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時事解説:弁護士マンデラのプラグマティズムと真実和解委員会

アフリカレポート

No.52 特集:ネルソン・マンデラ——その人生と遺産

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No.52 弁護士マンデラのプラグマティズムと真実和解委員会
■ 時事解説:弁護士マンデラのプラグマティズムと真実和解委員会
■ 阿部利洋
■ 『アフリカレポート』2014年 No.52、pp.5-9
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1.真実和解委員会報告書公開式典におけるマンデラのスピーチ
南アフリカの体制転換は、和解の理念のもとで進められた。ネルソン・マンデラ元大統領(以下マンデラと略)は、自身の長期にわたる不当な服役体験にもかかわらず、アパルトヘイト政権支持側に立っていた白人たちに融和を呼びかけ、多人種・多文化協調の「虹の国」の実現を提唱した。マンデラ政権誕生後、1995年に設立され、2000年まで活動し、1998年と2003年に報告書を公刊した真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission: TRC)は、マンデラの政治的理念を具体化したものであり、その不屈と寛容の精神のシンボルとして報じるメディアも多かったように記憶している。

その一方で、南アフリカ国内では、TRCは活動期間中からさまざまな論争の的であった。なかでも、マンデラが所属するアフリカ民族会議(African National Congress: ANC)の政治家たちが「報告書の中で、ANCの解放闘争を通じて生じた被害を、人権侵害としてアパルトヘイト政府側の弾圧と同列に記述することは認められない。該当箇所を削除せよ」として、報告書公刊直前に提訴したことはその最たるものであった。結果として、裁判所はその訴えを受理せず、報告書の該当ページは削除されなかったのだが、1998年10月29日の報告書公開式典には、ANCの代表者は参加しなかったのである。

その式典で、マンデラは次のようなスピーチをした。
「多くの人々が、この報告書に書かれた内容について留保をつけるだろう……(けれども)私は報告書を、その不完全さのすべてとともに、あるがままに受けとる……誰もが報告書に対して自由に論評したらいい。むしろ、皆にそうしてほしいと思っている」1
このスピーチをどう理解すべきなのか。不完全な報告書が公開されることを認め、それに対する(否定的なものも含めた)自由な論評が行きかうことを奨励する、という言葉の意図は何なのか。TRCは、新生南アフリカの国民形成を促進することを公式の役割として与えられていたのではなかったのか。

この点について考えるとき、まず思い起こすべきは、TRCは多岐にわたる制約に直面するなかで活動をしてきたという事実である。TRCは被害者への補償政策を決定する権限を持たず、白人たちの参加は予想以上に低調だった。アパルトヘイト政権を指揮したボタ元大統領はTRCに対する証言を拒否した。つまり、和解を通じた国民形成という目標は与えられていたが、設置期間・権限・資源・国民の認知・各政党の協力、そのいずれをとっても、その目標へ至るためには不十分な条件のなかで活動していたのである。マンデラの先の発言は、こうした制約のなかで理解する必要がある。つまり「TRCは制約のなかでよく頑張った」という解釈も可能ではある、ということだ。しかし、その平板な解釈は「(ANCの同志による(!)否定的なものも含めて)皆が報告書を自由に論評すべき」という表現の文脈をすくい取れていない上に、逆にいえばTRCが当初の目論見からすれば失敗だったことを間接的に認めることになりはしないか。むしろ、マンデラはTRCの役割と効果を、加害者と被害者の相互理解を通じた融和という公式目標とは別のところに置いていたのではないか。TRCという場、あるいはTRCが作り出した機会に対して彼が期待していた社会的な効果は何であったのか。このような問いが引き出されるのは、マンデラの過去の発言をたどっていくと、そこではTRCに対する彼の姿勢にある種の既視感を覚えるからである。


2.リヴォニア裁判(Rivonia Trial)におけるマンデラの法廷戦術
今から61年前、当時34歳であったマンデラは、弁護士として法律事務所を開設し、土地の立ち退きや警官の暴行といった問題を抱えた黒人たちの弁護に多忙な日々を過ごし始めた。しかし当時の南アフリカで弁護士として働くことは、腐敗した司法、あるいは不公正な法体系のもとで法的な正当性をめざして活動するという矛盾を抱えることだった。差別的な判事によって、裏づけ資料を無視した判決が出されたり、理不尽な理由から退廷させられたりすることもあり、司法の現実に直面した彼は、法論理の展開のみならず法廷でのパフォーマンスを工夫するようになったという[マンデラ1996a, 217, 219, 366]。

