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時事解説:ボコハラムの過激化の軌跡

アフリカレポート

No.52 

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No.52 ボコハラムの過激化の軌跡
■ 時事解説:ボコハラムの過激化の軌跡
■ 島田周平
■ 『アフリカレポート』2014年 No.52、pp.51-56
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はじめに
ボコハラム(Boko Haram)とは「西洋式教育は罪」という意味で、ナイジェリア北東部を主な活動の舞台とする過激なイスラーム原理主義団体の俗称である。彼らは自らを、“Jama’atu Ahlus-Sunnah Lidda’Awati Wal Jihad(神の思し召しと聖戦の教えに帰依する信徒集団)”と呼んでいる[Walker 2012, 8]。

本論では、ボコハラムが過激化してきた軌跡を、主としてナイジェリアの国内政治の変化との関連に注目して分析してみたい。もちろん現在のボコハラムの運動をナイジェリア国内の政治変動の面からだけで捉えることはできない。しかし国際関係の面からのみ捉えようとすると彼らの運動を支える論理を充分に理解することができないと考える。

1. ボコハラムの起源:過去のイスラーム原理主義運動との類似性
ボコハラムの運動は、ナイジェリア北部のイスラーム地域で繰り返し起きる原理主義運動の1つとして始まったと考えられる[Uadiale 2012]。1970年代のイザラ(Izala)1の運動や1980年代にカノで起きたマイタシン(Maitasine)2の運動と類似点が多い。

マイタシンの運動は、13年間続いた軍政(1966~1979年)直後の民政時代に起きた。同様にボコハラムの運動は15年間の軍政(1984~1999年)が終わった後に起きた。前者は、潤沢な石油収入を背景に1970年代に北部で推進された西欧化や近代化に対する反動が、後者は1980年代の構造調整計画実施後に進んできた急速な市場の自由化や西欧教育指向に対する反発が原動力となった。いずれも軍事政権の抑圧が取り払われた後の民政時代に入って過激なイスラーム原理主義運動となってきた。

1970年代のオイルブームの中、利権や汚職で莫大な財産を築く俄成金が出現し、1980年代以降の市場の自由化は、富者と貧者の経済格差を拡大させてきた。真摯なイスラーム教徒にはそれらは信仰の堕落をもたらす悪しき西欧化の結果と映った。彼らの攻撃対象は、商人、高級官僚、政治家はもとより北部の支配体制であるスルタン=エミール体制3にも向かった。マイタシンやボコハラムは、このような一般民衆の不満や不安を背景に組織を拡大してきた。これらが危険な反政府集団であるとみた政府は徹底的な弾圧に乗り出した。


2. ボコハラム運動を励起させた国内政治
ボコハラムの運動が立ち上がってきた2000年代は、当然のことながらマイタシンの時代(1980年代)と違った政治状況にあった。

1986年1月に軍政の指導者で北部出身のババンギダ(Ibrahim B. Babangida)が、イスラーム会議機構(Organization of Islamic Conference: OIC)への正式加盟を発表した。また2000年には、北部の12州でシャリア法(Sharia:イスラーム法とも呼ばれる)の導入が決定された。ボコハラムは、イスラーム化がある程度進められてきた後の時代に生まれてきた。そのため彼らの要求の中には、イスラーム国家の樹立やシャリア法の全国的導入などより具体的なものが含まれている。

さらに、大統領の地域輪番制に関する議論も2003年以降度々熱気を帯びてきた。民政に先立つ1990年代末、制憲議会で大統領の地域輪番制が検討された。1999年制定の憲法にはこの輪番制は明記されなかったものの、政権党である人民民主党(Peoples Democratic Party: PDP)の綱領の中に残った。その中には、全国を南部と北部に分け、南北間で代表を交互に選出し、それぞれの地域内部では3つに分けたゾーンの中で輪番制にすると謳われている。PDPが1999年以来ずっと政権を担ってきているため、この政党の綱領はPDP代表の選出だけではなく、大統領選挙にも直結する重みを持っている。

この輪番制の問題が最初に議論されたのは南部出身オバサンジョ(Olusegun Obasanjo)大統領が2期目の選挙に立候補した2003年であった。結局は、現職大統領の再選を禁止する規定がなかったため、彼は再立候補し2期目の大統領職に就いた。

オバサンジョの後、2007年に大統領に就任したのが北部出身のヤラドゥア(Umaru Musa Yar’Adua)であった4。しかしながら、彼は2009年に任期途中で重病に伏し(2010年死亡)、南部出身の副大統領ジョナサン(Goodluck Jonathan)が大統領代行を務めた。ヤラドゥアの死後、ジョナサンが2011年の大統領選に出馬を表明すると、PDP内部はもとより北部の人々の間でその不衡平性を訴える声が挙がった。しかし、そんな声を押しのけジョナサンは大統領に当選した。この結果、民政移管して15年になるが、そのうちの約13年間を南部出身大統領が占めることになった。

ボコハラムは、オバサンジョが2期目の大統領職に就いた2003年に初めて警察官を襲撃し、ジョナサンが大統領に就任した後、反政府武装闘争を本格化させてきた。それはあたかも、輪番制の不衡平性に対する北部の人々の不満と苛立ちがイスラーム過激派の運動に力を与えているかのような印象を抱かせる。

政府軍によるボコハラム掃討作戦がうまく行かない理由の1つは、北部諸州で現政権に対する根強い不信感がある5からである。ジョナサン大統領が、北部の政治家や高級官僚の中にボコハラムの影響を受けている者がいることを示唆6するのは、彼らが反政府活動に走るのを抑制しかつ2015年の大統領選挙を自分に有利にするための政治的牽制の意味があるためと思われる。


3. 政府によるテロ集団認定
ボコハラムの攻撃対象は、2011年までは主に政府機関であった。外国人の誘拐や殺害が急速に増加してきたのは、ジョナサン大統領がボコハラムをテロ集団と呼び、彼らの一部が政府上層部にまで浸透していることを示唆した2012年以降のことである。

2013年1月にアルジェリアのイナメナス(In Amenas)で、イスラーム聖戦士血盟団による天然ガス精製プラント襲撃事件(日本人10名が死亡)が発生した。その直前に、マリ北部のトゥアレグ反政府集団がイスラーム過激派と結びつく怖れがあることを理由に、フランスはマリ北部に軍事介入を開始した。ボコハラムの運動がこれらの西アフリカ内陸部におけるイスラーム過激派の活動と連携することを怖れたジョナサン大統領は、2013年5月にテロリズム防止法(Terrorism (Prevention)Act:以後「テロ法」)を改定7した。そして直ちにその翌月、ボコハラムとアンサル(Ansaru)8をテロリスト集団と認定した。

アメリカは、ボコハラムとアンサルをテロリスト集団と断定することに、この時点では消極的であった。むしろケリー国務長官は、テロ法が人権侵害にならないようナイジェリア政府に自制を求めていたほどである。しかし、9月にケニアの首都ナイロビで起きたショッピングモール襲撃事件はそんなアメリカの態度を一変させた。アル・シャバブのテロ活動がソマリア国外に拡大したことの重大さを認識したアメリカ政府は、11月13日にナイジェリアのボコハラムとアンサルを「海外テロリスト集団」と認定したのである。

アメリカ政府による国際テロリスト集団認定は、ジョナサン政権にとって強い後ろ楯となった。ナイジェリア政府は、人権侵害の国際的非難を浴びることなくボコハラムの掃討作戦を展開することができるようになった。


4. 女子学生誘拐事件とそれがもたらしたもの
ナイジェリア政府とアメリカ政府のテロリスト集団認定のあと、ボコハラムの対軍事基地攻撃はより激しさを増してきた。これに対する政府の掃討作戦も強化され、容疑者の逮捕や殺害のニュースが増えてきた中、2014年4月14日、ボルノ州北東部チボク(Chibok)にある寄宿制中学校から女子学生270人余が誘拐される事件が発生した。5月5日に、ボコハラムの代表シャカウ(Abubakar Shakau)が、誘拐した学生達を奴隷として人身売買するとビデオ映像で発表し、世界を驚がくさせた。

この事件は、ボコハラムが自ら人権を侵害するテロリスト集団であることを国内外に宣言するものとなった。アメリカはもとより英国やフランス政府も誘拐された女学生救出のため、情報提供や軍事的協力を申し出た。外国の干渉を嫌うナイジェリア政府も、女学生達の救出を願う国内外の世論を無視するわけにはいかず、限定的にではあるが受け入れを決定した。

現政府は最近、ボコハラムが活動する北東部ナイジェリアで、自警団(ヤン・ゴラ:Yan Gora)の結成を促している。地元の警察や政治家が政府に非協力的な地域においても、自警団が結成されれば、一般民衆とボコハラムとの切り離しが可能であると考えているようだ。さらに政府は、この自警団と政府軍が共同作戦(Civil Joint Task Force: CJTF)を行うことができれば、ボコハラム掃討作戦の効率はさらに高まるだろうと期待している。

この誘拐事件の解決が、来年の大統領選挙に大きな影響を与えることは間違いない。もしジョナサン大統領が女学生達の救出に失敗すれば、大統領選に立候補することすら難しくなるだろう。この誘拐問題は国際的な人権問題であると同時に、ナイジェリアの国内政治にとっても最重要課題になってきているのである。


おわりにかえて
ボコハラムは、武装集団の越境や難民の流入などで周辺諸国にも影響を与え9、ナイジェリア1カ国のみでは収拾できないテロ集団になっている。しかし、彼らは現在もナイジェリア国内の政治と密接な関わりをもって、その姿は変化し続けている。アメリカが国際テロ集団に認定し、英仏政府が誘拐女学生の救助の支援を申し出たことで、ボコハラム包囲網も国際化してきたが、ボコハラムの中心的グループがナイジェリア国内にとどまる限り、彼らの運動はしばらくはナイジェリア政府の動向に大きく左右されることになろう。

その点で今後注意が必要なのは、政府が支援し協力を期待している自警団ヤン・ゴラの動きである。自警団がボコハラム掃討作戦に従事している限り問題は無いが、大統領選挙が近づくにつれ武装化した彼らが政治家に私兵として利用される可能性が大きいのである10

政府のボコハラム掃討作戦の失敗を批判する野党と、その野党がボコハラムと連携し掃討作戦を妨害していると主張する与党との対立が、北東部の州政府レベルの政治と連邦政府の対立に重なり、事態は複雑化している。この対立のはざまでボコハラムは生き延び、さらに国境を越えて新たな活動の場を確保しようとしている。

ナイジェリア政府の対応次第では、ボコハラム問題が西・中部アフリカ域内の紛争に急速に拡大する可能性がある。ボコハラム問題がナイジェリアの国内問題として収束に向かうのか、あるいは西アフリカ・中部アフリカに拡大する広域問題として国際化するのか、今後数カ月間のジョナサン大統領の手腕にかかっているといえよう。

付記:本稿は科学研究補助金(基盤研究(B))「アフリカ農民の流動性、生業の多様性、および「秩序」に関する研究」(研究代表者:島田周平)の研究成果の一部である。

(しまだ・しゅうへい/東京外国語大学)


《引用文献》

脚 注

  1. ナイジェリアでは珍しい反スーフィズムの集団で、1978年だけで12以上の暴力事件を引き起こした[Falola 1998, 227]。現代も存続し、一時ボコハラムと良好な関係にあったといわれているが、2009年以降両者は対立関係にある[Waldek and Jayasekara 2011, 174]。
  2. マイタシンとはマルワのイスラーム組織(Marwa’s Islamic organization)を意味する。指導者マルワには、1980年には800~1200人の弟子がいたという。1980~1985年までの間にマイタシン関係の暴動で1万人以上の人が命を失ったといわれている。
  3. ボコハラムは、北部ナイジェリアの2大勢力であるカディリーヤ(Qadirriya)派とティジャニーヤ(Tijaniyya)派の指導者たちを異端者として批判した。逆にこれらの人たちからは、異端者(Khawarij)のレッテルを貼られ批判されている[Mustapha 2012]。ちなみに、19世紀に北部ナイジェリアで聖戦を展開し、今日のスルタン=エミール体制の基礎を作ったのはカディリーヤ派の人々である。
  4. ヤラドゥアは病に倒れる前(2009年)、北部の州知事達に伝統的指導者や宗教的指導者達が積極的に反ボコハラムに動くよう説得していた。彼にはボコハラムを押さえ込む手立てがあると思っていたのであろう[Oyibos online 2009]。
  5. ボコハラムの本拠地がある北東部にあるボルノ州の知事は、ジョナサン大統領の掃討作戦に批判的で協力的ではない。
  6. 2012年1月、大統領は報道機関に対して、政府上層部にも国際テロ集団と関係する者がいることを示唆した[Walker 2012, 7]。2009年、当時のボコハラム指導者ユスフ(Ustaz Mohammed Yusuf)が、逮捕後すぐに警察官に殺害されたのは、彼とのつながりが発覚するのを怖れた北部の政治家の仕業である[Waldek and Jayasekara 2011, 172]という説もある。
  7. 2011年に新設されたテロ法が2012年に改定されたが、さらに防止強化推進の方向に改定した。だが、メディア関係者にとって取材が困難になる可能性があるとして、反対意見も多く出た。
  8. 2011年にボコハラムから分派してできた組織である。ボコハラムよりも国際的連携を志向する組織であり、イスラミック・マグレブのアルカイダ(AQIM)とつながりが強いといわれている。
  9. 2014年3月時点で、ニジェールに4万1212人、カメルーンに1万2482人、チャドに4053人の難民が押し寄せているという。ちなみに国内避難民は25万人を超えているという[Walker 2014]。また最近は、カメルーン北部での誘拐事件も増えてきている[The Guardian 2014]。
  10. 自警団の政治化(politicization)については、南部ナイジェリアで優れた研究がある[Meagher 2007]。ニジェールデルタの自警団の歴史もそれを証明している[Ikita 2014]。最近北部のカドゥナで、2003年、2007年、2011年の大統領選挙で破れた、野党APC(All Progressive Congress)の有力政治家ブハリ(Muhammadu Buhari)一行を襲う爆発事件が起きた。彼は1983年にクーデターで政権の座に就き1985年まで国家元首を務めた人物である。経済政策に失敗したにもかかわらず、汚職腐敗の摘発や社会の規律を重視した彼の姿勢は今も北部で一定の支持を得ている。彼は北部諸州におけるシャリア法導入にも賛成している。誰がこの襲撃を指示したのかということをめぐり、政府と野党の間で激しい非難の応酬が始まっている。自警団がこのような政治的対立に巻き込まれると、容易に政治家の私兵となる可能性がある。自警団の育成は諸刃の剣の危険性があるといえよう。