論考: コートジボワールは安定したのか——ワタラ政権下の軍事的状況の総括と展望——

アフリカレポート

No.53

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■ 論考: コートジボワールは安定したのか——ワタラ政権下の軍事的状況の総括と展望——
佐藤 章
■ 『アフリカレポート』2015年 No.53、pp.44-56
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要 約

本稿は1990年代以降続いてきたコートジボワールの不安定な状態が、2011年5月に正式発足したワタラ政権のもとで解消されたかどうかを検討する。着眼点はワタラ政権期の武装勢力の動向と、ワタラ政権の軍事的基盤をなすコートジボワール共和国軍(FRCI)とワタラの関係である。武装勢力の動向については、ワタラ政権の正式発足の時点で内戦期の軍事的対立の構図が基本的には解消され、その後もFRCI優位の軍事状況が継続していることがわかる。ワタラとFRCIの関係については、FRCI幹部の重要ポストへの登用が続いており、堅固な同盟関係が維持されていることが確認できる。しかし同時に、事態を不安定化に向かわせうる要因が今なお存在することも指摘できる。このためコートジボワールは一時期の不安定な状況をたしかに脱してはいるものの、安定化が十分に確立・制度化されるうえでは、軍の改革をはじめとする課題が解消される必要がある。
はじめに
独立以来、政治的安定が保たれてきたコートジボワールでは、1990年代以降徐々に政治の不安定化傾向が強まり、1999年12月の軍事クーデタを経て、2002年9月には反乱軍の挙兵により内戦が勃発した。国連PKOとフランス軍あわせて1万人を超える兵力が駐留するもとで和平プロセスが続けられ、2010年11月末にようやく大統領選挙の決選投票が実施されたものの、敗北を認めない現職のL・バボ(Laurent Gbagbo)と、当選を国際的に承認された挑戦者のA・D・ワタラ(Alassane Dramane Ouattara)がともに政府を樹立して対峙する状況に陥った。両者の対立は2011年3月末に軍事衝突へと発展したが、最終的にはワタラ側が勝利し、2011年5月にワタラ政権が正式に発足した。

このようにコートジボワールは、2011年5月までの11年半にわたり、武力紛争の性格を帯びた著しく不安定な状態に置かれてきた。では、現在のワタラ政権のもとでこのような状態は解消されたのだろうか。コートジボワールは今年2015年10月に大統領選挙を迎え、ワタラ大統領は再選を目指して出馬を表明している。本稿はこのタイミングを捉え、ワタラ政権のこれまでの4年あまりの任期において、コートジボワールの懸案であった不安定化の問題がどうなったかについて総括を試みる。この総括をとおして本稿では、ワタラ政権が安定・不安定という点について持つ特徴を歴史的に評価し、次期選挙での当選者——それが誰であろうとも——が直面することになる治安・安全保障面での中長期的課題を浮き彫りにしたい。

以下、第1節では、軍事的勢力の動向と武装襲撃事件の発生状況に注目して、ワタラ政権にとっての政権外部からの軍事的脅威の把握を試みる。第2節では、現在の正規軍であるコートジボワール共和国軍(Forces républicaines de Côte d’Ivoire: FRCI)とワタラとの関係について検討し、政権内部の軍事的脅威について考察する。これらの考察を踏まえ、第3節では、ワタラ政権が直面しうる今後の軍事的な脅威について展望を示す。
1. 治安・安全保障をめぐる全般的状況——政権外部の軍事的脅威——
(1)1990年代以降の軍事的勢力の動向
1960年の独立から20年にわたる経済成長期には、コートジボワールの軍は他の公務員と同様に比較的恵まれた待遇にあり、将校層は県知事などのポストに任命される機会も与えられていた。軍の厚遇は、ウフェ=ボワニ(Félix Houphouët-Boigny)初代大統領(在職1960~1993年)が主導するコートジボワール民主党(Parti démocratique de Côte d’Ivoire: PDCI)の一党支配体制を支える重要な手段だった。しかし、1980年代には経済危機を要因に給与水準の低迷やポストの減少が進み、さらに1990年の民主化以降には、待遇の悪化も背景として軍内部に野党支持者が増えていった。

ウフェ=ボワニの死にともない就任したベディエ(Henri Konan Bédié)第2代大統領(在職1993~1999年)はこのような変化の直撃を受け、1999年末に発生した待遇改善を求める兵士反乱を収拾できず崩壊した。代わって樹立された軍事政権も、待遇改善のための原資の不足と軍内部での政党支持者間の対立のため、軍が抱える問題を解決できなかった。軍事政権期に軍の司令系統は混乱を極め、本隊を離脱して徒党を組み、恐喝などの犯罪行為に手を染める兵士が現れ、軍事政権首班の暗殺未遂事件も引き起こされた。

