的側面と政治的側面―――

■ 論考:コートジボワール新憲法の意義をめぐって――制度的側面と政治的側面―――
佐藤 章
■ 『アフリカレポート』2018年 No.56、pp.1-11
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要約

コートジボワールでは2016年10月に国民投票での承認を経て新憲法が制定された。新憲法制定は、現職のワタラ大統領が2011年の就任時から意向を示していたもので、内戦後の平和と安定という、この国が直面する課題に直結するものである。本稿では、新憲法の持つ意義について、歴代憲法と比較しての特徴と、コートジボワール政治への影響という、2点から考察を行う。これにより本稿は、コートジボワールにおける歴代の憲法改正が一定の方向性に沿った制度的改善を目指すものとして展開してきていることと、新憲法において1990年代以降の政治的・社会的対立の一要因となった「イボワール人性」をめぐる問題の解決が試みられていることを示す。さらに、2020年の次期大統領選挙に向けて与党連合内の調整が最大の政治課題となっているなか、新憲法が定める条件のもとで権力闘争が活発化している点も示す。

キーワード : コートジボワール 憲法 A・D・ワタラ G・ソロ 与党連合

はじめに

コートジボワールでは、2016年10月30日に新憲法案への賛否を問う国民投票が行われた。投票率は、前年の大統領選挙時を10ポイントあまり下回る42.4%と低迷したが、承認の要件である絶対多数をゆうに超える93.4%の賛成票が投じられ、新憲法は採択された。A・D・ワタラ(Alassane Dramane Ouattara)大統領にとって、新憲法制定は、内戦後の平和と安定という課題を背負い、2011年に正式に就任したときからの構想であり、2015年の再選時の公約でもあった。2016年はじめから新憲法作成作業に着手したワタラ大統領は、担当顧問や起草委員の人選などを自ら行い、かつ、起草委員会に対しても細部にわたり意向を示したとされる。国民投票前の国会審議では草案に一切修正が加えられなかった。新憲法は、ワタラ大統領の考えを強く反映する形で成立したものと言えるだろう。

この新憲法はコートジボワールにとってどのような新しい時代をもたらすことになるのだろうか。本稿では、新憲法でとくに注目される側面について、コートジボワールの政治史を踏まえながら考察することにしたい。構成は以下のとおりである。まず、新憲法制定に至る独立以来の政治史を整理し(第1節)、歴代憲法との比較のなかで新憲法の特徴を捉える(第2節)。次に、コートジボワール政治においてとくに重要な意義を持つ2つの領域に焦点を当てて考察を行う。ともに権力闘争と深く結びついたものであり、一つは大統領の被選挙資格に関する規定(第3節)、もう一つは、大統領職が空席になった場合の手続きに関する規定(第4節)である。最後に、今後の展望を述べる。

1.独立以来の政治と憲法の変遷

19世紀末にフランスの植民地として創設されたコートジボワールは、平和的な交渉を経て、1960年8月7日に独立を宣言した。フランス第5共和制憲法に範をとった憲法草案を国民議会が作成し、1960年11月3日に同議会で採択されたのが最初の憲法である。これを以下、第1憲法と呼ぶ1。大統領制をとり、ライシテ(laïcité、非宗教性)を守る共和国という、現在まで続く政治体制の根本原則は、この憲法のときから採用されている。

第1憲法では、「政党と政治団体は自由に結成され、活動する」ことが謳われていた(第7条)が、初代大統領のF・ウフェ=ボワニ(Félix Houphouët-Boigny、以下ウフェ)というカリスマ的な指導者のもとで、ウフェが率いるコートジボワール民主党(Parti démocratique de Côte d'Ivoire: PDCI)が国民議会の全議席を独占する体制が、独立から1990年まで、じつに30年にわたって続いた。

複数政党制にのっとった選挙は、1990年に初めて実施され、野党の国民議会議員も誕生したが、PDCIが圧倒的優位を占める体制は1999年末まで続いた。なお、ウフェは1993年末に現職のまま病死し、後継大統領には、当時国民議会議長だったH・コナン・ベディエ(Henri Konan Bédié、以下ベディエ)が憲法の規定にしたがって就任した。ただ、民主化という華々しい出来事の一方で、民主化後のコートジボワールでは、政府が野党勢力に執拗な弾圧を加え、与野党間の対立はしばしば民族的な中傷や差別の扇動にも転化した。

