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コラム

ワールド・イン・ファッション

第5回 仕立屋Nが描く夢──ポスト・コロナのイスタンブルから

A Story of Tailor N: Dreaming a Better Future in post-COVID Istanbul

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00054497

2023年7月
(3,796字)

イスタンブルの繁華街を歩いていると、女性のファッションが様々なことに気づかされる。私たちも見慣れたジーンズとタンクトップの組み合わせやスーツの女性がいるかと思えば、スカーフで髪を被い、色とりどりのロングコートできめた女性がおり、目と手をのぞく全身を黒いチャルシャフですっぽり覆う女性がいる(ちなみに男性の服装は東京のそれとそれほど変わらない)(写真1~3)。実に多種多様なのだが、共通点はひとつ。彼女たちが身に着けるもののほとんどは、店舗やインターネットで購入したものである可能性が高い。

写真1 三者三様のスタイルで。子どもはビタミンカラー(イスタンブル市内)。

写真1 三者三様のスタイルで。子どもはビタミンカラー(イスタンブル市内)。

写真2 チャルシャフ(右端)とチャルシャフに準じる黒のロングコートとスカーフの組み合わせ(イスタンブル市内)。

写真2 チャルシャフ(右端)とチャルシャフに準じる黒の
ロングコートとスカーフの組み合わせ(イスタンブル市内)。

写真3 イスタンブル随一の繁華街、イスティクラル通りを闊歩する若者たち。

写真3 イスタンブル随一の繁華街、イスティクラル通りを闊歩する若者たち。

日本と同様、既製服が氾濫するトルコだが、服を買うことが一般化したのはそれほど昔ではなく、1980年代以降のことである。それまでは、衣服は主に家庭でつくるか仕立屋につくってもらうものだった。

トルコにおける洋装化はオスマン帝国末期の19世紀に開始し、共和国の成立(1923年)と近代化改革により加速したが、それを支えたのが仕立屋だった。共和国成立後、1950年代にかけて、伝統的な見習い制度とは別に各地に専門学校がつくられ、洋装専門の仕立屋の養成が進められた。仕立屋の全盛期である。

同じころ既製服も市場に出回りだした。国営部門を中心にアパレル産業が発展し、1980年代からは輸出向け生産が始まった。既製服の輸出額は1980年の1300万ドルから1990年に 29億ドル、2008年には115億ドルに達した。主な輸出先はドイツをはじめとするEU諸国および米国である。またそれと平行して検品ではねられたB級品が国内市場に流通するようになった。2007年ごろからは中国やバングラデシュから安価な製品の輸入も増えた。

既製服の普及は仕立屋の減少につながった。1965年に全国に3万1935あった仕立屋は、2015年には1万8466に減少した。同じ時期に人口は3100万から7800万に増加したから、人口1万人あたりの仕立屋の数は10.3から2.4へ、四分の一以下になった計算になる。仕立屋の業態にも変化が生じた。注文服製作だけでは経営が成り立たず、ズボンの裾上げやウェスト幅の調整、裏地の張替えといった修繕やテキスタイル製品(カーテンなど)の加工をもっぱら行う仕立屋や、服を仕立てられない修繕専門の仕立屋が登場し、昔ながらの仕立屋は、高所得の顧客相手の高級服仕立が中心になった(Onur 2019)。

仕立屋Nの店

イスタンブルで婦人服専門の仕立屋を営むNは、1966年生まれの56歳。母が近所の女性たちに頼まれて服を仕立てるのを見て、この仕事に憬れた。高校卒業後、故郷の町の成人教育センターで洋裁を学び、センターの教師になった。その後移り住んだイスタンブルでは、当時すでに花形産業に成長していたアパレル製造の縫製工場に就職した。仕立屋は全工程を基本的にひとりでこなすが、既製服の製作は型紙の作成、裁断、縫製など各工程を分業する。縫製だけでも襟つけや袖つけ、ボタン穴など細かく工程が分かれ、使用するミシンも異なる。同じ服作りでも仕事の内容はまるで違ったが、夫と別れ、シングルマザーとして娘を育てるのに必死だった。縫製工として10年働き、念願の店をもったのは30歳のときである。

店のあるスルタンベイリ地区はイスタンブルのはずれに位置し、地方出身の移住者が多く保守的な地区として知られる。客の多くがスカーフをつけ、ロングコートで身体を覆う女性たちだ(写真4)。

写真4 スルタンベイリの中心街を歩く女性たち。

写真4 スルタンベイリの中心街を歩く女性たち。
スカーフとロングコートを身に着けている。

中心部のあちこちで仕立屋を見かけるが、ほとんどが修繕専門であるのに対し、Nの店は修繕、デザイン変更(リメイク)、ウェディングドレスなどドレス類のレンタル(身頃をほどいてサイズ調整する)とともに、注文服の製作を手がける。「肌着以外はなんでも」仕立てるが、Nがとくに力を入れるのは披露宴で女性が着用する、トルコ語でアビエ(フランス語で盛装を意味するhabilléに由来)と呼ばれるロングドレスだ(写真5、6)。

トルコでは結婚式、婚約式、結婚前夜の「ヘナの夜」(身内や友人の女性が新婦の手の平に植物性の染料ヘナを塗って別れを惜しむ)、男児の割礼の祝いなど、節目ごとに披露宴が開かれ、老いも若きも踊って楽しむ。家族の懐具合にもよるが、披露宴専用の会場を借り、楽団を雇って盛大に行うことが多く、年々派手になる傾向にある。

新婦は結婚披露宴では純白のウェディングドレス、婚約披露宴ではアビエ、「ヘナの夜」ではアビエの上にオスマン帝国風のビロードの刺繍入り長上着を羽織るのが最近の流行りだ。披露宴では新婦以外の女性たちもアビエやワンピース、ドレッシーなパンツドレスなどで着飾る。

スルタンベイリの結婚披露宴の様子
[KOMA ŞENGAL] İSTANBUL SULTANBEYLİ VANLILARIN [BOMBA DÜĞÜNÜ]

写真5 スルタンベイリの中心街は披露宴関連の店が軒を連ねる。

写真5 スルタンベイリの中心街は披露宴関連の店が軒を連ねる。

写真6 レンタル用のウエディングドレス(左端と奥)とアビエ。

写真6 レンタル用のウエディングドレス(左端と奥)とアビエ。
アビエは胸元が大きく開いたデザインが多いが、スルタンベイリでは
露出の少ないタイプが人気だ。パニエ(スカートを膨らませるための
アンダースカート)をつけずにすっきり着ることもできる。

仕立屋としてのNの眼と腕は確かだ。似合うものを見抜き、客の好みや予算と折り合うデザイン・素材を提案する。型紙をほとんど使わず、客の身体のサイズを測ると、躊躇なく生地に鋏を入れていく。シンプルなアビエなら、裁断から縫製まで2時間足らずで仕上がる。仕事が早く確実なうえに料金も良心的なので、Nの店は固定客がつき、評判を聞いた客が次々に訪れる人気店として地域に根づいてきた(写真7~9)。

写真7 ミシンに向かうN

写真7 ミシンに向かうN

写真8 仕事の合間に一服。

写真8 仕事の合間に一服。スルタンベイリの女性
には珍しく、ジーンズをはきこなす。

写真9 この日は勤め帰りの客を待っていた。

写真9 この日は勤め帰りの客を待っていた。
二人目を出産した娘を手伝いに、家路を急ぐ。
ポスト・コロナの披露宴ラッシュと仕立屋への回帰

2020年春に始まった新型コロナ・ウィルス感染拡大によりトルコ経済は打撃を被り、Nの店ももれなく経営不振に陥った。披露宴は中止になり、利益の大きいレンタル・ドレスやアビエの注文がなくなった。服を新調する人も減った。Nから筆者に届くメッセージは暗い内容が増えた。

しかし昨秋(2022年10月)、久しぶりに店を訪ねると、Nの表情は思いのほか明るかった。感染症が収束し披露宴が解禁された夏以降、アビエをはじめ注文服の仕事が殺到するようになったというのだ。服を新調するゆとりのない層からは、手持ちの服のリメイクの依頼が急増した。20年以上仕立ての仕事をしてきて、初めてのことだ。記録的なインフレが続き、みな生活は苦しい。それなのに価格交渉どころか、値段も聞かずに注文するのだという。