2000年10月の民政移管選挙により、野党の草分け的存在であるイボワール人民戦線(Front populaire ivoirien: FPI)のバボが大統領に当選したが、2002年9月には、軍事政権期に軍を離脱したエリート精鋭兵らが組織した反乱軍——コートジボワール愛国運動(Mouvement patriotique de Côte d’Ivoire: MPCI)——の挙兵により内戦が勃発した。その後に挙兵した2つの反乱軍 1 をあわせた反乱軍3派は、連携してコートジボワールの北部から西部を支配下に置き、支配地域を10人の管区司令官が統治する体制を作り上げた。そののち反乱軍3派は統合して「新勢力」(Forces nouvelles: FN)という政治組織となり、MPCI幹事長のG・ソロ(Guillaume Soro)がリーダーに就任した。

2007年3月に締結されたワガドゥグ合意に基づき、バボ大統領はFNリーダーのソロを挙国一致内閣の首相に任命した。敵対関係にある政府側と反政府側による権力分掌体制の誕生である。この体制下では政府側の国防・治安部隊(Forces de défense et de sécurité: FDS)——軍、憲兵隊、警察を一括した呼称——とFNの統合参謀本部が設置されるなど、来たるべき内戦終結を見据えて軍の統合が着手された。

しかし、2010年11月末の大統領選挙の決選投票後に状況が一変した。冒頭で述べたとおり、敗北を認めない現職のバボと挑戦者のワタラがそれぞれ政府を樹立して対峙したのだったが、このときバボはそれまで権力分掌体制を取ってきたソロを首相に留任させることに失敗した。バボと袂を分かったソロにワタラが接近し、ソロはワタラが率いる政府の首相に就任した。居座りを図るバボが退陣要求デモの武力鎮圧と国連PKO 2 への挑発攻撃を繰り返したことを安保理は問題視し、人道保護目的で国連PKOが武力行使できることを再確認する決議1975が採択された。またワタラは、ソロが率いるFNを母体に自らの政府の正規軍としてコートジボワール共和国軍(FRCI)を組織し、バボ打倒のための軍事行動を開始させた。つまり、国際的に承認された当選者(ワタラ)が反乱軍(FN)を正規軍とし、もはや正当な大統領とは認められていないバボが元来の正規軍(FDS)を指揮して政権居座りを図るという、ねじれた構図がここに生まれたのである。

両陣営が最大都市アビジャンで戦闘を繰り広げた2011年4月上旬に、国連PKOがフランス軍の支援を受けてバボ側の軍事拠点に空爆を実施し、その機に乗じてFRCIがバボとその幹部らを拘束した。その後FRCIによりバボ側の武装勢力(FDS離脱者、民兵、リベリア人傭兵など)の掃討作戦が行われ、5月末頃までに全土での支配権がほぼ確立された。これにともない、元来の正規軍であるFDSは、FRCIの司令権下に置かれることとなった。

以上が1990年代からワタラ政権成立までの軍事的勢力の動向である。整理すると、コートジボワールでは兵士反乱を契機に不安定化状態が始まり、その後に軍からの離脱者を中心とする反乱軍が軍と対峙する構図で内戦が展開された。この両者の対立は反乱軍の勝利によって終結し、反乱軍が新たな正規軍になった。すなわち、ワタラ政権の正式発足の時点で、内戦勃発以来の軍事的対立の構図は基本的に解消されたのである。

(2)ワタラ政権下での治安・安全保障状況
次に、ワタラ政権下での国内の治安・安全保障の状況をみていきたい。素性不明の武装集団による襲撃事件はこれまでに数多く発生している(襲撃事件を付録に整理した)。これらの事件は犯行声明が出されないのが特徴で、政権側からはバボ派の残存勢力によるものと発表されることが多い。バボ派の政党であるFPIは政権側の発表に反発しているが、政権崩壊時に国外に逃れたバボ派が周辺諸国に兵士訓練キャンプを設置していることは、国連の専門家グループの報告書でも指摘されている 3 。このためこれらの襲撃事件は、国外のバボ派と何らかの関係を持つ、反ワタラ政権の性格を持つ行動として捉えうるものであり、政権外部にある軍事的脅威の具体的な現れと位置づけられる。

襲撃事件の大半は南西部とアビジャンならびにその近郊で発生している。南西部では主にリベリアとの国境に近い小さな村や町が標的となっており、かつてバボ側で活動していたリベリア人傭兵による略奪を主目的としたものとされる。アビジャンとその近郊では警察署や軍の哨所のほか、重要施設(発電所)が標的となっており、政権に対する挑発や破壊工作としての性格が読みとれる。

襲撃事件は2012年に頻発したが、これを受け南西部ではリベリア当局と協力して警備体制が強化された。また、アビジャンとその近郊での襲撃の拠点とされたガーナでも、当局が武器調達や資金提供などへの関与が疑われる在住コートジボワール人の取り締まりを強化した。このような協調策が貢献してか、2013年以降には襲撃事件は大きく減少した。

このようにみると、現時点では武装勢力がコートジボワール国内で持続的に活動する状況にはなく、ワタラ政権は国内で政権外部からの深刻な軍事的脅威に直面していないといってよいだろう。ワタラ政権の正式発足時に確立されたFRCI優位の軍事状況に変化はなく、治安・安全保障は一定の安定的水準で維持されてきていると評価できる。
2. FRCIとワタラの関係——政権内部の軍事的脅威——
(1)旧反乱軍FNの組織としての特徴
サハラ以南アフリカ諸国で軍事クーデタが繰り返されてきた歴史に鑑みれば、自らが指揮する軍は統治者にとってもっとも注意すべき軍事的勢力といえる。本節では、正規軍であるFRCIとワタラの関係について、FRCIの母体である旧反乱軍FNに注目して検討する。