このような背景のもと、軍内部での路線対立により政権と軍の関係が険悪化していたことも一因となって、1999年12月に初めての軍事クーデタが発生した。ベディエ大統領は退陣して亡命し、第1憲法は軍事政権によって停止された。ただ、軍事政権は早期の民政復帰に前向きで、政党の代表者からなる委員会に新憲法案を起草させ、2000年7月23~24日に国民投票に諮った。投票率は56%にとどまったが、賛成票が86%を占めて草案は承認され、公布された。これを以下、第2憲法と呼ぶ2。新憲法に基づく大統領選挙は同年10月に実施され、民主化運動の草分け的存在である野党指導者のL・バボ(Laurent Gbagbo)が新大統領に当選し、民政移管が実現した。

しかし、それもつかの間、2002年9月に、軍事政権期に野心を募らせた下士官らが反乱軍を組織し、国土の北半分を支配下に収める事態が起こった。内戦の勃発である。早期に休戦協定が成立したが、散発的な戦闘や治安の悪化が続いた。バボ政権は権力分掌を強いられる和平に消極的であり、和平推進を求める野党を弾圧するなど、強権的な姿勢を強めていった。この結果、和平プロセスは長期化し、紛争終結を画する大統領選挙が行われたのは、当初計画された2005年から実に5年も遅れた、2010年10~11月のことだった。

この選挙で初当選を果たしたのが、現大統領のワタラである。しかし、ワタラ政権の正式発足までには当選発表から半年を要した。敗北したバボ大統領が退陣を拒み、政権に居座ったためである。この2人の対立は、武力衝突へと発展した。ワタラ側は旧反乱軍と同盟を組み、政府の治安部隊を率いるバボ側と交戦した。この戦闘の過程で、同国で活動中の国連PKOが、バボ側が民間人を攻撃していることを問題視し、駐留フランス軍と共同で、バボ側の兵器を破壊した。ワタラ側はこのタイミングを利用してバボを拘束し、その後、1カ月かけてバボ派の残党が掃討された。

これでようやく内戦は収束し、2011年5月にワタラ政権は正式に発足した。政権は、ワタラ派の政党である共和連合(Rassemblement des républicains: RDR)と、旧唯一党のPDCIとを中核とする与党連合に支えられ、2011年12月の国民議会選挙と2015年10月の大統領選挙を圧勝してきた。これはバボ派の政党であるイボワール人民戦線(Front populaire ivoirien: FPI)が、リーダーであるバボの失脚と内部対立により弱体化したことにも助けられている3。政界におけるこのような優位を計算に入れて、2016年10月の新憲法制定は計画され、実現したといえるだろう。以下、この新憲法を第3憲法と呼ぶ4

2.歴代憲法の中での新憲法の特徴

では、歴代憲法との比較のなかで、第3憲法の特徴を捉えてみよう5。歴代3憲法の共通点は、章構成をみることで簡便に確認できる(表1参照)。なお、表には直訳した章名を記載したが、本文中では適宜、各章名が指す内容に言及するかたちで記述を行う。また、以下の記述では、章が表でのどの行にあるかがわかりやすくなるよう、表での各行頭に便宜的に付したアルファベットもあわせて示す。


表1 コートジボワール歴代3憲法の章構成 (数字は当該章の条文数)

表1 コートジボワール歴代3憲法の章構成

(出所)筆者作成。
(注)最左列のA~Pは行を示す便宜的な記号である。網掛けは、先行憲法からの表現の変更ないし章の新設を意味する(ただし網掛けはP行では割愛した)。この章構成は、原典にあるとおりの順番を示したものだが、唯一の例外として、第3憲法のM行の「アフリカ諸国間の協調・協力・統合」のみ、先行憲法での章と対応させるため、便宜的に位置を変更してある(原典では、この章は、「国際的な条約と合意」の章に続く第7章に位置する)。

