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大国の隣で生きる──フィンランドとトルコ

Neighboring countries with great powers: How Finland and Turkey have chosen strategies against USSR and Russia

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053698

2023年4月

(5,898字)

隣国のロシアの脅威への対応

2022年2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻は改めて大国の隣国の難しさを浮き彫りにした。広大な面積をほこるロシアの隣国は数多く存在する。列挙すると陸続きで接している国が北朝鮮、モンゴル、中国、カザフスタン、アゼルバイジャン、ジョージア、ウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エストニア、フィンランド、ノルウェーである。また、海(カスピ海を含む)を挟んで接している国が米国、日本、トルクメニスタン、イラン、トルコ、ルーマニア、ブルガリアである。こうした国々のなかで、ロシアのウクライナ戦争に積極的に反応し、具体的な政策を掲げた国がフィンランドとトルコである。フィンランドは2022年5月18日に北大西洋条約機構(NATO)に加盟申請し、2023年4月4日に正式加盟を果たした。そしてトルコはウクライナ危機勃発後、一貫してロシアとウクライナの間の仲介を試みている。その成果として、開戦後、初めてロシアとウクライナの外相が言葉を交わした2022年3月10日にトルコのアンタリアで実施されたロシア、ウクライナ、トルコの3カ国外相会談、同年7月にトルコと国連の仲介でウクライナ産の穀物を黒海から輸出させる「穀物回廊」実施の合意を挙げることができる。

歴史的に見ても、距離の近さは安全保障上の脅威認識、主権国家を含む政治アクターの生存に最も影響を与える要素の1つであった。国際関係論のリアリズムの代表的な論者の1人であり、国際政治上の均衡にはパワーよりも脅威認識が作用すると論じたスティーヴン・ウォルトは、総合的なパワー、地理的近接性、攻撃的能力、攻撃的意図を脅威認識形成のための諸要素として挙げている1。もちろん、脅威認識を高めた諸国家がすべて同じ対応をするわけではない。ウォルトは脅威に対して、他の勢力と同盟して対抗する「バランシング」と脅威の源泉と同盟を結ぶことで勝ち馬に乗る「バンドワゴニング」という2つの戦略を提示している。この2つに加えて脅威と脅威に対抗する勢力の両方と関係を維持する「ヘッジング」が近年、戦略として脚光を浴びている。これまで中立政策と呼ばれていた対応もヘッジングの1つの形態である。ロシアのウクライナ侵攻に対するフィンランドやトルコの対応の違いが正にその典型であろう。つまり、フィンランドはNATOに加盟することでロシアに対する「バランシング」を選択したのに対し、トルコはウクライナとNATO、そしてロシアとの関係改善を模索する「ヘッジング」を選択した。

本稿ではフィンランドとトルコを事例として取り上げ、隣国であるソ連/ロシアという脅威にどう対応してきたのかを歴史的に振り返りながら、両国がなぜウクライナ侵攻をきっかけにそれまでのロシアへの対応を変化させたのかを考える。

ヘルシンキの建物ではウクライナの旗が多く掲げられている (左・ヘルシンキ市庁舎、右・ヘルシンキ中央駅)

ヘルシンキの建物ではウクライナの旗が多く掲げられている
(左・ヘルシンキ市庁舎、右・ヘルシンキ中央駅)
フィンランドの対ソ連・ロシア観

ソ連およびロシアと国境を接しているフィンランドは常に同国を意識した外交政策を展開してきた。冷戦時代、西側諸国に同調しつつもソ連との良好な関係も継続した。冷戦初期に「フィンランド化(finlandization)」とも表現されたように、ソ連/ロシアに迎合する姿勢が外交の特徴であった。