FNの組織の特徴を理解するうえでは、ソロがリーダーとなった過程がひとつの鍵となる。そもそも、反乱兵は挙兵時に組織名を名乗っておらず、要求も兵士の待遇改善に関することが中心だった。挙兵から1週間後にようやくMPCIという組織名が宣言され、挙兵から3週間後にMPCIの幹事長を名乗るソロが表舞台に登場した。当時弱冠30歳のソロは、かつて国内最大の学生組織の委員長を務めた経歴を持つが、軍人ではなかった。挙兵からソロ登場までの時間差と、ソロ登場の前後での主張の変化(政治的な主張がなされるのはソロ登場後である)からは、軍事的手段での政権奪取に失敗した反乱兵たちが、身の安全の確保と交渉による利益確保をねらい、ソロに交渉役を依頼した経緯がみてとれる。ソロのねらいとしては、バボ政権下で問題視されていた北部人差別の問題を、和平プロセスの場を利用して解消しようとの思惑があったと考えられる 4

FN支配地の統治にあたった管区司令官は、住民への暴力や密輸への関与などがかねてから指摘されており、住民の反感を懸念して統制に乗り出したソロと一部の管区司令官の対立から内紛へと至った。最終的には2008年初め頃までに反ソロ派が排除され、FN内でのソロの統制権が確立された。ただ、ソロに忠誠を誓う管区司令官の一部にも密輸や暴力などの問題行動をとる者が引き続き存在する状況が続いた。

総合するとFNの組織には、(1)ソロの統制が基本的には貫徹されていることと、(2)管区司令官などの幹部軍人は一定の自立性を有し、私的な利益を追求する者も存在することが指摘できる。ソロは軍人たちの政治的代理人として庇護を与えることで軍人たちからの忠誠を確保し、自らの政治力の源泉としている。他方軍人たちは、ソロが果たす政治的庇護の見返りに忠誠と軍事的役務を提供する一方で、自分たちなしではソロの政治力が低下することを見越し、密輸などの活動に手を伸ばしているということになる。つまりFNは、ソロと幹部軍人たちの相互依存関係のバランスのうえに成立している組織といえる。

(2)FNとワタラの同盟の成立
次にFNとワタラの同盟関係について検討していきたい。まずソロに焦点をしぼり、ワタラとの関係について情報を整理しておく。内戦勃発前の2000年12月に実施された国民議会選挙で、ソロはワタラが率いる政党「共和連合」(Rassemblement des républicains: RDR)の候補者として立候補したが落選し、その後はRDRでの活動を行っていない。内戦勃発後には、RDRを含む主要野党4党と反乱軍3派は和平推進派の連合を形成し、またソロとワタラは歴代政権による北部人差別に反対する立場を共有していた。ワガドゥグ合意後には、前述のとおり、ソロは挙国一致内閣の首相として敵対関係にあるバボ大統領と権力分掌体制を構築したため、RDR内ではソロに対する警戒感が高まったという[Soudan et Mieu 2012]。以上の整理から、2010年11月末の大統領決選投票のときまで、ソロとワタラは重要な政治的スタンスを共有してはいたが、とくに強固な関係はなかったことがうかがえる。

したがって、ワタラとソロの同盟が形作られるうえでは、ソロとバボが袂を分かち、ワタラと組んだ決選投票後が重要な転換点だったことになる。また、のちにソロ自らが語ったところでは、ワタラの信頼を勝ちえた理由は、決選投票後に大統領ポストを横取りしようとしたバボが持ちかけてきた政治的取引を拒否したことと、FRCIで挙兵したのち自らが実権を掌握することも可能であったのにそれをしなかったことだったという 5 。この発言からは、両者の同盟関係が確立されるうえで、FRCIがワタラの正規軍としての役割に徹したことがもうひとつの重要な要因になったことがわかる。なお、FNの幹部軍人たちにとっては、元来の敵手である政府側の勢力(FDS)との戦闘を再開するということであったため、ワタラ側の正規軍として挙兵することにとくに路線上の障害はなかったと考えられる。

(3)ワタラ政権下でのFN幹部の重用
このようにして成立した同盟関係はワタラ政権下でどうなっただろうか。FN幹部の処遇に注目してみてみたい。まずソロは、正式に大統領に就任したワタラから改めて首相として指名を受けた。この人事は、ワタラのもうひとつの政権基盤である与党連合内に大きな波紋を投げかけるものだった 6 。そもそもワタラが大統領に当選するうえでは、決選投票でのワタラ支持を約束したPDCIの協力が大きな意味を持っており、PDCI内には首相ポスト待望論が存在した。ソロの首相就任はPDCIにとって強い不満をかき立てるものだった。つまりワタラは、与党連合に亀裂を入れかねない危険をおして、ソロを登用したのだった。

