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研究活動のご紹介

シネックス創業者Robert T. Huang氏の歩み

インタビューシリーズ 「シリコンバレーのアジア人企業家」

新領域研究センター 川上 桃子

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2017年9月

ロバート・ファン氏近影

ロバート・ファン氏近影
(2016年10月19日,カリフォルニア州アザートンの自宅にて川上撮影)

解説

ロバート・ファン氏は1945年、台湾生まれ。1968年、九州大学工学部卒業後、米国ロチェスター大学にて工学修士号、MITスローン・ビジネススクールにて経営学修士号(MBA)を取得。1980年に半導体大手のAMDから独立して半導体・ITハードウェア流通・販売のコンパック・マイクロエレクトロニクス社(1994年にシネックス・コーポレーションに改名)を創業。同社を世界第3位のITディトリビュータ、全米総収入上位500社ランキング(「フォーチュン500」)の328位(2008年)にランクインする大企業に育て上げた。この間、2003年にニューヨーク証券市場への上場を果たした。2008年のCEO退任後は、日本への関わりを深め、丸紅インフォテック社(現・シネックスインフォテック)の買収をはじめ、多数の日本企業への出資・経営支援に携わっている。若い世代の起業教育にも関心が強く、2010年には氏の寄付を元に、九州大学にロバート・ファン・エンタープレナーシップ・センターが設立された。

ファン氏は、1960年代後半〜70年代前半に渡米した第一世代の在米アジア系ハイテク移民のなかでも、最も成功した起業家の一人である。シリコンバレーのアジア人の多くが自らのエンジニアとしての知識や能力を強みとする「技術者型の起業家」であるのに対して、ファン氏は組織管理と経営戦略に傑出した力を発揮し、社内の情報インフラや人事システムの構築、M&Aを通じた積極的な規模と業態の拡大に注力して、シネックスの急激な発展を導いた「経営管理者型の起業家」である。ファン氏の歩みからはまた、シネックスが同業他社に先駆けて台湾・中国の生産能力、開発資源の活用に乗り出し、IT産業の生産開発拠点としてのアジアの潜在力を巨大な米国市場と結びつけてきたことも読みとれる。パソコン産業元年ともいうべき年に、シリコンバレーで創業したファン氏のたゆまざる努力と、多くの産業人との協業の歴史は、まさしく「天の時、地の利、人の和」の組み合わせの物語である。

インタビューは、2015年7月23日から2017年3月18日まで、合計7回行った(201年7月23日 於・カリフォルニア州アザートン、2014年11月24日 於・台北市、 2016年2月23日 於・東京羽田、2016年5月19日 於・東京新宿、2016年11月30日 於・東京新宿、2017年3月18日 於・東京新宿)。本稿は、川上が録音起こしと整理を行ったのち、ファン氏が加筆修正を行ったものである。

シネックスの創業まで

Q まず、ファンさんの生い立ちについてお聞かせください。

私は1945年に台湾の台中で、7人きょうだいの5番目の子として生まれました。両親とも、日本の植民地統治期に日本の教育をうけた世代です。父はかなりの秀才で、九州大学で学んだ経験もありました。父は趣味人であるとともに発明の才能もある多才な人でした。しかし、あの時代を生きた本省人知識人の多くと同様に、台湾が国民党統治下に入ってからの人生には苦労があったようです。

1961年、私が高校生のときに、私たち一家は大阪に移住しました。私たち一家と日清食品の安藤百福さんとは同郷で、その縁を頼るかたちで日本に移住したのです。当時は日本語もまるでできなかったので、大変苦労したのですが、なんとか星光学院高校に編入することができ、1964年に高校を卒業して九州大学工学部に入学しました。大学時代は、アイスホッケー部を創設するなど、学業よりも部活動に熱心な学生でした。アイスホッケーは非常にお金のかかるスポーツなので、部員たちを率いてアルバイトでの金稼ぎに精を出したものです。これは後の起業の体験にもつながったと思います。

Q ファンさんは1968年に九州大学工学部を卒業すると、渡米して1971年にロチェスター大学で電気工学と統計学の修士号を取得されました。この後、アメリカの半導体設備メーカーやAMD等での勤務を経て1980年にシネックスを創業されるわけですが、その間の経験についてお話いただけますか?

1960年代、日本企業は、外国人の採用をほとんどしていませんでした。幸い、私にはすでにアメリカに留学していた兄がいたので、彼の励ましでいくつかの大学に応募書類を送り、最終的にニューヨーク州のロチェスター大学への入学を決めました。

大学院を出てからシネックスを創業するまでの時期を振り返ると、いくつかの経験が、後の起業の基礎になったと感じます。第1に、1974年から4年間、ロサンゼルスにある半導体機器メーカーのマクロデータシステムに勤め、日本の電子メーカーと付き合った経験です。日本企業と仕事をするなかで、彼らの品質管理の思想やロイヤルティーを重んじる経営姿勢に触れ、強い影響を受けました。これは、後の私の経営哲学の基礎になりました。

第2に、MITスローン・マネジメントスクールでの経験です。私は、1974年から77年にかけて、マクロデータシステムの社員として東京に駐在していました。ただ、アメリカ企業ではありがちなことですが、あの時期のマクロデータシステムは、四半期決算の帳尻合わせに囚われ、近視眼的な経営に陥りつつありました。肝心の品質改善に手が回らず、顧客から見放されつつありました。そのため、日本での設備の新規導入がぱったりなくなってしまったのです。そのおかげで時間ができたので、その機会を利用して、青山学院大学の大学院で会計学やファイナンス、組織論を勉強しました。これは、なかなかよい機会でした。マクロデータシステムの本社にいったん戻ったあと、会社を辞めて、MITのスローン・マネジメントスクールに入学し、1979年にMBAを取得しました。

卒業後は、インテル、タンデム、AMDから就職のオファーをもらいました。そのなかから選んだのがAMDでした。ここでの経験が、創業の第3の基礎となりました。

Q AMDではどのような仕事をしたのですか?

セールスマネージャーとして、日本と「その他地域」(rest of the world, ROW)の市場を担当することになりました。あの当時、北米、西欧、日本を除く市場は「ROW」と呼ばれており、台湾、韓国、オーストラリア、イスラエルといった国々は、全てこのくくりに入れられていたのです。日本企業からの来客があったときには、私が製品ロードマップの説明や彼らとの意見交換をし、接待もしました。エイサー創業者のスタン・シー(施振栄)ともこの頃からの知り合いです。

あの当時は、AMDのような会社でも、国際ビジネスについての知識は限られたものでした。担当部門のスタッフたちも、レターオブクレジット(L/C)や輸出ライセンスの実務をよく知らず、私にいろいろ聞いてきたものです。私は仕事を通じて、そのような実務知識を蓄積していきました。

そんな時、上司が不祥事を起こして、離職することになりました。普通に考えれば、私がそのポジションに昇進して日本担当となるのが順当でした。しかし、会社側は、私と同じランクのヨーロッパ担当者を日本担当者に抜擢したのです。

私はこの人事にどうしても納得がいきませんでした。後に、周りの人から、会社は「日本人は信用できない」という考えだったと聞きました。私も日本人の部類だ、というわけです。

Q アジア人に対する人種的偏見ですね。

もちろんそうですよ!私は、上司となった人と話し合った結果、「ROW」市場の販売業務を分けてもらう形で、独立することにしました。当時はこの市場は規模も小さく、AMDも「よく分からない地域なので、どうぞやってください」という考えだったのです。こうして私は、1980年、コンパック・マイクロエレクトロニクス(Compac Microelectronics、後にシネックスと改名。以下では、改名前の時期も含め「シネックス」と表記)を創業しました。

Q 以前からいずれ起業したいと考えていましたか?

