第1回 連載にあたって
秩序としての混沌—インド研究ノート
インド
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とはいうものの、時が経つに連れて、こういった異文化との摩擦には多かれ少なかれ順応していく——より正確には、あきらめて我慢したり、自分なりの対応策を編み出したりするようになる——ものである。私自身もそうだし、インドに限らず見ず知らずの土地で暮らしたことのある者ならば誰もが経験することだろう。
しかし、インドのあらゆる部分について何の違和感もなく受け入られるようになったのかといえば、決してそうではない。新しい土地を訪れてそこに暮らす人たちから直接話を聞いたり、今まで知らなかった事実に触れたりするたびに新鮮な驚きを覚え、いつまで経っても慣れるということがないのである。
そのように感じるのは、私自身に経験や知識が不足しているという理由もさることながら、インドの特徴ともいうべき2つの要因によるものであると考えられる。それは、第1に、様々な側面で目まぐるしく変化し続けているという意味での「流動性」であり、第2に、一つの国の中にきわめて雑多な要素を内包しているという意味での「多様性」である。
最近になってインドが大きな注目を集めるようになったのは、急速な経済発展を続けながら、それを背景に国際社会での存在感を着実に高めているからである。インド出身の著名な経済学者であるアマルティア・センは、1980年代後半にハーバード大学の生協の書店を訪れた際に、インドに関する本はすべて「宗教」のコーナーに置かれていたと述懐しているが、今となっては隔世の感がある。つまり、「悠久」や「停滞」といったイメージが長い間つきまとっていたインドは、ほんのわずかの期間で「躍動」と「成長」を象徴する存在へと大きく変貌を遂げたのである。そして、この目を見張るような変化の過程は現在も続いている。
さらに、経済発展が本格化する以前にもインドは大きな変化を絶えず経験していたことを考えると、その時期を「悠久」や「停滞」といった言葉だけで片付けてしまうのは適切ではない。例えば、政治の世界に目を向けると、「世界最大の民主主義」とも称されるインドの議会制民主主義は、絶え間なく変遷を繰り返してきた。特に、1970年代中頃には、民主主義が崩壊し、やがて権威主義の時代が訪れるのではないかという議論が真剣に受け止められるほど危機的な状況に陥っていた(実際には、1975年6月にインディラ・ガンディー政権の下で非常事態宣言が発令されるが、そのわずか1年半後には、インドは再び議会制民主主義へ復帰することになる)。
さらに遡って、1947年の独立まで約200年にわたって続いたイギリスによる植民地支配の時期も、変化に乏しい長い暗黒の時代だった訳では必ずしもない。多くの歴史研究が明らかにしているように、「近代的」な制度や価値観がイギリスからインド社会に持ち込まれたことによって、様々な宗教・社会改革運動が始まり、ヒンドゥーとムスリムの間の宗教的な摩擦が高まり、さらにナショナリズムへと結びついていくという大きな歴史の流れが生み出されていったのである。
このような激しい流動性によって特徴付けられるインドの様相を追いかけていくだけでも容易なことではないのに、多様性というもうひとつの要素がそれをさらに困難にする。なぜなら、インド全体としてはある一定の方向に変化しているように見えても、その流れが社会のいたるところで均一に見られるのではなく、複雑なまだら模様を描きながら進行している場合が多いからである。例えば、ここ20年ほど、インドは高い経済成長率を維持している一方で、地域間や階層間の格差がより一層拡大する傾向にあることが多くの実証的な研究によって明らかにされている。つまり、「躍動」や「成長」といったイメージとはまったく無縁の「悠久」と「停滞」の世界が、インドには今なお存在しているのである。
このように、全体的な傾向を示す「平均値」の背後に隠れている大きな「ばらつき」を見つけるという経験をするたびに、インドという国がいかに一筋縄ではいかないかを改めて思い知らされる。
この連載では、これまで説明してきた流動性と多様性という2つのキーワードを念頭に置きながら、以下のような視点に立ってインドという複雑極まりない国の在り方について考えてみたい。
第1に、これまでの歴史的な経緯との関連から、現在起きていることを理解するという点である。私たちが目にしている急速な経済発展やそれに伴う「近代化」の波によって、これまでの歴史的な積み重ねがすべて洗い流されてしまう訳ではない。それとは正反対に、「近代化」が歴史的な要因に新たな意味や役割を与え、それが現在の社会に重大な影響を及ぼすことさえある。
さらに、多様性が歴史的背景とどのように関係しているかという点にも注意しなければいけない。なぜなら、歴史的背景という初期条件が異なれば、経済発展や「近代化」が及ぼす影響もそれに応じて異なったものになる可能性があるからである。
第2に、「木を見て森も見る」ことを心掛けるという点である。巷に溢れるインド関連本の多くは、印象論や大雑把なデータだけに基づいて議論を行うため、その背後に隠れている大きな「ばらつき」をバッサリと切り捨ててしまいがちである(そもそもこの手の本では、印象論や大雑把なデータに根本的な誤りがあることが少なくない)。それとは対照的に、学術研究の場合、限られた対象(例えば、ある村落)に焦点を絞って詳細な研究が行われるものの、そのごく限られた研究対象がインド全体の中でどのような位置づけにあり、どういう意味を持つのかという点は往々にして触れられない。
この連載では、全体にばかり目を奪われたり、部分にのみ埋没したりするような両極端を避けるために、「木」と「森」の関係に注意深く目配りしながら、インドの多様性とその意味を考えていきたい。
(みなと かずき/アジア経済研究所 在デリー海外派遣員)
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