フィンランドのこうしたソ連/ロシアへの脅威認識は1300キロの国境を接するという地理的近接性および地政学的位置に加え、歴史的な出来事から醸成されてきた。フィンランドは1917年12月に独立するまで、100年間にわたりロシアの支配を受けてきた。独立に際しても、フィンランド国内でドイツやスウェーデンが支援する白衛軍とソ連が支援する赤衛軍が激しく戦い、白衛軍が勝利した2。そのため、フィンランドとソ連の関係は戦間期を通して不安定なままであった。フィンランドは世界が第2次世界大戦に突入していくなかで大国の後ろ盾を欲し、特にドイツとの関係を深めた。しかし、それがソ連を刺激し、フィンランドとソ連の間で対ドイツ戦略に関して交渉が実施されたが合意に至らず、1939年11月30日にソ連はフィンランドへの攻撃を開始した。フィンランドも激しく抵抗したため、1940年に停戦が成立したが、その後もフィンランドがドイツと手を組む形でソ連に抵抗した3。1944年9月19日にフィンランドとソ連の間で停戦協定が成立したため、フィンランドはドイツと決別し、その後は連合国の一員としてドイツと交戦した。このように、フィンランドにとってソ連は歴史的に、常に安全保障に影響を与える存在であった。

トルコの対ソ連・ロシア観

次にトルコの対ソ連・ロシア観を概観する。1923年10月29日に独立したトルコ共和国の政策決定者たちはトルコをオスマン帝国の後継国家と見なす傾向がある。そのオスマン帝国はロシアと13回におよぶ戦争を経験した。ロシアは黒海から船舶を外界に放つため、常にボスポラス海峡とダーダネルス海峡を勢力下に置くことを目指してきた。

しかし、ロシア革命後の革命政権は当初、南下政策を停止し、1920年代に同じ新興国であったトルコ政府と関係を深めていく。正確には、トルコ政府が樹立する前にムスタファ・ケマルが西洋列強とギリシャのアナトリア(現在のトルコ共和国の領土)への進出を食い止めるべく発足させた「アンカラ政府」時代の1921年3月に、友好条約が締結された4。この友好条約はトルコ政府発足後の1925年に不可侵・友好条約として再締結された。さらに、両国は不可侵・友好条約を1929年に延長し、黒海での非武装条約に調印した。

こうしたトルコとソ連の良好な関係に波風が立ち始めるきっかけとなったのが、トルコのボスポラス海峡とダーダネルス海峡の主権の回復であった。第1次世界大戦後に敗戦国であるオスマン帝国は両海峡の主権を失い、1922年から1923年にかけてのローザンヌ条約でもトルコは両海峡の主権を回復できなかった。しかし、1930年代に入り、トルコの両海峡の主権回復に難色を示してきた英仏が、ドイツやイタリアでのファシスト勢力の拡大を受け、また、ソ連が伝統的な南下政策に回帰することを懸念し、トルコの両海峡の主権回復を前向きに検討するようになった。そして、1936年7月に批准されたモントルー条約によってトルコは両海峡の主権を回復した。このトルコの両海峡の主権回復に対しソ連は不満を募らせた。ソ連がこの不満を具体的な政策に移したのは、第2次世界大戦終結前後であった。この時期、トルコはソ連との不可侵・友好条約の延長を希望し、1945年3月と6月に交渉を行ったが、ソ連側は(1) 1921年にトルコに譲渡したカルスとアルダハンの返却、(2) トルコ海峡にソ連の基地を建設、(3) モントルー条約の刷新、という3点を要求した。トルコはこれを拒否したため、両国関係は険悪なものとなった。さらに、同年10月にソ連がブルガリアに対して軍部を動員し衛星国家化したことを受け、トルコの対ソ脅威認識は最高潮に達した。

冷戦期の異なる両国の対ソ連対応

上で見てきたように両国にとってロシア・ソ連は潜在的・顕在的な脅威であった。フィンランドにとっては、戦間期同様、第2次世界大戦以降の冷戦期においてもソ連は常に脅威であり続けていた。一方、トルコは戦間期にはソ連と不可侵・友好条約を締結していたが、冷戦期に入り、ソ連がオスマン帝国期のように南下政策を選択しようとしたため、再度脅威として台頭した。

この状況で両国が選択した対ソ政策は対照的であった。まず、フィンランドはソ連との共存が不可避と考え、西側とソ連との間の中立を選択した。フィンランドは米国による欧州復興のためのマーシャル・プランもソ連を刺激することを考慮し、対象国に入らなかった。この中立政策は1944年から1956年にかけて首相(1944~46)と大統領(1946~56)を務めたユホ・クスティ・パーシキヴィと、その後大統領を務めたウルホ・ケッコネンの時代に積極的に展開された5。ケッコネン大統領は1956年から1982年まで長期にわたり政権運営に携わった。