第1憲法を構成する章は、上から順に、国家と主権、執行権、立法権、執行権と立法権の関係、国際条約、最高院(最高位の裁判機関)、司法権、高等法院(大統領・閣僚の犯罪を裁く、国会が設置する裁判所)、経済社会委員会(諮問の役割を担う、政府、国会に次ぐ第3の国家機関)、地方公共団体、アフリカ統一、憲法改正、その他の事項となっている。

第2憲法では、基本的人権に関する章(表1ではA行の「自由、権利、義務」)とオンブズマン制度に関する章(表1ではK行の「共和国斡旋員」)が新設されているが、その他の章構成は第1憲法とほぼ一致している。第3憲法で新設された章は、伝統的首長制の代弁機関の設置に関する章(表1ではN行)のみである。歴代3憲法を通してみた場合、全体的な章構成はおおむね第1憲法のものが継承され、新しい章はごく限られていたことが確認できる。

相違点としては、基本的人権に関する条文の有無がもっとも注目される点である。第1憲法では、前文で「人および市民の権利宣言」(1789年)と世界人権宣言(1948年)への言及があるのみで、基本的人権を具体的に記した条文がほとんどなかった。これに対し、第2憲法では、28条からなる新章「自由、権利、義務」が最初の章として設けられ、さらに第3憲法では同名の章が47条にまで拡大されている。くわえて、第2憲法での「義務」が、主に国家に対する国民の義務を規定したものだったのに対し、第3憲法での「義務」は国民に対する国家の義務をもっぱら記述するものとなっており、基本的人権を重視する立場がさらに強められているといえる。

章名だけからは明示的にわからない大きな相違点は、司法関連でのものである。まず、第1憲法では司法関連の規定は簡略的であった。例えば、第1憲法での「最高院」の規定は、最高院が、憲法部、司法部、行政部、会計部からなるということしか定めておらず、詳細は法律で定めるとしていた。第1憲法の「司法権」の章も、判事の地位、司法官職高等評議会(裁判官人事の提言を行う組織)の設置、推定無罪などの、大枠での規定のみにとどまっていた。つまり、第1憲法は、司法が担当する職務やそれを担う裁判機関について、憲法のレベルでは一切具体的に規定していなかったのである。

これに対し第2憲法では、合憲性の審査を担当する裁判機関である憲法院が設置され、その地位、構成、人事、手続き、決定の効力などが憲法の条文として明示された。さらに第3憲法では、第2憲法で明記されていなかった、最高院と会計院に関する規定が盛り込まれたほか、司法官の権利・義務に関しても詳細な規定が盛り込まれた。

その他、第3憲法では、副大統領制と二院制(上院に相当する元老院の新設)という、統治機構における新しい制度が導入された。二院制の導入に伴い、二院間での審議手続きなどに関する規定も新たに憲法に盛り込まれることとなった。

総括すると、第1憲法から第3憲法に至る間に、コートジボワールの憲法は、基本的人権、幅広い代表制ないし意見表出制度(オンブズマン制度、二院制、伝統的首長制)、司法関連の各領域において、制度を充実させることが目指され、制度の機能や運用に関してもできるだけ憲法の条文として書き記すという傾向のもとで変遷してきた。また、この変遷は、近代国家としてのあり方をめぐって様々な方向性が試されるというよりは、一定の方向性に沿った制度化の動きにみえるところが特徴といえる。

3.権力闘争と憲法――大統領選挙での被選挙権――

一般に憲法は、国家の制度の権限や重要ポストについて定めており、その内容は政治家の権力闘争のあり方を強く条件付けている。コートジボワールでも例外ではなく、独立以来、憲法は、権力闘争の「ゲームのルール」として重要な役割を果たしてきた。第3憲法で改正された条文の中で、この観点からみてとりわけ重要なのが、大統領選挙での被選挙権に関する規定と、大統領職の空席時の手続きに関する規定である。本節では、まず前者について検討する。

