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第6回 アイデンティティを考える(1)

秩序としての混沌—インド研究ノート

インド

地域研究センター 湊 一樹
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2012年8月
●異なるアイデンティティの意味
「アイデンティティ」という言葉を聞いて、まず何を思い浮かべるだろうか。おそらく、ほとんどの人は「自分自身の在り方や存在意義についての確固とした実感や信念」というこの言葉の意味を(これほど明確にではないにしろ)考えることだろう。「本当の自分」(なるもの)を見つけるための自分探しが大きな関心を集めるのとは裏腹に、「もともと特別なオンリー・ワン」という究極の自己肯定(現状肯定?)のフレーズが多くの共感を呼んだことを思い起こせば、それは当然かもしれない。「自分とは何者なのか」とか「自分はどう生きるべきか」という問いかけは、現代に生きる私たちにそれだけ重くのしかかっているのである。
しかし、アイデンティティにつきまとうのは、このような心の葛藤を伴うごく個人的な問題ばかりではない。むしろ、世界各地でより深刻な問題を引き起こしているのは、「特定の集団に属する他者と共有している何らかの同一性」というアイデンティティのもう一つの側面なのである。具体的には、民族や宗教・宗派などの境界に沿って深い亀裂が刻み込まれている社会では、いずれの集団に属しているか(さらには、いずれの集団に属していると他人から見られているか)によって激しい差別を受けるだけでなく、ある日突然、集団的な暴力の対象になり殺されてしまうことさえある。

実際、世界を広く見渡してみれば、この点を裏付けるような具体例は枚挙にいとまがない。宗教およびカーストがアイデンティティの要素としてきわめて重要な意味を帯びているインドもその一つなのである。

●アイデンティティとしての宗教
インドにおいて、宗教に沿った社会的亀裂が最も顕著に表れるのが「コミュナル暴動」(communal riot)と呼ばれる現象である。英領インドからインドとパキスタン(東パキスタンと呼ばれていた現在のバングラデシュを含む)という二つの国が分離独立した1947年8月の前後に起きた一連の暴動は、その最も陰惨な事例として知られる。分離独立とそれに伴う大規模な人の移動によって大きな混乱が生じた結果、数十万人が宗教間の暴動の犠牲となり、1500万人にのぼる大量の難民が発生したと推定されている(一般的に、暴動での死者数などを正確に把握することは非常に難しく、これらの数字については諸説ある。以下で挙げる暴動での死者数などの数字についても、文献によって大きな開きがある)。

独立後のインドでも、宗教間の対立に端を発した大規模な暴動が絶えることはなかった。特に、1980年代以降、ヒンドゥー教徒(以下、ヒンドゥー)とイスラム教徒(以下、ムスリム)の間の緊張は一段と高まっていった。そして、1992年12月、ヒンドゥー至上主義を唱える諸団体(現在、連邦議会下院において最大野党のインド人民党およびその関連団体)の活動家や支持者が、ウッタル・プラデーシュ州アヨーディヤーにあるモスクを破壊したことで、両者の対立は頂点に達する。この事件の衝撃は瞬く間にインド全土に波及し、ヒンドゥーとムスリムの衝突によって1000人以上が死亡するという大惨事を招くことになったのである。

また、2002年にグジャラート州で起こったコミュナル暴動では、2000人以上が犠牲となり、14万人を超える難民が生まれた。この暴動については、州政府(当時、州政権を握っていたのはインド人民党)や警察が積極的に暴徒を鎮圧しなかっただけでなく、ヒンドゥー至上主義者によるムスリムへの襲撃を手助けしたり、率先して扇動したりしていたことが明らかになっている。暴動による犠牲者や避難民の大部分がムスリムであったのは、このような計画性と組織性をもって虐殺が行われたためであると考えられる(ちなみに、当時グジャラート州の州首相を務めていたナレンドラ・モディは現在もその地位にあり、2012年7月には、同州への日本企業誘致のために来日している)。

ただし、宗教間の衝突によって引き起こされる大規模な暴動は、ヒンドゥーとムスリムの間だけに限られている訳ではない。例えば、1984年には、インディラ・ガンディー首相が護衛にあたっていたシク教徒の警官二人に暗殺されたことをきっかけに、シク教徒を標的とするコミュナル暴動がデリーなど北インドを中心に各地で発生した。その結果、デリーだけでも1000人以上のシク教徒が殺害された。この暴動についても、中央政府が適切な対応を迅速に採らなかっただけでなく、政権与党である国民会議派の政治家や関係者が深く関与していたと指摘されている(参考文献1)。

●アイデンティティとしてのカースト
インドには、カースト制度の最下層に位置づけられ、社会生活の様々な側面で差別を受けてきた不可触民が存在する。これらの被差別集団に対しては、植民地時代の1930年代から行政用語として「指定カースト」(Scheduled Castes)という呼称が用いられるとともに、優遇措置が採られるようになった。独立後もこの枠組みは維持され、各種選挙における議席、公務員職や国営企業での採用、高等教育期間への入学に関して一定割合を指定カーストに割り当てる「留保」(reservation)が、現在に至るまで行われている。

留保制度をはじめとする優遇措置が指定カーストの社会進出に一定の役割を果たしてきたのは確かであるが、その一方で、指定カーストの経済的状況が全体的に大きく改善しているとは言い難い。例えば、農村部では、指定カーストに属する人たちの多くは十分な農地を保有しておらず、農業労働者や零細農として働かざるをえないため、貧困からは容易に抜け出せないのである。

さらに、指定カーストに対する社会的な差別は依然として根強く残っている。寺院への参拝や道路・井戸などの使用を他のコミュニティーから拒絶され、それが原因で激しい対立に発展するといったニュースは今でも新聞などでよく取り上げられている(参考文献23)。

指定カーストの間に見られるこのような経済的な後進性と社会的な差別が結びつくことによって、より暴力的な衝突を引き起こしてしまうこともある。ビハール州において、労働問題をめぐる対立などを背景に、上位カーストの地主と指定カーストの貧農の間で陰惨な殺し合いがつい最近まで繰り返されてきたのはその一例である(詳細については、参考文献4を参照)。


《参考文献》
  1. PUDR and PUCL. Who are the Guilty? Report of a Joint Inquiry into the Causes and Impact of the Riots in Delhi from 31 October to 10 November 1984, 1984 (http://www.sacw.net/aii/WhoaretheGuilty.html).
  2. “On Maya Turf, Dalits Refused Temple Entry,” Hindustan Times, July 18, 2012.
  3. “In Perali Village, Dalits Can’t Cycle in Upper Caste Areas,” Hindu, September 3, 2011.
  4. 中溝和弥「地主と虐殺—インド・ビハール州における私兵集団の結成と政治変動」(『アジア・アフリカ地域研究』第9巻第2号、2010年)。

(みなと かずき/アジア経済研究所 在デリー海外派遣員)