こうした司法観、さらには法廷での戦術がもっとも明確に示されたのは、どうした因果か、自らが逮捕され、その後27年もの間投獄されることになるリヴォニア裁判(暴力革命と国家転覆を目的とした破壊活動共謀容疑を訴因とする裁判)であった。1963年に始まった公判で、被告側弁論準備を主導したマンデラは「最初から、この裁判を、法の審判を受ける場ではなく、信念を世に広く知らせる舞台として利用するつもりであった」[マンデラ1996b, 80-82, 一部改訳]。その目的のために、マンデラは証人台からではなく、被告席から証言する、という方法を採用した。被告席から行う声明は反対尋問や判事の質問に答える必要がないため、自らの主張を自由に展開できるが、その内容は判決には反映されず、有罪宣告の可能性が高まる。それでも、法廷を「舞台として利用する」戦術は4時間超にわたって繰り広げられ、「私は生涯を通じて、白人支配にも、黒人支配にも闘ってきました」[マンデラ1996b, 92, 一部改訳]という、27年後に釈放直後の演説で再び聞かれることになる主張で締めくくられたのである。

裁判を舞台として利用する、という考えには、不十分な結果しか期待できない状況を、にもかかわらず積極的に活用しようというマンデラのプラグマティズムが示されている。この場合、裁判の動向に注目するメディアを通じて、国内外の人びとに対して、アパルトヘイトの実態とANC活動の正当性を訴えることがねらいであった。


3.重警備監獄におけるマンデラの戦略的思考
収監時に44歳であったマンデラは、政治囚として72歳まで服役する。そこでは強制労働や独房での懲罰のみならず、手紙や申請書類の一方的な破棄、面会の制限など、高齢になるまで不当な扱いを受け続けることになったが、公式・非公式にアパルトヘイト体制側と交渉し続けることが闘争であるという姿勢は変わらなかった。次の手紙には、収監中に弁護士としての視点がいささかも後退しなかった様子がうかがえる。

「刑務所当局が権力を濫用して私やその他の囚人に対して政治的迫害その他の不法行為を行うことを禁じる命令、及び人権宣言を求める訴訟手続きを、監獄省に対しケープ州区において開始したい……囚人と面会者の会話を監督するにあたっての所長のやり方は、治安上の必要とされる範囲を超えています。……所長は新たに、私たちに送られた電報そのものを見せないという規則を導入しました。……以上述べた権力の濫用は貴殿(注:監獄長官)がロベン島を訪問することなく、私たちにこれらの問題を貴殿と直接話す機会がないことにより悪化しています」(刑務所から秘密に持ち出され、ダーバンの弁護士に渡された手紙、1977年1月(59歳)[マンデラ2012, 235, 241-243])

マンデラのこうした姿勢は、法を正当に解釈し公正な主張を行っているのがどの立場の側なのかを、刑務所職員とすべての囚人たちに対して問い続ける役目も果たしていた。政治囚が食事と生活条件の改善を要求してハンストを行ったとき、それを見た看守たちが同様の要求を掲げて食事をボイコットした「事件」もあったという[マンデラ1996b, 165-166]。そして、質問したがっている人に応える方が効果的に説得できる、との経験から、看守を懐柔する際には相手が質問してくるまで待った。白人の威厳を尊重するかのように常に静かな声で対話に臨み、心がやわらかくなったところで腰を据えて話せば「判で押したようにボロボロに崩れ落ちます」と回想する彼の口ぶりは、道徳的なカリスマというより、老獪な策士のそれである[マンデラ2012, 259, 262, 284]。

重警備監獄での交渉は、アパルトヘイト体制下の法廷以上に、(釈放という目標に対して)不十分な結果しか期待できない状況であったに違いない。しかし、刑務所の秩序は「看守の力だけではなく、囚人の力も加えて保たれるもの」であることを当局側が認めていることを理解した彼は、刑務所もまた舞台として利用し、敵である白人たちの思考回路を把握し、自分たちの組織を今まで以上に団結させる効果をねらい、こうした交渉を継続したのであった[マンデラ1996b, 122-123, 160]。