大統領選挙での被選挙権――大統領選挙に出馬する者が満たすべき条件――に関する規定は、ベディエ大統領によって、権力闘争の道具として使い始められた。初めての大統領選挙を1995年に控えたベディエは、最大のライバルであったワタラ(現大統領)が、かつてコートジボワールの近隣諸国にも広がる版図を持った王国の末裔である点に着目し、ワタラをブルキナファソ(コートジボワールの北に隣接する国)の出身者だと決めつけ、「生粋のコートジボワール人ではない」とする中傷宣伝を大々的に行った。これとあわせてベディエ大統領は、「大統領選挙の立候補者は、生まれながらのコートジボワール人である父と母のあいだに生まれた、生まれながらのコートジボワール人でなければならない」とする規定を選挙法に盛り込んだ。この規定の趣旨は、大統領となる者に「生粋のコートジボワール人」(ivoirien de souche)としての「イボワール人性」(ivoirité)を求めることにあると説明された。また、そののちの第2憲法の起草過程では、反ワタラ派が主導権をとる動きが起こり、その結果、この規定は憲法にまで盛り込まれるに至った(第2憲法第35条第3段落)。

「イボワール人性」条項を含む大統領選挙の被選挙権規定は、ワタラを選挙から排除するうえできわめて有効な道具として機能した。それは、ワタラが「イボワール人性」条項を満たしていないからではなかった。ワタラは一貫して、自らが「イボワール人性」条項を十分に満たすと主張し、それを証明するための数々の書類(本人や両親の出生証明書など)を提出したのだが、書類の真正性が認められなかったからである。まず、ベディエ政権期の1999年5月には、国籍証の申請のためにワタラが提出した書類に偽造の疑いがあるとの容疑がかけられ、逮捕状が出された。また、ベディエ失脚後の2000年10月に軍事政権のもとで実施された大統領選挙、ならびに、成立したばかりのバボ政権のもとで2000年12月に行われた国民議会選挙では、ワタラはまたしても「書類に疑わしきところがある」と判断され、立候補申請を却下された。つまり、「イボワール人性」条項は、それに照らした一方的な疑義を特定政治家に向ける手段として運用されてきたのである。

また、この条項に体現された「イボワール人性」の思想は、ワタラ排除にとどまらない悪影響を社会にもたらした。コートジボワールは60ほどの民族からなる多民族国家である。くわえて、植民地期に始まる周辺諸国からの移民受け入れと、独立後の出生地主義に基づく国籍法の施行により、コートジボワールの領土外にルーツを持つコートジボワール国籍保持者はかなりの数にのぼる。「イボワール人性」の思想は、このような国民のルーツの多様性を否定する差別的な性格を持つものである。

実際、ベディエの反ワタラ・キャンペーンの際には、ワタラの支持基盤と目されていた北部地域の民族や近隣諸国出身者に対する差別を容認するような空気が蔓延し、民族差別や排外主義の性格が認められる事件が1990年代末にかけて多発した。2002年に勃発した内戦では、反乱軍が自らの挙兵について、北部地域の人びとに向けられる差別への異議申し立ての意図も込められていたと主張している。「イボワール人性」問題が内戦の一因にもなったことがここからもうかがえる。

幸い、「イボワール人性」の思想とそれを体現した条項の問題性は、内戦の和平プロセスにおいて国内の政治勢力に広く共有され、2003年1月に成立したマルクーシ合意では、大統領の被選挙権をよりゆるやかな規定にすることが署名全勢力で合意されていた。そして、このたび第3憲法で採用されたのは、マルクーシ合意で提言されていた条文とほぼ同じものなのである。ワタラ大統領はマルクーシ合意の署名者であったので、この条文の改正は国際公約の遵守という側面も持つこととなる。その条文は具体的には以下のとおりである。

「大統領選挙の立候補者は、市民的権利と政治的権利を享受していなければならず、かつ35歳以上でなければならない。大統領選挙の立候補者は、父もしくは母が生まれながらのコートジボワール人である、コートジボワール国籍のみを持つ者でなければならない。」(第3憲法第55条第3段落)