なぜかと問う私にNは、「結局、見栄っ張りなのよ」と笑った。女たちは「誰より素敵に、特別でありたい」と願う。これまで披露宴どころか外出もままならなかったことへの反動で、誰よりも綺麗になって輝きたい、注目されたいという気持ちが爆発したというのだ。Nならネットで拾った画像を送れば、そのとおりのデザインに仕立ててくれる。彼女たちが「ほかのひとと同じは嫌」と思う限り、どんなに不景気でもドレスの需要はなくならない。いちど着れば「みんなに見られたから」といって、次の披露宴では新調するだろう。リメイクという手もある。たかが披露宴というなかれ。披露宴の種類が多く、若年人口の多いトルコでは、披露宴の頻度は日本とは比べものにならないのだ(写真10)。

写真10 仮縫いのアビエ(手前の二着)。

写真10 仮縫いのアビエ(手前の二着)。
客に試着してもらい補正する。

もうひとつ、アビエのオーダーは散財のように見えて、実は既製服を購入するより経済的でもある。価格高騰で既製服には手が出せなくなった。Nによると、デザインも生地もごく平凡なアビエが2000~4000リラする(2022年10月当時1リラ=約10円)。住民の大半が法定最低賃金(月額5500リラ)で生計をたて、家賃3000リラ以下の家はないスルタンベイリで、これは法外ともいえる価格である。クレジットカードで分割払いにしても、とても追いつかない。だがNなら市場で通常の半額以下で生地を仕入れ、仕事も早いので、同じドレスを生地代込みで700リラで引き受けることが可能だ。様々な条件が重なりあって生まれた状況であるが、Nは「仕立屋はなくなっていない、これは仕立屋への回帰だ」という。

Nの夢、仕立屋の未来

仕立屋の仕事は不安定だ。夏の披露宴シーズンや祭日前の書き入れ時は、連日夜中まで働き、景気が冷え込めば何日も仕事がない日が続く。そんな生活に疲れ、以前のNは故郷に戻り畑でもやりながら静かに暮らしたいと漏らすことがあった。今も注文こそ増えたが、物価高はミシンの電気代や生地や糸など材料費に及び、家賃も値上がりして経営は楽ではない。しかし客足の回復に加え、おめかしの機会がある限り「私だけの素敵な一着」を望む女性はいなくならないことを改めて実感したことで、Nは今、ある計画を温めている。それは店にNがデザインし制作した見本を置き、客から注文をとる、ブランドショップ兼仕立屋への転身だ。

写真11 生地に触れ、デザインを考える。

写真11 生地に触れ、デザインを考える。

これまでも自分でデザインした服や客に仕立てた服の写真をSNS上にあげてきたが、店に実物を置き、試着もしてもらう。20年を超える経験の蓄積をもとに、いつか自分のブランドを立ち上げたい。今考えているのは二色使いだ。定期市では上質の端切れが安く手に入る。一着分には足りなくても、二種類組み合わせれば一着つくれて、コスト削減にもなる。

生地に触れていると力が湧いて、どんどんアイディアが浮かぶ。生地は絵具で、服はキャンバス。こうしていると画家になったような気持ちになるのよ。そう語るNの眼は、久しぶりに輝いてみえた(写真11)。

トルコでは、仕立屋はいずれ消える職業のひとつに数えられてきた。修繕に特化した業態は、仕立屋の未来を暗示しているようにもみえる。だが消費者が個性をより重視し、嗜好が多様化するなか、今後デザインまで手掛ける高級仕立服の需要が高まると予測する向きもある。私はNの夢がかなうことを祈っている。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

写真の出典
  • 写真1 Adam Jones(CC BY 2.0
  • 写真2 Miomir Magdevski, Own work(CC BY-SA 4.0
  • 写真3 Hamza Khalifa99, Own work(CC BY-SA 4.0
  • 写真4~11 筆者撮影
参考文献
  • Onur, Orhan Ertuğrul(2019) “Kapitalist Toplumda Zanaatın Dönüşümünü Terzilik Üzerinden Okumak: İstanbul Örneği.”(マルマラ大学に提出した修士論文)
  • トルコ統計局ウェブサイト
著者プロフィール

村上薫(むらかみかおる) アジア経済研究所新領域研究センタージェンダー・社会開発グループ主任研究員。専門はトルコ地域研究、ジェンダー研究。おもな著作に、『不妊治療の時代の中東──家族をつくる、家族を生きる』(編著)アジア経済研究所(2018年)、「名誉殺人と二つの家族像──トルコの刑法改正が映しだすもの」『うつりゆく家族』(竹村和朗編)明石書店(2023年)など。