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時事解説:「暴君」と呼ばれた世界最高齢の大統領ムガベの退場

アフリカレポート

No.56

 

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050353

時事解説:「暴君」と呼ばれた世界最高齢の大統領ムガベの退場

■ 時事解説:「暴君」と呼ばれた世界最高齢の大統領ムガベの退場
■ 井上 一明
■ 『アフリカレポート』2018年 No.56、pp.36-42
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1.「暴君」、「独裁者」としてのムガベ

ある人物を評価しようとするとき、その生涯あるいは半生を一貫して好意的、肯定的に評価する場合もあり、あるいは一貫して批判的に評価する場合もある。また生涯であれ半生であれ、ある時期までは好意的、しかしある時期以降は否定的な評価を下す場合もある。それでは2017年11月、37年にわたるジンバブウェ最高指導者の地位を降りたロバート・ムガベ(Robert Gabriel Mugabe)についてはどうであろうか。本稿は「暴君」そして「独裁者」としてのムガベ像に疑問を呈しつつ、独立以来のジンバブウェそして与党「ジンバブウェ・アフリカ民族同盟・愛国戦線」(Zimbabwe African National Union Patriotic Front: ZANU PF)における政治力学の文脈の中にムガベを位置付け、彼の支配体制を「暴君」あるいは「独裁者」といったいわゆる「個人支配」というタームに還元できるほど単純なものではないことを解明しようとするものである。

ムガベに対するマスメディアの報道そして決して少なくはない彼に関する評伝を跡づけてみると時代とともにその評価が変遷してきたことを見て取れる。1970年代、ジンバブウェ(当時のローデシア)が「アフリカ人解放勢力」と白人政権のあいだで内戦状態にあった時期、ムガベはZANU PF1の最高指導者として歴史の舞台に登場した。当時のマスメディアにおけるムガベ像は、「過激派」、「マルクス・レーニン主義者」、「狂信的ゲリラ指導者」、「テロリスト」そして「武闘派に支えられた闘士」といった呼称でくくることができよう。しかしこうしたムガベ像は1980年3月の独立総選挙の時期に一変する。

ムガベは、選挙のキャンペーンが開始されると「国民和解」をスローガンとして掲げ、理性ある指導者としての自己イメージを前面に押し出した。そしてこのスローガンを具体化するために、総選挙における勝利後、もう一人の「解放運動の英雄」ンコモ(Joshua Nkomo)率いる野党「愛国戦線・ジンバブウェ・人民同盟」(Patriotic Front-Zimbabwe People’s Union: PF-ZAPU)と連立政権を樹立し、さらに複数の白人を閣僚として任命した。4月の独立記念式典におけるムガベの演説についてある評伝は、「和解、再建、そしてとりわけ愛を主題とするものであった」として讃えている[Smith, Simpson and Davies 1981, 209-10]。しかしながらほぼ20年後に出版されたジンバブウェ現代史の著者は、次のようにムガベを評している。「かつて全世界が知っていた融和的かつ理性的なムガベは、どのようにして精神に動揺をきたした独裁者に変貌してしまったのであろうか。(中略)私はこの質問は誤りであると考える。今日我々が見るムガベこそが、まさに本当のムガベであり、この男はつねにそうであった」[Blair 2003, 274]。

ムガベに対する評価は、このように極端に変化した。しかしながら独立後の10年間ムガベは、少なくともローデシア時代に構築された白人と黒人のあいだのあらゆる格差を解消し、「平等な社会」を建設しようとしたことは間違いない。無料初等教育、生活必需品に対する政府からの多額の補助金、そして医療費の無料化などはその代表的な事例である。その一方でアフリカ諸国の中でも屈指と評された農業、鉱業、そして製造業という基幹産業三部門の構造改革には少なくとも2000年代に至るまで積極的に着手しなかった。これらの部門はアフリカ人低賃金労働力を基盤とする白人主導型の構造を有していた。ムガベはこうした産業構造を温存する政策によって白人農園主や企業家には「現実主義者」と評価されたが、国内のリベラル派の市民運動活動家には無為無策な政府2、そして社会主義革命を期待した左派系知識人には失われた革命として批判された3

ところでムガベ、より正確に言えばムガベ政権がその権威主義的性格を露わにしたのが、1980年代におけるマタベレランドの騒乱に対する対応である。ムガベ政権は、南北マタベレランド州およびミッドランド州における反政府的な動きをPF-ZAPUのメンバーそして内戦当時、同組織の軍事部門「ジンバブウェ人民軍」(Zimbabwe People’s Army: ZIPRA)に属していた元兵士によるものと見做した。そして同政権は国軍を派遣して彼らの活動を徹底的に取り締まり、さらに彼らを支援したと目された一般住民をも弾圧した。これが1983年から87年まで続いたいわゆる「グクラフンディ(Gukurahundhi、意味は「収穫後のもみ殻を洗い流す春の雨」)」であり、約3000人が死亡した[Catholic Commission for Justice and Peace in Zimbabwe and the Legal Resources Foundation 1997, 157]。そしてこの間、PF-ZAPU党首ンコモは亡命を余儀なくされた。この騒乱は87年のZANU PFとPF-ZAPUのあいだで結ばれた「統一協定」によって収束し、後者は前者へ吸収統合されることになった。しかしこの「グクラフンディ」によって、その大半がンデベレ人(Ndebele)であるこれらの地域の多くの住民が今日でも心的傷害を煩い、また南アフリカ共和国を含む隣接諸国に大量に流出したことは周知の事実である。

1987年の憲法改正によって、ジンバブウェの政治システムは独立以来の議院内閣制から実権大統領制へと移行し、ムガベは初代大統領に就任し2017年までその座にとどまることになる。ある評伝によればこの動きに連動して国営メディア、あらゆる行政機関そして司法機関までもがムガベの意思に従属するようになったと指摘している[Meredith 2002, 235]。これはムガベに対する評価が次第に「独裁者」としての側面に注目されるようになったことを窺わせる。そして1989年に発覚した「ウィローベール自動車会社」にまつわる政府の腐敗汚職は、ムガベに対する内外のマスメディアの評価を一層批判的な方向へ向かわせることになった。

1991年に開始された「経済構造調整計画」(Economic Structural Adjustment Programme: ESAP)は、ジンバブウェそしてとりわけムガベの進路を大きく変える契機となった。80年代の「福祉国家」そしてこれを支える「大きな政府」が財政的に破綻し、貿易自由化、財政支出の削減、政府補助金の廃止などによる市場経済への移行、そして小さな政府の実現が政策課題となった。しかしこれによって庶民の生活条件は悪化し、90年代後半は度重なるゼネスト、職場放棄、食糧暴動などによってジンバブウェ社会が次第に不安定化していった。こうした状況を背景として独立以来ほとんど顧みられることのなかった「元兵士」たちは自分たちの生活改善を政府に訴えた4。しかし政府が彼らの要求に十分に対応しなかったことが主要な原因となって2000年から急激に激しさを増した「農園侵略」が発生し、政府はこれを受けて「高速路線土地改革」(Fast Track Land Reform)による白人農園の強制収用を開始したのであった。

