開発協力大綱をどう捉えるべきか

アジ研ポリシー・ブリーフ

No.62

平野 克己
2015年6月22日発行
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  • 2015年2月に閣議決定された開発協力大綱には、以前のODA大綱では避けられてきた「国益」に関する記述がある。公金を使ってなされる以上、特に二国間援助は日本の国益に貢献しなければならない。それは、援助政策に限らず政策論の基本である。
  • さらに開発協力大綱は、他国の軍隊が行う人道的活動に対する援助提供の可能性を開いたが、これまでの援助研究からいえば問題とされることではない。



援助を歴史的に眺め直すと、通常語られる援助とはかなり違った姿がみえてくる。そして、それこそが援助政策とはなにかを我々に教えてくれる。通常援助に関する議論はその効果を問うものが多いが、援助政策を歴史的にみるとは、効果よりもその発祥と目的に着目するということである。どのような効果をもたらしたかは意図せざる偶然だったかもしれない。対して、誰がどうして援助政策を作ったかは、しっかりと歴史に刻まれた事実だ。事実に基づいて援助政策の歴史を確認しておくこと。これが、本研究会が2年の歳月をかけて試みてきたことである。

2年前に援助政策研究会を立ち上げた具体的な動機のひとつは、ODA大綱の改訂に向けて提言を出すことだった。昨年「ODA大綱見直しに関する有識者懇談会」が発足したが、本研究会委員の荒木光弥氏と大野泉氏がそのメンバーに選ばれたことから、同懇談会での議論を伺いながら研究会を運営できた。もし本研究会が懇談会における両氏の仕事を補佐することができたとすれば、この研究会を立ち上げた意義があったといえるかもしれない。

開発協力大綱
2015年2月に「開発協力大綱」が閣議決定された。これは、前々身の「ODA大綱」(1992年)や前身の「新ODA大綱」(2003年)同様、日本政府が援助政策を実施する際の理念と方針を定めた文書だ。

ODA大綱については以前論じたことがあるが(平野克己『アフリカ問題:開発と援助の世界史』日本評論社、2009年)、あらためて少々大胆に要約すると、当時日本に流通していた援助に関する諸意見を万遍なく拾い、当たり障りないよう纏めてあるというところではなかろうか。大綱は法律ではないから、枠組みを決めそれ以外を排除するのが目的ではなく、どこまで取り込むか、窓の大きさを示すのが役割だ。したがって、援助に特有な政策目標について切り込んだ記述はなかった。逆にいえば、当時援助政策の目的を明確化することにさして意義はなかったし、コンセンサスもとれなかったということだろう。前大綱の作成にも携わった荒木氏によれば、「国益」という言葉を入れるかどうかで激論になり、合意が得られなかったというのが、当時の状況だった。援助政策の理念や目的についてギシギシ詰めなくても、否、詰めないことで、“援助大国”日本は維持されていたのである。

それは、敗戦後の国際的孤立から日本を救い出すために始まった「経済協力政策」が、高度経済成長を経た後、日本の経済大国化と貿易黒字還流という新しい任務を負ったODA政策になり、とにかく量的拡大をひたすら目指した、ナンバーワン・ドナー時代の“知恵”であった。

援助は国益のため
ところが今回、開発協力大綱には「我が国の国益」「国益への貢献」が明記されている。いったい、なにが変わったのだろうか。肌で感じるのは世論の変化である。

人口減少と急速な老齢化、福島原発事故後のエネルギー問題、巨大化する中国の攻勢。多くの難問を抱えて“課題先進国”と称される日本においては、国益とはなにかが鋭く問われているといえよう。この十年で日本の世論からはバブル期のユーフォリアが削げ落ち、財政や税制、外交や通商についてより現実的な思考がなされるようになった。なかでも日本人の国際認識の変化をもたらした契機は、中国の台頭と日中関係の緊張だろう。日本の経済力や輸出競争力の低下、領土問題をめぐる外交戦は、我々を国益に関して敏感にした。

さらには、国際場裏には経済益以外に日本が確保しておかなくてはならない多くの国益があることを、我々はきちんと認識するようになった。近年でいえば国際テロや感染症の問題が記憶に新しい。国際社会の安寧秩序維持に貢献するため我々には払わなくてはならないコストがある。こういった国際社会にとっての利益が、紛れもなく日本の国益であることに、いまでは誰も反対しないだろう。

「援助は国益を追うべきではない」という意見は、日本になんらメリットがない、あるいは日本にデメリットが及ぶとしても、それでも援助は行うべきだという主張になる。となれば、メリットもないのになぜ援助のコストを支払わなくてはならないのかを納税者たる国民に説明する義務がある。

そもそも援助が公金を使って行われる以上、国益から自由であるはずがない。援助は外交の一部なのであり、国益に基づかない外交などありえない。他国の人々のためになぜ日本の公金を使うのか。援助政策は、これについて納税者が納得する論理を備えていなければならない。政府の政策はNGOの活動とは原理的に異なる。NGOは賛同者の寄付金で事業を行うが、政府が国民から委託されている任務は国益以外にない。したがって、なにを国益とするかだけが問題なのである。

国益の広がり
開発協力大綱のもうひとつの特徴は、他国の軍隊が行う人道的活動に、日本の援助を提供する可能性を開いたことだ。このことも含め援助政策を、安倍政権の積極的平和主義や安全保障戦略と整合させると書かれてある。これに関しては「軍に資金を出せば軍事目的に援用されるのを止められない」という指摘があちこちでなされているが、これは「援助のファンジビリティ」といわれる問題で、もともとは、本来途上国政府が負わなくてはならない民生費用を援助が賄えば、その分が軍事支出等に向かうという議論だ。だから、軍にさえ出さなければ心配ないというわけではそもそもないのである。

2013年のアルジェリアのテロ事件で日本人10名が犠牲になって以来、なんらかの対策が必要だという認識は官民で共通している。そのためのひとつの施策が駐在武官の増員だが、駐在武官配置の第一の目的は相手国軍とのチャンネルの強化だ。災害や紛争の被災民に最初にアクセスするのは軍である。災害対策や平和構築支援を掲げる以上、軍を供与先に加えることは、むしろ当然といえる。

援助は、日本が開発途上国との関係を維持強化していくための外交手段だ。そのなかでもっとも高い効果が期待されるのが開発支援だということなのであって、開発ニーズがあるから援助政策があるのではない。もしそうなら国際機関に全額支出したほうが、自前の組織をもたなくてもよい分効率的である。

途上国の政府は開発政策だけを行っているのではない。多様なニーズと直面している。その多様性に対応していく幅が日本の援助政策にも必要だ。そしてそれは、あくまで日本の国益に貢献するためなのである。

(ひらの かつみ/地域研究センター上席主任調査研究員)



本報告の内容や意見は、執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません。