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コラム

アジアトイレ紀行

第9回 パキスタン――トイレへの(心理的)アクセスがない

Pakistan: No (Psychological) Access to Toilet

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/0002000975

2024年4月
(3,168字)

トイレに関する現地語講座(なお国語はウルドゥー語)

頻出単語
ǧuslxānā グスルハーナ(アラビア語とペルシア語起源) 「全身を洗う場所」転じてトイレ
wāšrūm, bāthrūm ワーシュルーム、バートゥルーム (いずれも英語起源) トイレ

例文
wāšrūm kahāṇ hai? ワーシュルーム カハーン ハェー? トイレはどこですか?
pēṭ xarāb hō gayā. ペートゥ ハラーブ ホー ガヤー お腹を壊しました。

非言語表現
パンジャーブ州では小用の場合、右手小指を立てる仕草をし、特に言語表現なし。なお観察した限りでは男性のみ。 
*以上、東京外国語大学 萬宮健策教授監修

トイレへのアクセス

SDGsの目標6は「安全な水とトイレを世界中に」を掲げている。南アジア農村の貧困層では、家にトイレがないために野外排泄が珍しくない。ユニセフによると、2022年時点で、南アジアでは人口の34%、つまり6億1000万人が野外排泄をしているという。南アジアでは、安全なトイレへのアクセスがないことが、衛生面や環境面の問題にとどまらず、社会、とりわけジェンダーにまつわる問題になっている。

トイレにアクセスがないことは、もちろん男女ともに共通の問題だが、圧倒的に女性への悪影響が大きい。トイレにアクセスがない女性たちは、人目につきにくい夜間まで排泄を我慢する。インドでは、彼女たちが夜間に外で用を足す際に、レイプの被害にあったという事件や、さらにカーストが低いためにそもそも事件化されにくい、といったことがしばしばメディアで取り上げられ、ときには大規模な抗議運動も起こっている。

レイプの被害に遭わずとも、夜間まで排泄を我慢することは、健康上好ましいわけがない。おそらくは、恒常的に日中の飲食を控えざるを得ず、健康的な栄養摂取ができず、健全な発育にとってもデメリットだろう。彼女たちの日常の苦労には遠く及ばないが、筆者自身も南アジアでのフィールド調査中は、後述する理由からトイレが使えず、日中ずっと絶飲絶食した経験がある。フィールド調査は長くてもせいぜい1カ月程度であるし、しかも筆者の場合は、物理的ではなく心理的なアクセスがないというだけなので、彼女たちの苦労や苦痛と比べることはできない。しかし、日中に何としてもトイレに行くことを避けたいという気持ちの強さだけは本物だ。

日中の絶飲絶食

南アジアで外国人の私たちが通常目にするトイレは、東南アジアなどと同様に、手動ウォシュレット方式だ。空港やホテルなど国際的な場所では、洋式トイレの横にシャワーのようなものがついているのを見たことがある読者もいるだろう。このシャワーを手に持ち、清潔にしたい部分に照準を合わせたうえでボタンを押すことで手動ウォシュレットになる仕組みだ。これが農村にいくと、写真1にあるような和(?)式というか座り込み式のトイレになる。ここには、まさかシャワーはついておらず、もちろんトイレットペーパーなどあるわけがない。その場に置いてある(ローターと呼ばれる)壺やジョウロなどを用いて、トイレットペーパー代わりに自らの手で汚れた部分をきれいにしなければならない。

写真1 南アジア農村に一般的な家庭のトイレ

写真1 南アジア農村に一般的な家庭のトイレ

筆者は南アジア農村でフィールド調査を始めて間もない頃は、自らの手をトイレットペーパー代わりに使うことに、ものすごい抵抗があった。自分の汚物に触ることより、そこにおいてある壺やジョウロに対して嫌悪感があった。当たり前だが、前の使用者も同様に自らの手をトイレットペーパー代わりに使っているはずで、その手でこの壺やジョウロを触っているのか……、というような心理的抵抗感だ。ただ、よくよく考えると、筆者がフィールド調査を行ってきたパキスタンやバングラデシュの農村では、ほとんどがムスリムのため、トイレットペーパー代わりは不浄とみなされる左手、壺やらジョウロは右手で使っているはずで、そんな心配は無用だったのかもしれない。いずれにしても、心理的抵抗感から壺やジョウロに触れなかったため、フィールドでトイレを使うことができなかった。