最大の変化として注目されるのは、条件が簡潔になったことである。実は、第2憲法での大統領の被選挙権規定は、「イボワール人性」条項のほかにも、コートジボワール国籍の放棄歴がないこと、他国籍を取得したことがないこと、選挙に先立つ一定の期間にわたるコートジボワールでの継続的・累積的な居住歴があること、年齢制限(40~70才)を満たしていること、といった多岐にわたる条件からなっていた(第2憲法第35条第2、4~6段落)。第3憲法では、これらの条件がほとんど削除され、さらに「イボワール人性」に関する箇所でも、「父と母」ではなく「父もしくは母」に緩和され、本人に関しても「生まれながらの」という条件が削除された。条件が少なくなることで、その条件の証明や認定をめぐる政治的な駆け引きを発生させる可能性を低める効果が期待できる。この点で、第3憲法の被選挙権規定は、特定政治家の排除の象徴というこれまでの性格を、かなりの程度、克服したものと言えるだろう。

もちろん、「父もしくは母」に緩和されたとはいえ、親世代について、植民地に遡り「生まれながらのコートジボワール人」であることを求める点は、証明の根拠となる民籍登記(出生証明書の届出)が必ずしも広く実施されてこなかったことを考えると、技術的な問題を残すものであることはたしかである。また、ワタラが経験したように、民籍登記の真正性に疑義が呈されるという事態は、新しい規定でも完全に排除されているとはいえない。

とはいえ、両親の出生時から本人の出生を経て立候補に至るまで、一貫してコートジボワール人であることを求めていた第2憲法の規定に濃厚に流れる「生粋のコートジボワール人」という観念が、新憲法の条文では薄まっていることはたしかであろう。被選挙権の条件を満たす人の数が、第2憲法のときよりも増えているのはおそらく間違いがない。したがって、第3憲法での規定は、「生まれながらのコートジボワール人」という血統主義的発想に立つ国民性に引き続き依拠してはいながらも、それだけを排他的に特権視する思想からの脱却は図られていると言える。新しい規定には、より幅広い国民統合のシグナルとしての意義も見いだせる。

すなわち、この条文の改正は、ワタラ問題の解決、アイデンティティを道具にした権力闘争、それによる民主的な選出機会の剥奪といった政治制度上の問題と、差別的・排外的な思想と暴力という社会統合上の問題という面において、これまでにあった諸問題の克服を目指したものだといえるだろう。

4.権力継承という難問

次に、もう一つの重要な改正点である、大統領職が空席となった時の手続きに関して考察したい。「大統領職が空席になる」とは、大統領が死亡、辞任、ないし、絶対的な職務遂行不可能に陥ったときのことを指す。この規定がなぜ重要かというと、憲法が定める2期の任期を終えて2020年に退陣予定のワタラ大統領の後任が、果たして誰になるのかという問題と深く関係しているからである。

コートジボワールの政治史において、大統領職の空席時の手続きに関する規定は、その時々の統治者がみずからの後継者についての考えを表明する手段として使われてきた。これはウフェ時代にとりわけ明瞭に見られた。独立から33年にわたった長期政権のあいだ、ウフェは、一度として自らの後継者を名指しで指名しなかった。おそらく、後継者の地位が強まり、自らが実権を喪失することへの恐れからだと考えられる。ただ、1905年生まれとされるウフェの高齢化が進むにつれ、将来の権力構造が不確定であることによる党内の動揺も深刻化したため、2度だけ暗黙の後継指名が行なわれたことがある。1975年と1990年のことである。その際に使われた手段が憲法改正であった。

手法は2度とも同じで、大統領職が空席となった時には、国民議会議長が正大統領に就任し、残り任期を務める、という規定を憲法に設けることであった。これら2回のケースとも、その時点までに国民議会議長の座に在職してきていた有力者が存在しており、憲法改正によって、その人物が後継候補として最有力視されているというシグナリングが行われるわけである。1度目のケースの該当者は、独立以来、国民議会議長とPDCI幹事長の座にあったP・ヤセ(Philippe Yacé)であったが、彼はその数年後に失脚し、大統領になることはなかった。彼の失脚とともにこの規定も削除された。2度目のケースの該当者が、1980年に弱冠36歳で国民議会議長に就任したベディエであり、彼は、1993年のウフェ死亡とともに、この憲法の規定に従って大統領に就任した。

