国際人口移動 International Migration

故国を去るには理由がある

奴隷積み出し港 セネガルのゴレ島
奴隷積み出し港
セネガルのゴレ島

原初の人間は現在のアフリカに生まれたとされています。それ以来人間は世界各地に散らばり、現在の人口分布が形成されるに至りました。このように人間は人口移動の長い歴史を持ちます。人々は生活の糧を求めて、または戦争や交易のために世界を移動したのです。

16世紀以降に活発化する大陸間人口移動の先鞭を付けたのは冒険家達でした。1492年にコロンブスが新大陸を発見し、その後、ヨーロッパから多くの人々が南北アメリカやオセアニアに移動しました。そして18世紀からは奴隷貿易が始まり、アフリカの人々が強制的にヨーロッパやアメリカ大陸へ連れ去られました。アジアにおいては明の時代から、中国人が華僑として他のアジア諸国に流出するという現象が顕著になりました。後に19世紀に入ると、クーリー(苦力)と呼ばれる中国人やインド人が世界各地の鉱山やプランテーション、経済の要所で雇われるようになりました。日本からも明治元年のハワイ移民を皮切りに、アメリカ、南米への移住が増加しました。そして第二次世界大戦によって南北アメリカへの移民ができなくなると、人口排出圧力は満州に向けられることになったのです。

今は観光地となった奴隷収容施設
セネガルのゴレ島

国境を超えて移動する人々の中でも、迫害を恐れて国外に脱出する場合、そのような人々は難民(refugee)と呼ばれます。1917年のロシア革命後に初めて、そのような避難民の受入が問題視されました。1951年には国連で 難民条約 が採択され、批准国には難民を「生命または自由が脅威にさらされる恐れのある領域の国境へ追放、または送還しない」(ノン・ルフルマン原則)という責任が生じることになりました。その後は紛争に伴う難民が多数、国外への避難を余儀なくされました。具体例としては、第二次大戦後の中華人民共和国の成立やインド、パキスタンの分離独立、パレスチナ紛争、1970年代まで続いたインドシナ紛争、そして1990年代のユーゴスラビア紛争、ルワンダ紛争、等々による難民が挙げられます。国際機関としては 国連難民高等弁務官事務所(Office of the United Nations High Commissioner for Refugees: UNHCR)国連パレスチナ難民救済事業機関(United Nations Relief and Works Agency for Palestine Refugees in the Near East: UNRWA)国際移住機関(International Organization for Migration: IOM) が難民への支援を行っています。近年問題視されているのは、政府に迫害を受けているにもかかわらず、国外に退去できないため難民条約上の難民とは見なされない人々への支援です。このような人々は国内避難民と呼ばれています。このように政府が国民の安全を事実上保障できないケースが少なからず見受けられるわけですが、そのような場合には誰かが、「国家の安全保障」を超える形で、人々の安全を保障する必要があります。このような課題は 人間の安全保障 と呼ばれ、緒方貞子やアマルティア・センらによって概念化が図られてきました。

一方20世紀後半には交通手段の発達から、自発的国際人口移動が増加しました。人の移動は地球のほとんどの地域に及び、経済の グローバリゼーション の一翼を担いました。またこの時期には、それまでの永住を前提とした移民ではなく、渡航の期間を契約によって限定した海外出稼ぎが増加しました。その大きな契機となったのが中東における原油の発掘と1973年の第一次オイルショックです。人口密度の低い湾岸産油国にオイルマネーが流入することにより、中東地域で大きな労働需要が生まれ、周辺諸国やアジアから中東に出稼ぎする大きな人口移動の流れが生じました。国際機関としては 国際労働機関(International Labour Organization: ILO) が特に熱心に、出稼ぎ労働者の人権保護等にあたっています。

その後、1980年代半ばの逆オイルショック、1991年の湾岸戦争、および東アジアの成長と、これらの地域の通貨切り上げが相まって、海外出稼ぎの流れは多様化しています。日本も戦前の人口送り出し国であった時代から様変わりし、出稼ぎ労働者の受入国となっています。近年はフィリピンやタイとの間の 自由貿易協定(Free Trade Agreement: FTA) の中に、労働者の受入を盛り込むなどの、新しい動きがあります。

( 山形 辰史 )