その後ソロは、ワタラが率いるRDRの候補者として2011年12月に実施された国民議会選挙に立候補し、当選を果たした。やり直し選挙区での再投票を経て、全選挙区の当選者が確定した2012年3月にソロは「国民議会議員としての職務に専念するため」との理由で首相辞任を申し出、ワタラがこれを了承した。これによりようやくPDCIは首相ポストを獲得したが、ソロは身を引いたわけではなく、翌月に、2000年以来国民議会議長を務めてきた元FPIのママドゥ・クリバリ(Mamadou Koulibaly)に代わって、新しい国民議会議長に選出された 7 。国民議会議長は、大統領ポストの空席時に大統領代行を務める国家の第2のポストである 8 。ワタラがソロを自らの後継者として重用している様子がここに明確にうかがえる。ソロとワタラの同盟関係はますます緊密化しているのである。

次に、FNの幹部軍人に対するワタラ政権の人事をみてみよう(表)。ワタラ政権の正式発足から間もない2011年7月に、FNのバカヨコ(Soumaila Bakayoko)参謀総長が、今やコートジボワールの正規軍となったFRCIの参謀総長に任命された。その翌月には、北西部のセゲラ(Séguéla)管区で司令官を務めたFN副参謀総長のイシアカ・ワタラ(Issiaka Ouattara)が最精鋭部隊である共和国警護隊の副司令官に、FN司令部が置かれた中部のブアケ(Bouaké)管区で司令官を務めたウスマン(Chérif Ousmane)がワタラ大統領の身辺警護を担当する大統領警護隊班のナンバーツーに抜擢された。他にも何人かの管区司令官が、重要な軍事任務に当たる部隊の責任者に任命された。

表 ワタラ政権下での主立ったFN幹部軍人の登用状況
幹部名
登用内容
FNでの主な経歴
〈2011年7月7日発令の人事〉
スマイラ・バカヨコ コートジボワール共和国軍(FRCI)参謀総長 FN参謀総長
〈2011年8月3日発令の人事〉
イシアカ・ワタラ
(通称ワタオ)
共和国警護隊副司令官 セゲラ管区司令官。FN副参謀総長
シェリフ・ウスマン 大統領警護班副司令官 ブアケ管区司令官。2011年3月末からのアビジャン・ヨプゴン地区の掃討作戦を指揮
クアク・フォフィエ コロゴ(Korhogo)地区司令官 コロゴ(Korhogo)管区司令官。2006年以来、国連の制裁対象。自宅軟禁に置かれたバボの警備を担当
ロッセニ・フォファナ 特殊部隊副司令官 マン(Man)管区司令官。2011年3月のドゥエクエ占領作戦を指揮
ウスマン・クリバリ 特殊部隊ヨプゴン地区統括 オジェンネ(Odienné)管区司令官。2011年3月末からのアビジャン・ヨプゴン地区の掃討作戦を指揮
〈2012年9月26日発令の人事〉
ウスマン・クリバリ サンペドロ(San Pedro)知事 (上記を参照)
テュオ・フォジェ ボンドゥク(Bondoukou)駐在ザンザン・レジオン知事 FNの警察・憲兵部門のトップ。挙国一致内閣で青年・公共役務相。FRCIの恐喝撲滅担当
コネ・マサンバ ギグロ(Guiglo)駐在モワイエンカヴァリー・レジオン知事 FNの準軍事部門の長
    出所:Airault[2011]、Duhem[2013; 2014]、Jeune afrique[2012]、Mieu[2009]に基づき、筆者作成。

FNの幹部軍人が登用されたのは軍のポストだけではない。2012年9月の人事発令では、すでに2011年8月の人事で登用されていたウスマン・クリバリのほか、FN司令部で要職にあった2人の軍人が知事に任命された。これら3人が配属された地域はいずれも経済や治安・安全保障面で重要な位置を占める 9 。ワタラがFNの幹部軍人を重要ポストに抜擢し、重用している様子がこれらの人事からうかがえる。

このようにワタラがFRCIの母体をなすFNの幹部らを手厚く処遇し、FN幹部もこれに応えて政権存続に関与している実態を踏まえると、ワタラとFRCIのあいだの同盟関係は総じて安定的に維持されており、FRCIがワタラ政権にとって軍事的脅威となる可能性はいまのところ低いと考えてよいと思われる。
3. ワタラ政権にとっての今後の脅威
では治安・安全保障に関してワタラ政権が今後直面する可能性がある脅威にはどのようなものがあるだろうか。ここでは、(1)バボ派の動向、(2)政界再編との関係、(3)FN幹部軍人の規律の問題、(4)兵士の待遇への不満、の4点を指摘したい。

