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第14回 映画から見えるインド(1)

秩序としての混沌—インド研究ノート

インド

地域研究センター 湊 一樹
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2013年5月
●歌も踊りもないインド映画
昨年インドで一般公開された『デリーを一日で』(原題は「Delhi in a Day」)は、少々風変わりな映画である。デリーを舞台にした物語で、登場人物は一人を除いてすべてインド人であるにもかかわらず、華やかな歌と踊りもなければ、派手なアクションシーンや濃密なラブシーンもなく、われわれが普通思い浮かべるような「インド映画」とはずいぶん様子が違っている。

それもそのはずで、『デリーを一日で』は大衆受けを狙った作品ではなく、インド国内でもわずかな数の劇場でしか一般上映されなかったインディペンデント系の映画なのである。さらに、インドで生まれてから世界各国での海外生活を経て、現在はパリを拠点に活動しているという監督の来歴も、普通のインド映画とはかなり毛色の違った作品ができあがった要因の一つと考えられる(主要紙に掲載されたこの映画のレビューについては、参考文献1を参照)。

●陰鬱でもなく、衝撃的でもなく
「本当のインド」をこの目で見るために、イギリス人の青年ジャスパーはインドへ旅にやって来た。デリーの空港に降り立った彼は、目的地のバラナシに旅立つ前に、父親の旧友であるムクンドの家に厄介になり、デリーに一泊することになっていた。ムクンドはビジネスで成功を収めたインドの富裕層で、彼の一家は大きなお屋敷に住みながら、使用人や運転手を何人も使って優雅な生活を送っている。

豪邸の一室をあてがわれたジャスパーは、部屋に荷物を置いて早速デリー観光に出かける。ところが、家に戻ってみると、部屋に残したカバンの中に入れていた大金がなくなっていることに気づく。使用人の仕業であると確信したムクンドの妻カルパナは、ろくな証拠もないまま、一家に二十年間仕えている使用人のラグが犯人であると決め付ける。そして、盗まれたお金が明日までに戻ってこなければ、ラグを警察に突き出すと使用人たちに言い渡す。

ラグと共に使用人として働く養女のローヒニーは、彼が警察に連れて行かれるのを避けるために、盗まれたのと同じ額のお金を何とか工面しようとする。しかし、あまりにも金額が大きすぎるため、お金を用立てすることができず、時間だけがむなしく過ぎていく。そして、とうとう次の日の朝を迎える……。

あらすじだけを読んでいると、重苦しい感じの暗い映画を想像してしまうかもしれない。しかし、実際には、俳優たちの堂に入った演技も大いに手伝って、全体的にユーモア溢れる明るい印象の作品になっている。おそらくインドに行ったことのある人ならば、「自分もこういう目に遭ったなあ」とか、「こういうインド人いるよね」と思わず笑いが込み上げてくる場面をいくつも目にすることだろう。あるインタビューで監督自身も強調しているように、「『デリーを一日で』はなによりもまずコメディー」なのである。

その一方で、「何かを訴えかけるためには、陰鬱であったり衝撃的であったりする必要はない」という監督の発言からも明らかなように、軽妙な語り口というオブラートには明確なメッセージが包み込まれている(以上の引用については、参考文献2を参照)。

●「持てる者」と「持たざる者」
『デリーを一日で』という作品は、ユーモアと皮肉を織り交ぜながら、「持てる者」と「持たざる者」の間に越えがたい壁が厳然と立ちはだかっているというインド社会の一つの側面をはっきりと浮き彫りにしている。いうまでもなく、大きなお屋敷でなにひとつ不自由なく暮らす金持ちの一家と敷地の片隅にある粗末な小屋で寝起きしながら日々働く使用人たちとのコントラストは、そのような断絶の象徴として描かれる。この両者の間には、持たざる者が到底追いつくことのできない経済的な格差が横たわっていることは誰の目にも明らかである。

しかし、持てる者と持たざる者を隔てているのは、そればかりではない。互いにまったく異なる世界に住んでいるという感覚に何の疑問も持たないことから生まれる意識の壁が大きく立ちはだかっている。より具体的には、映画の中で描かれる持てる者の姿には、持たざる者を自分と同じ人間とみなし、その境遇に思いを致すという想像力が著しく欠けているのである。主人公の部屋から大金が消えたと知ったカルパナが、確かな証拠が一切ないにもかかわらず、一家のために忠実に働いてきた使用人を一方的に犯人と決めつける場面は、この点をまさに象徴している。「こんなことをするのは自分とは違う世界に住んでいる人間に決まっている」という強い思い込みでもなければ、果たしてこれほど乱暴なことができるだろうか。

非常に限られた自分自身の経験に照らしてみても、このような描写にはかなり説得力があると感じる。実際、周りの裕福なインド人を見ていると、使用人に対して驚くほど高圧的な態度で(それも自然に)接している姿を目にすることがある。さらに、このような状況は、使用人とその雇い主との関係に限った話ではない。上は教授から下は雑用係や清掃員まで様々な人が働いている大学や研究機関でも、上の人たちが(同じ研究者である)私に対して取る態度と下の人たちに対して取る態度にあまりにも大きな違いがあるため、困惑させられることがある。

●強い者には弱く、弱い者には強く
さらに問題なのは、社会的公正を実現するために設けられているはずの様々なシステムが、持てる者と持たざる者の間に立ちふさがる壁をより一層越えがたいものにしているという点である。このことをもっともよく表しているのが、盗まれたお金が出てこなければ犯人と名指しされた使用人を警察に突き出すと雇い主がいうのを聞いて、使用人たちが恐れおののくという場面である。われわれの普通の感覚からすれば、その使用人がお金を盗んだという証拠は何もないのだから、たとえ警察が来ても恐れる必要はないと感じるだろう。しかし、この場面で暗示されているように、たとえ十分な証拠がなかったとしても、強圧的な取り調べや拷問によって自白を強要されてしまう可能性が大いにある(インドの警察をめぐる様々な問題については、参考文献3を参照)。

その一方で、権力者や大金持ちなどの持てる者が加害者で、持たざる者が被害者である場合には、たとえ十分な証拠が揃っていても、加害者が容易には罰せられないことがある。多数の目撃者が存在する殺人事件をめぐって、有力政治家の息子である容疑者に不可解な無罪判決が出された「ジェシカ・ラール殺人事件」はその典型といえるだろう(参考文献4)。

なお、この事件を基に作られた『誰もジェシカを殺していない』(原題は「No One Killed Jessica」)という映画が2011年にインドで公開され、大きな話題を呼んだ(参考文献5)。
《参考文献》
  1. Official website of Delhi in a Day. ( http://www.delhiinaday.com/ )
  2. “Prashant Nair on a High,” Times of India, August 14, 2012.
  3. Human Rights Watch 2009. Broken System: Dysfunction, Abuse, and Impunity in the Indian Police. ( http://www.hrw.org/node/84628 )
  4. “Acquittal in Killing Unleashes Ire at India's Rich,” New York Times, March 13, 2006.
  5. “Death in Delhi,” Economist, January 13, 2011.
(みなと かずき/アジア経済研究所 在デリー海外派遣員)