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グローバリゼーション-文化と社会 Globalization- Culture and Society

世界は均質化するのか、それとも・・・

ギグロ市近郊の村
ギグロ市近郊の村
グローバリゼーションという言葉は、国境を越えた労働力・資本・商品・サービスの流れが活発になったことや、多国籍企業に代表される国際的な生産ネットワークの編成など、主に経済面での事態の進展につれて、ひろく普及するようになりました。しかし、1990年代以降、この言葉は、経済学にとどまらず、社会学、政治学、人類学、文化研究など、幅広い分野の研究者の関心を引きつけ、さまざまな議論がなされてきました。

議論の俎上に載せられた論点は、じつに多岐にわたります。試しに、グローバリゼーション論の教科書として編まれたコーエンとケネディ[2000]の目次を見てみると、モダニティ、変貌する労働の世界、国民国家、グローバルな不平等(ジェンダー・人種・階級)、超国籍企業、不均等発展、グローバルな統制の失敗、アジア太平洋地域、人口圧力と移民、観光、消費文化、メディアとコミュニケーション、都市生活、社会運動、ジェンダー化された世界への挑戦、環境運動、アイデンティティと帰属といった章題が並びます。こういった章立ては、社会学以外の分野を専門とする方には、かなり意表をつくものかと思います。ここでは、グローバリゼーションという言葉は、「○○の」という限定付きで使われるような(例:「金融のグローバリゼーション」など)用語法では使われていません。社会学的なスタンスをとる論者にほぼ共通しているのは、「経済・テクノロジー・政治・社会・文化といった・・・すべての次元が同時に結び合わされ、それぞれが互いのインパクトを強化し、増幅し合っている」(コーエンとケネディ)、「単一のどのような主題の枠組みにも限定しがたい、一連の多次元的な社会的過程」(スティーガー[2005])というイメージです。
すなわち、ここで焦点となっているのは、何か他と区別できる特定の現象というよりは、現代世界において複合的に進行している包括的な変容過程そのものです。この意味において、社会学のグローバリゼーション論は、「現代という時代はどのような時代か」をめぐる、批判的な見地からの大局的な問いかけという性格を強く持つといえます。

発展途上国を対象とする地域研究は、グローバリゼーション研究の知見とどのように連携することができるでしょうか。グローバリゼーションはしばしば、「マクドナルド化」というキャッチワードに代表されるように、世界を文化的に均質化させたり、先進国主導の資本主義にとっての障害のない平面を作り出すプロセスだと指摘されることがあります。この視点に立つと、発展途上国の歴史は、「グローバリゼーションの波に洗われる」過程として描かれることになるでしょう。実際、グローバリゼーションが途上国の貧困などを生み出したとする指摘は数多く提起されており、現在のところ支配的な見地だといえます。

他方、グローバリゼーションに関しては、「同質化と差異化」が同時に進行する過程として捉える視点が提起されています(例えば、アパデュライ[2004])。これは、途上国で生起するダイナミズムの性質を探究するうえで、より批判的な手がかりを与えてくれるものです。市場経済、小さな政府、民主化といった政治・経済分野から、音楽・映画などのソフト、多国籍アグリビジネス企業が持ち込む商品と食習慣、携帯電話などの消費文化の分野まで、世界的にほぼどこでも見られる一連のフローが途上国に流入しています。しかしながら、現実に、途上国で展開される、政治・経済・生活のあり方やものの考え方は、決して世界的に平板化したものとはなっていません。むしろ新たに導入されたフローに刺激されて、世界のどこにもない新しい変容が生み出されることも頻繁にあります(同じ代表民主制のシステムを取りながら、民主主義のあり方が国によってかなりバラエティを持つことは、まさしくこの典型例といえるでしょう)。世界と切り離されたがゆえの固有性ではなく、同時代にある世界と緊密に結び合うなかで生まれる独自性や固有性に着目することは、途上国を対象とする地域研究にとって重要な視点といえます。おそらくこの視点に立つことによって、固有性を探究する地域研究は、閉鎖的な一国研究の殻を破って、より開かれた知見を提示することができるといえるでしょう。
佐藤 章