skip to contents.

第8回 アイデンティティを考える(3)

秩序としての混沌—インド研究ノート

インド

地域研究センター 湊 一樹
PDFpdf(318KB)
2012年10月
●民主主義とアイデンティティ
独立後、留保制度がより広範に行われるようになったことで、アイデンティティの再構成が促されたという側面があることを前回の連載の後半部分で指摘した。
ただし、留保制度がアイデンティティの在り方に与えた影響について考える場合、その背後で「政治」がどのような役割を果たしていたのかという点にも目を向ける必要がある。実際、1990年8月に当時の国民戦線政権が「その他後進諸階級」(以下、OBC)への留保の実施を唐突に発表した裏には、それを梃子に深刻な内部対立を押さえ込み、政権基盤の安定を図ろうとする狙いがあったことはよく知られている。また、OBCへの留保が宗教アイデンティティに与えた間接的な(しかし、きわめて深刻な)影響についても、政治的な思惑が決定的な役割を演じた。なぜなら、1992年12月のアヨーディヤーでのモスク破壊とその後の大規模なコミュナル暴動は、留保問題の争点化によってヒンドゥー社会がカーストに沿って分断されるのを避けるために、インド人民党をはじめとするヒンドゥー至上主義勢力がムスリムとの間の宗教対立を意図的に煽ろうとしたことが発端だったからである(参考文献(1)、238~257ページ)。

これらの例からも明らかなように、カーストや宗教といったアイデンティティの在り方に大きな影響を与える要素のひとつとして、独立後に導入された民主的な政治制度を挙げることができる。実は、このような議論は比較的早い時期から展開されていた。1970年に刊行された『インド政治におけるカースト』の導入部分で、この本の編者である政治学者のラジニ・コターリーは次のように述べている。

「実際には、カーストと政治の間の相互作用の帰結は、よく言われているものとはまったくの正反対である。つまり、政治がカーストにまみれているのではなく、むしろカーストが政治化しているのである。(中略)さらに、より緩やかにではあるが、宗教心やムスリム・指定カースト・指定部族などの間でのマイノリティー意識についても同様のことが起こっている。」(参考文献(2)、20~21ページ)

コターリーがこのような議論を展開したのは、「アイデンティティの政治化」によって上位カーストを頂点とする階級秩序に動揺がみられることを積極的に評価しているためであると考えられる(参考文献(3))。

●「アイデンティティの政治」の台頭
上記の引用文で、アイデンティティが政治から受ける影響により力点が置かれているのには、もうひとつの理由がある。それは、アイデンティティによる政治の侵食—つまり、「アイデンティティの政治」の台頭—がはっきりと現れるようになったのは、1990年代以降のことだったからである。

このような傾向は、主要な政党が特定のカーストや宗教を強い支持基盤としている北インドの2つの州で特に顕著にみられる。約2億人の人口を抱えるウッタル・プラデーシュ州(以下、UP州)では、過去10年にわたって2つの地域政党が州政権を担っている。そのひとつ大衆社会党は、指定カースト(その中でも、特にチャマールと呼ばれるカースト集団)からの支持を背景に党勢を拡大し、2007年の州議会選挙で単独過半数を獲得して政権の座に就いた。また、OBCのひとつであるヤーダヴおよびムスリムを重要な支持基盤とする社会主義党は、2007年の選挙で州政権を失うものの、2012年の選挙では大衆社会党を破り政権の座に返り咲いた。一方、現在では2つの地域政党の後塵を拝しているインド人民党は、ヒンドゥーの上位カーストから多くの支持を集め、単独で州政権を担っていた時期もあった。

UP州の隣のビハール州でも、OBCに属する特定のカースト集団を支持基盤とする二つの地域政党—ジャナタ・ダル(統一派)と民族ジャナタ・ダル—を中心に、指定カーストを主な支持層とする別の地域政党やインド人民党などが入り乱れて、州政治が展開している(詳細については、参考文献(1)参考文献(4)を参照)。

このような複雑な政治状況を背景に、各政党はアイデンティティを巧みに利用している。例えば、選挙の際には、特定のコミュニティーに狙いを定めた政策(例えば、留保政策)を盛んに訴えることで、他陣営の支持層の切り崩しや特定の政党に投票する傾向のあまりない集団の「浮動票」の掘り起こしに躍起となっている(参考文献(4)参考文献(5)を参照)。

社会主義党の候補者の選挙ポスター
社会主義党の候補者の選挙ポスター。右下には、同党のシンボル
である自転車が描かれている。インドでは、文字が読めない有権者
でも候補者とその所属政党が識別できるよう、各党にシンボルが
割り当てられている。(2012年2月、筆者撮影)

●民主主義とアイデンティティの相互作用
アイデンティティが政治に与える影響を強調する議論は、どちらかというとカーストや宗教といった要素が政治に持ち込まれることによる混乱や政治的分断といった否定的な側面に焦点を当てる傾向にある。しかし、アイデンティティが政治のすべてを規定しているかのような見方には、多分に誇張が含まれているといわざるをえない。この点を2012年のUP州議会選挙の事例から検討してみることにしよう。

この選挙について特に興味深いのは、政権与党の大衆社会党がほぼすべてのコミュニティーで得票率を上昇させている一方、最も重要な支持基盤である指定カーストの間で得票率を大きく減らしたことである。さらに、その他の主要政党も従来の支持基盤と考えられてきたコミュニティーからの支持を一様に減らしている(参考文献(6)、表3)。また、各党の当選者のカースト・宗教別の構成に目を向けると、特定のコミュニティーへの偏りが徐々に薄まる傾向を示している(参考文献(7)、表1)。

したがって、インドにおける民主主義とアイデンティティの間の関係は、前者から後者または後者から前者という一方通行のような単純なものではない。むしろ、互いに影響を及ぼしあう相互作用として捉えなければならない。そして、アイデンティティと政治をめぐる問題は一筋縄ではいかない非常に厄介なものだからこそ、両者の関係が「実際にどうなっているのか」という点と「どうあるべきか」という点は明確に区別されるべきなのである。


《参考文献》
  1. 中溝和弥『インド 暴力と民主主義—一党優位支配の崩壊とアイデンティティの政治』東京大学出版会、2012年。
  2. Kothari, Rajni “Introduction: Caste in Indian Politics,” in Rajni Kothari (ed.) Caste in Indian Politics, 2nd edition, Orient Blackswan, 2010.
  3. 佐藤宏「インド政治論のメタモーフォシス—一九八〇年代から九〇年代以降へ」(近藤則夫編「インド民主主義体制のゆくえ—多党化と経済成長の時代における安定性と限界」調査研究報告、アジア経済研究所、2008年)。
  4. 中溝和弥・湊一樹『インド・ビハール州における二〇一〇年州議会選挙—開発とアイデンティティ』 機動研究成果報告、アジア経済研究所、2011年。
  5. “Promises to Keep: Key Provisions in Party Manifestos,” Hindustan Times, February 1, 2012.
  6. “Sixteenth Assembly Elections in Uttar Pradesh,” Economic and Political Weekly, 47 (14), pp.80-86, 2012.
  7. Jaffrelot, Christophe and Gilles Verniers “Castes, Communities and Parties in Uttar Pradesh,” Economic and Political Weekly, 47 (32), pp.89-93, 2012.

(みなと かずき/アジア経済研究所 在デリー海外派遣員)