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コラム

アジアトイレ紀行

第7回 イラン――洗え、洗え、の爽やかトイレ

Iran: Wash Yourself in the Iranian Toilet

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/0002000842

2024年2月
(3,163字)

トイレに関する現地語講座

頻出単語
Dast-shū’ī  ダストシューイー 手洗い、すなわちトイレ
Toālet トアーレット(フランス語起源) トイレ

例文
Dast-shū’ī kojāst ? ダストシューイー コジャースト? トイレはどこですか?
Momuken-e dastam-ro be-shūram? モムケネ ダスタム ロー ベシューラム? 手を洗っても良いですか?(トイレを使わせてほしいときの婉曲表現)

二つの様式

イランのトイレに何かこれといった特徴があるかと問われれば、ない、と言ってよい。便器はいわゆる和式(イランでは「イラン式」と呼ばれる)と洋式とがあり、その形状もしょせん人体に合わせて作られている以上、さほど奇抜なデザインがあるわけでもない。とはいえその使われ方には多少の差異がある。

イラン人のお宅に招かれてトイレをお借りする場合、よく「どちらがいいか」と訊かれる。これはくだんのイラン式にするか、それとも家族みんなが座って使う洋式にするか、という意味である。お客様に家人のお尻が触れた便座を使わせるのは失礼と考えてのことらしく、基本的に客にはイラン式が勧められる。もっとも昨今はイラン都市部の住宅事情も厳しくなってきて、二つの様式のトイレを備えた家は少なくなった。

このイラン式トイレ、じつは筆者が最初にこれを使用したとき、その便器を見て「うっ」と戸惑ったことが記憶に鮮やかだ。それは「いったいどちらを向いてしゃがむべきか?」という疑問からくる戸惑いであった。イラン式トイレの便器はご覧のように陶器でできた平らな板状のものに穴が開いている(写真1)。足をのせる位置はここかなと分かるものの、片側に寄ったこの穴は、しゃがんだ時はたして自分の前方にあるべきなのか、後方にあるべきなのかが判然としない。

写真1 どっちを向いても用は足せる

写真1 どっちを向いても用は足せる

その時お借りしたトイレはこの便器がドアに向かって縦に設置してあったので、筆者は多くの日本の和式トイレの使い方にならってドアを後ろにしてしゃがんでみた。つまり結果として穴が開いている方が前方になった。

後日、この疑問をイラン人の友人たちにぶつけてみたところ、みな筆者の使用方法は「間違っている!」と口をそろえた。友人たちの理屈は「だってそれじゃあ、間違ってドアを開けられたら自分のお尻が相手に丸見えだから」というものだった。はっきり言えば使い勝手はどちらでも変わらない。筆者はこの問題に真剣に取り組んだことはないので、真偽はさだかでないが、イラン人はこの場合「ドアに向かってしゃがむ」らしい。

紙はなくてもよし

さて、イランに限らずイスラーム圏のトイレには必ず排泄行為に用いる体の部位を「水で洗う」ためのグッズが置いてあることはやはり言っておかねばならないだろう。清潔を重んじるムスリムにとって、用を足したあとお尻を洗わずに紙で拭くだけなど言語道断。そのためイランのトイレには壁からホースが伸びていたり、アーフターベと呼ばれるジョウロ状の容器に水が入れてあったりする(写真2)。

写真2 水栓付きホースとアーフターベ

写真2 水栓付きホースとアーフターベ

あるイラン人の家庭では、まだおむつをつけている乳児を世話していたお父さんが、おむつ替えの最中にかわいいお尻を出した子どもをひょいと抱えてトイレに行き、じゃーじゃー水で洗って帰ってきて、また丁寧におむつをつけていた。赤ん坊のころからこういう身体感覚を身につけているから「お尻は絶対に洗うもの」という強固な信念が植えつけられるのであろう。

この習慣のため、イランでは用を足したあとに洗ったお尻をさらに紙で拭くことは必須ではなく、公共トイレに紙が置かれていないことも多い。ええ~それじゃあお尻がびしょびしょのままパンツをはくの?と心配される読者もあるかと思う。そう、まさにそのとおりなのである。ただイランのような乾燥帯の気候ではあっという間に乾いてしまうので、これは我々が考えるほど不快ではない。もとよりお尻はサッパリと洗いたてなので不衛生でもない。

