skip to contents.

第15回 映画から見えるインド(2)

秩序としての混沌—インド研究ノート

インド

地域研究センター 湊 一樹
PDFpdf(340KB)
2013年6月
●前回のまとめと補足
前回は、『デリーを一日で』という映画に焦点をあてながら、「持てる者」と「持たざる者」の間に越えがたい壁が厳然と立ちはだかっているというインド社会の1つの側面について見てきた。具体的には、経済的な格差が両者を大きく隔てていることに加えて、以下の2つの点を指摘した。

第1に、互いにまったく異なる世界に住んでいるという感覚に何の疑問も抱かないことから生まれる意識の壁というものが存在する。今から40年ほど前のコルカタでの体験を描写した次の一節は、この点をよく捉えている。

「ひとまず私はホテルに帰ることにした。
その途中、通りに面した工事現場でなにやら式典のようなものが行われているのが見えてきた。何の気なしに中に入って訊いてみると、起工式だという。どうやら地下鉄の駅を造るらしい。

セレモニーが終わり、参加者全員にインド風の菓子とコーラが配られる。私に事の概略を教えてくれた若い技師が、私にも持ってきてくれた。そして、食べろと勧める。しかしその場で口にするのはためらわれた。私の周囲には、うらめしそうにじっとこちらを見つめている、何十人もの工事人夫がいたからだ。他国者の私にくれる菓子はあるのに、しかもまだ充分に余っているのに、工事の実際の担い手である彼らには決して配られないのだ。なんだか済まないような気持になって、近くにいるひとりにあげようとすると、その若い技師にパンと手を払われた。余計なことはしないでくれ、癖になる。それが彼の言い分だった。

泥の上に飛び散った菓子の破片に、数十人の人夫たちが群がり、奪いあった。私は声もなくその場を立ち去った。」
(参考文献1、49ページ)


インドでは、おめでたいことがあると周りの人にお菓子を振る舞う習慣がある。ところが、工事現場の作業員はものの数とも思われていないため、彼らにお菓子が配られることはない。それどころか、「余計なことはしないでくれ、癖になる」という、まるで野良犬に食べ物をあげようとしている人を注意するかのようなセリフからは、作業員が日頃どのような扱いを受けているのかが垣間見える。

ただし、このような意識の壁は、持てる者だけによって一方的に形作られる訳ではない。『デリーを一日で』には、インドの大財閥であるタタ一族の家で長年働いていたことを自らの誇りとし、そのことを他の使用人たちに自慢気に語る料理人が登場する。この人物のように、持てる者との関係性によって自分の位置を高めようとする持たざる者の側の心理にも、両者の間の意識の壁をより強固にする原因が潜んでいるのである。

第2に、社会的公正を実現するために設けられているはずの様々なシステムが、持てる者と持たざる者の間の距離を縮めるどころか、むしろより一層拡げてしまっている。例えば、被害者の訴えに真剣に取り合わずに、加害者を野放しにしたり(本連載の第10回を参照)、拷問などの違法な取り調べによって罪状をでっちあげたりする一方で、長いものには簡単に巻かれてしまうという警察組織の在り方はその典型といえるだろう。

このような社会の現状に対する不満が時として一気に表面化することがある。昨年12月にデリーで起こった集団強姦事件を発端に、政治家などの「重要人物」(いわゆる、VIP)には過剰なほどの手厚い警護を行っているのとは対照的に、一般市民の安全は蔑ろにしているという警察への不信感が噴出したのはその一例である。400人余りのVIPの警護に7300人以上の警察官が駆り出されている一方で、デリー市内では、市民500人に対して一人の割合でしか警察官が配備されていないという指摘からも明らかなように、一般市民が警察に対して抱く不満には十分な理由があるといえるだろう(参考文献23)。

●レトリックとしての誇張
『デリーを一日で』は、持てる者と持たざる者の間に横たわる社会的な亀裂をやや誇張した形で描き出しているといえなくもない。なぜなら、この映画の中では、お金持ち一家の人々の姿はとても横柄に写る一方で、使用人たちはみな誠実で健気な人物として描かれているからである。いうまでもなく、使用人を家族の一員であるかのように扱う情け深い雇い主もいるだろうし、盗みを働いたりする不届きな使用人がいるという話はよく耳にする。実際、この映画についてのレビューの中には、それぞれの登場人物が白か黒かというひとつの色でしか描かれていないことに不満を述べた上で、「『デリーを一日で』はひとつの物語としては観るに値するものの、この映画が社会経済的な階層の問題について論じようとするが早いか、もうたくさんという気分になってしまう」と否定的な判断を下しているものもある(参考文献4)。

ただし、この評価はいささか厳しすぎるのではないかと感じる。というのも、この作品には、金持ちの一家、使用人たち、外国から来た主人公という3つの視点が導入されているため、さらにそれぞれの人物の描写により複雑な色調が与えられれば、話がややこしくなってしまうからである。

むしろ問われるべきなのは、この映画が持てる者と持たざる者の間に横たわる社会的な亀裂をあまりにも誇張して描き出しているために、その描写が現実離れしているかどうかという点である。これについては、私が見た限り、先にあげた批判的なレビューを除いて概ね好意的に評価しているといえるだろう。つまり、この作品を取り上げた多くのレビューは、『デリーを一日で』においてみられるレトリックとしての誇張はそれほど現実からかけ離れたものではなく、むしろインド社会の実態を捉えた描写になっていることを認めているのである。

●「敵の敵は味方」的インド親日論
『デリーを一日で』を観ていて思わず笑い出してしまった場面がいくつかある。主人公のイギリス人青年ジャスパーと彼の父親の旧友であるムクンドが食事をしながら話している時に、自分の父親は仕事で中国に行くことが最近多くなったとジャスパーがいうやいなや、突然何の脈絡もなくムクンドが「チンキー」(Chinky)という中国人の蔑称を連呼しながら、中国人を貶めるような内容をとうとうとまくしたてるという場面もそのひとつである。なぜこのシーンがそれほどおかしかったかというと、インド人が抱く反中感情をかなり露骨に表現していることに加えて、インド人と話している時に同じような場面に出くわした経験が何度かあったからである。

最近、「インドは親日国である」とか、「日本とインドは価値観を共有している」といった言説をよく耳にする。さらに、そういった発言をする人たちには、大きな影響力を持つ日本の政官財の関係者が少なからず含まれている。この手の「インド親日論」を吹聴する人たちにどのような思惑があるのかは定かではないが、実際のところ、日本とインドを結びつけているのは、「敵の敵は味方」という政治力学とその背後にある反中感情であるというべきであろう。耳触りのよい怪しげな「インド親日論」の裏側に、隠された意図を感じ取ってしまうのはそのためである。


《参考文献》
  1. 沢木耕太郎[1994]『深夜特急 3—インド・ネパール』新潮文庫。
  2. “Dear VIP, instead of Shedding Tears for Delhi’s Rape Victim on TV, Shed Your Inflated Security,” Hindustan Times, December 20, 2012.
  3. “Rape Effect: More Cops for City Streets,” Hindustan Times, December 21, 2012.
  4. “Delhi in a Day: India as Seen by an Outsider,” Times of India, August 24, 2012.
(みなと かずき/アジア経済研究所 在デリー海外派遣員)