サラフィー主義の発展とその性質・政策 -サウジアラビアにおけるワッハーブ派との関係を中心に-

政策提言研究

福田 安志
2012年7月

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1.はじめに
昨年から今年にかけて行われたエジプトの議会選挙では、ムスリム同胞団系の自由公正党など、イスラーム主義勢力の傘下にある政党が多数の議席を獲得した。なかでも注目されたのが、サラフィーと呼ばれる厳格派イスラーム主義者の政党「ヌール党」が下院にあたる人民議会で総議席の25%、上院にあたるシューラー議会では選挙で選ばれる議席の26%の議席を得たことである。サラフィー系の勢力は、ムスリム同胞団系の勢力とともに、チュニジアをはじめとしたその他のアラブ諸国でも影響力を強めている。

エジプトやチュニジア、イエメンなど「アラブの春」で政権が倒れた国や、そしてモロッコなどでも、サラフィー主義者の活動が急速に強まっている。クウェートやレバノンなどでは古くからサラフィー主義者が存在していた。エジプトやチュニジアなどでもサラフィー主義者は以前より存在していたが、ムバーラク大統領などの旧政権の下でその活動は抑え込まれていた。しかし、旧政権の転覆で政府当局による監視・抑制の重石が取れ、同時に生まれた真空に近い権力状態の中で、サラフィー主義者は活動を強め社会の前面に出るようになり、政治の分野でも急速に存在感を増してきたのである。

サラフィーについては様々な情報があるものの、それらの情報はバラバラで、しかも相互に矛盾している情報もあり、サラフィーがどのようなものか理解することが難しい。サラフィーの発生についてはサウジアラビアのワッハーブ派と関連付けられることが多いが、本稿では、サウジアラビアのワッハーブ派を中心にして、サラフィーについてのこれまでの情報を整理しながら、サラフィーの発展とその性質や政策などについて検討してみたい。ムスリム同胞団との関係や相違などについても触れながら検討するが、サラフィーについての理解を進めることができれば幸いである。
2.サラフィーとムスリム同胞団
現代のエジプトやチュニジアなどでは、報道などでサラフィーとムスリム同胞団は別のものとして取り扱われている。どちらもイスラーム主義に基づく宗教・政治勢力であるが、主義主張はそれぞれに異なり、別の組織・勢力として存在しているのである。

例えば、エジプトでは、ムスリム同胞団は自由公正党を傘下に持ち、一方で、サラフィー主義者はヌール党を持ち、議会選挙ではお互いがつばぜり合いを繰り広げてきた。5月の大統領選挙の第1次投票でも、ムスリム同胞団とサラフィー主義者はそれぞれ別の候補を推して争った。チュニジアでも、サラフィー系の運動は、ムスリム同胞団系のナフダ党とは別の宗教・政治勢力として存在してきた。今年5月には、チュニジアのサラフィー系勢力は政党(Reform Front)の結成を認められ、政治面でも独自の動きを強めている。

このように、現代のアラブ諸国では、ムスリム同胞団とサラフィー主義者は、それぞれ別の宗教・政治勢力として存在しているのである。しかし、研究書などではムスリム同胞団もサラフィーの一部として取り扱われることが多く、サラフィーとムスリム同胞団との間の線引きを困難にし、サラフィーについての混乱を招く原因となっている。

研究者が用いるイスラームについての辞書や文献の中では、サラフィーとは、18世紀のサウジアラビアで興ったワッハーブ派などを出発点とし、19世紀の後半以降には、エジプトを中心にしてイスラーム改革主義として展開され発展したなどと説明されている。19世紀後半から20世紀にかけて活躍した改革派の思想家・活動家であるアフガーニー、ムハンマド・アブドゥ、カワーキビー、そしてラシード・リダーと関連付けて説明されることも多い。また、エジプトでのムスリム同胞団の設立(1928年)で、サラフィー主義ははじめて組織を持ち、知識人の議論のレベルから降りて大衆の間に広まるようになると説明されている(“Encyclopedia of Islam”, E.J.Brill、『イスラーム辞典』岩波書店、『新イスラム事典』平凡社などを参考)

このように、辞書や研究書の中ではムスリム同胞団もサラフィーの一部として取り扱われている。広い意味でのサラフィーとは、サラフ(祖先、イスラーム初期)の時代、つまりイスラームの原点に立ち返りイスラームの再生を図ろうとする改革の動きであり、その流れの中からムスリム同胞団が生まれたことを見るならば、ムスリム同胞団をサラフィーの中に含めることは了解されよう。

しかし、前に述べたように、現代のエジプトなどでは、ムスリム同胞団と区別した別のイスラーム主義の潮流を示す用語としてサラフィーが使われ、明らかに、サラフィーとムスリム同胞団は別のものとして扱われている。本稿では、とりあえず、「現代のサラフィー」をムスリム同胞団とは区別して扱い、いわば狭義のサラフィーとし、両者を別のものとして検討を進めることとしたい。

3.ワッハーブ派とサラフィー
エジプトなどにおける現代のサラフィーの起源については諸説がありよくわかっていないが、サウジアラビアのワッハーブ派の影響を受けたとされることが多い。不明な部分もあるものの、現代のサラフィーの発生にサウジアラビアのワッハーブ派がかかわっていたのは間違いがないと思われる。

それでは、そのサウジアラビアでのワッハーブ派とサラフィーの関係はどのようになっていたのであろうか。少し歴史をさかのぼってみてみよう。

サウジアラビアはワッハーブ派とサウード家との協力関係で作られた王朝国家である。王朝の出発点は18世紀半ばに、ワッハーブ派の
創始者ムハンマド・ブン・アブドルワッハーブと、ナジュド地方(リヤードなどのあるアラビア半島中央部地方)の一豪族であったサウード家との間で協力関係が成立し、盟約が結ばれたことに始まる。以後、サウード家とワッハーブ派は協力して支配領域を拡大しサウード朝(第1次サウード朝、1744/45-1818年)が確立された。サウード朝は途中2回の中断を経た後、1902年にアブドル・アジーズ(後の初代国王)の手で再興され(第3次サウード朝)、1932年に国名をサウジアラビア王国と改めて今日に至っている。盟約により、ワッハーブ派はサウード朝の国教となった。王国となった現在でも、国家とワッハーブ派の結びつきは維持され、ワッハーブ派の支配的宗派としての位置は続いている。国民の多くはワッハーブ派に属している。

ワッハーブ派は、18世紀前半にハンバル派(スンニー派4大法学派の一つ、初期イスラームを重視)の影響を受けたスンニー派イスラームの改革運動として始まった。そのワッハーブ派は、コーランとスンナを重視し、つまり初期イスラームの教えを原点として重視し、シーア派を否定し、聖者崇拝・スーフィズムはじめとした後の時代にイスラーム社会に付け加えられたもの(ビドア)を排し、イスラーム本来の姿を厳格に守ろうとする立場をとった。その厳格な姿勢は、イスラームの下で社会を律しようとする非寛容な態度と、シーア派などに対する非寛容で排他的な性格にもつながっている。

サラフ(イスラーム初期)の時代のイスラームの姿を模範とし重視したその姿勢から、18世紀に興ったワッハーブ派は近代のサラフィー主義の出発点とされている。ワッハーブ派の主張や行動には今日のサラフィー主義者と共通する点も多く、ワッハーブ派は今日のサラフィー主義の原型となったと見ることができよう。

また、とくに敬虔なワッハーブ派信徒の間では、預言者ムハンマドにならい顎鬚をのばし、伝統的服装を独特な形で着用し(頭布を押える輪飾りを使用せず、服装の裾丈を短くするなど華美を排した服装を好む)、歌舞音曲や華美なものを避けようとする者たちがしばしば見られるが、その生活態度の傾向は、現代の各国のサラフィー主義者にも大きな影響を与え、同じような生活態度をとる者も多い。

サウジアラビアは、メッカ、メディナの2聖地があり、世界中から多くの巡礼者が集まり、イスラーム関係の国際機関も多数本部を置いているなど、イスラームの中心地となっている国である。ワッハーブ派は、長い年月にわたりサウード朝・サウジアラビア王国の支配的宗派として存在し、巡礼など聖地の存在を通した人の交流、国内のイスラーム大学での教学を通した人や知識の交流、サウジ人聖職者によるメディアや文献などを通した情報発信(現代は衛星テレビやインターネットでの説教など)、各国のイスラーム教徒への支援などにより、イスラーム世界各地に広く影響を与えてきたのである。

サウジアラビアが産油国で経済力があったことも、その影響力をいっそう強めたのである。また、アラブ諸国をはじめ世界中からきた何百万人もの出稼ぎ者(サウジアラビアでの現在の出稼ぎ外国人数は約900万人)を通した影響も、無視できない。様々な形でワッハーブ派の影響が及び、その影響の中でサラフィー主義が生まれた国も多いのである。

4.ワッハーブ派/サラフィーと政治への関与
各国のサラフィー主義者の動きを見ると、以前は、サラフィー主義者が政治にかかわることは少なかった。ワッハーブ派の影響は宗教的・精神的なものが中心であったためであろう。ワッハーブ派も、歴史的に見ると、政治とのかかわりを避けており、そうしたワッハーブ派の態度も各国のサラフィー主義者へ影響したものと考えられる。

ワッハーブ派が政治へのかかわりを避けたのは、18世紀半ばのワッハーブ派とサウード家の盟約に由来する。盟約に際して、サウード家の当主のムハンマド・ブン・サウードは、迫害を受けてサウード家の下に逃げてきたムハンマド・ブン・アブドルワッハーブを保護することを約束した。それに対しアブドルワッハーブは、ムハンマド・ブン・サウードが不信心者たちへのジハードを行うのならば、「あなた(ムハンマド・ブン・サウード)はイマームに、つまりイスラーム共同体の指導者になり、宗教に関する事柄では私(アブドルワッハーブ)が指導者になる」と述べたといわれる(Al-Rasheed [2002: 17])。

盟約は、サウード家の統治を支持することになったワッハーブ派が宗教に関することはその手に残しつつも、政治についてはサウード家の手に委ねたことを意味した。以後、時代の経過とともに、両者の棲み分けができて、ワッハーブ派は政治への干渉を避けるようになる。ワッハーブ派はサウード家と結びついたことにより、政治の領域はサウード家に譲ることになったのであった。

盟約での両者の結びつきはその後のサウード朝の発展をもたらし、サウード家の統治に正統性を与えることとなったが、ワッハーブ派にとってはその政治へのスタンスを変える大きな転機となった。

もっとも、ワッハーブ派が政治から完全に離れていたわけではなく、時には、政治への関与を強めたこともあった。例えば、20世紀になり、アブドル・アジーズの手で第3次サウード朝(1902年-)が作られたとき、熱心なワッハーブ派信徒から成る屯田兵集団(イフワーンと呼ばれた)が活動した時期があった。第3次サウード朝の征服事業・領土拡大の中で、その先頭に立ったイフワーンは政治的発言力を増し、イスラーム法の厳格な適用やジハードの継続を求めるようになったが、1920年代末にかけてアブドル・アジーズと衝突するようになり、アブドル・アジーズによって鎮圧・解体されている。イフワーンは、後にワッハーブ派の中から生まれる過激サラフィー主義の源流ともいえよう。

そのイフワーンの事件以降は、ワッハーブ派は、イスラームとかかわりの強い案件は別にして、内政一般への関与は控えてきた。サウード家もワッハーブ派の政治への関与を許さなかった。こうして、現実の政治とは一歩距離を置くワッハーブ派のスタイルが出来上がることになる。

そうした、ワッハーブ派が歴史的にとってきた姿勢もあり、各国への影響では宗教的・精神的側面が中心になり、各国のサラフィーも活動の重点を宗教的・精神的な面に置くようになり、政治へのかかわりを避けるようになったのであろう。そのことが、サラフィー主義者が政治にかかわることが少なかった背景にあるものと考えられる。

しかし、注意しなければならないのは、ワッハーブ派はサウード家との関係で戦略的に政治とかかわらない路線をとってきたことであり、それはワッハーブ派の本質ではないことである。初期イスラームの時代(サラフの時代)には政教一致の政治が行われていたことを思い起こせば、サラフィーの性格を持つワッハーブ派は、本質的には、政治への強い志向をその思想構造の中に秘めていることは直ちに了解されよう。そのことは、今日の各国のサラフィー主義者にも当てはまろう。

5.政治活動から過激主義へ
サウジアラビアでは、20世紀半ば以降、石油収入を得て王権・サウード家統治の強化が進み専制化へ向かうなど、国家と政治の姿が大きく変化していく。そして、1970年代後半のオイルブーム期以降に経済や社会の情勢が大きく変化したが、そうした中で、内外の様々な要因の影響を受けてワッハーブ派の中から政治に関与しようとする者たちが出てくるようになる。

ワッハーブ派の人たちは、1960年代以降、アラブ諸国の新しいイスラーム主義思想に直接触れるようになる。とりわけ、エジプトやシリアでの弾圧を逃れた何人ものムスリム同胞団員あるいは元同胞団員などの思想家・学者がサウジアラビアに来て教鞭をとるようになり、彼らがワッハーブ派の学生などに大きな影響を与えたのであった 1 。さらに、周辺諸国でのイスラーム主義者の動きや、あるいはイラン革命など、当時、周辺諸国で起きていたイスラームと政治をめぐる様々な動きがサウジアラビアに影響を与え続けた。

ワッハーブ派は政治とは距離を置き政治にはあまりかかわらないようにしていたが、すでに述べたように、潜在的には政治への強い志向を持っていたのである。アラブ諸国のイスラーム主義者などから刺激を受け、1990年代以降、ワッハーブ派の中から政治的な動きが起きてくることとなった。サウジアラビアでは政党や政治グループの結成は禁止されており、政治活動も禁止されている。いかなる組織も政治活動は禁止されているのである。政治への関与を強めた者たちは、政府と対立しながら活動を強めていくことになる。

転機となったのは1990-91年の湾岸危機・湾岸戦争である。戦争がサウジ国民に強い衝撃を与えたのは言うまでもないことであるが、危機に際し、主にキリスト教徒からなるアメリカ軍がイスラームの聖地メッカのあるサウジアラビアに駐留したことでイスラーム教徒の間で危機感が強まり、また、サッダーム・フセインがイスラームを利用して各国での反米の動きを煽ったこともあり、サウジアラビアのイスラーム教徒の間ではアメリカへの反発が強まり、政治的な動きがみられるようになる。そして、湾岸戦争後に、ワッハーブ派系のイスラーム主義者の政治活動が一気に表面化することとなった。