「憲法による跡継ぎ」(le dauphin constutitionnel)と呼ばれたベディエが軍事クーデタで失脚したあとに作成された第2憲法では、大統領職の空席時には、一院制の国会(国民議会)の議長が大統領代行を務め、90日以内に大統領選挙が実施されるという規定が採用された。これは後継大統領の選出を、各政党の候補者擁立と有権者の投票に委ねる制度といえる。この制度のもとでは、統治機構の特定の職務にある者が、自動的に次の正式の大統領になるという、「憲法による跡継ぎ」が存在し得ない。現職有利の立場を利用して事実上の後継指名が行われる余地は狭められていると言える。

第3憲法では、第2憲法とは異なる制度が導入された。副大統領職が新設されることとなり、大統領職の空席時には、副大統領が正式の大統領に昇格して、残り任期を務めるという規定となったのである(第3憲法第62条)。なお、副大統領は、大統領候補と副大統領候補を一組とした立候補方式で選出されることが定められたが(同第56条)、これは次期2020年の選挙から実施されるものとし、初代の副大統領は大統領が指名するものとされた(同第179条)。ただし、この初代の副大統領については、大統領職の空位時に大統領の職務を担うとなった場合に、閣僚の任免権、国民投票への付議権、憲法改正の発議権を行使することなど、重要な権限に制約を課されている(同第180条)。

さて、コートジボワール政治において憲法改正を通して後継指名が行われてきた歴史にてらしたとき、「ワタラの次の大統領」をめぐり、この新憲法もまた重要な政治的意義を持つことが浮かび上がる。新憲法が後継問題についてどのような新しい条件を提起したかを、実際の政治の動きのなかで次に見ていくことにしたい。

まず、これまでの歴史にてらしたとき、第3憲法における副大統領職の新設が、「憲法による跡継ぎ」ポストの復活としての意味を持つことは間違いないだろう。その注目の初代副大統領に任命されたのは、PDCIではベディエ党首に次ぐナンバーツーの座にあるD・K・ダンカン(Daniel Kablan Duncan)首相であった。この人事によって、2020年の次期大統領選挙をにらんだ権力闘争の様相に、少なくとも次の2つの大きな方向性が現れつつある。

第1は、G・ソロ(Guillaume Soro)国民議会議長の政治的地位の低下である。旧反乱軍の指導者であったソロは、2010年の大統領選挙後に生じた危機の際にワタラを軍事的に支援し、バボ側に対する勝利を実現させた。2011年5月のワタラ政権正式発足後には首相(兼国防相)に抜擢され、同年12月の国民議会選挙ではRDRの公認候補となって議員に初当選を果たし、2012年4月には国民議会議長に就任した。彼の議長就任時の憲法は第2憲法であるため、ソロがワタラの「憲法による後継ぎ」となることはなかったものの、弱冠40歳で国家権力の第2のポストに就いたことは、ワタラがソロに寄せる厚遇ぶりを物語るものと理解されてきていた。

その彼が、注目の副大統領ポストに任命されず、首相に復帰することもなく、第2憲法時よりも権限が縮小された国民議会議長に留任となった(第3憲法では、国民議会議長が大統領職の空席時に代行の座につくことはなくなり、国会のトップとしての役割も元老院議長と分担することとなった)。ワタラ大統領が主要人事に大きな権限を持つことを考えると、この事態は、ワタラがソロを自らの次の後継者として考えていないというシグナリングに他ならない。実際、この後RDR党内では、「ソロ下ろし」とも呼べる動きが顕在化し始めており、ワタラもそれを放置している。「ワタラからソロへ」という権力継承のシナリオは、可能性が顕著に低下したと言える。