(1)バボ派の動向
2011年4月のバボ政権の崩壊に前後して数多くのバボ派の要人が国外に逃亡した。ワタラ政権の呼びかけに応じて早期に帰国した者がいる一方、帰国後の逮捕や懲罰を懸念して、資金などの面で問題を抱えながらも国外生活を続ける者は多い 10 。ワタラ政権はとくに重要な人物については国際指名手配を発出している。その結果として、2012年6月にはリダ・クアッシ(Moise Lida Kouassi)元国防相がトーゴから、2013年1月には、扇情的な演説で「街頭の将軍」の異名をとったブレ=グデ(Charles Blé Goudé)がガーナから、コートジボワールに身柄を引き渡された。ただ、滞在先国の政府がつねに身柄引き渡しに応じるわけではない。2012年8月には、カティナン(Justin Koné Katinan)元財政担当相・報道官がガーナ当局によって逮捕されたが、カティナンが難民認定を受けていたため身柄引き渡しは行われなかった。コートジボワール当局が強い不満を表明したことで両国関係は一時険悪化した。この一件は、ワタラ政権が国外のバボ派に神経をとがらせていることをまざまざと示すものであった。

国外のバボ派がコートジボワールで起こった武装襲撃事件に実際に関与した証拠が明らかにされているわけではないが 11 、国連専門家グループの報告書でバボ派の訓練キャンプの存在が指摘され、襲撃事件が現実に発生している。司令系統は不明ながらも何らかの武装勢力が存在するとみてよい状況があり、かつ、こういった勢力に対する大々的な摘発や掃討作戦は現在までのところ行われていない。このことを踏まえると、今後も散発的な武装行動が発生する可能性は皆無ではないだろう。

(2)政界再編との関係
政治面でコートジボワールの安定を大きく揺るがしかねない事態として想定されるのが、与党連合の解消問題である。与党連合第2党のPDCI内ではワタラへの不満がくすぶっている。ワタラ政権正式発足から1年近くもPDCIが首相ポストを獲得できなかったことは前述した。ワタラがソロを後継者として重用している現実があり、このままRDRとの連合を続けてもPDCIが大統領ポストを得る見込みが立たないことにその不満は由来している。PDCIのベディエ党首(元大統領)は、次期大統領選挙における与党連合の大統領候補をワタラに一本化することに同意しており、党内にもその考えに従うよう呼びかけている 12 。これに対し党内からは、独自候補の擁立を求める声があり、実際に何人かの幹部が立候補の意思を表明している。

コートジボワールの政党制では3大政党(RDR、PDCI、FPI)がほぼ同じ規模の支持基盤を持つため、一党で政権を安定的に維持するのは難しい。したがって、PDCIが与党連合から離脱した場合には、ワタラは政権維持のうえで苦境に立つことが予想される。そうなった場合、政治的基盤の弱体化を補うため、ワタラ政権がFRCIへの依存を強め、強権化していく可能性がある。政界再編は政治情勢の不安定化、軍事化と無関係ではない。

(3)FN幹部軍人の規律の問題
FNの一部の幹部軍人に対して、人権侵害と違法取引への関与という観点から国際的な批判がなされている。選挙後危機の過程では3000人あまりが殺害されたといわれており、なかでも2011年3月末の南西部の都市ドゥエクエ(Duékoué)での戦闘と、同年4~5月のアビジャンでのバボ派掃討作戦において多数の死者が発生した。この過程でFRCIが民間人に対する人権侵害を行ったとされ 13 、表に示したFN幹部軍人の一部が国際人権団体から名指しで批判されている 14 。違法取引については、2013年4月に国連専門家グループの報告書でFNの管区司令官らが大規模な密輸に関与していると指摘されている 15 。2014年4月には同じ専門家グループの別の報告書で、イシアカ・ワタラが管区司令官を務めていたセゲラでダイヤモンドの違法採掘・輸出が行われていたと指摘された 16

これらのFN幹部軍人に対して取り調べも処罰もなされていないのとは対照的に、バボ派の軍人に対しては逮捕や裁判が進められていることから、「勝者の裁き」だとの批判がワタラ政権に向けられてきた。こういった批判に対しワタラは犯罪行為を処罰すると明言しているが、具体的な進展は乏しい。注目される動きとして、2014年4月の国連専門家グループ報告書で言及されたイシアカ・ワタラが、兼任していた複数の軍のポストから解任され、2014年8月にモロッコでの研修に送り出されたということがあった。この人事はワタラ政権が一定の対応をとったものとも解釈できるが、本格的な綱紀粛正の口火を切るものであるのかははっきりしない。ワタラ政権にとってFRCIが政権誕生の功労者で重要な政権基盤であることに変わりはなく、その中核をなすFNを弱体化させかねない思い切った綱紀粛正策をとることは困難だと考えられるからである。

また綱紀粛正の取り組みは、混乱を惹き起こしかねない危険もともなう。イシアカ・ワタラの解任時には彼に従う軍人たちが基地にバリケードを築き、解任人事を伝達しにきた将軍の入構を妨害する事件が起こった。FNの幹部軍人は一定の自立性を有してきた存在であるため、意に沿わない介入に対して軍事的行動で応戦する危険がつねに存在する。綱紀粛正に反発する軍人がワタラに敵対するという展開は、ワタラ政権が直面しうる軍事的脅威のひとつとして想定される。

