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トルコのエヴラットルック:F.オズバイの研究から

トルコ情勢

地域研究センター 村上 薫
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2017年3月

1 F.オズバイのエヴラットルック研究

本報告では、現代トルコにおける少女の家事労働や、里親制度あるいは養子縁組の前身と位置づけられる「エヴラットルック」の慣行について、フェルフンデ・オズバイ(1944-2015)の研究に拠りつつ紹介する。

フェルフンデ・オズバイ(Ferhunde Özbay)は、最後の著作となった『家族、都市、人口』(文献(5))の著者紹介によれば、1944年シヴァス生まれ。1966年にソーシャルワーク・アカデミー(保健省に付設され、のちにハジェッテペ大学に統合)を卒業後、アメリカに渡り、プリンストン大学で人口学を学び、コーネル大学で社会学の博士号を取得した。1975年に帰国後は、アンカラのハジェッテペ大学人口学研究所で、1982年からはイスタンブルのボアジチ大学の社会学科で教鞭をとった。2006年にボアジチ大の教授職から退いた後も2015年に亡くなるまで同大で講義を担当し、多くの弟子を育てた。人口学から出発し、統計的データの分析とフィールド調査を組み合わせた国内人口移動や世帯構造についての人口社会学的研究や、女性や家族についての社会学・社会史研究で知られる。1970年代後半のトルコでは欧米の第二波フェミニズムに影響されてフェミニズム運動が興る。多くの研究者が運動に参加し、フェミニズムの視点に立つ研究を切り開いたが、オズバイもその中心にいたひとりであった。

本報告で紹介する『トルコにおけるエヴラットルック制度:奴隷か、子どもか』(文献(1))は、オスマン帝国末期の19世紀に制度化されたエヴラットルックの慣行を、現在の少女の家事労働との連続性に注目しつつ検討するものである。オスマン帝国時代の19世紀、都市の中上流階層のあいだでは、身寄りがない少女や貧困な家庭の少女を引き取り、家事や子守りをさせる慣行が普及した。少女たちはエヴラットルックと呼ばれた。他方、オズバイが調査をした1990年代後半のトルコでも、貧しい庭出身の少女が親戚や他人の家庭に引き取られ、食事や衣服、わずかな小遣い、親元への送金と引き換えに家事に従事する、あるいは働きに出る母親にかわって自宅の家事を引き受け幼い弟妹の世話をすることが、自然なこととして社会に受け入れられていた。エヴラットルックは1960年代に姿を消したが、オズバイは、現在もなお貧しい家庭出身の少女の家事労働が当然視されることの背景を、エヴラットルックに求めたのである。本書は43ページと薄く小さな本であるが、エヴラットルック研究に家族社会学的な視点を導入し、女性や子ども権利、家事労働力の変化などこれまでにない角度からこの領域に光を当てている。

ここで改めてエヴラットルック(evlatlık)とは、トルコ言語協会の『トルコ語辞典』(Türkçe Sözlük)によれば、(a)エヴラット(evlat)であること、 (b)幼少時に家に引き取られ養育される者、 (c)(法)法に基づきエヴラットとしての権利を認められた者、を指す。エヴラット(evlat)は、アラビア語起源の語であり、(a)息子、娘、子供、(b)子孫、(c)年長者が自分の子供の年齢の者にたいして用いる呼びかけ語を指す。オズバイの引用によれば、トルコの百科事典Ana Britannicaはエヴラットルックを、「子ども(evlat)としての権利を認めた、あるいは法的権利にもとづかずに養育と労働力利用を目的として幼少時に家に引き取った、少女あるいは少年」としている(文献(1) p.1)。

エヴラットルックは、養子縁組した子や継子を指すこともあるが、一般的には家事をさせるために引き取った少女を指して用いられる。エヴラットルックは19世紀半ばに文献資料に登場し、およそ百年後の1960年代に姿を消す。エヴラットルックの語義が幅広いのは、エヴラットルックが登場してから姿を消すまでの百年ほどの間にその性格を大きく変化させたことと関係している。

