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コラム

新興国発イノベーション

第10回 イノベーションの春は到来するのか(チュニジア)

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051845

金 信遇

2020年10月
(6,539字)

「ヤーホーヤ、C’est gratuit!(お兄さん、無料だぞ!)」

チュニジアの首都チュニスの中心街を歩いていると、アラビア語とフランス語が混ざったアラビア語北アフリカ(マグリブ)方言で話しかけられる。色鮮やかなトラックの前で青年が配っているのは無料のパケット通信カードである。チュニジアは、スマートフォンとインターネットの使用が日常化し、通信会社の激しい新規顧客獲得競争が行われるなど、中東・北アフリカのなかでも情報通信技術がすすむイノベーションの先進国となっている。

チュニジアといわゆる「アラブの春」

チュニジアという国に対してあまりイメージが湧かない人のために、まずチュニジアがどんな国なのか簡単に紹介しておこう。

写真1 チュニス中心街ブルギーバ通りの風景

写真1 チュニス中心街ブルギーバ通りの風景
「両足はアフリカに、心はアラブに、頭はヨーロッパに」と言われるように、チュニジアはアフリカ大陸の北端に位置している。国土面積は日本の40%程度で、人口は約1200万人弱。そのほとんどはアラブ人であり、イスラーム教徒である。母語はアラビア語だが、1881年から1956年までフランスの保護領として植民地支配を受けていたため、広くフランス語が通じる。生活様式や町中の風景にも植民地時代の名残をとどめている。チュニスの中心街には、コロニアル風の白い建物や現代的な高層ビルが立ち並ぶブルギーバ通りがある。通りの両側に点在するテラスカフェにはレザージャケットとデニムを着こなしてエスプレッソを飲むチュニジア人で溢れかえっており、ヨーロッパの都市を連想させる。

写真2 チュニス旧市街地入り口のバーブ・ブハル

写真2 チュニス旧市街地入り口のバーブ・ブハル

ブルギーバ通りの終点には素朴な凱旋門(バーブ・ブハル、海の門)が立っており、その門をくぐり抜けるとメディーナと呼ばれる旧市街地が始まる。香辛料と香水の匂いに酔いながらくねくねした道を歩くと伝統的なカフワ(カフェ)でミントティーを飲みながら水たばこを吸うお爺ちゃんたちを見かけることができる。チュニスはまさに古今東西の文化が混在している都市なのだ。

チュニジアが初めて全世界の注目を浴びたのは2010年の冬のことだった。チュニジアの内陸都市シーディー・ブージッドで、路上販売で生計を立てていたムハンマド・ブアジージーという青年が、警官の過度な取り締まりを受けて焼身自殺したのである。この凄惨な光景は携帯電話で撮影され、Facebookなどのソーシャルメディアを通じてあっという間にチュニジア全土に、さらにはアラブ諸国全域に広まった。揺らぎそうになかったアラブの権威主義体制がドミノのように倒れていく、いわゆる「アラブの春」の始まりである。長年続く抑圧と不公平、不公正に対抗するために民衆をつなぐ役割を果たしていたのがソーシャルメディアであったことから、この民主化革命は「Facebook革命」と呼ばれた。チュニジアの人々は、当時すでにインターネットや情報通信技術に精通しており、イノベーションの基礎が作られていたとも考えられる。

イノベーションの風と国家政策

チュニジアも新型コロナウイルス感染症の世界的拡散から逃れることはできなかった。2020年3月2日、最初の感染者が発生した。多くのチュニジア人がイタリア、フランスを中心とするヨーロッパ諸国に労働移住しており、最初の感染者はイタリアから帰国したチュニジア人であった。国内感染者の増加を受けて、3月18日から5月末まで日中の外出制限と夜間の外出禁止令が施行された。チュニジアにおけるイノベーションの進展を印象付けたのが、この自粛期間中にマスクをつけた警察、軍人と一緒にチュニス市内を見回っていたPGuardという監視ロボットである。内務省が運用するこの監視ロボットは街を歩いている人を発見するとすぐに近づき、外出理由を尋ねる。質問を受けた人は、ロボットに搭載されているカメラに向けて身分証明書と外出理由を証明する書類を見せなければいけない。チュニジアのEnova Robotics社によって開発されたこの遠隔監視ロボットは、多くのアラブメディアや西洋メディアで取り上げられた。

また2020年9月スース地域の病院では、「ジャスミンロボット」が患者を迎え入れ、新しい患者が来院すると赤外線カメラで患者の体温と酸素濃度などを測り、第一診断を行っている。「100%チュニジア製(Made in Tunisia)」であることを強調しているこのロボットは、医療従事者の負担や患者との接触を軽減させることを目的として開発されたものである。

そして、次々とイノベーションが起こっているのが農業分野である。IRIS Technologies社が開発した「SmartBee」は、養蜂家のためのシステムである。蜂の巣に専用のデバイスを設置すると、ユーザーはスマートフォンのアプリを介して、蜂の巣の状態をリアルタイムで確認できる。予期せぬ問題が起きた時には警告のメッセージが送信され、蜂の死を防ぎ、生産性を高めるのに役立つ。その他にも、大手通信企業との連携による灌漑設備の遠隔管理システムの開発も行われている。

