特集 図書館と障害者サービス 情報アクセシビリティの向上 【各国事情】 日本点字図書館の国際協力事業 田中徹二 私が初めて国際協力事業に関わったのは、一九八五年である。当時、東京都のリハビリテーションセンターの職員だったが、東京ヘレン・ケラー協会に頼まれて、ネパールの盲人福祉協会を訪ねた。点字教科書を製作するプロジェクトを成功させたが、それから三〇年。その間の経験について、以下に紹介する。 ●コンピュータ点字製作技術指導講習会 一九九二年に国連の国際障害者年の一〇年が終わった。しかし、日本からの働きかけもあって国連のアジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)では、一九九三年から「アジア太平洋障害者の一〇年」を始めることになった。この一〇年は今も続いていて、二〇一三年からは第三次に入っている。 これを機に、日本点字図書館(以下、日点)では、国際協力事業としてアジア盲人図書館協力事業を立ちあげた。アジア四カ国を調査したところ、点字教科書は印刷されていないうえに、盲学校でさえ、先生が点字タイプライターで手打ちした点字教科書を使っている有様であった。生徒はそれを回し読みしていた。 一方、点字書の製作方法はパソコンの出現で一変していた。点訳ソフトで点訳されたデータから、紙に点字を打ち出す点字プリンタで容易に点字図書を製作できるようになっていた。この点訳ソフトが入ったパソコンと点字プリンタを提供すれば、一、二週間の講習で点字教科書が製作できたのである。これなら提供する機材の費用もそれほど高額ではなく、日点でもささやかな国際協力ができると思ったものだった。 初年度の一九九四年は安田財団の助成で実施したが、費用の関係で、講習会をマレーシアで開催した。マレーシアを選んだ理由は、経済的に安定しており、国民生活もある程度のレベルにあることと、政情も安定していたからだ。また、たいへん親日的でもあり、マレーシア盲人協議会(NCBM)というしっかりした組織があることも大きな理由だった。それに何といっても、マレーシアまでの旅費や、当地での宿泊費は、東京に比べると格段に安い。同じ金額で、それだけ大きな成果が得られる。日点の独自の予算はなく、助成金に頼る身分としては、当然だと考えたわけである。 一九九五年からは当時の郵政省の国際ボランティア貯金の助成金が得られた。二〇〇二年、バブルがはじけてボランティア貯金の利子がなくなり、助成が打ち切られるまで続けた。提供した機材は、パソコン、ダックスベリー点訳ソフト(アメリカ)、スウェーデンのインデックス社製点字プリンタだった。これらの機材は、講習会が終わった後、それぞれの国に持ち帰ってもらい、すぐに点字資料が作成できるようにしたのである。結局この講習会では、アジア各地の一二カ国から盲学校や盲人施設の教職員一〇三人を指導したことになった。 ところが、国際ボランティア貯金の利子がなくなり、助成を切られてしまった後も、アジアの各地では、まだ点字資料を作ることができない施設や盲学校がたくさん残った。要望が多かったので、霞会館の助成で続けることにしたのである。しかし、それまでのようにマレーシアに呼び寄せて講習会はできない。そこで第三国研修として、年に一カ所ずつ、マレーシアの指導員に同じ機材を携えて行ってもらうことにした。二〇〇三年のマーレ(モルディブ)を皮切りに現在まで続けている。ちなみに二〇一四年は東ティモールだった。 わが国をはじめ先進国では、視覚障害者の点字離れが懸念されているというのに、途上国では点字の教科書さえ不足しているという現状を、まだまだ当分無視できそうもないのである。 ●池田輝子ICT奨学金事業 コンピュータ点字技術指導講習会が最初の一〇年間で一定の成果をあげた頃、日点のごく近くにお住まいの池田輝子さんから賃貸マンションを寄贈したいという申し出があった。家賃でどんな事業をするか、池田さんと相談しているなかで、ICT事業を立ち上げる提案に賛成してもらった。アジア太平洋地域内の途上国から、視覚障害を持つ若者を招聘して、情報コミュニケーション技術(ICT)を学んでもらい、将来のリーダーとしてそれぞれの国で活躍してもらおうという企画だ。 このころになると、アジアでもパソコンの質は毎年のように向上し、企業などでは仕事にパソコンを活用するようになっていた。しかし、視覚障害者の間では、たとえエリートであっても、パソコンを持っている人はほとんどいなかった。パソコンが使えれば職業に結びつくこともあるだろうし、視覚障害者の世界だけでなく、地域でもリーダーになれるだろうと考えた。 第一回(二〇〇四年)の講習会に選ばれたのは、ミャンマー、ベトナム、スリランカ、ネパール、バングラデシュの若者だった。研修生たちは三〇歳以下で、点字、英語に堪能な人たちであった。日点での開講式には、池田輝子さんにも出席してもらった。講習会の内容は、コンピュータの基本説明、Windowsの仕組み、エディタの操作、テキストやワード文書の作成と保存、Eメールの仕組みと送受信、インターネット検索など初歩的なものだった。ただ、日本での講師陣には問題があった。講習会で使用するアメリカのJAWSという視覚障害者用画面読みソフトの操作に詳しく、英語で指導できる人が少なかったのである。みんなの時間をやり繰りしてもらってなんとか一回目の講習会を終えたが、こんな状況では、とても東京で講習会は開けないと痛感した。そこで第二回からは、最初の一週間をクアラルンプールのマレーシア盲人協議会でコンピュータの基礎訓練をすることにし、その後、日点に来てもらい、池田さんに会ってもらったり、わが国の視覚障害者福祉について勉強してもらうことにした。三回目の講習生が東京に来たときに、池田さんはたまたま入院していた。講習生が全員そろって病院に行き、池田さんに感謝の言葉を述べると、池田さんの感激ぶりは相当なものだった。 しかし、この年あたりから、この講習会はアジアの視覚障害者に広く知られるようになり、応募者が急増してきた。そこで考えたのは、講習生が東京に来る旅費を節約して、その分講習生数をふやすことだった。池田さんに了解を得て、二〇〇七年からは、ペナンにある聖ニコラスホームで講習会を開催することにした。このホームは、イギリスの教会によってマレーシアで最初に設立された盲学校で、宿泊もできるし、教室もある。安く講習会をあげるには最適な施設といえた。 数年間でアジアのパソコン環境は一変し、視覚障害の若者のニーズも変わってきた。初級の希望者は消え、高度な技術の指導を希望するニーズがふえたのである。そこで二〇一〇年からは中級と上級を置くことにし、講習生数も二〇人近く受け入れることにした。 この講習会で育った修了生たちは、自国に帰ってパソコン技術を視覚障害者や晴眼者に伝えている。また、初めのころの講習生は、まだ三〇代という若さにもかかわらず、自国の盲人協会の会長や幹部になっている者が出ている。プログラマーとして企業に雇用されている者もいる。さらに、修了生同士のために Teruko Ikeda ICTという名前のメーリングリストが作られていて、みんなが手に入れた情報が交換されたり、質問や回答が飛び交っている。毎日のように、このメーリングリストには投稿があり、アジアのインターネットの世界では、池田さんの名前が飛び回っていることになる。 今後もこの事業が続くことによって、アジアの国々における視覚障害者の情報コミュニケーション環境が大きく改善・発展していくことを望んでやまない。 (たなか てつじ/日本点字図書館理事長) アジ研ワールド・トレンドNo.234(2015. 4) p.20-21