エヴラットルックに関する統計的データや公文書はほとんど存在しない。唯一の統計的データは1885年と1907年のセンサス(イスタンブルのムスリム世帯の5パーセントを抽出)のデータである。そのためオズバイは分析素材として法律、道徳書、小説や回顧録にインタビューのデータを組み合わせて用いている。エヴラットルックは都市の中上流階層の家庭に多かったため、エヴラットルックが登場する小説や回顧録も多くがイスタンブルを舞台としている。エヴラットルックのなり手は当初、主として戦争孤児の少女であったが、共和国以降は貧しい農村の少女がこれにかわった。小説に登場する典型的なエヴラットルックとは、貧しい農村からイスタンブルの裕福な家庭に送り出された少女である。インタビューのデータは、かつてエヴラットルックであった人々やエヴラットルックと共に生活したことのある人々、および現在自分の家やよその家で家事に従事する6~17歳の少女とその家族、雇い主へのインタビューからなる。

以下ではエヴラットルックの慣行について、主に『トルコにおけるエヴラットルック制度:奴隷か、子どもか』(文献(1))に基づいて報告し、部分的に国際労働機関(ILO)の児童労働撤廃国際計画(IPEC)のプロジェクト報告書である文献(2)を参照する。文献(2)は文献(1)と同じトピックを扱うが、現代の少女の家事労働により多くのページを割いている。なお筆者は未見だが、オズバイのエヴラットルック関連のその他の著作として文献(3)と(4)がある。

2 奴隷からエヴラットルックへ

オスマン社会では、家の家事は、家族の女性成員のほか、奴隷、使用人、および家長に引き取られた子どもたちによって担われ、その大半が女性であった。イスラムにおいては血縁関係が重視されるため養子縁組が禁じられるが、身寄りのない子どもを引き取り養育することは徳として推奨される。オスマン社会では、引き取られた少女はエヴラットルックやベスレメなどと呼ばれ、養育を受けつつ家事を担った。エヴラットルックは、イスラム法により相続権を認められず、また家族成員との結婚が可能である点で、子どもよりも奴隷に近い。もっとも、オスマン社会ではヨーロッパやアメリカ、古代ローマと比較して奴隷の扱いは人間的であり、奴隷は一家の一員でもあった(文献(1) p.2)。

19世紀には、家事の担い手のうち奴隷が減少し、かわってエヴラットルックと使用人が増加する。背景には、奴隷制度にたいする批判の高まりがある。フランス革命の人権思想の影響により、この時代には多くの国で奴隷が禁止された。オスマン帝国も、イギリスなどヨーロッパ諸国から奴隷の禁止を求められると、奴隷市場を閉鎖し、奴隷取引を実質的に禁じた(1846年)。奴隷取引はその後も密かに続けられたが、帝国内では奴隷制にたいする批判的な見方が強まった(文献(1) p.10)。

もうひとつの背景は、保護を必要とする子どもや女性が大量に発生し、その一部が政策的にエヴラットルックとして保護されたことにある。クリミア戦争(1853-56年)により、コーカサスで大量の戦争難民が発生し帝国内に流入すると、奴隷の売買が再び盛んになり、少女を含む身寄りのない女性たちがモスクの中庭で売買されるといった光景が見られるようになった。オスマン政府は奴隷として取引されるのを防ぐため、少女をエヴラットルックとして家庭にあっせんした(文献(1) p.10-11)。これ以後、戦争孤児の少女を家庭に引き取り、家事をさせつつ養育するしくみが定着し、裕福な家庭だけでなくミドルクラスの家庭でも家事に人を使うことが習慣化した(文献(1) p.21)。

3 エヴラットルックの奴隷的要素

こうしてエヴラットルックは、当時の国際環境のもとで、一方で戦争で身寄りを失った少女を保護し、他方で奴隷取引禁止による家事労働力不足を補うしくみとして制度化されていった。ただしこのことをもってエヴラットルックを奴隷と対照的な存在と見なすのは早計である。帝国末期に奴隷取引が禁じられ、また奴隷に批判的な世論が高まると、帝都の大邸宅からは若く美しい奴隷が姿を消し、かわりにエヴラットルックや使用人が家事を担うようになる。だが奴隷がいなくなっても、奴隷的なものは消滅せず、むしろエヴラットルックのなかに引き継がれたからである。これはたとえば、ひどい扱いを受けると同時に保護も受けること、家族の男性成員から性的な対象とされることなどである。

19世紀のオスマン・エリートによる奴隷制批判は、三つに分けられる。第一は人権思想に照らして反対するもの、第二はスルタン独裁批判を奴隷制批判に仮託するもの、そして女奴隷を性的対象とすることへの批判である。三つめの議論の論者のひとりで女性作家のファトマ・アリイェは、家長が女奴隷と性的関係をもつことや結婚することにたいして強く反対した(文献(1) p.14)。だが、これらの議論に後押しされて奴隷が徐々に姿を消す一方、奴隷的存在を許容する心性は容易になくなることはなかった。

20紀初頭のエヴラットルックの位置づけを知るための素材に、フセイン・ラフミ・ギュルプナル(Hüseyin Rahmi Gürpınar)の小説Nimetşinasがある。1901年に出版されたこの小説の中で、ある家のエヴラットルックだった美しい少女ネリマンは、ある出来事をきっかけに別の家に使用人として仕えることになる。新しい家の夫人はネリマンをたいそう気に入る。夫人は夫が彼女の美しさに心を奪われることを怖れ、彼女をエヴラットルックにすると決める。年長の使用人たちは、ネリマンが使用人からエヴラットルックとなり、地位が上昇することを面白く思わず、彼女に重い仕事を押しつけようとする。やがて夫人の不安は的中し、夫はネリマンに夢中になる。しかしネリマンは夫を相手にしない。夫がネリマンを手に入れるため彼女と結婚しようとすると、ネリマンはこれを拒み、家を出る。

夫人は美しいネリマンを夫の性的視線から守るためにエヴラットルックにした。つまり、エヴラットルックは、性的対象にすべきでない存在とみなされており、その点で奴隷や使用人よりも子どもに近い存在であった。ネリマンは自ら家を出たが、これも彼女が奴隷でないために可能なことであった。一方、ネリマンがエヴラットルックとなってもなお夫が彼女に執心したことは、たとえ奴隷制が廃止されようとも、家事労働につく女性を性的対象と見なす価値観は残ったことを物語るのである(文献(1) 14-15)。

4 エヴラットルックの実践

エヴラットルックについて信頼できるデータが得られるのは19世紀以降である。19世紀よりも前の時代に、エヴラットルックがどれほど普及していたかは、よくわかっていない。ほぼ唯一の統計的データは、1885年と1907年の人口センサス(イスタンブルのムスリム世帯の5パーセントを抽出)である。これによれば、1885年から1907年に、奴隷がほぼ半減し、かわってエヴラットルックと使用人が増加していることを確認できる。また世帯員に占める非血縁者は2.25人から1.69人に減少している。非血縁者のうち、奴隷が占める割合は、58パーセントから2パーセントに減少したのにたいし、エヴラットルックは6パーセントから18パーセントへ、有給の使用人は13パーセントから27パーセント、親族は2パーセントから7パーセントにそれぞれ増加した(文献(2) p.16-18)。

奴隷の大幅な減少は、奴隷は悪しき制度であるという考え方が広まったことによる。これは、センサスで用いられる奴隷の呼称からも明らかである。1885年センサスでは奴隷は主に「ジャーリエ」(女奴隷)と記されていたが、1907年には「ジャーリエ」は使用されず、明らかに奴隷と思われる人々が「使用人」や「親族」として登録されているのである(文献(1) p.16)。

トルコ共和国が成立すると(1923年)、世俗化改革が進められ、イスラムの諸制度は廃止された。新民法(1926年)により養子縁組が合法化されて、エヴラットルックを法的にも自分の子どもにすることができるようになった。またエヴラットルックの供給源であった戦争孤児も減少した。だが、インタビューのデータは、エヴラットルックの慣行はこの時期に減るどころか、むしろ増加する傾向にあったことを示唆している。(共和国期には定期的に人口センサスが実施されるが、エヴラットルックの統計はとられていない。)たとえば88歳のある女性によれば、イスタンブルとアンカラには1940年代まで大勢のエヴラットルックがいたという。「今から思うと不愉快なこと」だが、当時はどこの家にもひとりかそれ以上エヴラットルックがおり、貧しい農民が裕福な家庭に子どもを売っていた。また、1940年代のイスタンブルでは、男たちが家を訪ね歩き、エヴラットルックにする少女はいらないか聞いて回っていたという証言もある(文献(1) p.23)。

共和国成立後にエヴラットルックがむしろ増加したのは、農村の疲弊と貧困に原因があった。貧しい農家の少女が少なくともお腹は満たせそうな都会の家庭に送られることは、正しいことに思われたのである。また政府や改革派エリートもエヴラットルックの解消に熱心ではなかった。政府はイスラム的価値観に反するという理由から、養子縁組の普及に積極的ではなかったし、改革エリートとしてエヴラットルックの待遇を率先して改善すべき立場にある官僚や軍人は、自分たちがエヴラットルックの家事労働力に依存していた。その点で模範的な人物のひとりとして、独立戦争を戦ったカリスマ的指導者で初代大統領のムスタファ・ケマル・アタチュルクは、多くの少女を引き取ったことで知られる。彼は養子縁組こそしなかったが、彼女たちを家事労働力として使わず、教育を受けさせ、養子に限りなく近い存在として遇した。(文献(1) p.23-24)。