新しく政治の表舞台に登場したイスラーム主義者は、政府に対し政治改革を要求するようになった。1993年にはCDLR(Committee for the Defense of Legitimate Rights、イスラーム法権利擁護委員会)が結成され、政治改革を求めて政府と対立するようになった。政府はCDLRを禁止・弾圧し、CDLRの一部のメンバーは海外に亡命しロンドンなどで活動を続けた。国内では、弾圧を受けてCDLRの組織立った活動は消滅する。

このCDLRに参加した者たちを中心にしたイスラーム主義者の新しい潮流は、後にサフワ(Sahwa、awakening)と呼ばれるようになる。サフワに加わったのは聖職者、大学教授、官庁の役人、弁護士、裁判所の職員などで、それまではワッハーブ派とサウード家(王家)の協力関係の下で王政を支える体制の組織の中に身を置いていた者たちである。彼らは政治に目覚め、政治活動を行うようになったのである。サフワは一つの組織にまとまったものではなく、同じような思想傾向を持った一群の人々あるいはグループから成るイスラーム政治運動の潮流に対して付けられた呼び名である。

政府当局は弾圧を強化し、1994年にはサウジアラビアの国内ではサフワの流れに属する数多くのイスラーム主義者が逮捕された。その中には著名な聖職者・イスラーム学者であるサルマーン・アル・アウダ(Salmān al-Awda)やサファル・アル・ハワーリー(Safar al-Hawālī)も含まれていた。

そうした状況の中で、サウジアラビアの国内ではサラフィー主義の新しい流れが強まってくる。彼らはボスニアやアフガニスタンなど旧ソ連圏諸国あるいはその周辺諸国などでムスリムが置かれていた苦しい状況への関心を強め、支援金の募集活動などを行い、現実の政治にかかわるようになっていく。そして、アフガニスタンでのイスラーム系勢力の支援活動への参加などを通してしだいにジハードへの志向を強め、アメリカへの批判を強め、サウード家による王政を批判し、テロなどの過激な行動を取るようになっていく。

サウジアラビア国内のイスラーム主義運動に関し、メディアの報道でサラフィーという言葉が用いられるようになるのは1990年代になってからのことで、その数は2000年代になって増えていく。ワッハーブ派はサラフィーの要素を多く持っているが、それ自体が単独でサラフィーと呼ばれたことはなく、また、組織的な政治活動を行うこともなかった。政治活動を行い過激な行動をとるようになる流れが90年代に生まれ、その流れがサラフィー系ジハード主義へとつながっていくのである。

サフワの流れの中心にいたのはワッハーブ派の宗教エリート出身者たちである。それに対し、新しいサラフィーの流れ、つまり過激サラフィーの流れに加わるようになった人たちは、高卒以下の学歴の者たちが80%以上を占めていたように(Hegghammer [2010])、公務員や教師などの庶民層が多かった 2 。また、その出身地を見るとヒジャーズ地方やアシール地方など非ワッハーブ派のスンニー派住民が多く居住している地域の出身者も多数おり(Hegghammer [2010])、新しいサラフィーの流れはワッハーブ派を中心としつつも、ワッハーブ派を超えて広がっていたことが認められる。彼らの中には、1970年代後半以降の経済発展の中で発展の恩恵にあずかることが少なかった者たちや、また、社会変容の影響を受けた者たちで、サラフィー主義に自らのアイデンティティを重ねるようになっていく者たちも多かったのである(福田安志 [2006])。

その過激サラフィー主義者たちは、国内では政府の取締りが厳しく活動が難しかったこともあり、海外での動きを強め、オサーマ・ビン・ラーディンなど国際的アル・カーイダの流れへとつながっていく。アル・カーイダは過激サラフィー主義者とムスリム同胞団の流れをくむ過激派が一緒になって作った組織であるが、シーア派を否定して厳しい態度をとる(タクフィール思想で背教者と断罪しテロの対象とする)など、アル・カーイダの思想には過激サラフィー主義の色濃い影響が認められる。

サウジアラビアのワッハーブ派に根を持つ過激サラフィー主義者は、その強硬な反米活動と反政府活動を通し、あるいはアル・カーイダの国際的活動を通し、アラブ世界など各地の過激派の活動に大きな影響を与えることとなる。

サウジ国内のサフワの流れをくむイスラーム主義者は、2001年の9.11同時多発テロを経て、2004年以降、政府当局による改革派への抑圧・弾圧が強まる中でその活動をさらに弱めていく。反政府的な言動で名を馳せたサルマーン・アル・アウダも政府に対し妥協的な態度を取るようになるなど、2005年以降はサフワ系の人々は政治の表舞台からは姿を消していく。過激なサラフィー主義者たちも、取締りでサウジ国内では活動できなくなった。