もう一つ注目されるのは、与党連合の結束の行方が次期選挙に向けた最大の焦点となることがはっきりしたことである。今回の副大統領人事は、ワタラの立場から見れば、PDCI重視の姿勢を示したものと解釈できる。内戦の和平プロセス下の2005年に結ばれた両党の連合は、2010年の大統領選挙でのワタラの当選を実現させた。しかし、その後の両党関係は、首相ポストや2015年の大統領選挙での候補者一本化などをめぐり、緊張の連続であった。PDCI内には独自候補の擁立を望む動きが引き続き根強いため、2020年の大統領選挙に向けて両党関係が緊張していくことは不可避である。初代副大統領ポストをPDCIに提供したことは、ワタラにとっては、まずもって同盟相手をつなぎ止める意味合いがあろう。

なお、補足すると、ワタラがPDCIとの連合を維持するのは、コートジボワール政治の三極構造のゆえである。三極をなすのはRDR、PDCI、FPIであり、一党で多数派を構成することは困難である。このため政治の駆け引きは、どれか一極の排除をめざすかたちか(例:1990年代以降のワタラ排除の動き)、二極による多数派連合をめざすかたちで展開される。現在の与党連合は後者の戦術にのっとったものである。この観点からは、副大統領ポストの創設と、大統領候補と副大統領候補を一組とする選挙制度は、二極連合による安定政権作りに整合的な制度といえる。ワタラが第3憲法に込めた思惑に、与党連合の存続があることはここからも推測できる。

また、ちなみに、ワタラは与党連合の存続を望む一方で、RDR内の自らの後継者に次の大統領ポストを与えたいという希望を持っている様子がうかがえる。具体的には、2017年に首相に就任したA・G・クリバリ(Amadou Gon Coulibaly)である。クリバリは、2017年9月のRDR党大会で第1副党首にも抜擢されるなど、ここに来て台頭著しい。この他、H・バカヨコ(Hamed Bakayoko)もまず内相を務めたのち、現在では、これまでワタラが兼任してきた国防相のポストを与えられるなど、信頼が篤いことがうかがえる。今のところワタラは、これらのRDRの次期リーダー候補を次期大統領候補として強く打ち出すことはしていないが、近い将来に与党連合内でこの問題をめぐる調整がなされることは必定である。

このように、新憲法の定める新しい条件のもとで、内戦終結時の「功労者」ソロの序列の格下げと、与党連合の結束の強調というワタラの現状認識が政治階層内部に周知させられてきている。同時に、PDCIに配分された副大統領ポスト権限が巧妙に制限されており、ワタラが自党RDRの次世代エリートたちが占める首相をはじめとする閣僚ポストの保全を図ることにも余念がないように見える点も見逃せない。結束を保ちつつ、牽制し、権限の均衡を保つ――新憲法の定める条件のもと、2020年に向けた権力闘争を統制下に置きつつ進めようというワタラの意欲がにじみ出すような政治の動きが展開しており、その行方は今後も予断を許さない。

結論

以上、本稿ではコートジボワールの新憲法に焦点を当て、そこに謳われた制度の全体的なあり方について歴代憲法との比較によって特徴を捉え、さらに、政治にもたらしうる効果と影響について、コートジボワールの政治史にてらして分析を行ってきた。新憲法制定のたびに分量が増え、多岐にわたる条項を備えるに至った第3憲法が持ちうる制度的・政治的な意義については、他にも論ずべきことがあるものの、さしあたり本稿では以下の2点を具体的に示すことができたと考える。

第1に、コートジボワールにおける憲法改正が、近代国家としての制度を整備すべく、おおむね一定の方向性のもとに蓄積的に進展してきている様子が観察されることである。第2に、大統領の被選挙権規定が改められたことは、1990年代以降のコートジボワール政治の緊張と暴力化への反省に立ち、かつ紛争の永続的解決を図ることをめざし、過去の克服に寄与する取り組みとして評価できることである。また加えて、本稿では、新憲法が新たな「ゲームのルール」となって、2020年の大統領選挙に向けた動きが活発に展開している様子も確認した。