フィンランドの中立政策は冷戦初期、自国の安全保障を第一に考えた受け身のものであったが、次第にその外交が積極的かつ両陣営の和解を促すものに変わっていった。冷戦期におけるフィンランドの最大の外交成果は、1973年から進められ、最終的に1975年に欧州安全保障協力機構(CSCE)発足にこぎつけた「ヘルシンキ・プロセス」であった。これにより、フィンランドの中立政策は国際的な支持を集めるに至った。

一方、トルコは西側の一員となることでソ連の脅威を防ぐ路線を選択した。トルコはトルーマン・ドクトリンおよびマーシャル・プランにより援助を受けるとともに、1949年に発足するNATOの原加盟国となることを目指した。結局トルコはNATOの原加盟国になることはできなかったが、朝鮮戦争への大規模な派兵などが米国などから評価され、1952年のNATOの第1次拡大でギリシャと共にNATOの一員となった。このようにトルコがフィンランドと異なる政策方針をとった背景には、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡を保有するトルコの地政学的重要性や、トルコの政治指導者たちが建国以来、西洋諸国の一員となることを目指してきたといった要因がある。

しかし、NATO加盟後、安全が保障されたはずのトルコの政策決定者たちは、ソ連の脅威認識を一層強く感じることとなる。なぜなら、地続きでソ連と接する唯一のNATO加盟国であるトルコがNATOの対ソ戦略の重要な拠点となったことで、トルコ政府はソ連からの報復を恐れるようになったためである。1960年5月に起こったU-2事件ではソ連領内で撃ち落とされた偵察機がトルコの基地から発進しており、1962年10月のキューバ危機ではソ連に向けたジュピターミサイルがトルコ領内に設置された。キューバ危機以降のデタント期(緊張緩和期)にトルコはソ連との関係を修復させたが、1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻により、再び米ソ間の緊張が高まると(新冷戦)、トルコとソ連の関係も冷え込んだ。

反転する両国の対ロシア政策

上で見てきたように、冷戦期はフィンランドが西側とソ連の間の中立政策を選択し、一方でトルコは西側の一国となることでソ連の脅威を低減しようとした。しかし、冒頭で見たようにロシアのウクライナ侵攻に際しては、トルコがロシアと西洋諸国が支援するウクライナの間の仲介を積極的に試みているのに対し、フィンランドはスウェーデンと共にNATO加盟を希求し、西洋諸国の一員となることでロシアを牽制しようとしている。興味深いのは、両国の対応が冷戦期とは反転している点である。これはなぜなのか。

フィンランドに関しては、ソ連崩壊と欧州連合(EU)加盟のインパクトが大きかった。ソ連崩壊により、西側とソ連の間の中立を模索する「パーシキヴィ・ケッコネン」路線を再考する必要が生じた。そうしたなか、フィンランドと同様に東西の中立政策を採っていたスウェーデンやオーストリアがEU加盟申請に舵を切り、EUに加盟していった。フィンランドも国内でさまざまな議論があったが、最終的に国民投票の結果、フィンランド政府はEU加盟を決断するに至り、1995年にEU加盟国となった6。これにより、フィンランドは明確に西洋諸国の一員となった。

一方のトルコは、1980年代からEC/EU加盟を目指したものの、現在に至るまでEU加盟国とはなっていない。ただし、1995年12月31日に欧州関税同盟に加盟したため、経済的にはヨーロッパの一員となっている。一方で1990年代以降、親イスラーム政党が政治的影響力を増し、2002年11月の総選挙で公正発展党が単独与党となると、イスラームというアイデンティティの重要性が強調されるようになった。さらに2015年以降、非合法武装組織であるクルディスタン労働者党(PKK)との和平交渉の決裂、2016年7月15日クーデタ未遂事件などがあり、イスラームに加えてトルコ人であるというトルコ・ナショナリズムも強調されるようになった。このように、トルコはフィンランドとは異なり、NATO加盟国であるものの、アイデンティティはヨーロッパの一国とは言えない状況であった。

