イラン・クルドと「イスラーム国(IS)」――「アンサール・アル・イスラーム(AI)」の軌跡――

アジ研ポリシー・ブリーフ

No.104

貫井 万里

2018年3月13日発行

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  • 2017年6月7日のテヘラン・テロ事件の実行犯の半数以上がイラン・クルドであった。
  • イラン・クルドとISをつなぐ鍵は、イラン・クルディスタンにおけるAIの活動と、同地の貧困問題である。

2017年6月7日にテヘランでイラン・イスラーム共和国体制のシンボルともいえる国会と革命の指導者ルーホッラー・ホメイニー師の廟を襲撃したテロ事件が発生した。直後に、ISが犯行声明を出し、テロの実行犯6名が自爆乃至射殺で死亡し、1名が逮捕された。その多数がクルド系イラン人であったことは、イラン社会とクルド人コミュニティー双方に衝撃を与えた。ISに加入したクルド系イラン人は約400名と見積もられている1。彼らがISに至ったルートは、(1)スンナ派過激組織「アンサール・アル・イスラーム(Ansṣār al-Islām: AI)」のISへの合流によって加入した者、(2)ISに直接リクルートされた者、(3)インターネット等の影響で自らイラクやシリアに渡った者のおよそ三つが想定される。世俗的なナショナリズムが主流を占めてきたイラン・クルディスタンの政治に、どのようにISが浸透しえたのか。本稿では、ISとイラン・クルドをつなぐ鍵としてAIの軌跡を概観する2

AIの誕生とイランへの避難

AIは、イランとイラクをまたがるクルディスタン地域で広く影響力をもったクルド人主体のサラフィー主義武装組織である。2001年にクルディスタン・イスラーム運動の諸派が糾合して結成されたAIのリーダーに、アフガン・ゲリラ出身のナジュムッディーン・ファラジュ・アフマド(別名モッラー・クレカル)が就任した。初期主要メンバーはアフガン帰還兵のクルド人を主体としたが、組織拡大に伴い、イラク人、サウジ人、イエメン人など多数のスンナ派アラブ人を戦闘員として抱えるようになった。後に「イラクのアル・カーイダ」(AQI)司令官となるアブー・ムスアブ・ザルカーウィーもアフガニスタンから国境を越えてイランに入り、一時期AIに身を寄せた。

2001年に、AIはイラク・クルディスタンのハラブジャ近郊に、「バイラ・イスラーム首長国(Islamic Emirate of Bayra)」を樹立し、厳格なイスラーム法を導入した。ターリバーン同様の男女隔離の原則が適用され、支配領域下の女性は全身を覆うアバヤの着用、男性には髭を伸ばすことが強制された。女子の教育や就業、テレビの視聴や音楽演奏が禁止され、姦通や飲酒、窃盗には、石打刑、鞭打ち刑、手首切断などの刑罰が科せられた。敵対者に対しては、投降しても殺害、見せしめの斬首、性器の切除をしてビデオで撮影するなどAIの残忍な手口は、AQIやISと共通した。

2002年頃からAIは、スレイマニエを拠点とし、世俗主義的な民族主義を掲げる「愛国者同盟(PUK)」のリーダーの暗殺計画や武力衝突を開始させ、スレイマニエやエルビル等でのテロ作戦や斬首を実行した。2003年3月にブッシュ政権は、サッダーム・フセイン政権による大量破壊兵器開発に加え、AIを通したアル=カーイダとの連携を口実にイラク侵攻に踏み切った。その後、フセイン政権とAIの関係を確証する証拠が見つからなかったものの、AIとアル=カーイダの人的及び物的な交流は多くの証言で確認されている。