ええ。そう思っていましたね。

起業初期:チップからシステム製品へ

Q シネックスの前身であるコンパックはAMDのチップの代理販売からスタートしたのですね。いつ頃から,システム製品に範囲を広げたのでしょうか?

AMD時代に親しくなったお客さんの1つに、八王子の中央電子という会社がありました。この会社が、「ファンさん、独立したのなら、うちが開発したユニックスのシステムをぜひアメリカで売ってくれないか?」と言ってくれました。私は、チップについては豊富な知識がありましたが、システム製品については詳しくはありませんでした。が、とにかくやってみることにしました。これが、システム製品事業へと足を踏み入れるきっかけとなりました。

ただ、中央電子のユニックス製品は、ハードウェアしかなく、データベースやワープロといったツールもアプリケーション・ソフトウェアもない状態だったので、なかなか売れませんでした。幸い、シリコンバレーには多数のソフトウェア会社があったので、そこから調達したソフトをのせて売りました。

1980年というのはDECのミニコンピュータやメインフレームが全盛だった時代です。アップルの製品が出始めてはいましたが、まだ趣味の世界の域を出ていませんでした。しかし、1981年にIBM PCが発売されて、パソコンの時代が到来しました。周辺機器市場も急速に立ち上がりました。この頃、我々はCorvusという会社が開発した製品――パソコンをケーブルで外部のストレージにつなぎ、ストレージを共用できるようにするというもの――を手がけましたが、これが、日本、香港、台湾やフィリピンといった市場で飛ぶように売れた思い出があります。

Q 経営は順調に軌道に乗ったのですか?

最初の数年間は、好調な海外市場での黒字でアメリカの国内市場での赤字を補填している状況でした。しかし、会社の成長のためにはアメリカ市場でのビジネスを軌道に載せることが重要だと考えました。そこで、スタンフォードでMBAをとった人材(Ken Westrick)を採用し、米国内のディストリビューション業務を任せました。さらに妻の弟で、ハーバードでMBAを取得したケビン(Kevin Chuang)にも入社してもらい、財務をみてもらいました。私を含めたこの3人のマネジメント・チームで、ようやく会社らしくなったのが、1983〜84年頃のことです。

Q ファンさんが創業した1980年頃は、後から見れば、世界のパソコン産業のまさしく離陸期だったのですね。

ええ、今から考えても、人の運、時の運、場所の運が重なったと思います。しかし、ケビンからも注意されていたことですが、会社の成長とエクイティの成長のスピードのバランスをとる、とりわけ会社が急速に成長していく局面でこのバランスをとり続けるというのは非常に難しいことでした。

1984−85年には、中国事業にも乗り出し、北京にターミナルの工場を建設しました。AMD時代に中国との人脈ができたことがきっかけでした。輸出のライセンスを取るため、ワシントンにも頻繁に足を運びました。しかしそのころの中国市場は小さく、工場で一日の生産をすると2年分の製品ができてしまう状況でした(笑)。1986年頃には中国市場が冷え込み、かなり難しい状況になってきました。

あの当時、三和銀行には随分お世話になったものです。L/Cの期日が来ても中国側が支払えないなどということがよく起き、資金回収には本当に苦労しました。そんな中、三和銀行サンノゼ支店長の浅井さんが「ファンさん、あなたを男にしてあげるよ」といって(笑)、同行の北京支店とも協力して、我々をサポートしてくれたのです。実際、当時の中国の輸出入額は微々たるものでしたので、中国の貿易に占める当社のプロファイルは、プラント輸出においてはかなり高いものでした。

結局、1986年に中国市場から撤退しました。親しかった北京市の電子輸入担当者の張進氏から「中国市場はまだビジネスの機が熟していない。もう少し市場がオープンになったらまた連絡をするから」と言われましたが、張さんとの縁は後に実際に復活します。そして、これを機に、アメリカの国内市場ビジネスに全力を入れることになりました。