しかし、サフワに関しては、その流れが完全に消えてなくなったわけではない。2005年には、サウジアラビアではじめて実施された選挙として、各地の都市評議会(市議会)の選挙が行われた。その中のダンマーム市の地方評議会選挙では7議席が争われたが、選挙に際しサフワの流れをくむグループ(スルーリー)が7人の推薦者名簿を発表し 3 、その名簿記載者の内6名が当選している。依然として、サフワが社会的・政治的に強い影響力を維持していることが示されていよう。なお、ムスリム同胞団系のグループは別途7人から成る推薦者名簿を発表したが、その名簿からは2名が当選している。その2名はスルーリーの名簿にもダブって記載されていた人物である。

サウジアラビアではムスリム同胞団の活動と影響力は限定的である。ムスリム同胞団の最大の特徴は、貧困層への支援活動などを組織的に行う社会運動組織であることにある。サウジアラビアのように政治・社会的な組織を結成することが当局によって厳しく禁止されている国で、しかも個人の所得が多い豊かな国では、その影響力の拡大は限られていたためである。ムスリム同胞団自身も、逃げ場を提供してくれたサウジアラビアでは積極的な組織活動は行わなかったとされる。

6.アラブ諸国へのサラフィーの伝播
近隣諸国の中で、早い時期(1960年代)からサラフィー主義者の動きが見られる国がクウェートである。クウェートではサラフィー主義者は現在も一定の勢力を維持している。

2008年に行われたクウェートの議会選挙では、定数50議席の内、サラフィー系の議員は10議席を占め、それとは別にムスリム同胞団系のイスラーム憲法運動(Islamic Constitutional Movement)が3議席を占めている。2009年の議会解散による総選挙ではサラフィー系とムスリム同胞団系ともに大幅に議席を減らしたものの、2012年2月の選挙では議席を復活させ、議席の詳細は現在のところまだ不明であるが、サラフィー系は10議席程度を得たものと見られている。

クウェートでは政党の結成は禁止されているが、議会内で議員が政治グループを作ることは許されており、実際は議会内では政治グループの活動が行われている。また、選挙運動での発言などにより個々の議員の主義主張が分かっているケースも多く、そのために議員の政治的色分けが可能になっている。

クウェートは、イラク、サウジアラビア、イランに囲まれた小国で、周辺諸国の影響を受けやすい。しかも、1940年代半ばに油田の開発が始まり早い時期から経済が発展し、1950年前後からパレスチナ人やエジプト人などのアラブ人の外国人労働力が大量にクウェートに移住するようになった。また、歴史的に商人層の政治的発言力が強く、サウジアラビアなどと比べて、比較的、自由な政治的環境があった。そうした状況の下で、クウェートには早い時期から、他のアラブ諸国からアラブ民族主義思想やイスラーム主義思想が伝わっていた。

クウェートで最も早く活動を始めたイスラーム主義者はムスリム同胞団で、ムスリム同胞団の運動がクウェートに伝わったのは1947年のことである。その後、1961年の独立を経て、1963年に行われたクウェート初の議会選挙では、ムスリム同胞団を支持していた候補1名が当選している。 パレスチナ系のイスラーム主義政党である解放党 ( Hizb al-Tahrīr ) も1953年頃から活動を始めている ( al-Mdaires [2010])。

クウェートでサラフィーと呼ばれる人たちが活動を始めたのは1960年代半ばのことで、それはサウジアラビアのワッハーブ派がクウェートに伝わったものと考えられている(al-Mdaires [2010: 33])。つまり、クウェートでサラフィーと呼ばれている人たちは、サウジアラビアのワッハーブ派の影響を受けた人たちなのである。

クウェートのサラフィーは、ワッハーブ派のところで説明したのと同じように、長い顎鬚を生やし伝統的衣装の裾を詰めた短い服を着た人たちで、モスクを活動の拠点とし、次第に影響力を強めていく。彼らは、当初はザカートの徴収などを行うのみで政治にはあまり関与しなかったが、1981年の議会選挙では候補者を立てて2名を当選させている。同じ選挙では、サラフィー系とは別にムスリム同胞団系の候補2名が当選している(al-Mdaires [2010])。

クウェートでサラフィーと呼ばれる人たちは、いくつかのグループから成る緩やかな潮流を形成し、選挙などに際しては法体系のイスラーム化などを訴えている。また、クウェートのサラフィーは、ムスリム同胞団に対しては、同胞団は政治に関心が強くイスラームの教えを逸脱しているなどと批判し、ムスリム同胞団とは対立・緊張関係を保ちながら活動を続けてきたのである。

なお、GCC諸国では他にバハレーンでもサラフィー主義者が政治活動を行っており、2010年の国民議会選挙(下院に相当)では、定数40議席の内、サラフィー系のグループ(al-Asāla al-Islāmīya)が3議席を占めている。同選挙では、ムスリム同胞団系のグループ(al-Minbar al-Islāmī)も2議席を得ている。その前の2006年の選挙ではサラフィー系は5議席、ムスリム同胞団系は7議席を得ていた。バハレーンでも政党の結成は禁止されているが、NGO的なグループとしての活動は認められている。伝播の経緯については不明である。

