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タイ下院総選挙2023──選挙の先を睨んだ政党間の攻防

Thailand's 2023 General Election: Whither "Fight for Democracy" Ends in Political Compromise?

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053700

2023年5月

(3,854字)

政権交代をかけた選挙戦

5月14日、タイで国会下院総選挙が行われる。今回の選挙では、2014年5月の軍事クーデタで政権を追われたタクシン派政党・タイ貢献党が政権を奪還できるかどうかに注目が集まっている。

選挙が順調に行われた場合、タイ貢献党が下院最多議席を獲得する可能性が高い。問題は、同党が第1党になったとして、果たして自党から首相を選出し、民選政権として返り咲くことができるのかどうかである。

本稿では、各党の公約、各種世論調査の結果から2023年5月のタイ下院総選挙の争点を読み解き、動向を検討する。

バンコク市内で掲げられたタイ貢献党のポスター。

バンコク市内で掲げられたタイ貢献党のポスター。下院解散前から
実質的な選挙運動が始まっている(2023年2月28日)。
連立政権の分裂、攻勢に出る野党

2014年以降、タイは軍事クーデタを実行した国家安全保障評議会(NCPO)の影響下にあった。2019年にはクーデタ後初の国会総選挙が行われたが、NCPOは自らに有利に設計された選挙制度の下でパラン・プラチャーラット党(PPRP)を立て国会に進出し、他党と連立して軍事政権の首班だったプラユットを首相に指名し、政権に留まった。

しかし2022年、ふたつの出来事が政権を揺さぶった。ひとつは、PPRP党内のプラユット首相派とプラウィット副首相派の派閥対立による与党の分裂である。内紛の末にプラユット首相はPPRPを離れ、小政党のタイ団結国家建設党(UTN)から選挙に臨むことになった。PPRPはプラウィット党首のもと政権維持を目指すものの党勢の衰えは否めず、いずれも求心力は低下した。

もうひとつの出来事は、下院選挙制度の改正である。改正前に用いられていたのは「小選挙区比例代表併用制」であった。有権者は小選挙区候補のみに投票し、比例代表議席は小選挙区での得票率を反映して配分された。政党は、小選挙区議席数から算出された割合を超えて比例代表議席の当選枠を得ることができないため、知名度の高い大政党でも大勝しにくい制度であった。これに対し、新たに導入された制度は「小選挙区比例代表並立制」である。同制度では小選挙区と比例代表で個別に議席数を算出することから、大量得票による大勝も可能となる。

改正前に下院で116議席を有していたPPRPは、次期選挙でのさらなる議席獲得を狙い、同じく大政党であるタイ貢献党と歩調を合わせて改正案を成立させた(青木[岡部]・高橋 2023)。しかし、改正直後にPPRPは内紛から分裂し、中小政党として選挙戦に臨むこととなった。PPRPやUTNが新たな選挙制度の下で不利な状況に陥ったのに対し、タイ貢献党は躍進への道を拓かれた状態で選挙戦に臨むこととなった。

世論調査では野党優勢

タイ国内の主な調査機関が2023年に入り行った世論調査の結果は、今次の選挙におけるタイ貢献党の優位を示唆している(表1)。

表1 支持政党にかんする回答結果(%)

表1 支持政党にかんする回答結果(%)

(注)― = データ記載なし 〇=ランク外 黄色は前与党勢力 青は野党勢力
(出所)Matichon online 2023, Matichon Sudsapda 2023, NIDA Poll 2023, Suan Dusit Poll 2023aより筆者作成。

表2 「首相にふさわしい人物」にかんする回答結果(%)

表2 「首相にふさわしい人物」にかんする回答結果(%)

(注、出所)表1に同じ。

タイ貢献党は東北・北部に強固な地盤を持つ一方、タクシンに批判的な保守派の多い南部やバンコクでは不人気だった。しかし今年4月、雑誌『マティチョン』グループが行った調査では、地方に加えバンコクでも同党が支持率でトップに躍り出ている(表1赤字を参照)。また、革新派野党の前進党も党勢を増しており、『マティチョン』グループの調査では、支持率が全国でタイ貢献党に迫りつつある(表1下線部を参照)。前進党は、2019年の前回選挙でクーデタ体制の影響排除を訴え躍進した新未来党の後継政党である。新未来党が2020年に憲法違反で解党処分を受けた後も、王制を含む抜本的な改革を要求し激しい反政府運動を展開した若年層を中心に、改革派の支持を集めてきた。今年3月に行われたスワンドゥシット大学の世論調査でも、若年有権者(18〜30歳)の間で最も支持される政党となっている(Suan Dusit Poll 2023a)。

国立開発行政院の世論調査機関NIDA Pollが3月に行った「首相にふさわしい人物」をめぐる調査でも、タクシン元首相の次女でタイ貢献党の首相候補のひとりであるペートーンターンが優勢である。一方、4月の『マティチョン』グループの調査では前進党のピター党首がペートーンターンを抑え1位となった(表2)。世論調査の結果から見る限り、野党の優勢は明白である。

経済対策競争でタイ貢献党が有利に、政治改革は「前進党vsその他の党」で対立

前回2019年の総選挙では軍事政権からの民政復帰が争点だったのに対し、今回各党の公約は経済政策に集中している(表3)。プラユット政権の8年間でタイの経済成長率は低迷を続けた。さらに2020年以降は、新型コロナウイルスによる経済活動制限、ロシアの原油輸出制限に起因する原油高や国内での物価高などが庶民の生活を圧迫している。有権者の関心が経済問題に向かうなか、各党とも「経済問題解決」を前面に打ち出した1