後から振り返ると、1987年までの時期は、いくつかのミスを犯した学習の局面でもありました。特に困ったのが、アメリカ、日本、台湾、香港と4つのオフィスを持った結果、それぞれがバラバラになってしまったことです。小さい会社は得てして、"spread too thin"(あれこれと手を広げすぎ)に陥りがちです。私は今、数多くの小さな会社を見るなかでこの傾向を強く感じていますが、それでは、ビジネスはうまくいきません。

結局、我々は日本の支社を売却し、台湾拠点も閉鎖しました。中国を含むアジア市場から撤退して、アメリカ市場に全力を集中することになりました。

DTCの傘下での成長

Q 1987年には製造大手のDTC社から出資を受け,同グループの傘下に入りましたね。

この時期のアメリカのディストリビュータ業界では、淘汰の波が生じていました。私たちも急成長を遂げるいっぽう、資金面でプレッシャーに直面するようになっており、東海岸の会社から買収の申し出を受けたりしていました。そこで、DTCのCEOである李信麟氏に相談に行ったのです。その時に,DTCがカシオのLCDプリンターの代理権を得て米国でDTCブランドで販売する計画を抱いていることを知りました。一方、シネックスではその頃,シチズンのプリンターを月に6,000台くらい売っていました。そのようなことから、当社の買収話に発展したのです。

こうして、1988年に、シネックスはDTCの子会社として、その傘下に入ることになりました。私たちはこれで資金繰りの問題から解放されました。李さんの側には,当社への出資を通じてカシオのプリンターの販売を伸ばせると言う見込みがあったのでしょう。

メーカーであるDTCは、我々とは業務の性格が大きく異なったこともあり、李信麟さんは当社のビジネスには関与せず、経営については引き続き私に任せてくれました。COOも一度オフィスにやってきて、特に問題がないことを確認すると、あとは “you got to make money.” という一言を残して、経営を任せてくれました。

我々はこの“you got to make money.”という言葉を守り、1988年2月のDTCへの株式売却時に赤字を計上して以降、今日に至るまで、毎クオーター、黒字を続けています。

Q この時期の主なサプライヤーはどこでしたか?

DTCがプリンターを商品化したのは1989年頃のことで、それまでのDTCはストレージ・コントローラのメーカーとしてよく知られた存在でした。

当時のサプライヤーと主な取り扱い商品としては、シチズンのプリンターのほか、Seagateのストレージ、DTCのストレージ・コントローラの割合が高かったです。DTCのライバルにあたるウェスタンデジタルの製品も手がけていました。これに対してDTCからは、「もっと我々の製品を積極的に売ってくれ」というプレッシャーがありました。でも我々としては、DTCの仕事だけでは食べていけない。それにDTCの社員からすれば、製品を我々に売ってもハウスアカウントにしかならず実績にならないので、我々に対するサポートは決してよくありませんでした。我々からすれば、むしろDTCのライバル製品を売ったほうが収益性が高いくらいでした。

DTCの子会社であることからくる矛盾は、後のプリンター・ビジネスでも起きました。DTCがプリンターで有名なQume(李さんが1970年代に設立した会社)を買い戻したことによって、conflict of interestはさらに厳しくなりました。

そうこうするうちに、 HPのレーザープリンターとの競争の激化と、買収等による財務的な負担が主な要因でしたDTCの経営の雲行きも怪しくなってきたのです。1991−92年頃、李信麟さんに「矛盾が拡大してきている。他の出資者を探そうかと思う」と話したところ、彼も理解を示してくれました。

こうして、マイタックがDTCとQumeが保有していた株式を買収し、当社の新たな親会社となりました。

Q 今から振り返って,DTCの傘下に入った時期はシネックスの成長にとってどのような局面だったのでしょうか?