この「白人農園侵略」および「高速路線土地改革」とそれに伴って発生した白人農園主の殺害事件は、とくに欧米世界の世論を激高させた。さらにメディア組織とその関係者の登録を義務づけた「情報へのアクセスおよびプライバシー保護法」(2002年)、反政府分子の取り締まりを強化した「公共秩序および安全保障法」(2002年)、すべてのNGOの登録を義務づけた「民間ボランティア組織法」(2004年)、そして移動の自由の制限と賠償を伴わない土地の収用を定めた「憲法修正第17号」(2005年)など、2000年代前半に成立した諸法は、ムガベに対する「独裁者」そして「暴君」という評価をマスメディアや評伝作家のあいだに定着させるに十分なものであった。さらに2005年、「民主変革運動」(Movement for Democratic Change: MDC)支持者と目された都市住民を一掃した「オペレーション・ムランバツィナ」(Operation Murambatsvina。意味は「ゴミ捨て作戦」)、そして2008年の総選挙においてMDCのメンバーと支持者を徹底的に弾圧した「オペレーション・マヴォテラ・パピ」(Operation Mavotera Papi。意味は、「誰に投票したのか作戦」)によって、「暴君」そして「独裁者」としてのムガベの評価は、彼が大統領職を辞任するまで続くことになったのである。

1970年代の内戦、そして独立後のジンバブウェの軌跡をムガベを中心としてたどるならば、まさに彼が政治権力の中枢に位置し国家の方向性があたかも彼の一存で決まったような印象を与えるであろう。たとえば2008年の時点でムガベは、「30年以上もの間、暴力こそが彼の常套手段だった」と評されていた[メレディス 2008, 27]。もしこうした評価が正しいとすれば、まさにムガベはジャクソン等[Jackson and Rosberg 1982]が提示したアフリカの指導者に関する「個人支配」の類型化のなかの「暴君」型、そしてヒーデン[Hyden 2006]が論じた「ビッグマン支配」に該当するであろう。しかしながらムガベは、本当に一枚岩的な支配体制の頂点に立つ暴虐的な「暴君」、あるいは権力を独占して恣意的にかつ一方的にこれを行使する「独裁者」だったのであろうか。

2.ムガベ・ムゼンダのコンビによる党運営

ムガベは、1977年、ZANU PF中央委員会において党首として選出され、80年ジンバブウェ独立と同時に首相、そして87年に大統領に就任し、爾来、2017年11月の辞任までZANU PFそしてジンバブウェ政府の最高指導者として君臨した。暴君そして独裁者として彼を評することは、彼個人に権力が集中しそれを独善的に行使したという前提に立った解釈であろう。しかしこうした解釈は、独立前の解放闘争期、そして独立後の37年間のジンバブウェの政治状況とZANU PF内部の力学を検討するならばいささか単純化しすぎる嫌いがある。

アフリカ諸国の政治そしてその力学を分析する場合に、一般的に注目される要因は、エスニックグループである。ジンバブウェの場合も、少なくとも80年代の国内政治は、ZANU PFとPF-ZAPUという2つの政党の権力闘争そしてそれぞれの政党の支持基盤であるショナ人(Shona。人口の約77%)とンデベレ人(人口の約18%)というエスニックグループ間の亀裂を軸として説明できよう。しかしエスニックグループに着目することによってジンバブウェの政治現象をすべて説明できるわけではない。とくにZANU PFの最高指導部の要職を占め、その主要な支持基盤となっているショナ人は集団として決して一枚岩的なものではない。たしかにショナ人は対ンデベレ人という局面においては凝集力を持つが、政府内そして党内の政治力学においてはショナ人を一枚岩的な人間集団として見なすことは誤りであり、この人間集団を構成するサブエスニックグループの動向にこそ注目する必要がある。すなわちそれは、ゼズル(Zezuru)、マニカ(Manyika)、コレコレ(Korekore)そしてカランガ(Karanga)である。こうしたサブエスニックグループの帰属意識は、とくに70年代の内戦期においてZANU PFの組織としての不安定性を生み出し、指導部に対する反乱や75年当時、同組織の軍事活動の統括機関、「ダレ・レチムレンガ」(Dare reChimurenga)代表であったチテポ(Herbert Chitepo)の暗殺事件を引き起こしたとしばしば指摘されている5

政権与党となったZANU PFの党内力学は、サブエスニックグループの派閥の分析によって説明できるケースもあるが、それだけでは説明が付かないケースが多々存在する。すなわち1984年、副首相でありZANU PF副党首のムゼンダ(Simon Vengayi Muzenda)の失脚を謀ったとされる事件は、独立前、武力闘争に直接関与していたムガベ、ムゼンダ等のグループと他方、当時、国内に拘留されていた者およびロンドンなどに在住していた「アームチェアーの革命家」たちのグループのあいだの対立として説明されている[Bhebe 2004, 224]。またムガベの指導部とそこから疎んぜられたベテラン党員(とりわけZANU PFの創設メンバーたち)とのあいだの確執なども見られた6。さらに同じサブエスニックグループに属する者であっても、ある者は権力中枢にとどまりある者は排除された。しかし80年代から90年代にいたる党内の様々なグループや個人によって展開された権力闘争は、結果的に党を分裂の危機へと導かなかったし、またムガベ体制を脅かすものにもならなかった。これはこの時期、ZANU PF党内で派閥とくにサブエスニックグループにもとづく派閥政治が見られなかったことに起因している。ムガベは、みずからの出身サブエスニックグループであるゼズル人を中心とする派閥を持たなかったし、他の幹部たちもみずからのサブエスニックグループを基盤とするはっきりと見て取れる派閥を構築しなかった。それではこの時期のZANU PF党内の政治力学とは何だったのであろうか。

ここで注目したいのがZANU PF副党首そして副首相、のちに副大統領となったムゼンダの果たした「スタビライザー」としての役割である。ムゼンダはムガベが党首となって以来、2003年に死去するまでまさに彼の「腹心」として行動を共にした。概説的なジンバブウェ現代史に彼はほとんど登場しないが7、彼の評伝[Bhebe 2004]やチュン(Fay Chung)の自伝[Chung 2006]を見ると、ムゼンダが党執行部に対して敵対的な個人やグループとの和解、調停に奔走し「スタビライザー」として重要な役割を果たしたことが描かれている8。そしてムゼンダはみずからのサブエスニックグループによる派閥の形成には関心を持たなかったといわれており[Tekere 2007, 102]、ムガベ体制に異議を唱えるものは同じグループ(カランガ人)に属する人物であっても決してこれを容認しなかった9。このようにムゼンダは、ZANU PF党内の調整役に徹していたと考えられ、事実、党内に亀裂を生じさせるような事件は彼の存命中は発生しなかった。しかし彼が2003年に死去すると、党内情勢は大きく変化し党内の力学は派閥を中心に展開するようになったのである。

3.派閥政治とその破綻、そしてムガベの退場

2000年代のジンバブウェは、「農園侵略」そして「高速路線土地改革」によって国内治安が悪化し、さらに1億3100万パーセントに達したといわれるハイパーインフレーションによって経済は完全に破綻した。そして2008年総選挙の結果、ZANU PFの一党優位制は崩れ、同党とMDC の連立政権が誕生した。この連立政権の樹立に動いたのが2004年に副大統領に就任したジョイス・ムジュル(Joice Mujuru)と彼女の夫であり「解放戦争の英雄」、そして元ジンバブウェ国防軍総司令官のサイモン・ムジュル(Simon Mujuru)であった。ムガベは、二人のこの行動に非常に不機嫌であったという[Holland 2008, 195-198]10。他方、現大統領ムナンガグワ(Emmerson Mnangagwa)を領袖としてマシンゴ州を拠点とする「クロコダイルグループ」あるいは「チーム・ラコステ」がグループとして積極的な政治活動を展開するようになったのもこの頃である。こうした党内派閥に加えてセキュロクラット(公安関係者)と呼ばれるグループが政治の舞台に登場してきた。彼らは「共同作戦司令部」(Joint Operations Command: JOC)を活動機関として、2008年総選挙におけるZANU PFの勝利のために先に触れた「オペレーション・マヴォテラ・パピ」を実施したのであった。かくしてムガベは二つの党内派閥とセキュロクラットの三者のバランスを取りながらジンバブウェの政治と党内運営に取り組むことになった。もはやムガベには腹心となる人物はおらず、党内派閥を解消させるだけの力もなかったのである。逆に言えばムガベは80〜90年代の時期に比べてその影響力を次第に失い孤立していったといえよう。

夫サイモン・ムジュルをその後ろ盾とした副大統領ジョイス・ムジュルではあったが、2011年に彼が自宅の火災によって死亡するとその影響力に陰りが見えはじめた。そして2014 年、彼女はムガベの失脚を企てた容疑で副大統領を解任されZANU PFから追放された。そしてムジュルに代わって副大統領に任命されたのがムナンガグワである。

ところでこのムジュル派に取って代わる形で登場してきたのが大統領夫人グレース・ムガベを領袖とする「ジェネレーション40」(Generation 40: G40)である。G40は、主として1990年代のESAPを背景として登場してきた武力闘争を経験していない若手起業家の党員によって構成され[Chung 2006, 268-9]、ZANU PF青年同盟がこれを支持していた。このグループはその名に示されるように党内の世代交代を目指し、とりわけムナンガグワとそのグループに対して批判的な活動を展開した。そしてムガベは、グレース派とムナンガグワ派の派閥の均衡に専念することになった。ムガベが党内の世代交代の必要性を認識していたか否かは定かではないが、次第にグレース派を重用する方向へと向かっていったことは間違いない。最終的に彼は2017年11月6日、ムナンガグワを副大統領のポストから解任したのである。

2017年11月15日、大統領を取り巻く「奸臣」の排除を掲げて軍が決起し、その後、議会における大統領弾劾決議案の成立を目前にした21日、ムガベは大統領職を辞任した。

辞任直前に開かれた南アフリカ共和国の特使を交えたムガベと軍首脳との会談に、長年にわたりムガベに寄り添ってきたムコノリ神父(Father Fidelis Mukonori)が同席したことは興味深い。ムガベは、彼の追従者達(the followers)のあいだでは「クリスチャンボーイ」という愛称で呼ばれていた。そしてムコノリ神父は、『スタンダード』紙とのインタビューの中で「ムガベは辞任にあたり幸せそうであった」と述べている11。これは身の安全を保証された安堵によるものであろうか、あるいは37年間にわたるジンバブウェの最高権力者としての重荷を下ろすことができた開放感の表れなのであろうか。いずれにせよ「暴君」あるいは「独裁者」としてのムガベとはいささか異なるイメージではなかろうか。

参考文献

〈日本語文献〉

  • メレディス、マーティン 2008.「国を滅ぼすムガベの悪あがき」Newsweek(日本版)23(16) (4月23日) 。

〈外国語文献〉

  • Astrow, Andre 1983. Zimbabwe: A Revolution That Lost Its Way? London: Zed Press.
  • Bhebe, Ngwabi 2004. Simon Vengayi Muzenda and the Struggle for and Liberation of Zimbabwe. Gweru: Mambo Press.
  • Blair, David 2003. Degrees in Violence: Robert Mugabe and the Struggle for Power in Zimbabwe. London: Continuum.
  • Catholic Commission for Justice and Peace in Zimbabwe and the Legal Resources Foundation 1997. Breaking the Silence, Building True Peace: Report on the 1980s Disturbances in Matabeleland and the Midlands 1980 to 1988. Harare: CCJPZ and LRF.
  • Chung, Fay 2006. Re-Living the Second Chimurenga: Memories from the Liberation Struggle. Uppsala: The Nordic Africa Institute.
  • Coltart, David 2016. The Struggle Continues: 50 Years of Tyranny in Zimbabwe. Sunnyside: Jacana Media.
  • Holland, Heidi 2008. Dinner with Mugabe: The Untold Story of a Freedom Fighter Who Became a Tyrant. Johannesburg: Penguin Books.
  • Hyden, Goran 2006. African Politics in Comparative Perspective. New York: Cambridge Univ. Press.
  • Jackson, Robert H. and Carl G. Rosberg 1982. Personal Rule in Black Africa: Prince, Autocrat, Prophet, Tyrant. Berkeley: Univ. of California Press.
  • Meredith, Martin 2002. Our Votes, Our Guns: Robert Mugabe and the Tragedy of Zimbabwe. New York: Public Affairs.
  • Nyarota, Geoffrey 2006. Against the Grain: Memoirs of a Zimbabwean Newsman. Cape Town: Zebra Press.
  • Sithole, Mashipula n.d. Zimbabwe Struggles within the Struggle. Salisbury: Rujeko Publishers.
  • Smith, David and Colin Simpson with Ian Davies 1981. Mugabe. Salisbury: Pioneer Head.
  • Stoneman, Colin ed., 1988. Zimbabwe's Prospects: Issues of Race, Class, State, and Capital in Southern Africa. London: Macmillan Publishers.
  • Tekere, Edger"2-Boy"Zivanai 2007. A Lifetime of Struggle, Harare: Sapes Books.
  • Todd, Judith Garfield 2007. Through the Darkness: A Life in Zimbabwe. Cape Town: Zebra Press.

(いのうえ・かずあき/慶応義塾大学)

脚注


  1. 当時の名称は、「ジンバブウェ・アフリカ民族同盟」(Zimbabwe African National Union: ZANU)であるが以下ZANU PFと記述する。
  2. 代表的な人物としては、南ローデシア時代の首相トッド(Garfield Todd)の娘で、ジンバブウェ独立後、NGO「ジンバブウェ・プロジェクト」を創設し元兵士の武装解除・動員解除・社会復帰(Disarmament, Demobilization, Rehabilitation: DDR)に積極的に取り組んだジュディス・トッド(Judith Garfield Todd[Todd 2007])、著名な人権派弁護士で連立政権当時、民主変革運動(MDC)選出の閣僚として教育・スポーツ・芸術・文化担当相に就任したコルタート(David Coltart[Coltart 2016])、そして有名なジャーナリストでリベラル系の日刊紙『デイリーニュース』(Daily News)の創刊者であるニャロタ(Geoffrey Nyarota[Nyarota 2006])等を挙げることができる。
  3. たとえばアストロウ[Astrow 1983]、そしてストーンマン[Stoneman 1988]等を挙げることができる。
  4. 彼らはESAPの実施により解雇された1万人にのぼる下級公務員、主として清掃員や料理人の大半を占めたと考えられるが確証はない[Chung 2006, 268]。
  5. たとえば、シトレはチテポを代表とするマニカとこれに対するカランガの対立としてこれらの事件を説明している[Sithole n.d.]。
  6. たとえば内戦当時、ZANU PFのナンバー3であったテケレ(Edger Tekere)は、独立後、党内で孤立し周辺化された[Tekere 2007]。
  7. たとえばメレディス[Meredith, 2002]がムゼンダに言及するのはわずか2カ所だけであり、またブレア[Blair 2003]の彼に関する記述はわずか数行である。
  8. チュンは1970年代の内戦当時ZANU PFのメンバーとなり、80年代は教育相を務めた。
  9. たとえば党執行部の決定に反対したベテラン党員コンバイ(Patrick Kombayi)襲撃事件(1990年)はこれに該当するであろう。
  10. ジンバブウェ大学教授マクンベ(John Makumbe)と著者との対話(2011年8月、ハラレ)。
  11. "Mugabe looks happy, relaxed, says cleric." The Standard, February 18, 2018. (http://www.thestandard.co.zw/2018/02/18/mugabe-looks-happy-relaxed-says-cleric/, 2018年2月19日アクセス).