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『伝記と歴史における事蹟の驚くべきこと』
アブドゥルラフマ-ン・ブン・ハサン・アルジャバルティ-著

عجائب الآثار في التراجم والاخبار / عبد الرحمن الجبرتي الحنفي  [القاهرة] : [بولاق] , 1297 [1880] 4ج.
`Aja'ib al-athar fi al-tarajim wa-al-akhbar / `Abd al-Rahman Jabarti [al-Qāhirah] :
[Būlāq] , 1297[1880] 4 v.
使用言語 : アラビア語

翻訳版あり。
*英語版 : ʿAbd al-Raḥmān al-Jabartī's History of Egypt, ʿAjā'ib al-āthār fī'l-tarājim wa'l-akhbār / edited by Thomas Philipp & Moshe Perlmann Stuttgart : Franz Steiner , 1994 4 v. in 2
*フランス語版 : Journal d'un notable du Caire durant l'expédition française, 1798-1801 / ʿAbd-al-Rahmân al-Jabartî ; traduit et annoté par Joseph Cuoq ; préf. de Jean Tulard Paris : A. Michel , c1979

【解説】
近代エジプトの歴史家であるアブドゥルラフマ-ン・ブン・ハサン・アルジャバルティ-(略称ジャバルティ-)は、1753年(一説によれば1754年)カイロに生まれた。ジャバルティ-の名は、祖先が紅海沿岸エチオピアのジャバルト地方出身であったことに由来する。カイロでのジャバルティ-家は7代前までさかのぼることができ、代々イスラム学の中心アズハル学院のシャイフ(長老)職を務める、ウラマ-(イスラムの宗教指導者)の名門であった。

父ハサンは、イスラム諸学のほか数学、天文学、歴法、書道、度量衡学を修めた当代きっての知識人の一人であった。また、彼は裕福な商人であり、多くの商人仲間と親類関係をもつとともに、その社会的地位から政官界にも幅広い人脈をもっていた。つまり、ジャバルティ-は、カイロの市民文化のただなかに生まれたのである。こうして、アズハル学院を頂点とする伝統的教育を受け、伝統的エリ-トとしての生涯を歩んだが、この穏やかな生活は、1798年におけるナポレオンのエジプト遠征によって破られた。この中東イスラム世界に本格的な近代をつげる事件が起きた時、彼は、齢40代の初めであった。

その生活環境からして、この事件の観察において、彼に勝るものはいなかったであろう。彼は、自分の目で事態を観察できるほか、当時のエジプトの政官界の有力者とのつながりから、その筋からしか得ることのできない情報を収集することができ、必要とあれば、各種公文書に容易に接近することができた。かくて、フランス軍のエジプト占領事情を克明に綴った『フランス国の撤退にみる神意の現れ』( mazhar al-taqdis bi-dhahab dawla al-faransis )の後、彼の著名な歴史書『伝記と歴史における事蹟の驚くべきこと』(aja'ib al-athar fi al-tarajim wa al-akhbar) が執筆された。

イギリスの歴史家トインビ-は、ジャバルティ-を称して、「彼は疑いもなく、今日までの文明社会において、指導的歴史家として特別な地位を与えられるべき候補者の一人である」と述べている。しかし、彼に対するこうした後世の研究者の高い評価は、決してその記述スタイルの斬新さにあるのではない。それどころか、彼の歴史書は、マムル-ク朝の歴史家イブン・イヤ-ス(1448-1522 ?)以後、オスマン帝国時代においてしばらく低調であった編年体形式のイスラム年代記の伝統を復活させたものであった。歴史叙述のスタイルの点において、彼はあくまでも伝統的であった。

歴史記述にみられる時代に流されぬ硬質な批判精神、これこそ彼の著作に高い評価が与えられる理由である。彼は、「文明」の御旗のもとでなされたフランスのエジプト占領に対して、それがイスラムの観点からみて、いかに非「文明」な行為であるかを、皮肉、諧謔を交えて徹底的に暴きたてる。そして、こうした批判精神を育んだもの、それは「カイロ市民」としての矜持であった。

ジャバルティ-はまず何よりも、敬虔なイスラム教徒であった。しかし、彼は、現実での公共的利益を犠牲にしてまで、自らの信念に殉じる型の人間ではなかった。彼自身は語りたがらなかったが、1800年10月、彼は、あれほど批判的であったフランス軍統治下での「諮問委員会」に、カイロ市民を代表してメンバ-の一人となることに同意している。

と同時に、彼は、同じ宗教を信じているからといって、現実での公共的利益について妥協する型の人間でもなかった。ムハンマド・アリ-の残忍性を憎んだジャバルティ-は、1805年、ムマンマド・アリ-のエジプト総督就任を願い出たアズハル学院の長老たちの請願書に署名することを拒否した。両者の確執の始まりである。この確執のため、ムマンマド・アリ-の統治に批判的な『伝記と歴史における事蹟の驚くべきこと』は長らく刊行されず、その一部が初めて公表されたのは、1878年、アレクサンドリアの新聞紙上においてであった。

彼の晩年はみじめであった。その没年でさえ、1824年から1826年までの間と、定かでない。1822年には、ムハンマド・アリ-の手先によって暗殺されたという噂まで広まった。暗殺されたのは息子であった。晩年の彼は病の床にふせ、ほとんど視力を失い、息子の死に打ちひしがれて、自分の家でひっそりと隠遁生活を送った。

(加藤 博/一橋大学経済学部教授)


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