この憲法がコートジボワールの政治にいかなる意義や変化をもたらすかは、今後もまだ注視が必要である。そもそも、新憲法がワタラ大統領の考えを強く反映したものであることは本稿でも強調してきた点だが、裏を返せばそれは、この憲法がひろく国民的な議論を踏まえて作られたものとは言いがたいということでもある。立憲主義的な憲法制定という観点からは、草案が示されてから少なくとも数ヶ月にわたる国民的な議論が必要であるとの指摘がある[Fombad 2008]。コートジボワールの新憲法は、起草委員会の草案ができあがってから、わずか2カ月弱で国民投票に付された。草案が公開されたのは国民投票のわずか2週間前である。国民投票で承認されたとはいえ、制定プロセスが徹底的にワタラ主導で進められたこの新憲法は、政治家としてのワタラの「個人技」という性質を強く持つ。この点だけをとっても、将来的にコートジボワールの国家と社会に根付いていく制度的基盤となりうるかどうかは疑問符がつく。

もちろん、1990年代以来、長きにわたり深刻な政治的・軍事的混乱を経験してきたコートジボワールにおいては、政治勢力が立場を越えて議論を交わして憲法を練り上げ、自律的な統治の原則となる制度を定着させていくという、望ましいプロセスを踏むことが即座には難しい面もある。この点を考慮すれば、統治者主導による憲法制定は現実的な選択肢であるのかもしれない。とはいえ、本来は制度によって支配されるべき状況が作り出されるべきであるのに、その状況を作り出すプロセスが制度化されていないため、必然的に統治者の個人的や資質や意向に強く規定された形での制度化が進められる――アフリカでの近代国家形成過程において広く見られる逆説的な状況がここにはある。コートジボワールでの今後の事態が、この状況にとどまり続けるのか、より多くの国民が共有する幅広い制度化へと展開していくのか、第3憲法の未来が注目される。

参考文献
  • Aggrey, A. n.d. Codes et lois de Côte d’Ivoire: La nouvelle Constitution de la Côte d’Ivoire. Abidjan: Juris-Editions.
  • du Bois de Gaudusson, Jean, Gérard Conac et Christine Desouches dir. 1997. Les constitutions africaines publiées en langue française Tome I. Paris: La documentation française, Bruxelles: Bruylant.
  • Fombad, Charles Manga 2008. "Post-1990 Constitutional Reforms in Africa: A Preliminary Assessment of the Prospects for Constitutional Governance and Constitutionalism." In The Resolution of African Conflicts: The Management of Conflict Resolution and Post-Conflict Reconstruction.ed. Alfred Nhema and Paul Tiyambe Zeleza. Addis Ababa: OSSREA, Oxford: James Currey, Athens,OH.: Ohio University Press, Pretoria: UNISA Press: 179-199.
  • Lavroff, D.-G. et G. Peiser 1961. Les constitutions africaines: l'Afrique noire francophone et Madagascar; texte et commentaire. Paris: A. Pedone.
  • République de Côte d'Ivoire 2016. Projet de loi portant constitution de la Côte d'Ivoire.
  • Wodié, Francis 1996. Institutions politiques et droit constitutionnel en Côte d'Ivoire. Abidjan: Presses universitaires de Côte d'Ivoire.

(さとう・あきら/アジア経済研究所)

脚注


  1. 法律としての正式名称は、1960年11月3日付け法律第60-356号(Loi no 60-356 du 3 novembre 1960)である。
  2. 法律としての正式名称は、2000年8月1日付け法律第2000-513号(Loi no 2000-513 du 1er août 2000)である。
  3. バボは2011年4月に、ワタラ側によって逮捕されたのち、国際刑事裁判所から出された逮捕状に基づき、オランダのハーグに移送された。現在も審理が続いている。
  4. その後に公布された法律としての正式名称は、2016年11月8日付け法律第2016-886号(Loi no 2016-886 du 8 novembre 2016)である。
  5. 歴代3憲法の全文の日本語訳は、http://www.ide.go.jp/Japanese/Research/Region/Africa/Radar/201703_ci01.html で閲覧できる。また、憲法のフランス語原典は、Aggrey[n.d.]、du Bois de Gaudusson, Conac et Desouches[1997]、Lavroff et Peiser[1961]、République de Côte d'Ivoire[2016]、Wodié[1996]を適宜参照した。