4.マンデラのプラグマティズムが指し示すもの
「和解か正義か」という決まり文句に示されるように、紛争後社会における過去処理政策の選択肢として、TRCと裁判は一般的に対比される傾向がある。前者は法的責任を放棄することで広範な証言を促し、相互理解へと導くものである一方で、裁判は敵対的な弁論を経て罪状確定と刑の執行を行うものである、と考えられるのである。とはいえ、双方の活動過程における重要な要素として、前者の公聴会と後者の公判が、真実追求・真相究明の手段として位置づけられる点で共通していることも確かである。そしてまた、旧ユーゴスラビア、シエラレオネ、カンボジアといった、さまざまな紛争後社会における昨今のTRCと裁判が、不十分な条件のために、真実追求・真相究明が期待されたようには進まず、従って、国民和解や正義の実現という目標を十分に達成できず、その社会的意義を問われる状況も生じている。批判的な研究や「失敗」と評するメディア報道が増える一方で、国際刑事裁判所(International Criminal Court: ICC)は当該社会におけるアウトリーチとローカル・オーナーシップを重視する活動指針を公表した[Vinck and Pham 2010]。これは、TRCや裁判が公式の目標とする地点以外に、活動過程に付随する効果を積極的に見出していこうとする動きに他ならない。国民和解が成就し、法の支配が根づくのは、TRCにせよ裁判にせよ、アド・ホックな組織の活動期間が終了してからのことであろう。また、そうした目標の実現には、当該組織による活動以外の諸要因が複雑に絡んでくるのは言うまでもない。こうした文脈において、不十分な条件のなかで当初の期待に到達しない活動を、「失敗」という(これまた平板な)評価で終わらせずに、どのような視点からその可能性を考えることができるのか。

マンデラが50年前にリヴォニア裁判で体現し、20年超の獄中生活で不断に実践し続け、15年前にTRCの式典で示唆してみせたプラグマティズムは、その問いを前にして、分析対象としても、応用すべきモデルとしても、依然として新鮮なヒントを差し出している。TRCや裁判の「舞台」としての役割やそこから派生する社会的影響に着目する最近の研究[Doxtader 2009; Glasius and Meijersy 2012; Mohan 2010; Schaap 2005]は、まさにこの射程に入るものである。公的な権威をまとった場で、そこでのルールに従う振る舞いのなかで、その場に固有のパフォーマンスを通じて、より社会的影響を及ぼす別の効果を追求する、という戦術を振り返るとき、今日やや聖人化された「国父マディバ」のステレオタイプから一歩踏み出し、「闘いはわが人生The struggle is my life」という彼の言葉を考え直すきっかけを与えてくれるのではないか、と思う。

(あべ・としひろ/大谷大学)



参考文献
マンデラ、ネルソン 1992, 浜谷喜美子訳『ネルソン・マンデラ 闘いはわが人生』三一書房.
マンデラ、ネルソン 1996a, 東江一紀訳『自由への長い道——ネルソン・マンデラ自伝(上)』日本放送出版協会.
マンデラ、ネルソン 1996b, 東江一紀訳『自由への長い道——ネルソン・マンデラ自伝(下)』日本放送出版協会.
マンデラ、ネルソン 2012, 長田雅子訳『ネルソン・マンデラ 私自身との対話』明石書店.
Doxtader, Erik 2009. With Faith in the Works of Words: The Beginnings of Reconciliation in South Africa, 1985-1995. Claremont, South Africa: David Philip Publishers.
Glasius, Marlies and Tim Meijersy 2012. “Constructions of Legitimacy: The Charles Taylor Trial.” The International Journal of Transitional Justice 6: 229-252.
Mohan, Mahdev 2010. “Reconstituting the ‘Un-Person’: The Khmer Krom & the Khmer Rouge Tribunal.” Singapore Year Book of International Law: 43-55.
Schaap, Andrew 2005. Political Reconciliation. New York: Routledge.
Vinck, Patrick and Phuong N. Pham 2010. “Outreach Evaluation: The International Criminal Court in the Central African Republic.” The International Journal of Transitional Justice 4: 421-442.

脚 注

  1. “Statement by President Nelson Mandela on Receiving the Report of the Truth and Reconciliation Commission (Pretoria, 29 October 1998)” (http://www.info.gov.za/speeches/1998/98a29_trc9811312.htm, 2013年12月24日アクセス).