農村でフィールド調査といっても、泊まる場所は最低でもNGOのゲストハウスであることが多い。こういった外国人の宿泊が想定されている場所では、例のシャワーおよびトイレットペーパーがついているので、自らの手は汚さなくてよい。そこで、フィールドでトイレを使わなくて済むように、「パキ腹」(パキスタンを訪問する外国人が必ずお腹を壊すこと)と揶揄されるなかでも決してお腹は壊さぬように、すべてはゲストハウスで用が済むように、フィールド調査時の日中は基本的に絶飲絶食だった。パキスタンやバングラデシュのようなイスラム圏では、断食月の日中には、いくら40度を超す猛暑だろうとも皆が水すら飲まないので、特段無理があることにも思えなかったし、自分の特性なのかそんなに苦痛だった覚えもない。なので、筆者の経験は、南アジアの貧困女性が恒常的に経験している苦痛を共有したという意味ではなく、事実上トイレへのアクセスがなければ、本気で絶飲絶食せざるをえない彼女たちの気持ちはよく分かる、という意味をもつにすぎない。

村長宅に宿泊

ところが、2012年冬、ついにパキスタン・パンジャーブ州農村の村長宅に4泊する機会が訪れた。村長宅といっても、せいぜい8エーカーの土地しか所有していないような小農だったので、一般的なパンジャーブ州の農家だと思う。村長宅のトイレはもちろん洋式水洗ではなく、座り込み式、自分で壺を使って流す南アジア農村の典型的なスタイルだった。さすがに4泊も絶飲絶食、トイレを我慢というわけにはいかないので、ついに自分の手をトイレットペーパー代わりに使わなくてはならなくなった。

写真2 パキスタン、パンジャーブ州農村で滞在した村長宅

写真2 パキスタン、パンジャーブ州農村で滞在した村長宅

右手でジョウロなり壺をもって、左手がトイレットペーパー代わりというわけだが、初めはなかなか上手くいかない。しかも、その年のパンジャーブ州の冬は氷点下を記録し、とても寒かった。農村はポンプ式の井戸インフラしかなく、お湯など望むべくもない。氷のように冷たい水を使っての悪戦苦闘は、本当に修行のようだった。修行の成果か、4日経ち、村長宅を後にする頃にはずいぶん上手にできるようになった。慣れてしまえば、むしろトイレットペーパーを使用するより自身を清潔にできる、清々しい方法であることもよく分かった。

村長や村人は英語ができず、筆者も現地語ができないので直接のコミュニケーションはとれず、事前の打ち合わせから滞在が終わるまで、調査補助員が通訳も兼ねてくれた。外国人である筆者が泊まることに、村長をはじめとする村の有力者たちが色々と心を砕いてくれたことがよく分かった。パキスタンの農村では客人歓待の伝統が根強く、お客様は神様以上のもてなしを受ける。村の外の治安は決してよくないが、一度村に入ってしまえば、何かあれば村人一同が命がけで守ってくれるだろうという安心感があった。実際に夜が寒いという話をすれば、村人が夜通し火鉢の番をする、といった申し出すらあった(悪いので毛布を追加してもらって、寝ずの番は断った)。近隣の村では、欧米人のゲストが泊まりにくるということになり、おもてなしの心で、一晩で洋式トイレを設置したそうだ。

筆者はそもそも洋式トイレを設置するかどうかまでは事前に聞かれなかったし、筆者が滞在した小農レベルの村長宅でそんな無駄遣いをする余裕があったとも思えない。しかし、洋式トイレやトイレットペーパーを設置してもらわなくて本当に良かった。終わってみれば、(完走したことはないが)マラソンを走った後のような爽快感が残った。おかげさまで、仮に日本で店頭からトイレットペーパーがなくなっても、それと同時にウォシュレットが故障したとしても、慌てたりしないくらいの強さは身に着けることができた。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

写真の出典
  • すべて筆者撮影
著者プロフィール

牧野百恵(まきのももえ) アジア経済研究所開発研究センター主任研究員。博士(経済学)。専門分野は開発経済学、家族の経済学。著書に『ジェンダー格差──実証経済学は何を語るか』(中公新書, 2023年)、主要論文に“Marriage, Dowry, and Women’s Status in Rural Punjab, Pakistan” (Journal of Population Economics, 2019), “Labor Market Information and Parental Attitudes toward Women Working Outside the Home: Experimental Evidence from Rural Pakistan” (Economic Development and Cultural Change, forthcoming)等。

書籍:ジェンダー格差──実証経済学は何を語るか

書籍:Marriage, Dowry, and Women’s Status in Rural Punjab, Pakistan

書籍:Labor Market Information and Parental Attitudes toward Women Working Outside the Home: Experimental Evidence from Rural Pakistan