もう一つ紹介しよう。通信企業Orange社による2020年度社会起業家賞(Prix Orange de l’Entrepreneur Social)の3等賞を受賞した「Lore&Heart」は、伝統工芸商品の輸出を促進するためのデジタルプラットフォームサービスである。インターネット上でそのまま購入できるマーケットプレイスを設けると同時に、パリにオフラインのポップアップストアを開設することで、市場経済から疎外された農村の職人の商品の販売促進につなげている。

こういった新たな技術の開発と実用化の動きは新型コロナウイルス感染症発生以前から存在し、特にチュニジア人の経済活動と密接な領域においては、民間から様々なアイデアが出されてきた。大学や企業主催のビジネスコンペティションも多数存在しており、多くの若者が自分のアイデアを世の中に出すための準備を進めている。さらにチュニジアは、アラブ諸国、またアフリカ大陸のなかでイノベーションの拠点になるべく、国家主導でイノベーション産業に対して積極的な支援を行っている。チュニジア開発省が2016年7月に発表した「2016年~2020年開発計画」では、開発の重点目標の一つとして、「イノベーションとクリエイティビティの促進」と「デジタル経済の普及」が掲げられている。その代表的な取り組みがスタートアップ企業の支援であり、2018年にアフリカ大陸では初めてのスタートアップ支援法である「Startup Act」が採択された。テクノロジーを活用する新興企業のうち、従業員数100人未満で、かつ資本金の3分の2以上が個人所有や投資ファンド等であるような企業に対して、最大8年間法人税を免除するなどのメリットを与えるものである。また、スタートアップ企業を政府が公認しており、リストを公開している。政府の公式サイトでは300社程度の面白いアイデアを見ることができる(フランス語のみ)。さらに興味のある読者の方は2019年3月にジェトロが発行したチュニジアのスタートアップに関するレポートを参照されたい。

国土面積が狭く、天然資源をほとんど有しないチュニジアが、新たな技術を基盤とするイノベーション立国を目指すのは当然なことかもしれない。現在はチュニジアのGDPの約6割をサービス業が占めている。主に観光業がチュニジアの中心産業であったが、新型コロナウイルス感染症により観光業の停滞を余儀なくされた今、イノベーション産業への移行にさらなる拍車がかかるだろう。

実際、チュニジアのイノベーションに関する活動は国際社会でも評価されている。国際知的所有権機関(WIPO)による2020年グローバルイノベーション指数では世界65位にランクインし、中東・北アフリカ地域では3位(同地域1位はイスラエル、2位はアラブ首長国連邦であり、それぞれの世界ランキングは13位と34位)、アフリカ大陸ではモーリシャス(世界52位)、南アフリカ共和国(世界60位)に次いで3位を占めている。

イノベーションと教育

国家によるイノベーション政策の実行のためには高い水準の教育が必要不可欠である。実はチュニジアは中東・北アフリカ地域(またはアフリカ大陸)のなかで、教育面において成果を出している国である。世界銀行のデータによると、近年の初等教育の純就学率は100%に近く、2018年時点の大学進学率は約32%である。

チュニジア全国に教育が普及したのは、チュニジアの近代化の父とも呼ばれる初代大統領ハビーブ・ブルギーバ(上述したブルギーバ通りはこの大統領の名前からきている)が教育立国を目指した時から始まる。独立後、主に公的部門で仕事をしていた多くのヨーロッパ人が本国に帰国したことで、国を率いるエリート養成が喫緊の課題となった。同時に、経済と社会の近代化や、国民統合を行うために、国民教育システムの整備も急務であった。ブルギーバは、植民地時代に作られたフランス式近代教育を踏襲しつつ、現在でも行われる教育システムを構築した。アラビア語化運動の動きもあったなかで小学校3年目からフランス語の授業を行い、特に自然科学の授業においては授業自体をフランス語で展開するようにした。大学教育においても文学、歴史学、宗教学以外の分野のほとんどはフランス語のテキストを使用し、授業、テストともにフランス語で行うようにした。さらに近年は中等教育での英語の授業の比重も大きくなっている。

ここでイノベーションを生み出す人的資本の基礎となるチュニジアの高校のシステムをもう少し詳しく見てみよう。チュニジアの一般高校では日本のように文系・理系に分かれるのではなく、より細かい専門に分類される。チュニジアの一般高校は4年制であるが、1年目に共通科目を履修した後、2年目から大まかな専門分野に分かれて異なるカリキュラムで履修科目を決める。3年目から専門は7分野(人文、数学、実験科学、技術科学、情報科学、経済と経営、スポーツ)に分かれており、いわゆる理系の方がより細かく分類されていることがわかる。一方で、2018~19年度の高等教育機関の登録者の専門分野を見ると、全体の27.8%が技術・工学分野を勉強している(チュニジア高等教育省のデータ)。日本の場合、文科省の学校基本調査によると2019年度の工学部門の学生は全体の14.6%であることから、チュニジアにおける関連分野専攻者の比重が高いことがわかる。彼らの受け皿として、国立応用科学・技術研究所(Institut National des Sciences Appliquées et de Technologie)、高等情報研究所(Institut Supérieur d'Informatique)、国立チュニス工学学校(Ecole Nationale d'Ingénieurs de Tunis)など工学や情報科学分野の優秀な大学、カレッジも多数存在する。