その地理的近接性から、フィンランドとトルコはロシアと経済的に密接な関係にある。一方で政治的・安全保障的な観点から見ると、フィンランドはロシアよりも同じくEU加盟を果たした隣国スウェーデンとの関係を深めた。2014年以降、両国は2国間の安全保障政策の統合を進めながら、米国や英国との多国間協力も展開した7。それに対しトルコは、NATOの一員であるものの、2011年3月から続くシリア内戦の停戦交渉をロシアやイランと共に協議したり、シリア北部をトルコとロシアが共同で監視活動を行ったりするなど、トルコの安全保障において重要なシリア問題でロシアの協力が不可欠となっている。こうした背景もあり、トルコはロシアに対して「バランシング」するのではなく、西欧諸国とロシアの両方に対し、「ヘッジング」を展開した。

固定化しつつある両国の脅威への対抗策

ここではフィンランドとトルコの冷戦期とロシアのウクライナ侵攻に対する対応の違いを比較・検討した。大国の隣でどのような戦略を用いて安全を確保するのか、その答えはひとつでないことをフィンランドとトルコの事例で明らかにしてきた。

ロシア/ソ連への脅威認識に対する両国の対応は、冷戦期とウクライナ侵攻で反転した。フィンランドは「ヘッジング」から「バランシング」へ、トルコは「バランシング」から「ヘッジング」に転じた。その要因として、フィンランドに関してはEU加盟、NATO加盟という外交アイデンティティの変化が、トルコに関してはロシア以外の脅威への対応といった点が挙げられる。フィンランドが2023年4月4日にNATO加盟を果たしたのに対し、トルコはロシアの仲介の下、アサド政権との関係改善を進めたり、ウクライナ産の穀物輸出合意の延長に奔走したりするなど、両国はますます「バランシング」と「ヘッジング」を追求しているようにみえる。ロシアによるウクライナ侵攻の終結が見通せないなか、フィンランドやトルコをはじめとする周辺諸国がロシアの脅威に対してこれまでと同様の戦略を採り続けるのか、それとも戦略を変化させるのか、引き続き注意深く考察していきたい。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
  • 筆者撮影
著者プロフィール

今井宏平(いまいこうへい) アジア経済研究所海外派遣員(アンカラ)。Ph.D. (International Relations). 博士(政治学)。近刊に『戦略的ヘッジングと安全保障の追求──2010年代以降のトルコ外交』有信堂高文社(2023年6月刊行予定)、『クルド問題』岩波書店(編著、2022年)、『教養としての中東政治』ミネルヴァ書房(編著、2022年)がある。


  1. スティーヴン・ウォルト(今井宏平・溝渕正季訳)『同盟の起源』ミネルヴァ書房、2021年、28〜33ページ。
  2. 石垣泰司「戦後の欧州情勢の変化とフィンランドの中立政策の変貌」『外務省調査月報』2000/No. 2, 91ページ。
  3. 同上論文、93〜94ページ。
  4. Elif Hatun Kılıçbeyli, “Türkiye-Rusya: Dostluk ve Kardeşlik Antlaşması ile Başlayan Bolgesel İşbirliği,” in Elif Hatun Kılıçbeyli (Der), 100. Yılında Türkiye-Rusya İlişkileri, Nika Yayınevi, 2021, pp. 25-27.
  5. 冷戦期におけるフィンランドの中立外交に関しては、例えば、高木道子「転換期フィンランド外交の論理と実践──コイヴィスト外交再評価」『法政論集』(名古屋大学)253号、2014年、92〜101ページ。
  6. フィンランドのEU加盟に関しては、柴山由里子「フィンランドのEU加盟に関する一考察──冷戦終結後の論理と決断」『ソシオサイエンス』Vol.17, 2011年、65〜80ページを参照。
  7. Robin Forsberg, Aku-M. Kähkönen, and Janna Öberg, “Implications of a Finnish and Swedish NATO Membership for Security in the Baltic Sea Region,” Willison Center Website, 29 June, 2022. (2023年3月10日閲覧)。
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