民主化 Democratization

民主主義を「作る」試みと、それを超えるもの

農村地域での選挙運動の様子(インドネシア)
農村地域での選挙運動の様子(インドネシア)

一般的に、民主主義(Democracy)がある程度静態的なものとして想定されやすいのに対して、その字のとおり、「民主化(=民主主義化)」とは、この「民主主義」に到達するプロセスだとイメージすることができます。このように考えると、民主化を説明するためには、まずもって「民主主義とは何か?」について明確にしておく必要があるでしょう。

古代ギリシャ時代から現代まで、民主主義という概念は、恐怖や賛美または羨望といった様々な感情を呼び起こしながら、さまざまなかたちで論じられてきました。しかしながら、とくに現代政治学(political science)の文脈では、例えば国民国家やコミュニティーといった特定の社会集団のなかで生じる政治現象を、できるだけ客観的かつ科学的に捉え、また、それを比較することが目指されてきたために、この民主主義という概念もそのような目的に添ったかたちで定義されるようになりました。

おそらくこのような定義づけの試みの中で、もっとも洗練され、広く普及しているのがR.ダール(Robert A Dahl)による民主主義の捉え方だと言えるでしょう。彼はまず、民主主義を「 政治体制 の原理」として限定し、それを、市民の政治参加の程度(政治的平等)と、公に異議を唱えられる程度(政治的自由)という二つの要素から測定可能なものとして定式化しました。そして、この二つの要素を構成する、市民的・政治的諸権利(表現の自由、結社の自由、報道の自由、選挙権、被選挙権など)が、実際に行使される一つの機会として「自由・公正な 選挙 」が注目され、また、その実施のされかたによって民主主義か否かが判断できると考えられるようになりました。

すなわち、このような民主主義の定義(これを「手続き的民主主義」と呼びます)に則るとすれば、「民主化」とは自由・公正な選挙の実施を目標とし、それを担保するような市民的・政治的諸権利が獲得・整備されるプロセスだと理解できるのです。

民主主義を「作る」

では、そもそもなぜ(why)そしてどのように(How)民主化が生じるのでしょうか。

かつて、「民主主義」そのものというよりも、「民主主義的な社会」を構築するための条件が議論の中心であった時代、そのような条件とは、たとえば、一定の富と教養を備えた広範な中間層が存在していることや、寛容と穏健さを基調とした市民的政治文化が根づいていることなどとされていました。

したがって、そこでの「民主化」とは、ある社会にこれらのような条件が整っていくことを意味し、それが可能なのは、近代化という経済・社会構造の転換を経験し、一定の豊かさを手に入れた一部の国々(とくに先進国)だけだと考えられました。

しかし、1970年代半ばから世界中を席巻した「民主化の波」(S.ハンチントン)という現象が、このような従来の「民主化」観に大きな修正を迫ることとなります。なぜなら、多くの開発途上国のように、かつては民主化が実現すると想定されていなかった国々で、それまで禁止または制限されていた市民的・政治的諸権利が少しずつ容認されただけでなく、自由・公正な選挙の実施が目標とされたからです。つまり、この民主化の波という現象は、もはや「民主主義」が、ある特定の歴史的条件を備えた国においてのみ生まれてくる「社会のあり方」ではなく、むしろ人為的に作られうる「制度」なのだという認識が広まる契機となったのです。

さらに、このような予想外の国々で次々と起こる民主化という現象は、現代政治学の領域にも新たな転換をもたらし、これ以降、従来のような「民主化の原因の究明(why?)」だけでなく「民主化プロセスの進め方(How?)」といったきわめて実践的・戦略的な問題も議論されるべき重要なトピックとなりました。例えば、G.オドンネルやP.シュミッターらの共同研究を嚆矢とした「移行論(Transitology)」という新しい研究潮流においては、実際に民主化に関与する様々な政治アクターの戦略的な相互作用に力点が置かれ、権威主義体制から民主主義体制へという比較的短期的な「プロセス」が分析の対象となりました。そしてこの流れは「定着論(Consolidology)」へと引き継がれ、自由選挙の実施を経て「民主主義」を実現した国が、今度はそれをいかに定着させるのかについて様々な議論が展開されました。

「手続き的民主主義」を超えるもの


以上のように、20世紀後半に生じた「民主化の波」を契機として、少なくとも 政治制度 や政治構造の側面においては、多くの開発途上諸国も先進国と同列に論じられうるようになりました。そして、まさにその出発点となったのが、「手続きから定義する」という発想に基づいた民主主義や民主化の理解だったと言えるでしょう。

しかし、ここで注意せねばならないのは、もしそもそも「政治」というものが「ある集団に属するすべての人に係わるような事柄を決めること」だと定義されるとすると、ここまで論じてきた民主主義(や民主化)とは、おもにそこでいう「決め方」に関わるものであるということ、そして、民主主義の具現物としての「選挙」とは、結局のところ、「誰が決めるのかを決めること」に過ぎないという点です。

あえて指摘するまでもなく、科学技術の高度化や情報の専門化が進み、ますます複雑化する現代社会での政治においては、膨大な政策領域の夥しい数の政策案件を、迅速かつ着実に処理していく必要があります。ここに、いわゆる官僚やテクノクラート、そして利益集団(圧力団体)が政治に深く関与する余地が生じ、実際の政治の領域が、その主役だと想定される一般的選挙民どころか、彼らが声を託すべく決めたはずの代議員の手さえ届かないところに広がっていく可能性が生まれるのです。

すなわち、多様かつ多数の人々からなる社会集団において、そもそも決めるべき事柄(政策課題)だけでなく、その決め方(急進的・漸進的/強圧的・協調的・妥協的・対立的・二者択一的・・)や決定へのかかわり方(直接的・間接的)も無数にあることを考慮すると、「選挙」に還元または矮小化されがちな「民主主義」や「民主化」は、そこで展開される政治の、重要であるが「あるひとつの側面」を捉えるものでしかないということなのです。

上谷 直克