(4)兵士の待遇への不満
もっとも現実的な脅威として浮上しているのが、待遇に不満を持つ兵士の反乱である。2014年11月には、旧FN兵士らが中心となり、給与遅配に抗議するデモが全国各地で発生した。ワタラ政権の対応は早く、内相が給与遅配への対応を約束し、遅配分の給与や諸手当(旅行手当・食事手当)を12月末までに支払うことと、兵長クラスの8400人を対象に2015年1月から住宅借り上げを開始することが決定された。給与問題に関して大統領はさらに、国防担当大臣と軍の代表者が協議し、国家安全保障委員会に提出する提案を作成するよう指示した。兵長への訓練と昇給に関してはFRCIの最高司令部が別途案を作成することとなった。さしあたり、抗議デモは早期に沈静化した。

コートジボワールにおいて兵士反乱は1990年代以降多発してきた歴史があり、その背景にある待遇の悪さは現在なお解消されていない慢性的な問題である。くわえて、内戦期にFNとFDS双方が兵士の増員を大々的に行ったことで兵員の規模は膨れあがっており、待遇の悪化は1990年代よりも深刻化しているともいえる。今回のような抗議行動が一過性のものに終わるとはかぎらない。

兵士反乱がもたらす悪影響は大きく2つある。第1は兵士の政権不信により軍の司令系統が乱れることで、第2は軍に対する国民からの信頼の低下である。FRCI兵士の規律が十分でないことから、すでに住民とのあいだのトラブルが多発している現状があり、このようななかで大規模な兵士反乱が起これば、待遇の悪さに直面する兵士への共感よりは、むしろ混乱を惹き起こすことへの嫌悪感が持たれる可能性の方が高い。とりわけ、FRCI参戦によって政権を追われたバボの支持者のあいだでは、FRCI兵士に対する目は厳しい。兵士の待遇問題は、ワタラ政権の軍事的基盤をなすFRCIの内部統制と国民からの信頼獲得の要をなす問題といってよく、政権にとっては喫緊の対応が求められるもっとも深刻な軍事的脅威といえるだろう。
結論
本稿の冒頭において、1990年代以降続いた不安定化状況がワタラ政権下で解消されたかどうか、言い換えれば、コートジボワールの懸案であった不安定化の問題がどうなったかという問いを掲げた。本稿での検討をとおして、ワタラ政権下では内戦勃発以来の軍事的対立の構図は基本的に解消されており、FRCI優位の軍事状況のもとで、いくつかの問題は存在するにせよ、治安・安全保障の状態は一定の水準で現在まで維持されてきていることが確認された。ただし同時に、このような治安・安全保障の状態を脅かす可能性があることとして、バボ派による散発的な軍事行動、ワタラ政権の強権化、FN幹部軍人の反発、FRCI兵士のあいだに広がる待遇への不満があることも確認された。したがって、本稿標題に掲げた「コートジボワールは安定したのか」という問いへの回答をいえば、コートジボワールは一時期の不安定状態を脱したという意味では安定化したといいうるものの、事態を不安定化に向かわせる要因が複数存在していることが認められるため、安定化は十分に確立されたり、制度化されたりしているものではないと結論できる。

本稿ではまた中長期的視点からの展望を行うことをねらいとして掲げ、その際の着眼点として第1にワタラ政権の歴史的評価と、第2に次期政権にとっての治安・安全保障面での課題を挙げた。これらの2点について、本稿での検討から次のことがいえる。まず第1の点についてだが、ワタラ政権がコートジボワールの安定・安定化状況に照らして持つ歴史的意義は、軍の再統一を結果的に後押ししたことに認められる。1990年代以降のコートジボワールの不安定化は、待遇への不満、政党支持、軍事政権期の混乱などによって軍内部の司令系統が破壊され、軍が結果的に分裂したことによってもたらされてきた。2011年3月から5月にかけてのFRCIの軍事行動により、FRCIは他の軍事的勢力を制圧して一元的な軍事的秩序を再確立することになった。ここで重要なのは、このようなFRCIの軍事的成果は、たんにFRCIの軍事力のみによって実現されたわけではなく、ワタラという国際的に当選を認められた大統領の正統性に則ることではじめて実現されえたということである。FRCIがワタラと組まずに単独で軍事的支配を確立した場合には、軍事政権の成立を認めない現在のアフリカ連合の規範においては、長期間にわたって政権を維持することは不可能だったであろう。軍の再統一という結果がもたらされるうえでは、ワタラとFNのあいだに同盟が結ばれたことが核心的に重要であったことがここからも確認される。