シネックスの後の成長につながる様々な基礎ができた時期だと思います。なかでも後に重要な意味を持ったのが、ERP(enterprise resource planning)システムなどのインフラ作りに力を入れたことです。これは非常に価値あることでした。早い時期にインフラを作れたことは、例えば顧客の属性に合わせて製品の品ぞろえを変える「顧客セグメンテーション」を進めていく上でも大いに役に立ちました。

ちなみに当社は、Eメールの導入も、1982年くらいととても早かったのです。中央電子のユニックス製品に、Eメールソフトが入っていたのでこれを使ってみたのです。当時は、社内の仕事の分担や調整用にカーボン用紙を使った複製を利用していたのですが、それがけっこう面倒くさかったんですね。1988年の時点でも、DTCではEメールをまだ使っていませんでした。また当社はERP systemの一環として、毎日の売り上げのレポーティングシステムもいちはやく確立していました。

またDTCは上場会社でしたから、我々もその子会社として、経理や法務といった管理面で上場企業としての基準を満たさねばなりませんでしたし、私もDTCの戦略会議や役員会に参加しました。これは上場企業の運営という点で大変良い勉強になり、後にシネックスで役立ちました。

マイタックとの提携へ

Q  1992年にDTCの傘下を離れるにあたり、新たな提携先として、台湾の大手パソコン・周辺機器メーカーのマイタックを選びましたが、その理由は何だったのでしょうか。

マイタックの苗豊強氏とは古い付き合いです。私がまだマクロデータに勤めていた1976−77年頃、顧客のひとつに工業技術研究院がありました。史泰欽(後の同院院長)や曹興誠(UMC元会長)にも、よく会ったものです。

あるとき、wheel to wheelのテープが必要で、それを扱っている代理店に買いに行ったのですが、オフィスに1人で座っていたのが、苗さんでした。

苗さんは李信麟さんの友人でもあったため、ディールは早くまとまりました。彼は、自分がディストリビュータ出身であることもあり、マイタックは当社の事業への理解が早く、深かったです。マイタックの側でも、不振に陥っていたアメリカ事業をマネージしてくれる人を探していたので、シネックスとマイタックというのは良い組み合わせでした。我々のほうがマイタックグループの傘下に入るかたちになりましたが、アメリカでのビジネス経験を含め、会社の組織インフラの面では、我々のほうが先進的なところがたくさんありました。

グローバルな大型製造企業というのは、とかく工場主導型になりがちです。工場側では「製品が売れないのは、営業が力不足だからだ」という話になりやすいものです。マイタックにもそういうところがありましたが、私の話にはよく耳を傾けてくれました。

マイタックの苗氏(中央)とマイタックのグループ会社の社長たち

マイタックの苗氏(中央)とマイタックのグループ会社の社長たち

Q 1994年には、創業時の社名コンパック(Compac)からシネックス(Synnex)に改名しましたね。コンパックというと、一世を風靡したIBMPC互換機のトップブランドを思い出すのですが、やはり名前が問題でしたか?

1980年代、IBM PCの全盛期に、当社もIBM互換機やモニターを多く扱うようになったのですが、その過程で頭痛の種になったのが、この社名の問題でした。我々の社名Compacは、よくあのテキサスのCompaq Computer Corporationと間違えられたました。何せ発音が同じですからねえ。創業時期は、うちのほうが3カ月先輩なんですが・・。

そこで一計を案じました。当社はこの頃、IBM互換機を製造し、”Standard”というブランドで売っていたのですが、「Compacブランドでパソコンを発売する」とアナウンスをしたのです。狙い通り、すぐにテキサスのコンパック本社から連絡がきました(笑)。我々は社名変更に応じる代わりに補償をしてもらうための交渉を開始し、1994年に、社名を現在のシネックスに変更しました。

カリフォルニア州フリーモント市のSynnex本社

カリフォルニア州フリーモント市のSynnex本社

製造サービス事業への展開

Q マイタックとの提携を機に、シネックスは北米での製造サービス業に展開しました。その経緯をお話しください。

マイタックと手を組んだことには多くのメリットがありましたが、そのなかでも最も重要な意味を持ったのが、同社と組んで開始したアメリカでの製造サービス業の立ち上げでした。