5 エヴラットルックへの視線

小説やインタビューで語られるエヴラットルックの典型は、次のようである。彼女は色黒で醜い少女である。その「醜さ」は、彼女がクルド系かアルメニア系、アナトリアの農民であることを暗示している。彼女は女奴隷とは違って美貌を期待されない。彼女は不潔で虱がたかっているから、引き取ったらまず着ていた衣服は脱がせて焼却し、全身をお湯で洗わせなければならない。虱がわかないように、体中にガソリンをかけることもある。たとえ家族が清潔な衣服を着せて彼女を送り出しても、これは変わらない。エヴラットルックが登場する小説では、彼女が初めて家にやってきた日のこうした細々した過程が、彼女が新しい役割につくための一種の儀式として詳しく描写される。彼女は流行おくれの服を着せられ、髪を短く切られ、その家庭の子どもたちとは明らかに違う恰好をしている。ミドルクラスの家族は周囲にたいし、彼女は自分たちとは区別される存在であることを身なりで示そうとするからである(文献(1) p.24-25、文献(2) p.22)。

彼女は6~7歳で主人の家にやってくる。最初は何もせず、家の小さい子どもたちと遊んでいる。皿洗い、近所へのお遣い、主人と女主人のマッサージと足洗い、コーヒーやお茶を運ぶなど、簡単な仕事を任されることもある。共和国期には小学校が義務教育になるが、家族は彼女を学校にやろうとせず、彼女もなぜか学校に行きたがらない。12~13歳になると、より責任ある仕事をまかされる。彼女の時間と身体はより厳しく管理されるようになり、家族とのあいだの緊張は増していく。彼女は自分のための時間を欲しがり、また映画や公園に出かけたり友だちをつくりたいと思うようになる。だが家族にとって彼女がそうした欲求を持つことは「不道徳」であり、「不品行」であった。

彼女は性的に奔放で、家人を誘惑することに長けている。それに牛乳売り、パン焼き職人、店員見習い、運転手、修理工、はては物乞いまで、隙あらば男を見つけていちゃつこうとするから、常に監視しなければならない。許可なく表に出たり、窓から外を眺めたり、訪問者と口をきくことを禁じ、守れなければ罰を与えるべきである。一方、彼女は一家の男性から性的暴行を受けることもある。彼女が妊娠すれば、一家とは縁のない家に嫁がせる。そうでなければ、むしろなるべく長く働かせるために、いずれ適当な相手と結婚させると約束しつつ先延ばしにし、花嫁道具(チェイズ)の準備もおろそかにする。そのため彼女は結婚の世話を待たず、男と駆け落ちする。彼女の性的奔放さの理由はわからない。はっきりしているのは、家族にとって彼女は「我々」とは違う生き物ということである(文献(1) p.25-26、文献(2) p.22-23)。


このように小説や回顧録、インタビューの中のエヴラットルックは、無知で醜い田舎者で、男好きの娘たちである。だが、彼女たちは最初は不潔で何も仕事ができないが、都会の家庭で有能な主婦として躾けられれば、結婚して階層上昇を果たすこともできる。

ミドルクラスの家庭では奴隷や使用人はおらず、エヴラットルックがひとりで家事をする。そのためもあって、エヴラットルックは、「料理人」、「家庭教師」、「子守り」、「洗濯人」、「給仕」、「女中」、「従僕」、「見習い」など、担当する仕事や経験年数によって呼び分けられる奴隷や使用人とは違い、「エヴラットルック」(あるいは「子守り」)と呼ばれ、主婦業を躾けられる若い娘として扱われる。家族にとっては、エヴラットルックに家事をさせるのは、無知な田舎娘を躾け、彼女が都会で結婚し階層上層を果たす手助けをすることだとも考えられていた(文献(1) p.26)。

エヴラットルックにはこのように見下すような視線が注がれる一方、小説のなかでは悲惨な境遇に置かれた犠牲者として描かれることもある。また、回顧録やインタビューからは、エヴラットルックとのより親密で人間的な関係が存在したことも確認できる。90歳のある女性はインタビューのなかで、かつてエヴラットルックとして引き取った少女について、初めて家に来た日に映画に連れて行き、身体を洗うのは翌日にしたこと、洋服や靴を新調してやったこと、食事は家族と一緒にとったこと、「奥様」ではなく「おばさん」と呼ばせていたことなどを語っているのは、エヴラットルックと親密な関係が成立しえたことを示している。インタビューでは、結婚し家を離れた後もエヴラットルックと姉妹や母娘のような関係が続いているという事例もあった(文献(1) p.27)。

6 奴隷か、子どもか

エヴラットルックには、奴隷的な性格と子どもとしての性格が備わっている。子ども時代を通じて、場合によっては高齢になるまで、上で述べたような余暇や教育とは無縁の生活を送り、休むことなく働き続けねばならない点では、彼女たちは奴隷に近い。実際に彼女たち出生証明書は、家族にいくばくかの金を渡すのと引き換えに、主人が保管した(文献(2) p.23)。また賃金は支払われず、特別な日にお金や贈り物が与えられのも、奴隷の扱いに近い(文献(1) p.28)。

一方、エヴラットルックは身寄りのない子どもとして保護されることから、一家の子どもと同じように扱われることもあった(文献(1) p.28)。インタビューでは、エヴラットルックに一家の子どもと同じ権利を与え、愛情を注ぎ、学校に通わせ、高価なチェイズを持たせて良い相手と結婚させたという語りが聞かれた。そのような家でもエヴラットルックは家事を担ったが、これは彼女たちが有能な主婦として訓練されているからだと理解されていた。上述のように、奴隷や使用人が行う家事は仕事ないし職業だったが、エヴラットルックが行う家事は躾の一環と理解されていた(文献(2) p.23)。

もともと家事を手伝わせるために引き取られたが、やがて家族の一員として扱われ、結婚後も家族同然の関係が続いた例もある。トルコを代表するユーモア作家で、母がエヴラットルックであったアズィズ・ネスィン(Aziz Nesin)(1915-1995)の回顧録によれば、1900年に黒海地方の村で生まれた彼の母は、ある一家にエヴラットルックとして引き取られる。彼女は13歳で結婚し、一家のもとを離れるが、その後も乳母として一家に仕えた。主人と息子たちも、彼女と息子のネスィンを常に気にかけ、物心両面で支援し続けたという(文献(1) p.27)。

1920年にブルガリアからトルコに移住したアク家の女性もまた、幼い娘の世話をさせるため引き取った娘マジデを、自分の子どものように思うようになり、娘よりも良い花嫁道具をそろえてやった。マジデが家庭を持つと、彼女の子どもたちにはエヴラットルックであったことを隠し、マジデの死後も事実を知らせなかった。家族のひとりが亡くなると、エヴラットルックであるためにマジデに相続権がないことを知られないよう、娘の相続分の三分の一をマジデの息子に与えたという(文献(1) p.29)。

マジデの例は、当時の養子縁組の条件とも関係している。1926年に新民法により養子縁組が合法化されると、エヴラットルックと養子縁組するものが現れた。ただし民法は当初35歳以上で実子がないことを養親の条件としたため、たとえのぞんでも養子縁組できない場合があった。その場合は、エヴラットルックが成長後にそれまでに労働の対価として家を与えることがあった(文献(1) p.29)。

7 エヴラットルック慣行の衰退

1964年に「奴隷制度、奴隷取引並びに奴隷制類似の制度及び慣行の廃止に関する法律」が施行されると、エヴラットルックは結婚や売春を目的とした女性の人身売買などとともに「奴隷制類似の制度及び慣行」にあたるとして禁止された。トルコ政府は、国際連盟が1926年に制定した「奴隷条約」を1933年に署名し、その後「奴隷条約」を継承し、債務奴隷や農奴、女子の自由な意思に反した結婚の制度、児童労働を含む奴隷全般とそれに類似する制度と風習、奴隷貿易の一切を国際法で禁止する「奴隷制度、奴隷取引並びに奴隷制類似の制度及び慣行の廃止に関する補足条約」が国際連合で採択され1957年に発効すると、これにも同年署名した。1964年の法は、この補足条約の署名をうけて制定されたものであった(文献(1) p.30-31)。