レバノンも早い時期からサラフィー主義者の動きが見られた国である。レバノンでは1970年代半ばまでには、スンニー派が多く住むトリポリを中心にしてサラフィーが活動するようになっていた。

レバノンのサラフィー主義の発展過程では、サウジアラビアでイスラーム学を学んだレバノンの聖職者たちが大きな役割を果たしている。その中心となったのはサーリム・アル・シャハール(Sālim al-Shahāl、1922年頃-2008年)で、アル・シャハールはサウジアラビアで学んだあとレバノンに戻りサラフィー主義の活動を始め、1970年代半ばまでにはトリポリでその活動を確立している。シャハールは、サウジアラビアのワッハーブ派の聖職者イブン・バーズ師(Abdul al-Azīz ibn Abdullāh ibn Bāz、1910-1999年)と密接な関係を持っていたことでも知られている(Rubin [2009])。

イブン・バーズ師は、1992年にはサウジアラビアの大ムフティ 4 になり、国王により最高ウラマー会議の議長に任命されるなど、サウジアラビアの宗教界を代表したワッハーブ派の中心人物であった。イブン・バーズ師は、何百人ものレバノン人やパレスチナ人にサウジアラビアの大学でイスラームを学ぶ機会を作ったとされる。このように、レバノンにおけるサラフィー主義の発展過程でも、サウジアラビアのワッハーブ派は大きな役割を果たしていたのである。

レバノンは1970年代半ば以降、長い年月にわたる内戦状態に入った。様々な勢力が対抗しあう不安定な状態の中で、宗派勢力や政治勢力、民兵組織が各所で活動するようになる。そうした中で、過激な行動をとる過激サラフィー主義者(サラフィー系ジハード主義者)も影響を強めていったが、過激サラフィー主義者の動きについては別の機会で述べることとしたい。

クウェートやレバノンの例に見られるように、サウジアラビアのワッハーブ派は、各国でのサラフィーの発生に大きな影響を与えたのである。それらのことからは、エジプトをはじめとした各国における現代のサラフィー主義の発展には、サウジアラビアのワッハーブ派が大きな影響を及ぼしているものと見てよいであろう。

ワッハーブ派のサラフィー主義思想は、ワッハーブ派の枠内にとどまることなく、枠を超えて広く中東・イスラーム世界に影響を与えた。なぜ、ワッハーブ派以外のスンニー派世界に広がって行くことができたのであろうか。サラフィー主義は初期イスラームを重視する。それは4大法学派が生まれる前で、法学派の区別がない時代である。コーランやハディースなどのイスラームの原点を重視したサラフィー主義の精神は、法学派にかかわりなく、その思想に共鳴するスンニー派世界の人々に受け入れられ、ワッハーブ派の枠を超えて広がっていったのである。

このようにサウジアラビアのワッハーブ派は、周辺諸国をはじめとした他のイスラーム諸国に影響を与え、サラフィー主義が生まれる過程で大きな役割を果たした。一方で、サウジアラビアの国内ではワッハーブ派が支配的宗派として存在しており、1990年代までは、独立したサラフィー主義の動きが起こることはなかった。90年代にワッハーブ派の間から政治的な動きが出てくる中でサラフィー主義者の動きが始まったが、それは過激サラフィー主義者へと発展し、現代のサラフィー主義とは別の流れになっていったのであった。

7.サラフィー政党の政策
サラフィー主義は、もともとは組織を持たず個人あるいはグループから成る潮流(tayyār)であった。エジプトなどでは、かつては、モスクでの集まりや様々なネットワークを介在した緩やかな人々の集まりで、政治にはあまりかかわらずモスクでの宗教活動などを中心に動いていた。

「アラブの春」を経たエジプトやチュニジアでは、サラフィー主義者たちは政党を作るなど政治面での動きを強めている。強権支配から解放されたサラフィー主義者たちが政治への関与を強めていくのは、政教一致のサラフの時代を模範とするサラフィー主義の本質からいっても、自然な流れである。

今後、サラフィー主義者がどのような政策を出していくのか関心を集めよう。しかし、これまで政治にかかわることが少なかった分、サラフィー主義者たちの今後の具体的な政策には不透明な部分も多い。

サウジアラビアでは、サラフィーの要素を多く持つワッハーブ派が支配的宗派として国家体制や経済・社会に大きな影響を及ぼしている。法制度では「コーランとスンナが憲法である」と位置付けられ 5 、法体系はイスラーム法(ハンバル派が中心)に基づいている。裁判もイスラーム裁判所(マフカマ)が中心で、外交や経済、メディアにもイスラームの影響が強い。司法、教育はワッハーブ派の強い影響下にあり、重罪を犯した犯罪者はイスラーム法に基づき公開で首切り処刑に処される。鞭打ち刑も行われている。