パソコン業界では、1980年代半ば頃から、安価に製品を提供するホワイトボックス(ノンブランドパソコン)メーカーがめざましい成長を遂げていました。彼らは、パソコン市場の裾野の拡大を目指すインテルやマイクロソフトの支援を受けて、ノンブランド互換機の市場を創出しつつ、1980年代後半に急成長を遂げました。当社もその波に乗り、先程お話したようにStandardというブランドでこの市場に参入していました。しかし、1992年にCompaqがパソコンの大幅値下げを行ったことで、産業は新たな局面を迎えました。コンパックが大胆な値下げを行い、HP、NEC、東芝などのブランド会社もこれに追随したことで、それまで価格で勝負をしてきたホワイトボックスベンダーは大打撃を受けました。

このような環境変化のなか、1992−93年頃から、台湾のパソコンメーカーは従来の自社ブランド路線を転換して、IBM、HP、NCR、コンパックといった米系のブランド企業を相手とする受注生産事業に本格的に乗り出していきます。しかし、台湾や中国で組み立てた完成品を北米市場に持っていくと船便では4週間近くかかってしまい、その間にCPUとメモリーの価格が大きく値下がりするという問題が生じていました。

そこで、シネックスとマイタックは、共同でシリコンバレーのフリーモント(Fremont)に生産ラインを設け、マイタックが受注してマザーボード製造までを中国工場で行い、最終組立をフリーモントでやる、という体制を構築して、受託製造サービスを開始しました。マイタックのマザーボード設計能力・量産ノウハウと、シネックスのマネジメント力、CPU・メモリー・ HDDなどの調達力、効率の良い物流オペレーション力を組み合わせ、またマイタックが持つODM技術と、シネックスが有するサプライチェーンの管理能力を組み合わせることで、Built to Order(BTO)や最終組み立てサービスを提供する、というビジネスです。

シネックスも、1980年代に北京で工場運営を行ったり、ホワイトボックスのアセンブリーを手がけたりして、生産管理の経験を多少なりとも積んでいたので、これが役立ちました。

Synnexのニュージャージーの物流センター。北米には同様の施設が13カ所にある

Synnexのニュージャージーの物流センター。北米には同様の施設が13カ所にある

Q 製造サービス事業の主な顧客はどのような企業だったのでしょうか。

初期の顧客はAT&T、NCR、Tandyなどでした。Tandyはちょうどパソコンに参入するところで、我々は同社を相手に、1ユニットからの完全受注生産を請け負いました。先方にすれば、在庫を持つ必要がなく、多様なコンフィグレーションまでできるわけですから、大きなメリットがありました。この効率性でもって、直販モデルで有名なDellに対抗しました。

しかし、1994−95年頃になると、AT&TやNCRは、CompaqやDellの急成長に押されて市場から撤退しはじめました。そして今度はそのコンパックが、当社の大口の顧客になりました。フリーモントの巨大な工場にずらりとデスクトップPCの組み立てラインが並んだ様は、実に壮観でした。インテルのCEOになったPaul Otteliniが見学に来て賞賛してくれたこともありました。

製造サービス事業を通じてシネックスは飛躍を遂げました。1998年−99年くらいには売上高が約30億ドルにまで拡大しました。他方、ディストリビュータ事業はわずかに黒字という状況でした。マイタックにとっても、これは大きな成功でした。台湾のITメーカーのなかで、アメリカ事業であれだけの成功をおさめることができたのはマイタックくらいだったでしょう。

フリーモント工場のServer Systemの組立ライン

フリーモント工場のServer Systemの組立ライン

Q 製造サービス事業以外の分野でもマイタックとの間でシナジーは働いたのですか?