とはいえ、かくして実現された軍の再統一は、ワタラ、ソロ、FNの幹部軍人らといった特定個人間の関係に強く依存した、きわめて属人的で政治的なものである。現在のFRCIは、1990年代以降に軍内部で進行した政党支持者間の対立には一定の決着がついた状態にあるといえるが、軍が引き続ききわめて政治的な存在であるという点では、1990年代と変わりがない。このことは、中長期的展望の第2の着眼点として挙げた、次期政権にとっての治安・安全保障面での課題に深く関わる。ワタラならびにその後継者と目されるソロが政権の座にあるあいだは、FRCIが政権との同盟関係を維持しようとするとの想定が成り立つ。しかし、ワタラないしソロが政権の座を手放すような事態となった場合、新たに政権の座に就いた者はFRCIとの関係構築という困難な課題に直面せざるをえないだろう。コートジボワールの治安・安全保障状況がもっとも不安定化しかねないのはこのシナリオにおいてである。したがって、中長期的には、だれが政権の座に就こうとも一貫して政府に忠誠を誓う軍としてFRCIが確立されるかどうかが、コートジボワールの安定の鍵を握るといえる。この意味でワタラ政権は、軍の再建という1990年代から続く歴史的懸案に直面しているのであり、現在までに実現されている一定水準の安定をさらに堅固なものとしていく手腕が問われているといえるだろう。
参考文献
〈国連文書〉
  • A/HRC/17/48.
  • S/2012/766.
  • S/2013/228.
  • S/2014/266.
〈外国語文献〉
脚 注
  1. それぞれ全西部イボワール人民運動(Mouvement populaire ivoirien du Grand Ouest: MPIGO)と正義平和運動(Mouvement pour la justice et la paix: MJP)という組織名を名乗った。
  2. 国連PKOである国連コートジボワール活動(United Nations Operation in Côte d’Ivoire: UNOCI)は2004年4月に発足した。最大時でおよそ8000人の軍事要員を擁し、国連憲章第7章に基づく強制行動の権限を付与されていた。
  3. コートジボワールに対しては安保理決議1572(2004年)などに基づき制裁措置(武器禁輸、旅行制限、資産凍結など)が課されている。制裁委員会が設置したモニタリングのための専門家グループが定期的に報告を行っている。同専門家グループの報告書(S/2012/766)は、国外に逃亡したバボ派が軍事行動を組織し資金供給を行っているとする指摘があることに言及し、ガーナ領内が重要拠点になっていることやリベリア領内に兵士の訓練キャンプがあるなどとした情報を記載している。
  4. コートジボワールでは1990年代なかばから、「イボワール人性」(ivoirité)という概念を唱える政治扇動が歴代政権によって盛んになされ、北部出身者が「“生粋のイボワール人”ではない」と決めつけられ、暴力や差別の対象となってきた。この扇動は北部出身者であるワタラへの政治的圧力の性格も持つ。ソロも北部出身者であり、自らが反乱軍に加わった理由が北部人差別をやめさせることにあったと述べている[Soro 2005]。
  5. インタビューでソロが語った内容だとしてSoudan et Mieu[2012]に記されている。
  6. RDR、PDCI、そのほかの2つの小政党によって2005年に結成された選挙協力組織「民主主義と平和のためのウフェ主義者連合」(Rassemblement des houphouëtistes pour la démocratie et la paix : RHDP)が現在の与党連合の母体である。
  7. M・クリバリはバボの政党FPIで副党首を務めた有力政治家で、FPIが第1党となった2000年の国民議会選挙後に議長に就任していた。国民議会の本来の任期は5年だが、内戦勃発にともない、国際的合意に基づき特例的に任期が延長されてきていた。もともとバボと距離を置く態度をとりがちであったM・クリバリは、2011年4月のバボ逮捕後にFPI党内のバボ忠誠派の支持を失い離党を余儀なくされ、新党を結成して臨んだ2011年12月の国民議会選挙でも惨敗し、政治的影響力を大きく低下させていた。
  8. 同国憲法では、死亡や辞任などで大統領ポストが空席になった場合、国民議会議長が大統領代行を務め、45~90日以内に新大統領を選出する選挙を実施する。大統領代行は、首相の任命、組閣、国民投票の発議などの権限を持たないなど一定の権限を制約されているが、大統領代行が大統領選挙に出馬することを禁ずる規定は現行憲法にはない。
  9. サンペドロ(San Pedro)は同国第2の港を擁する都市で、南西部の最重要拠点である。ザンザン(Zanzan)・レジオン——レジオン(région)は最上位の地方行政区分——は北東部に位置し、ガーナとの国境地帯にあたる。モワイエンカヴァリー(Moyen-Cavally)・レジオンは南西部でもっとも治安が悪化している都市のひとつであるギグロが位置する。
  10. バボ政権で経済財務相を務めたボフン・ブアブレ(Antoine Bohoun Bouabré)が2012年1月にイスラエルで病死したが、資金不足で十分な治療を受けていなかったと囁かれた。