もっとも最近では一般家庭を中心にトイレットペーパーを常備しているところも増えてきた。筆者がアジ研から派遣されて初めて現地で生活した30年ほど前は、町のスーパーなどで「トイレットペーパー」を見つけること自体が難しく、店員に説明してもわかってもらえないことがよくあった。当時はロール状になった、ものすごく分厚いキッチンペーパーのようなものや、普通のティッシュペーパー(というにはやはりごわついたものだったが)で代替していたが、最近はちゃんと「トイレ用」を売っている。ただしその販売単位はごく少量で、2ロールで1パックなどが普通である。日本のような12ロール入りは見たことがない。イラン人がトイレットペーパーを大量消費していないことが推察される。

このイラン産トイレットペーパーをトイレに流せばあっという間に詰まってしまうので、便器のそばに置いてあるゴミ箱に捨てることが鉄則だ。幸い、お尻を洗う習慣のおかげで韓国のような深刻な「ゴミ箱問題」(本コラム第4回を参照)は発生しにくい。

昔懐かしいアーフターベ

昔はむしろお尻を洗うイランのトイレのほうが清潔さの点で日本に先んじていて、それに慣れたあとに日本へ帰国するとあたかも紙で「妥協」しているかのような後ろ暗さを感じたものだった。ウォシュレットが広く普及し始めた頃は「ようやく追いついた」と感慨深かった。しかし日本のウォシュレットはたかがお尻を洗うのにここまでハイテクである必要があるのだろうかと苦笑させられるほど多機能なので、イランの伝統的お尻洗いグッズのほうが筆者は好みである。

ちなみに前出のアーフターベは初心者には少し扱いが難しく、ホースの普及によって次第に過去のものとなりつつある。筆者がこの記事のために「アーフターベの写真が欲しい」とイラン人の友人に依頼したところ、自宅では使用しなくなって久しいと言う。ようやくマンションの地下駐車場トイレから見つけ出してくれたものが写真のアーフターベだ。もはやノスタルジックな趣さえあるアーフターベ、かつてはどこのご家庭にもあったものだった。

一方、近ごろは備え付けられているのが当たり前になってきたホースの場合、日本のように身体をウォシュレットに合わせて動かすのではなく、ホースの水を自分の身体にピンポイントで放水できるので無駄がなく合理的(のような気がする)。筆者がとりわけ気に入っているのは、用を足したついでに、ホースを用いて自分でササっと便器の掃除もできるところだ。ハイテク・ウォシュレット付きの日本の洋式トイレは細かいところの掃除がたいへんであるが、イランのトイレの場合構造が単純で始終水が流れているから、便器はいつもピカピカである。念のために申し添えると、便器そのものにも排泄物を洗い流す水タンクがついているが、ホースで洗ってしまえば節水にもなる。

水で洗うことにたいへんな重きが置かれているイランだが、ある時、かつてイラン・イラク戦争の危険な戦場に身を置いた経験のあるイラン軍の元兵士とそんな話になったことがある。トイレはもとより飲み水さえ貴重な砂漠の前線では、お尻を洗うときいったいどうするのかと訊くと、彼はともかく可及的速やかに用を足したら「水の代わりに砂で洗うんだよ」と笑う。灼熱の太陽に焼かれている砂は殺菌十分、とてもきれいでサラサラだから水と同じように使えるのだとか。

水のないときに砂で浄めを行うことはイスラーム法上も認められているとはいうものの、そのような極限状態は回避することができればそれが一番である。考えてみればトイレは、あまりにも日常的な施設ではあるが、人間の命と健康、そして公衆衛生と直結する必要不可欠な場所。このコラムで各国のトイレ事情を楽しみながら読むことができるのも、平和あってのことだと肝に銘じねばならない。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

写真の出典
  • 写真1、2ともRozita Babai氏撮影
著者プロフィール

岩﨑葉子(いわさきようこ) 地域研究センター中東研究グループ長。専門はイラン経済。博士(経済学)。イランの中小零細企業、仲介業者、商人など市井の人々の間で実践されている仕事上の慣行・しきたりや経済制度に関心を寄せている。主な著作は『「個人主義」大国イラン──群れない社会の社交的なひとびと』(平凡社、2015年)『サルゴフリー 店は誰のものか──イランの商慣行と法の近代化』(平凡社、2018年)Industrial Organization in Iran: The Weakly Organized System of the Iranian Apparel Industry, Springer, 2017など。