表3 主要政党の公約概要一覧

表3 主要政党の公約概要一覧

(出所)各政党ウェブサイト、各種報道から筆者作成。

なかでも目立つのは、現金給付や医療・社会保障拡充である。与野党の公約には、低所得者を対象とした「社会福祉カード」による現金給付額の引き上げ(PPRP、UTN)、16歳以上の国民に対する1人1万バーツの支給(タイ貢献党)、農家や漁業組合への補助給付(民主党)、出産・育児、高齢者手当の支給(PPRP、前進党)、30バーツ医療制度の拡充(タイ貢献党)、自営業向け社会保障制度の導入(UTN)、無料がん治療・透析センター設置(タイ矜持党)といった対策が並ぶ。かつてタクシン政権は、低所得層をターゲットに格安の保険料で幅広い治療を受けられる「30バーツ医療制度」や、農家に対する債務繰り延べ、全国の各村落に100万バーツを各々支給して所得向上のための事業を行わせる「村落基金」といった政策を実施し、2005年の選挙では歴史的な大量得票で再選された。反タクシン派はこれらの政策を「人気取り」「ばら撒き」と批判してきたが、今回の選挙では反タクシン派の与党勢力もタクシンの手法を踏襲したかたちとなった。

争点が経済問題に収斂した結果、選挙戦では実績の有無が問われている。この状況は、近年コロナ禍対策の不手際などで支持率を下げたプラユットやPPRPにとっては不利であり、過去の「実績」をアピールできるタイ貢献党には有利に働いている。

一方、政治問題については与野党間で立場が大きく異なっているように見える。しかし、公約を見る限り、不敬罪や王制の政治的位置づけをめぐる亀裂は、与野党間ではなくむしろ前進党とそれ以外の党の間で大きい。

前進党は、刑法112条(不敬罪)や116条(騒擾煽動教唆罪)、コンピューター犯罪法など市民の政治的自由を制限する法律の改正、クーデタ禁止条項を含んだ憲法を国民からなる制憲会議で制定する必要性等を挙げ、「完全な民主主義の実現」を公約に掲げている。他方、タイ貢献党はクーデタの違法化という点では前進党と立場を同じくするものの、現在の政治対立の原因は不敬罪を定めた刑法112条自体ではなくその運用にあるとし、「国王を元首とする民主主義体制」を維持したまま国民制憲議会で新憲法を起草するとの公約を掲げている。政治問題をめぐる両者の立場の相違は大きいことに留意したい。

選挙後の連立形成が今後の鍵に

現行憲法の規定により、選挙後の首相選出は上下院合同の750名で行う。NCPOが任命した上院議員250名はPPRPまたはUTN支持とみられる。このため自党の候補が首相に選出されるために必要な下院議席数は、上記2党が126であるのに対し、タイ貢献党は376以上を確保しなければならない。優位が伝えられるタイ貢献党だが、世論調査結果を見る限り単独で下院の4分の3以上を獲得するのは難しく、他党との連立が鍵となる。問題は、妥協の余地がどこにあるかである。

タイ貢献党と前進党が「反プラユット」で野党連合を形成すれば、国会過半数に手が届くかもしれない。しかし、両党は政治改革をめぐり立場を異にしており連携は難しいと思われる。仮に連立を組んでも、前進党が刑法112条改正などの政治改革を要求し続けた場合、連立政権は憲法違反の疑いで提訴される恐れがある。憲法裁判所は、2021年に不敬罪廃止などの王室改革を訴えた反政府活動家に違憲判決を下した。同様に憲法裁判所がタイ貢献党・前進党連立政権の政治改革要求を違憲と判断すれば、首相は失職し、両党は解党、主要な党幹部は5年間公民権を停止される。政治改革に積極的とはいえないタイ貢献党にとっては、不本意な結果に終わる可能性がある。

政治改革をめぐる妥協の余地は、野党間よりもむしろ前進党以外の党の間にある。タイ貢献党や前進党はUTNやPPRPとの連携を否定している。一方、PPRPは選挙前からタイ貢献党との連携の動きを見せており、UTNのプラユットも「選挙結果を待ちたい」として連立の可能性に含みを残した(Prachathai 2023)。もしタイ貢献党と前与党勢力が「国王を元首とする民主主義体制」の維持で妥協し連立を組めば、2000年代をかけて続いた「タクシン支持派vs反タクシン派」の対立に決着をつけ「国家的和解」を果たしたという名目は立つ。しかしその場合、連立政権は党利党略を最優先した妥協の産物とのそしりを免れず、クーデタに反対し抜本的な政治改革を求める有権者からの反発は必定である。

いずれにしても、タイ政治の行方は選挙の後の連立形成に左右される。どの党にとっても単独での政権獲得が困難とみられるなか、前進党を除く各党は、政治改革の是非よりも政権を得るための連立形成を念頭に置き、互いの腹を探りながらの選挙戦が続くだろう。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
  • 筆者撮影
参考文献
著者プロフィール

青木(岡部)まき(あおき・おかべ・まき) アジア経済研究所地域研究センター動向分析研究グループグループ長代理。専門は国際関係、タイ外交とメコン地域協力。主な著作に、青木まき編著『タイ2019年総選挙──軍事政権の統括と新政権の展望──』(アジア経済研究所、2020年3月)、青木(岡部)まき「メコン広域開発協力をめぐる国際関係の重層的展開」(『アジア経済』第56巻2号、2015年6月)。


  1. 2023年2月に1037人を対象として行ったSuan Dusit Poll(2023b)では、「国民の心に最も響いた各党の公約ベスト5」として、「最低賃金値上げ」(第1位)が高く評価されており、「刑法112条の改正」(第5位)に比べ、国民の関心が経済問題に集中している様子をうかがわせる。
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