  11. 2012年6月に国営テレビでの特別番組でワタラ政権の内相が、バボ派の軍事部門が存在すると指摘し、メンバー名とともに、彼らがクーデタ宣言用に用意していたとされる映像を放映した。この番組に関してはRihouay[2012]を参照。ただ政権側の発表以外の裏付け情報はなく、信憑性の評価は難しい。
  12. 2014年9月にワタラ大統領は、全閣僚とソロ国民議会議長を帯同してベディエの生地ダウクロ(Daoukro)を表敬訪問し、その際の直接会談後にベディエが党内に諮ることなくこの呼びかけを行った。PDCI内での不満には決定手続きへの反発も一因にある。
  13. 2011年3月末にドゥエクエではバボ側(FDSと民兵)とFRCIが激しい戦闘を行い、民間人を含め1000人近くが殺害されたとされる[EIU 2011, 11]。国連人権委員会が設立した独立調査委員会の報告書(A/HRC/17/48)では、FRCIがドゥエクエでバボ側に好意的とみなされた人びとに様々な強要を行ったことや、FDSに所属しているとみなされた人びとを処刑したとの言及がある(第64~65段落)。アビジャンでのバボ派掃討作戦に関して同報告書は、FRCIがバボ派の民兵や情報提供者だと疑った人物に恣意的な拘留、拷問、非人道的な扱いなどを行ったとする証言を得たと記している(第57段落)。
  14. HRW[2011, 106-107]は選挙後危機の際になされた人権侵害について、ワタラ側で鍵となった人物として、ウスマン、フォファナ、ウスマン・クリバリの名前を挙げている。
  15. 2013年4月の国連専門家グループ報告書(S/2013/228)は、FN司令官たちが「ウォーロード型の略奪的経済活動」をやめないまま正規軍に組み込まれたとし、密輸による資金調達と武器の密輸出入を行うネットワークが引き続き機能していると指摘している。
  16. 詳細は同報告書(S/2014/266)の31~33ページに記載がある。この報告書でのイシアカ・ワタラに関する記述についてはDuhem[2014]が要点をまとめている。
付録 素性不明の武装集団による襲撃事件(採録対象期間:2011年6月~2015年4月)
地域
概要
2011 9 南西部 17日に南西部の都市タイ(Taï)近くのニグレ(Nigre)村で、略奪目的の武装襲撃があり、10人が殺害される。
11 南西部 ペレジ(Pelezi)とバヘ・セボン(Bahe Sebon)の町での襲撃事件により、2人が殺害。
2012 4 南西部 24日から25日にかけてサクレ(Sakré)村に武装集団の攻撃があり、少なくとも6人が死亡。軍は略奪目的と発表。4人の襲撃者を逮捕。
6 南西部 8日にタイ南方の複数の村で、国連PKOのニジェール兵7人を含む19人が殺害される。
南西部 11日から12日にかけて、タイ南部のティエロ・ウラ(Tiero-Oula)村とシエブロ・ウラ(Sieblo-Oula)村で少なくとも4人が殺害。
7 南西部 19日から20日にかけて、ドゥエクエ(Duékoué)で4人が殺害され、住民がFRCI兵士らを引き連れて、近在のニャンブリー(Niambly)難民キャンプに報復攻撃を行う。
8 アビジャン 5日にヨプゴン(Yopougon)地区第17区の警察署を武装集団が襲撃。FRCIの兵士少なくとも3人が死亡。
アビジャン 6日にFRCIのアクエド(Akouédo)基地に対する武装集団の攻撃。2時間にわたる銃撃戦のすえ、兵士6人と襲撃者1人が死亡。
アビジャン近郊 8日にアビジャンから北に80kmのアボボ(Agbobo)軍哨所が襲撃をうけ2人が負傷。
南西部 13日にペヘカンブリー(Pehekambly)の軍哨所が襲撃を受け、FRCI兵士少なくとも1人が死亡。
南西部 13日のバクブリー(Bakoubly)への襲撃でFRCI兵士1人が負傷。
アビジャン近郊 15日から16日にかけて、アビジャン近郊の都市ダブー(Dabou)で、FRCIの拠点、警察署、憲兵隊、拘置所に襲撃。5人が死亡。
アビジャン近郊 25日にアビジャンから西に80kmのイロボ(Irobo)の検問所で銃撃戦があり少なくとも4人が死亡。
10 南西部 11日にドゥエクエで6人が殺害され、埋められているのが発見。
アビジャン 14日に発電所を素性不明の武装集団が襲撃。
12 アビジャン近郊 15日から16日にかけて、アビジャン北方のアボヴィル(Agboville)で武装攻撃があり、FRCI兵士2人が死亡。
アビジャン 21日にヨプゴン地区の警察署に対して襲撃。拘置者1人が死亡。憲兵隊員1人が負傷し、何台かの車両が焼き討ちされた。
アビジャン近郊 21日にアビジャンから北に100kmのアバウ(Agbaou)にある軍の検問所に対して攻撃。兵士2人が負傷。
2013 3 南西部 14日にジレブリー(Zilebly)村で武装集団の襲撃があり、少なくとも6人が死亡。うち2人はFRCI兵士。
9 中部 14日に首都ヤムスクロ(Yamoussoukro)で武装集団による2件の待ち伏せ攻撃があり、治安部隊の隊員3人が殺害された。
2014 5 南西部 15日にリベリア側から武装勢力が侵入。略奪と村落の焼き討ちを行う。軍が撃退。
2015 1 南西部 10日にグラボ(Grabo)の哨所を20人ほどの素性不明の集団が襲撃。同じ日にダーヨケ(Dahyoke)村の哨所にも襲撃があり、3人が死亡。
   (出所) Africa Research Bulletin: Political, Social and Cultural Series の記事に基づき筆者が集計。

(さとう・あきら/アジア経済研究所)