2003年に有志国連合軍と「クルディスタン地域政府(KRG)」は、AIを攻撃し、バイラ・イスラーム首長国を崩壊させた。生き延びたAIメンバーは国境を越えてイランに避難し、イラン・クルディスタン内の諸都市に定住した。同地に散在していた有象無象のサラフィー主義集団が合流し、AIはイランで勢力を拡大させた。そして、ノルウェーに脱出したモッラー・クレカルに代わって、アブー・アブダッラー・アル=シャーフェイーが、指導者の任を引き継ぎ、イランを拠点に組織の再建を図った。2005年頃にはケルマーンシャー州サレポレ・ザッハーブ市近郊にメンバーにイデオロギー教育と軍事訓練を施すキャンプが設けられた。イラン当局は、領内でのAIの活動や違法な国境往来を暫く黙認していたが、シャーフェイーを含むAIの幹部を逮捕して尋問後、国境に連行し、イラク側へ放逐した。その意図は、イラクの武装組織を利用してアメリカの占領政策を妨害することで、次の標的と目されていた、イランの体制転覆を未然に防ぐことにあったと考えられる。

AIとISの接近

2003年から2007年まで、AIはイラク政府軍や有志連合国軍への攻撃を繰り返した。2004年2月には、エルビルのPUK事務所に複数の自爆テロを仕掛け、100名以上の民間人が死亡し、130名以上が負傷した。この間、同組織は、アル=カーイダと公然と共闘したが、AQIによって設立された連合体組織「イラクのイスラーム国」に正式に加盟することを頑なに拒否した。

2007年5月に、AIは他のクルド系サラフィー主義組織とともに「改革ジハード戦線(RJF)」を結成し、イラクのサラフィー主義運動の主導権を巡ってAQIに挑戦した。しかし、AIはRJFから次第に離れ、米軍やPUKに対するAQIとの共同作戦に再び参加した。この頃から、AIは、AQIやIS同様にシーア派に対して敵対的な姿勢を示すようになった。2011年の米軍撤退後もAIはモスルやキルクーク近郊でイラク政府、警察、武器庫の襲撃などの活動を継続させた。  

2011年にシリア内戦が勃発すると、AIはシリアにも活動範囲を広げ、AIのシリア支部は、ヌスラ戦線やイスラーム戦線とともにアサド政府軍や「クルド人民防衛隊(YPG)」、そして時にはAQIの後身の「イスラーム国」と戦火を交えた。2011年末、イラクのスンナ派住民の反乱後、AIはイラク政府への攻撃を強めた。

2013年から14年にかけて、AIは、ISとの協力と武力衝突の間で揺れた。AIは、中東でイスラームのカリフ制を樹立することを支持していたが、ISの「カリフ制宣言」を時期尚早で不適切とみなし、アル=カーイダ本体に倣って、ISを「国家と称するグループ」(Jamā‘at al-Dawla)と呼び続けた。こうした相違により、2013年末から両者は、イラクとシリアで武力衝突を繰り広げ、2014年初頭に、ISはAIのイラク支部リーダーのアブー・アフマドを暗殺した。

しかし、2014年8月29日にAIのトップリーダー50名が、突如ISへの忠誠の誓いを立て、同組織のISへの合流を宣言した。AIのシリア支部は、合併を拒否し、対IS戦を継続させたが、AIイラク支部の9割は、この時ISに加入したと言われている。イラクの指導部を失ったAIシリアは、「アンサール・アル・イスラーム」を名乗り続け、独立した行動をとっている。

貧困とテロ

2017年6月のISによるテヘランでのテロ事件の実行犯7名のうち、4名がケルマーンシャー州のパーヴェ出身者とされる。イラン国内からテロリストを出した背景には、同州がこれまでAIを始めとする多くのサラフィー・ジハード主義組織の活動の舞台となってきた歴史的な経緯のみならず、イラン全土で失業率が最も高い貧しい州であることと深く関係しているものと考えられる。また、AI本拠地のイラク・クルディスタンのハラブジャは、1988年にフセイン政権による化学兵器攻撃の標的となり、住民三千人以上が死亡した地である。クルディスタンにおけるサラフィー・ジハード主義浸透の原因を理解するためには、社会的・経済的背景をさらに調査・分析する必要がある。

(ぬきい まり/(公財)日本国際問題研究所)

脚注


  1. A. Ghajar and S. Alavi,"How ISIS Infiltrated Iranian Kurdistan," IranWire, 14 June 2017.
  2. "Ansar al-Islam," Mapping Militant Organizations, Stanford University, July 3, 2016.

本報告の内容や意見は、執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません。