skip to contents.

第2回 「相対化」としてのインド研究

秩序としての混沌—インド研究ノート

インド

地域研究センター 湊 一樹
PDFpdf(157KB)
2012年3月
●2つの疑問
前回は、「流動性」と「多様性」という2つのキーワードを提示した上で、次のような視点からインドを理解することが重要であると論じた。第1に、これまでの歴史的な経緯との関連から、現在起きていることを把握するという点である。第2に、全体にばかり目を奪われたり、部分にのみ埋没したりするのを避けるために、「木を見て森も見る」ことを意識するという点である。
とはいえ、「言うは易く行うは難し」である。おそらく、読者の中には、「インドがそれほど容易ならざる研究対象なのであれば、インド人の方がはるかに有利な立場で研究できるのではないか」と思われる向きもあるかもしれない。さらに、それ以前の問題として、「インドについてあれこれ知ったところで、それにどんな意味があるのか」という疑問を抱いた読者も少なからずいるのではないだろうか(もちろん、このような問いかけはインドを対象とする研究だけに限ったものではない)。

どちらも実にもっともな疑問であるというだけでなく、非常に重要な内容を含んでいる。今回は、「相対化」という観点から、この2つの問いについて考えてみたい。
僧侶たちの写真: ビハール州ボドガヤ(ブッダガヤ)の菩提樹のそばで。

●インド研究の「岡目八目」
まず、「インドについて研究する場合、インド人であることが有利に働くのではないか」という第1の疑問について考えてみよう。確かに、そのような側面があることは素直に認めなくてはいけない。現地で生まれ育ち、現地語を自由自在に操れるということが、研究を行う上で何らかのプラスになることは間違いない。  

しかし、インド人だからといってインドについて研究することに絶対的な優位性があるとまで言い切れるのだろうか。むしろ、いくつかの理由から、私たちのような「部外者」の方が有利になることさえあると考えられる。

第1に、現地の「常識」に慣れ親しんでいないため、そこに暮らす人たちが当たり前のこととして片づけてしまいがちな事柄を、より根本的なところから捉え直すことができる。子供の無邪気な疑問が鋭く本質を突いて大人たちを困らせることがあるように、「子供の目線」は私たちにとって強力な武器となりえる。

第2に、インドは宗教・カーストや経済階層などによって複雑に分断されている社会であるため、自分が属する社会集団の利害に沿ったものの考え方や行動をする人たちが少なからず存在する。そのため、特定の利害関係を持たない部外者が、より中立的な視点から状況を把握することができる。この点について、私自身の体験を通してもう少し具体的に見ていくことにしよう。

インドで最も貧しい州のひとつであるビハール州での調査の経験を基に、都内で一般向けの講演を行った際の話。講演後の質疑応答で、インド人とおぼしき30代くらいの男性が、私の報告内容に対して少し興奮気味に次のようなコメントをしてきた。「あなたの報告は非常に偏った内容のものである。現在の州政権を手放しで評価する一方、前政権の功績はまったく無視されているが、ここ数年のビハール州の経済成長は前政権が築いた基礎がなければ不可能だったはずである」。

この質問者が流暢な日本語でまくし立てるのを聞きながら、私は完全に面食らってしまった。なぜなら、コメントの内容が、前政権の最も重要な支持基盤であるヤーダヴと呼ばれるカーストの人たちから(それも、その人たちだけから)繰り返し聞かされた話とまったく一緒だったからである。さらに、この質問者は私の報告の内容などお構いなしに、自分が主張したいことだけを一方的に話しているようにしか聞こえなかった。この人物がビハール州出身のヤーダヴに違いないと確信したのは、このような理由からである。

話している内容がその人の属性や背景に引きずられていないか注意しながら、いろいろな人から話を聞く必要があるという点は、インドについて特によくあてはまる。

●鏡としてのインド
では、「インドについてあれこれ知ったところで、それにどんな意味があるのか」というもうひとつの疑問にはどう答えたらいいだろうか。この場合も、やはり「相対化」が重要な鍵を握っている。ただし、相対化されるべき対象はインドではなく日本である。つまり、インドを知ることによって、日本というあまりにも身近な存在を客観的に眺めることができるようになるのである。

前回の連載の冒頭で、インドでの日常生活は不安感や緊張感を伴う摩擦の大きいものである一方、日本での日々の暮らしは平穏かつ快適で、心地のよいものであると述べた。しかし、もう一歩突っ込んで考えてみると、それがいいことばかりともいえないのではないかという疑問に突き当たる。例えば、自分の意思を持って、積極的に行動することで日常生活の摩擦に立ち向かっているインド人と比べてみると、自分の頭で考えた上で選択したり、リスクを取って行動したりしなくても、多くの物事が「スイスイ」と自動的に進んで行くかのような日常に慣れきっている日本人は、特に疑問を持つこともなく世の中の既存の仕組みに簡単に絡め取られてしまう危険性を大いにはらんでいる。したがって、インドという「赤の他人」に触れることによって、私たちが何の疑いも抱くことなく受け入れている「常識」を考え直してみる貴重なきっかけが得られるのである。

これまでインドと日本の違いばかりを強調してきた嫌いがあるが、実際には、似たような問題をいくつも抱えている。すぐに思いつくだけでも、政官財の癒着、格差と貧困、世襲議員の増加、公的部門に対する不信などの問題を挙げることができる。ところが、インドでは、このような社会問題はかなり極端な形で立ち現れることが多いため、あたかも他人事のように嘲笑気味に眺めてしまいがちである。しかし、よくよく考えてみると、同じようなことが日本でも起きていることに気付き、自分が恥ずかしくなることがある。
インドを知ることは、日本を知ることでもある。

●本連載の目的
「インドは親日国である」というようなことを吹聴する人をたまに見かける。しかし、ごく普通のインド人にとって、日本は非常に縁遠い存在である。インドの新聞や雑誌を見ても、日本が取り上げられるのは、「首相がまた交代した」というお馴染みのニュースがほとんど義務的に報道される場合か、日本の自動車メーカーや家電メーカーについての記事が載る時くらいのものである。

同様に、多くの日本人にとっても、インドが縁遠い存在であることにはかわりない。実際、日本のメディアの報道を眺めていると、欧米諸国や中国に比べて、インドが取り上げられる機会が少ないことに気付く。なにより、インドに支局を置く日本の新聞社や通信社の多くは、インドとその周辺の数ヶ国を担当する特派員を1~2人しか置いていないという事実が、インドと日本の距離の遠さを何よりも雄弁に物語っている。

報道が少ないから関心が低いのか、それとも、関心が低いから報道が少ないのか。どちらなのかはわからない。しかし、インドに関する正確でわかりやすい情報が広く行き渡っているとはいえないのは事実である。

このような現状にささやかながら一石を投じようというのが、本連載の目指すところである。そして、インドという遠く離れた国を通して、日本をより冷静に見つめるための「補助線」を引こうというのが、この連載のもうひとつ狙いである。

(みなと かずき/アジア経済研究所 在デリー海外派遣員)