社会生活では、女性のベール着用の強制、女性の自動車運転の禁止、聖者崇拝・スーフィーの禁止、キリスト教など他宗教の公的活動の禁止、労働や教育の場などで男女が一緒にいることの禁止・抑制、酒類の禁止、女性の一人での旅行の禁止、さらには、礼拝時間中の商店やレストランの閉店(礼拝を優先するため)や映画上映の抑制、女性スポーツへの抑制などなど、様々な社会的規制が行われているのである。街中では、宗教警察(勧善懲悪委員会)によるイスラームに反すると見られた行為への取締りが行われている 6

しかし、例えばエジプトで、仮にサラフィー主義者が政権を取るようなことがあったとしても、あるいは政権に参加するようなことがあったとしても、サウジアラビアと同じような極端なイスラーム化政策が直ちに実施されるとか、あるいは追及されるということにはならないであろう。

2012年5月のエジプト大統領選挙(第1次投票)では、ヌール党が支持しサラフィー主義者の支持を集めたアブルフトーハや、ムスリム同胞団系候補のムハンマド・ムルシーなどが立候補した。選挙に際しアハラーム新聞(Web版のAhramonline、2012年5月16日付)は、各候補の内政・外交・経済・社会政策について26項目にわたり比較整理した、詳細な一覧表を作成し掲載している。

その一覧表によると、アブルフトーハの主張では、国家と宗教の関係に関しては「イスラーム法を施行、民主主義(を実現)」すると記され、また経済のところで「イスラーム金融を強化する」とあるのが注目されるが、その他の項目については女性についての政策も含めイスラーム色は弱い。アブルフトーハ自身はサラフィー主義者ではなかったが、「イスラーム法を施行」し、「イスラーム金融を強化する」との主張はサラフィー主義者の求めていることに近い。しかし、それ以外の政策ではサラフィー色、あるいはイスラーム色はあまり強くない。それでも、サラフィー主義者の支持を集めたのであった。

同胞団系候補のムルシーの政策を見ても、様々な新しい政策を打ち出しているものの、全体的に見てイスラーム主義の色合いは強くない。有権者の反応を気にしたためであると思われるが、女性に対する政策など、批判を受け議論になりそうな論点については具体策を明示しないか、あいまいにしている項目もある。

それらのことは、サラフィー主義者やムスリム同胞団は、実際の政治にかかわるようになれば、国民の中から強い反対が出そうな政策では自分たちの本来の主義主張をストレートに押し出すようなことはなく、ある程度妥協し、現実的な政策をとる可能性が高いことを示唆している。現実を見て、より穏健な政策を打ち出すこともあり得よう。

とはいっても、今後の政治の展開しだいでは、サラフィー系政党の政策には、ある程度のイスラーム色が出てくるようになり、イスラーム法の位置づけ、飲酒や外国人女性の服装などが問題となる可能性も残されていよう。また、政党のレベルとは別に、街中や大学などでサラフィー主義者の活動が強まり、女性の服装への干渉、飲酒への反対、キリスト教徒との対立、聖者崇拝・スーフィーの禁止などの動きが強まる可能性もある。イスラームの教えに厳格であろうとするサラフィー主義者がどう出るか、不透明な部分も多い。

経済政策についてはどのようになるであろうか。初期イスラームの時代を模範とするサラフィー主義者は、イスラーム本来の経済思想を重視する。イスラーム本来の経済思想では、経済活動はウンマ(イスラーム共同体)を豊かにするものとして肯定され、また財産の私的所有権も認められている。一方で、利息は禁止されている。サラフィー主義者の経済についての見方は、利息の禁止を除くと、資本主義と近いものがあり、資本主義・自由主義に沿った経済政策を主張するものと考えられる。貧富の格差調整などのために、政府が経済に介入するようなこともサラフィー主義者は好まないであろう。

それと対照的と思われるのがムスリム同胞団の経済政策である。ムスリム同胞団は、エジプトなどでは貧しい人たちへの社会奉仕を活動の中心においた社会運動の組織体である。貧困層を主な基盤とするムスリム同胞団には社会的な公平を重視する傾向があり、社会対策にその重点を置き貧困層や農民などに手厚い政策をとる可能性が高い。必然的に、経済政策では国家の役割が強まろう。政治・外交や女性に関する問題では柔軟に対応するかもしれないが、貧困問題などの社会対策にはこだわりが強いと思われる。

経済政策では、同じイスラーム主義者といっても、サラフィー主義者とムスリム同胞団では、相違点が大きいのである。もっとも、イスラーム銀行・金融への支持は共通しているが。

エジプトなどでは、1年以上にわたった変動の中で、経済は大きなダメージを受けている。まず経済再建に取り組まなければならないであろうが、ムルシー大統領の下で、いずれ貧困層や農民などへの対策も進められていこう。