エヴラットルックは1960年代に姿を消す。しかしそれは1964年の法で禁じられたからではなかった。当時エヴラットルックのなかには、いくつもの家庭を渡り歩いて雇いの使用人のように働くものや、何年か働いたあとは親元に戻るものが現れていた。家族の側もエヴラットルックに花嫁道具をそろえ結婚を世話することを義務とは考えなくなっていた。エヴラットルックはより多くの権利や自由を求めるようになり、家族の側にとってもエヴラットルックを置くことは負担になっていった。エヴラットルックにたいする批判的な見方も広がった。70歳のある女性はインタビューで、「今でこそ子どもたちは働いてお金を稼ぐのが良いとされ、よその家に子どもをやることは不道徳だとみられるが、昔は子どもを外で働かせたりせず、その子の面倒を見てくれる家にやって事を手伝わせるのが良いことだと考えられていた」と述べている。同法が成立する以前からエヴラットルックは変質し、姿を消しつつあったのである。

エヴラットルックが姿を消した背景には、資本主義の発展に伴う都市化や生活様式の変化があった。アパート型の住宅の普及や生活様式の欧米化は、家事の内容を変化させた。ミドルクラスの家庭ではいろいろと問題の多いエヴラットルックのかわりに、地方からの移住者を日雇い家事労働者として利用することが増えた。娘の親にとっては、娘を手放して食い扶持を減らし、わずかな金を受け取るよりも、働かせて金を稼がせるほうが有利になった。農村でも出生率が低下し、エヴラットルックに出す子どもも減った(文献(1) p.29-30、文献(2) p.12)。

8 おわりに

以上をまとめるなら、オスマン帝国では裕福な家庭では家事をさせるために奴隷をおくことが一般的であった。だが19世紀には西洋化改革により、奴隷は悪しき制度として斥けられた。折しも帝国領土内で戦乱が相次ぎ大量の孤児が発生すると、少女を中心に家庭に引き取られ、エヴラットルックとして奴隷にかわって家事に利用された。共和国期には戦争孤児の問題は解消したが、農村の困窮家庭の少女がエヴラットルックとして都市の家庭に送られた。エヴラットルックは1960年代に禁止されるが、その頃までにエヴラットルックは変質し姿を消した。

オズバイの議論は、多様な分析素材から多様な解釈が引き出され併記されるため、エヴラットルック慣行の多面性が浮き彫りになる反面、わかりにくいところがある。筆者なりに彼女の議論の要点をまとめるなら、およそ次のようになるだろう。まず、奴隷制は欧米列強からの圧力で廃止されたが、オスマン帝国の奴隷は比較的人間的に扱われたこともあり、奴隷的なものを許容する心性はなくならず、奴隷的なものはエヴラットルックに引き継がれた。エヴラットルックは孤児を保護するしくみであると同時に、子どもをかつての奴隷と同じように家事に利用することを可能にする制度でもあった。現代のトルコで貧しい家庭出身の少女の家事労働が自然なこととして許容されるとすれば、それはエヴラットルックという子どもと奴隷という二重の性格を帯びた制度が最近まで存在していたことと無関係ではないだろう。

文献リスト
(1)Türkiye'de Evlatlık Kurumu: Köle mi, Evlat mı? (トルコにおけるエヴラットルック制度:奴隷か、子どもか?), Boğaziçi Üniversitesi Basımevi: Istanbul, 1999.
(2)Turkish Female Child Labor in Domestic Work: Past and Present, Boğaziçi Üniversitesi Basımevi: Istanbul, 1999.
(3)"Evlerde Ev Kızları: Cariyeler, Evlatlıklar, Gelinler(家のなかの娘たち:女奴隷、エヴラットルック、嫁)," in Leonore Davidoff and Ayşe Durakbaşa eds. Feminist Tarihyazımında Sınıf ve Cinsiyet(フェミニスト歴史記述における階層とジェンダー), İstanbul: İletişim Yayınları, 2012.
(4)"Milli Mücadele Döneminde Öksüz ve Yetimler: 1911-1922 Yıllarında Anadolu’nun Kimsesiz Kız Çocukları(国民闘争期の孤児たち:1911-22年のアナトリアにおける身寄りのない少女たち),” in Emine Gürsoy-Naskali and Aylin Koç eds. Savaş Çocukları: Öksüzler ve Yetimler(戦争の子どもたち:孤児たち), İstanbul: Umut Kağıtçılık, 2003.
(5)Dünden Bugüne Aile Kent ve Nüfus(過去から現在までの家族、都市、人口), İstanbul: İletişim Yayınları, 2015.