まだまだ残る課題

国家主導のイノベーション産業支援政策と高い教育水準による優秀な人材育成を後ろ盾に実際の成果を出しているチュニジアだが、イノベーションを経済の底上げにつなげるためには課題も多い。チュニジアが抱えている課題のうち、以下三つの点を取り上げることとする。

まず、最も大きな問題は雇用市場の不安定さである。デジタル機器やサービス等が一般消費者マーケットで普及している反面、政府や企業の準備態勢はまだまだ不足している。特に、若者の失業問題は「アラブの春」の大きな原因であったが、いまだに解決の兆しが見えない。チュニジア統計局が発行する統計年鑑によると、2018年5月時点の全国の失業率は15.4%である。この数値を教育水準別にみてみると、初等教育を終えた人の失業率は8.1%、中等教育を終えた人の失業率は15.8%、高等教育を終えた人の失業率は28.3%(そのうち男性の高等教育修了者の失業率は18.0%、女性は38.6%)と教育水準が高ければ高いほど仕事を見つけにくい状況である。つまり、教育を受けた国民に雇用を提供できる国家経済や雇用市場が育っていないのである。とりわけ高学歴者のための良質な雇用が不足しており、教育と雇用のミスマッチの状況が続いている。

これに付随するもう一つの大きな問題は頭脳流出である。従来の単純労働者だけではなく、技術を持ったチュニジアの若者が就労のためのより良い機会を、もしくはそもそも機会を見つけるためにフランスを中心とするヨーロッパに移住することが多い。

次の問題は、根深い社会的亀裂と不平等の残存である。チュニジアにおける社会経済の格差は「地域間の格差」として表れている。独立以降の開発政策において優遇されてきている首都チュニスと東沿岸部地域と疎外されている内陸部の間にある格差は、チュニジア社会が抱える最も大きな課題ともいえる。確かに国民教育政策による初等教育の普及、狭い国土を活用した通信技術・交通網の全国的整備などにより、地域間格差を減らすための第一ステップは整ったともいえるかもしれない。しかし、教育面をみてみると上述したような有名な技術大学はすべて首都圏に位置しており、教育機関の数の側面においても格差は如実に現れている。制度としての教育機会の平等化は確保されているかもしれないが、実際のアクセスコストは出身地によって大きく異なっているのである。また、雇用の質と量の側面についても、地域的な偏りがみられており、チュニジア人が望む真の平等への道のりはまだまだ険しい。

図1 県別人口分布および高等教育機関の数

図1 県別人口分布および高等教育機関の数

(出所) チュニジア統計局、チュニジア高等教育・科学研究省の データを基に筆者作成(白地図はDIVA-GISのFree Spatial Data)。

最後の問題は、革命後続く不安定な政治状況である。確かにチュニジアは他のアラブの国のように激しい内戦が勃発することなく、(比較的に)平和的かつ民主的なプロセスによる国民統合が進められてきた。しかし、頻繁な政権交代や派閥争い、改善の兆しのない経済沈滞などにより、政治に対する国民の信頼と期待は地に落ちている。政権が変わるたびに政策が変化し、特に最近では新型コロナウイルス感染症により教育が一斉中断するなど、チュニジア国民の不安は募るばかりである。

中東諸国に関するニュースで注目されるのは、宗教・宗派間対立や国家間対立に関するものが多い。ただ、この地域の国のなかには「何をしてお金を稼げばいいのか」「将来はどんな職業に就けるのか」と我々と同じ悩みを持って過ごす人々がいるのだ。より公平で公正な社会のなかで安定的な生活を送りたいという気持ちはみんなに共通するものであり、2010年の民主化革命のスローガンであった「自由と尊厳(liberté et dignité)」にもよく表れている。イノベーションはチュニジアに本当の春をもたらすことができるのか。今後の動向が注目される。


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本コラムは今回が最終回である。これまでアジア、ラテンアメリカ、中東、アフリカの新興国における10のイノベーション事例を取り上げた。様々な発展段階の新興国において、デジタル等の技術が各地の事情に合わせた独自の方法で適用され、社会に影響を与えている様子をお伝えできたようであれば幸いである。成功例もあったが、多くで試行錯誤が続いており、イノベーションへの期待の反面、難しさを垣間見ることができた。新興国でのイノベーションにかかわる挑戦から、今後も我々が学べることは多くあるように思う。(道田悦代)

写真の出典
  • すべて筆者撮影
著者プロフィール

金信遇(きむしんう) アジア経済研究所研究推進部地域研究推進課勤務。研究マネージメント職。修士(地域研究)。関心領域はチュニジア社会経済、マグリブ地域研究。