おわりに代えて
「アラブの春」を経たアラブ諸国では、イスラーム主義者の影響力が格段に強まっている。エジプトなどでは、とりわけムスリム同胞団の影響力が強まっているが、サラフィー主義者の影響力にも無視できないものがある。新しい状況の中で、今後、サラフィー主義者が政治の分野で果たす役割が強まっていくのは間違いがないであろう。

サラフィー主義者たちは、イスラーム諸国をはじめとして欧米諸国にも存在している。サラフィー主義者をめぐる状況は国によって異なっているものの、ムスリム同胞団とは異なるイスラーム主義の流れとして、各国の社会や政治に様々な影響を与えていこう。

サラフィー主義の中から過激サラフィー主義が生まれたように、サラフィー主義者たちが過激化することを警戒する見方も完全には消えていない。アラブの激動を経た新しい情況の中で、サラフィー主義者たちが、それぞれの国で安定した政治勢力としての役割を果たすようになるまでは今しばらく時間を必要としよう。

アラブ世界でサラフィー主義者やムスリム同胞団の活動が強まる中で、ドバイやエジプトなど日本人が多く住む地域でもその影響は避けられないであろう。ドバイでは影響は強くはならないであろうが、エジプトではある程度の影響が現れるものと思われる。いずれにせよ、イスラームに関する知識を深めつつ、政治・社会の動きを静かに見守っていくことが必要と思われる。

脚 注
  1. サウジアラビアに来たアラブ人の思想家・学者の中で最も強い影響を与えたのが、シリア人のムハンマド・スルール(Muhammad Surūr Zayn al-Ãbdīn)である。スルールは、1950-60年代にシリアのムスリム同胞団に所属していたが、意見の相違からムスリム同胞団を脱退し、シリア国内で取り締まりが厳しくなったこともあり、1967年にサウジアラビアに来て、ブライダのイスラーム学院で教鞭をとった。
    スルールは当局に目を付けられたため6年後の1973年にはサウジアラビアを離れ、クウェートでジャーナリストとして働いたのち、1983年にイギリスに移り、バーミンガムでSunnah Study Centerを設立し、『Al-Sunnah』誌を発刊している。スルールは、執筆活動などを通してサウジアラビアに影響を与え続け、とくに1991年の湾岸戦争後のサウジアラビアでのイスラーム主義者の動きに重要な影響を与えたとされる(Alshamsi [2011])。
    ムハンマド・スルールの影響を受けた者たちはスルーリーと呼ばれるようになる。スルーリーたちは、思想面ではイブン・タイミーヤ(13-14世紀のハンバル派法学者)からイスラームに関する厳格な思想を学び、サイイド・クトゥブ(ムスリム同胞団の過激思想家)からは革命的な態度を取り入れた。それは、ワッハーブ派のサラフィー思想にムスリム同胞団の行動主義を接ぎ木したようなものである。スルーリーと呼ばれた人たちはムスリム同胞団ではなかったが、ムスリム同胞団の政治性・社会性を学ぶことで、政治への関心・関与を強めていくことになる。
  2. サウジアラビアでは国民の大部分が公務員や教師になっている。
  3. グループであっても政治活動が禁止されているため、携帯電話やインターネットを使い水面下で推薦者名簿が有権者に伝えられた。なお、以後、サウジアラビアでは選挙は行われていない。
  4. 大ムフティとは、国王に任命され、イスラーム法についての問題や戦争などの国家の行為についても法学意見(ファトワー)を出す権能を持つ法学者。
  5. 「国家基本法」の中での規定。なお、イスラーム法ではなくコーランとスンナを憲法とするのは、コーランとスンナを重視したワッハーブ派の考えを反映したものである。
  6. サウジアラビアでの宗教警察(勧善懲悪委員会)の活動については、日本国外務省のホームページに詳しく掲載されている。「在留邦人向け安全の手引き 在サウジアラビア日本国大使館」 http://www.anzen.mofa.go.jp/manual/saudi_arabia.html
(2012年7月18日脱稿)

参考引用文献
Alshamsi, Mansoor Jassem [2011] Islam and Political Reform in Saudi Arabia, The quest for political change and reform , Routledge, London and New York.

al-Mdaires, Falah Abdullah [2010] Islamic Extremism in Kuwait, From the Muslim Brotherhood to al-Qaeda and other Islamic political groups , Routledge, London and New York.

Al-Rasheed, Madawi [2002] A History of Saudi Arabia , Cambridge University Press.

Rubin, Barry [2009] Lebanon, Liberation, Conflict, and Crisis , Palgrave, New York
Gambill, Gary C Islamist Group in Lebanon.

Hegghammer, Thomas [2010] Jihad in Saudi Arabia, Violence and Pan-Islamism since 1979 , Cambridge University Press, Cambridge.

福田安志 [2006]「サウジアラビア-テロと民主化」(福田安志編『 アメリカ・ブッシュ政権と揺れる中東 』アジア経済研究所)