研究者のご紹介

津田 みわ 研究者インタビュー

「民族が違うという理由だけでは人は殺しあわない」

所属: 新領域研究センター 国際関係・紛争研究グループ長代理主任研究員
専門分野: 政治学/ケニア政治
詳しい履歴と業績

アジ研でアフリカ研究を始められたのは?

私がアジ研に入ったのは1989年です。その数年前からアフリカ総合研究プロジェクトという新事業が始まったそうで、アフリカ研究者の増員があり、非常にラッキーでした。「アフリカ担当」で採用され、大学院で専攻していた研究を続けさせてもらえました。

なぜアフリカ研究だったか、といえば……修士課程で論文のテーマを選ぶ際、アメリカやソ連など先進国の研究に没頭する国際政治ゼミの兄弟子たちを前に、天邪 鬼な性格とサバイバルの必要性から、非先進国で、しかも日本ではあまりやっていなくて、なおかつ豊富な先行研究がある地域を探したところ、アフリカ、具体 的にはケニア、になったわけです。当時レゲエが流行っていて、最も人気があったボブ・マーリーが「アフリカに帰ろう!」と歌っていて、単純にアフリカに興味を持ったということもありましたね。

アジ研入所と同時に『 アフリカレポート 』の編集、執筆を担当しました。この雑誌は3千字程度の小論文7、8本を収録していて、その時起きているアフリカの重要問題についてわかりやすく紹介し、解説や分析を加えることを目指しています。駆け出しの私にとっては、最初の論文トレーニングとして格好の仕事だったと思います。この雑誌は残念ながら今年3月に50号で休刊になったのですが…。

ケニアではどんな経験をされましたか?

1994年から2年間、海外派遣員としてケニアに滞在していたのですが、この間ナイロビのいわゆる「スラム」地域に住んでいました。ケニア人の友人姉妹のアパートが「スラム」と分類される地域にあり、私もそこに一緒に住むことになったんです。下水道や水洗トイレがあるコンクリート製の3階建てアパートでした( 『 アフリカレポート 』No.24「 ナイロビ:水をめぐる清潔観 」(462KB))。公園や道路の予定地だったり、氾濫の危険性がある川沿いといった場所だということで、正規の宅地の外、に位置するわけですが、実態は都会で働く人たちのベッド・タウンでした。うちのアパートにも大金持ちとうわさの大家がいて、いつも黒塗りのベンツに乗って家賃を集めに来てました。友人たちは中級の公務員でしたし、同じアパートには、公務員や、上場企業に勤めている正規職員も多くいました。もちろん近所にはトタンや木造の小屋が建ち並び、そういうところには満足なトイレも下水もなく、厳しい生活をしている人がほとんどでした。うちの周りを含めて舗装道路もまったくなくて、雨が降るたびに田んぼのようになり、脛まで泥だらけで乗り合いバスに乗り、大学に通ってました。

私は、こうしたいわゆる都市中・下層の人たちと暮らしつつ、2年間どっぷりと現地の人の立場や目線につかる毎日を過ごしたのだと思います。今は日本に帰ってきてしまいましたが、この時の感覚は私にとっては大切な財産、なのでしょうね。ケニアに住む前に比べて、現地新聞の読み方も変わりました。研究する際には、情報量や目線を、ケニア政治を専門としているケニア人研究者が読んだり考えたりするのと同じレベルに届いているようにしたいです。難しいですが。

2007年選挙後暴動についてどう考えていますか?

それまで私がみていたのは、1992年に一党制から複数政党制になり、順調に民主化を実現させていく優等生的なケニアの姿でした。ところが2007年末の総選挙で結果受け入れがうまくいかず、「民族」ごとに人が殺されるような大きな紛争が起こったのです。独立ケニアでは初めての、最悪の規模の紛争でした。私が住んでいた場所、知っていた景色が破壊され、知り合いが犠牲になり、たいへんショックでした。この2年ほどは、なぜこんなことが起きたのか、紛争によって政治や社会がどんな影響を受けているか、というテーマに取組み、紛争の背景として、民主化をめぐる政治対立と歴史的な土地分配のゆがみがあるという観点で何本か発表してきました( 『 アフリカレポート 』No.47「 2007年ケニア総選挙後の危機 」 (225KB)ほか)。

この紛争が起きる以前から私が訴えていることですが、このような悲惨なことが起きた今でも「民族が違うという理由だけでは人は殺しあわない」という観点は変わっていません。ケニアやルワンダ、ブルンジにも多数の民族が存在しますが、そもそもそれら「民族」はアフリカの「伝統的なもの」などではなく、ヨー ロッパの植民地化の道具として線引きされ、つくられたものでした(「 テーマから探す『民族』 」)。ですが、植民地化と独立後の政治運営を通じて、特定の民族(地域)が土地分配や開発予算の配分などで優遇されたり、逆にある民族(地域)では全然開発が進められなかったりといったことが続きました。複数政党制になってからは、政治家たちが選挙に勝つために「民族」というグループ分けを利用し、自分と同じ民族に属する人たちに支持を呼びかけたり、「民族が違う」というだけでライバル支持と決めつけて自分の選挙区から暴力的に追い出す事件も多発しました。政党支持の違いや政治家の煽動が、ケニアやルワンダでは大きな紛争に結びつきました。

先進国等での報道から、「アフリカには歴史もなく、社会・経済政策の違いもない。違う民族同士は憎み合うのが常で、トライバル・ウォーをやっているんだろう」といったイメージが植えつけられがちですが、残念なことです。これまで私自身も、アジ研の歴代のアフリカ紛争の共同研究でも、一貫してその固定観念をくつがえそうとして成果を発表してきましたが、さらに続けたいと思います(武内進一編『 アジア・アフリカの武力紛争—共同研究会中間成果報告 』、武内進一編『 国家・暴力・政治—アジア・アフリカの紛争をめぐって 』、 アジ研ワールド・トレンドNo.158 ほか)。

今興味を持っている研究、今後手がけたい研究テーマは?

まず、興味というより私自身への課題ですが、2007年総選挙で起こった紛争のショック状態から抜け出し、「ケニアは紛争経験国になったのだ」ということ を受け止め、再び冷静にケニアを見ていけるようになることが、当面の課題です。その上で引き続き、ケニア政治をみつめながら民族、紛争、民主化といったテーマについて考えていきたいと思っています。

それとは別に、大学で非常勤講師を始めて気づいたことがあります。ほとんどの場合、「アフリカは暑いとは限らない」とか「アフリカの人々は裸でヤリを持って走り回っているんじゃない」といったことから教えなければなりません。それはかまいませんが、そんなことから初めても、アフリカの政治や「民族」というグループ分けについて、たった1年間の講義で学生さんたちがかなり深い理解や考察に達するのをみていて、毎年大きな感銘を受けています。また、日本でも貧困や格差の問題が表面化してきていますし、出身地や出身階層をめぐる格差や憎悪と政治との関連というテーマは、単なるアフリカ理解の道具にとどまるわけでもありません。これからは、アフリカについて、研究者同士の専門的な議論だけではなく、これまであまりアフリカに興味のなかった方々にも、もっと積極的に話したり書いたりしてみたいと思っています。

(取材:2010年7月22日)