中国外交の09年転換とその背景

政策提言研究

清水美和 (東京新聞・中日新聞論説主幹)
2011年9月

※以下に掲載する文章は、平成23年度政策提言研究「 中国・インドの台頭と東アジアの変容 」第5回研究会(2011年9月8日開催)における報告内容を要約したものです。

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はじめに
日本を抜き世界2位の経済大国に躍進した中国と各国の摩擦が目立ってきた。中国が急速な成長で大国になり、金融危機を各国に先駆けて克服したことで、各国は中国への期待とともに警戒を強めた。中国自身も「富強」(中国憲法)化に伴い協調的な外交姿勢を転換した。背景には政権交代期を迎える国内政治情勢がある。

1. 協調的な外交姿勢を転換
中国は鄧小平時代、「経済建設」を外交の最優先課題に「平和的な国際環境」が必要として、比較的、協調的な外交姿勢をとってきた。胡錦濤政権も2002年の発足以来、「隣国を友とし」「大国との関係を重視する」(02年共産党16回大会)外交路線を打ち出し、「平和的発展」、「和諧(調和)世界」(07年党17回大会)を目指す路線として完成した。

しかし、中国が金融危機を各国に先駆けて克服し「突如、大国になった自分を発見した」(王逸舟・北京大学国際関係学院副院長)ことで、外交路線見直しの気運が高まる。それが明らかになったのは09年7月に世界から大使を集め開かれた第11回駐外使節会議だ。5年に1度、開かれる会議で胡錦濤国家主席(党総書記)は重要演説を行い、新たな外交路線を示した。いまだに全文が公表されていないが、その後の公式、非公式の情報から明らかになったのは次のような点である。

鄧が示した「韜光養晦(とうこうようかい)、有所作為」(能力を隠して力を蓄え少しばかりのことをする)という抑制的な外交方針を「堅持韜光養晦、積極有所作為」に修正した。能力を隠し、力を蓄えることを堅持するが、より積極的に外交を展開するという意味だ。胡は「平和的発展」を掲げながらも、外交の最優先課題を「国家の主権と安全、発展の利益の擁護」と言い切り、鄧の「経済建設」を最優先課題としていた路線と決別した。

駐外使節会議に先立ち開かれた党中央外事指導小組(外交指導グループ)の会議は、2度の核実験を行い、軍事挑発を繰り返す北朝鮮について、その行動は中国の負担だとしながら、北朝鮮の戦略的価値を評価し、核問題は「漸次的解決」を目指し圧力を強めるのを見合わせることで合意した。(朴炳光・韓国国家安保戦略研究所研究員「胡錦濤時期の中国対北韓政策及び、その対北韓核問題の認知」、全球政治評論2010第31期)

中国国家海洋局の『2010中国国家海洋発展報告』は、政府文書で初めて09年に空母建造の決定が行われたと明記し「本格的に海洋強国の建設に向け乗り出した」とその意義を強調している。この時期に空母建設へのゴーサインが出たのは間違いない。

胡錦濤側近の戴秉国国務委員(副首相級)は駐外使節会議の直後、09年7月の米中戦略・経済対話初会合で、それまで台湾問題にのみ使われてきた、中国の「核心的利益」を (1) 基本制度と国家の安全擁護 (2) 国家主権と領土の防衛 (3) 経済社会の持続した安定的な発展-と定義付けた。これらは中国外交の「09年転換」ともいえる、大きな路線変更であったが、外部からは、その重要性が認識されなかった。このため、米国は09年11月、オバマ大統領訪中時に発表した米中共同声明には、主権と領土で「両国が核心的利益を尊重し合う」との一節を盛り込むことに同意した。南シナ海情勢の緊張の後、うかつさに気付き11年1月の胡主席訪米時の共同声明では「核心的利益」という言葉を拒否した。

しかし、「核心的利益」外交はその後、南シナ海など特定地域と結びつける主張も展開されるようになる。中国外務省は、外国との主権係争地域の排除を明言せず「国家の核心的利益にかかわる問題では絶対に妥協も譲歩もしない」と表明しているため、対外強硬路線の根拠として「核心的利益」の拡大解釈を許している。

中国は現実の行動で、新たな外交路線の危険性を示していく。09年12月、コペンハーゲンで開かれた気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)では、温暖化ガス削減の数値目標を課せられるのを避けるため、新興国の先頭に立って先進国と対決した。南シナ海でも中国は海洋権益を強く主張し、漁業監視船でベトナム、マレーシア、インドネシア、フィリピンなど、南沙(スプラトリー)、西沙(パラセル)両諸島の領有権をめぐり争う各国の漁船に対する取り締まりを強めた。

09年3月、米海軍の調査船が南シナ海で中国の情報収集艦など5隻に取り囲まれ航行妨害を受けた。トラブルが起きた地点について、米国側は公海上としているが、中国は「中国の管轄海域で許可なく活動した」と主張した。米国はオバマ政権発足当初で中国との「戦略的信頼関係」構築を目指していたため穏便に事態の収拾を図った。

米国の宥和姿勢を見た中国は、戴国務委員が10年3月、訪中したスタインバーグ米国務副長官に中国は南シナ海の海洋権益を台湾やチベット、新彊ウイグル問題と同じ、外国に妥協の余地がない「核心的利益」と見なすと通告した。10年9月の中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事件では、中国がこれまでにない強硬姿勢で日本に対し船長を釈放せざるをえないまでに追い込んだ。ただ、レアアースの対日輸出を事実上制限し圧力を加えたことは、欧米の中国に対する警戒感も強めた。

10年2月には、インターネットで共産党の一党独裁を批判し、政治改革を呼びかける文書「08憲章」を発表した文芸評論家・劉暁波氏に対する国家政権転覆扇動罪による懲役11年の判決が確定した。10年12月、劉氏がノーベル平和賞を受賞すると、中国はオスロの授賞式に家族らの出席も認めず、各国にも授賞式に列席しないよう圧力をかけ国際的な顰蹙を買った。

2. 09年転換の背景
まず、高度成長に伴う爆発的な資源需要に加え、中国が08年の金融危機を各国に先駆けて克服し、世界経済の牽引役として期待をかけられ、党上層部から民衆レベルまで自尊心が高まったことがある。党機関紙「人民日報」は「経済的実力、総合国力の上昇で中国の一挙手一投足が世界に重大な影響を及ぼすようになった」「数百年来、中国がこのような地位に到達したことはなかった」(2010年1月5日、任仲平「国際金融危機を迎えた『中国の答案』」)と高揚感を隠していない。

外交転換の背景について、中国人民大学国際関係学院の金燦栄副院長は、10年10月、東京で行った講演で (1) リアリストの学者たちから宥和外交が国益を損なうという批判が高まった (2) 中国の国家権益が海外でも増えており、保護の必要性が増した (3) 国内に「利益集団」が存在しており、外交上の安易な妥協が受け入れられない—と説明した。「利益集団」について、金副院長は中国の3大国有石油企業の例を挙げ、石油産業の利益集団は「外交への影響力が比較的、突出しており海外に会社として投資するが、投資の後は(海外権益の)保護を外交部に要求する」と指摘した。

また、金副院長は09年5月、「軍は常に対外政策に関する討議の中で関与者であったけれど、ここ数年来の軍の変貌による一層の専門化と海外との接触や協力関係が増大するようになった結果、軍は「新たな」対外政策関与者になったと考えている」と述べている。(リンダ・ヤーコブソン、ディーン・ノックス「中国の新しい対外政策」岩波現代文庫)

こうした国内情勢の変化に加え、米国のオバマ政権が発足当初、採用した対中宥和路線と日本の政局混迷、また東南アジア諸国が海洋権益確保の動きを強めたことも、中国の対外強硬論の台頭を促した。胡政権は日本との「戦略的互恵関係」を目指し08年6月に日中の主張する排他的経済水域(EEZ)が重なる東シナ海で、主権問題を棚上げしガス田を共同開発することで合意した。

中国では日本が主張するEEZの日中境界線の中国側で、中国が多くの年月と資金を費やし開発した春暁(日本名・白樺)ガス田に日本の出資を受け入れることは、清国が台湾を日本に割譲した「下関条約」以来の「売国外交」という激しい反発が党内外から起きた。08年12月には尖閣周辺の日本領海に中国の海上保安庁に当たる国家海洋局東海海監総隊の巡視船2隻が侵入し9時間も徘徊して尖閣への主権を主張した。海監の前身は海軍海洋調査隊で、要員も海軍で訓練され海軍の別動隊といえる。

その後の内部会議で、この航行を指揮した司令官は尖閣周辺進入を上層部にはかることなく単独で決意し、進入時は無線を切り外交問題になるのを恐れる本部の帰還命令をさえぎったと得意げに報告した。司令官に対する口頭注意はあったものの、処分はまったく行われず、司令官は「われわれは功を立てた」と得意げだったという。

春暁への出資をめぐる条約交渉はなかなか始められず、10年7月、条約交渉が始まったものの尖閣事件で中断した。胡政権の対日外交が海洋権益の主張強化を求める国内の声にのみこまれていったのは、日本にも多くの責任がある。胡主席が信頼関係を築き、ガス田開発問題で譲歩した当の相手の福田康夫首相は合意後、まもない08年9月に政権を投げ出した。

後を継いだ麻生太郎政権は、中国に対する封じ込めと見られかねない「自由と繁栄の弧」構想に固執した。民主党政権の成立以来、鳩山由起夫前首相は「東アジア共同体」構想を打ち出し、中国に前向きな態度を打ち出したが、外交では普天間問題に終始した。菅直人政権は成立以来、まとまった対中政策を示せず、尖閣事件では外交に対する経験と知恵の不足をさらけだし、日本の尖閣実効支配を大きく損なっただけでなく中国の対外強硬論に力を与えるという二重の失敗をした。

3. 軍がリードした外交路線の転換
インターネットなどを通じたナショナリズムの高揚と、それを背景にした人民解放軍、海上実力部隊による挑発的言動による党中央への圧力が外交路線の転換を促した。10年3月に起きた韓国海軍哨戒艦沈没事件では、北朝鮮の魚雷攻撃と断定した米韓が事件現場の黄海で合同軍事演習を計画すると、中国メディアには軍人が盛んに登場し中国の玄関先に米空母が侵入する演習に反対する、と発言した。インターネットでは軍人を支持する意見が広がった。

10年7月1日には最高位の上将である馬暁天副総参謀長が香港のテレビ取材に「中国領海に近すぎ強く反対する」と発言した。中国外務省の秦剛副報道局長は6日の記者会見では「馬副総参謀長の発言に注意している。状況をよく見た上で態度表明をしたい」と述べ明言を避けた。しかし、8日になって「外国の軍用機や艦艇が、黄海や中国近海で中国の安全、利益に影響する活動を行うことに断固反対する」と公式に反対を表明する。軍人の発言がメディアやインターネットの支持を得る形で事態を決定した。中国の強硬な反対で米韓は黄海合同軍事演習に米空母の参加を断念した。

こうした事態に、中国外務省高官も「軍が外交に口を出すべきでない」と語り、憂慮を隠さない。しかし、それを公然と口にするのはタブーである。軍人のメディアへの登場を戒めた外交界の重鎮はインターネットで「売国奴」と激しく攻撃された。ユーザーが4億5000万人を超えた(10年12月末現在)インターネットは中国世論の主流に成長した。ネットは党宣伝部の統制が厳しい既成メディアに比べ、相対的に自由な言論空間と見なされているが、当局の監視下にある実態は既成メディアと変わりがない。

激しい批判的な主張が許されるのは末端幹部や個別政策に関わる問題のほか、党が宣伝に力を入れている「愛国主義」を鼓舞する言説に限られる。民衆は言論統制への不満を解消するように「愛国情熱」をほとばしらせ「売国奴」を攻撃する。それは党・政府・軍内の強硬論に対する、またとない援護射撃になっている。

人民解放軍は国家財政に支えられながら、いまだに「党の軍隊」を自認し「国軍化」を「もっとも危険な思想」と排撃する。軍の統帥権は党中央軍事委員会が掌握し、国家軍事委員会は存在しているがメンバーは党と同じ。メンバー12人のうち、主席は軍歴のない胡錦濤国家主席、副主席は習近平国家副主席が兼務しているが、他のメンバーは、すべて軍人だ。国会に当たる全国人民代表大会や中央政府の国務院も干渉できない。日本では戦前、軍が統帥権は天皇にあるという建前で、内閣や国会が軍に干渉できず、対外拡張を止められず軍部独裁体制が築かれていったことを想起させる。

中国革命を導いた毛沢東、鄧小平と異なり江沢民、胡錦濤という軍歴のない指導者が軍事委主席に就任してから、軍人を如何に統制し服従させるかは常に難題だった。江や胡は20年以上連続で国防費を2桁成長させたり、将官の昇進を乱発したりするなど、軍の主張や要求に迎合することで最高指導者の地位を保つことに腐心してきた。軍が代表する対外強硬論は、国防費を増額し待遇改善や装備の充実を指導部に迫る口実の側面が強い。軍に威令を誇る指導者や文民統制の徹底を欠き、強力な「利益集団」と化した軍がナショナリズムを高めた民衆の支持を得ていることが対外強硬論を助長している。

胡は07年の党17回大会では、革命元老の故習仲勲を親に持ち「太子党」といわれる習近平国家副主席(1953年生まれ)ではなく、自らと同じ共産主義青年団中央第一書記を務めた李克強副首相(1955年生まれ)を後継者の座に据えようとしたが、反対勢力に阻まれた。12年秋に迫った党第18回大会では定年制で現在、9人の党最高指導部・政治局常務委員のうち、胡主席や温家宝首相ら7人が引退する。習副主席は10年10月の党17期中央委員会第5回全体会議で党軍事委員会副主席に増補され、次期総書記の座を確実にした。

胡のレームダック化に拍車がかかる恐れがあり、胡は鄧、江にならい総書記を辞任しても2年間は軍事委主席に留任し、自らが信を置く共青団系幹部を指導部に進出させ影響力を確保する戦略だ。このためにも、胡は従来の「平和的発展」路線にとどまることはできず、軍の要求する対外強硬路線に迎合する姿勢を強めざるを得ない。12年、習近平政権が誕生しても、その権威が確立するのは難しく、軍とインターネットがリードする対外強硬論を抑えるのは容易ではないだろう。

(2011年9月)