先にお話ししたように、シネックスは、DTCの傘下にあった時期に、人材管理や法務を含めた組織インフラの強化に努め、先進的な仕組みを備えるようになっていました。これを活かして、シネックスが、マイタックが全世界に持っていたオフィスの管理を担うこととなりました。マイタックのアメリカ拠点はもちろん、オーストラリアやイギリス、さらに日本までが私の責任下に置かれることになったのです。

我々は、1980年代に一度、ビジネスの手を世界各地に広げすぎてしまって資源が分散してしまい、それを再度集中化する、という経験をしていました。しかし今度は十分な資金とインフラ、管理体制が整っていたので、これを活かして、シネックスがマイタックのグローバル企業化を推し進めることになりました。

このように、Synnexにとって製造サービス事業への展開は重要な成長ステップとなりました。

Q シネックスの製造サービス参入のきっかけともなったパソコン業界の構造変化の引き金をひいたコンパック。そのコンパックも、激しい競争を生き残れず、2000年代初めにHPに買収されましたね。

HPやデルとの競争のなかで、コンパックの業績も次第に悪化し、取引先としてのリスクが顕在化するようになったため、2001年に同社からの受注を切るという大きな決断をすることになりました。一時はBTOビジネスの売上高15億ドル規模の事業のうち、コンパックとの取引分が10億ドル程度を占めていたのですから、売り上げは大きく落ち込みました。幸いにも、もう一つの主力顧客であったSun Microsystems向けのサーバーやワークステーションの製造サービス事業が順調だったことと、ディストリビューション事業も好調だったことで、なんとかこの決断に踏み切ることができました。コンパックとの取引を停止したのがIPO前だったのは、結果的には資金とプロフィットの圧力がなくなるという好結果を生みました。2003年のIPO後には、売上高40億ドルのうち、製造事業からの売り上げは3億ドルあるかどうかというくらいだったでしょうか。

流通業界のエコシステムの変化

Q 話が少し戻りますが、本業のディストリビューション事業では、1990年代を通じてダイナミックな業界再編が起きましたね。

1990年代初め頃のディストリビューション業界の見取り図を簡単に示したのが図1です。当時の小売チャネルは、ディーラー、メールオーダー業者、ComputerLandのような大型小売業者、そしてVAR(value added retailer)、の4つに大別できました。

1980年代末頃から、LANが普及して、パソコン、サーバー、LANサーバー、ルーター等を相互接続して利用するようになると、接続がらみの様々なニーズを一手に引き受けるVARの存在感が増しました。ただ、VARは一般に資金面での体力が弱かったので、ディストリビュータが資金面からサポートするようになったのですが、これがディストリビュータにとっては結構な負担となりました。

一方、1992年のCompaqショックをきっかけとして、パソコン産業の競争は新たな段階に入り、ブランド企業のプレゼンスが大きくなりつつありました。これに伴ってVARが弱体化し、過当競争のなかで、ディトリビュータも次々と潰れ始めたのです。1993年には、MeriselというディストリビュータがComputerLandを買収しましたが、あまりうまくいかず、1997年にシネックスがComputerLandを吸収することとなりました。

「パソコン業界のバリューチェーン」

「パソコン業界のバリューチェーン」

Q この時期にシネックスがディストリビューション事業でも順調に成長を遂げた鍵は何だったのでしょうか。

この時期の一番の経営課題は人材の確保でした。サービス業はいい人材なしには経営が成り立ちません。また、コストコントロールも重要でした。流通業では、商品の差別化の余地がほとんどないため、いかにコストを下げて利益を出すかがマネジメントの要です。

しかし、1990年代後半になると、新たな問題が発生しました。シリコンバレーのドットコムブームが過熱して、従業員の離職が増えたのです。ディストリビュータで働くと、業界の全体像がよく分かるようになります。そのため当社はまるで人材のトレーニングセンターのような状況になってしまい、どこから人を連れてきても長くいてくれない状況になってしまいました。

これはまずい、ということで、1995年にサウスカロライナ州のGreenvilleにディストリビューション部門の営業本部を移しました。ここはもともと、AT&Tのパソコンの事業部がある土地で、Arrowのようなディストリビューション業者の拠点もありました。IT業界の豊富な知識をもつ営業経験者が多くおり、優れた人材が集まっていて定着率もよかった。このことが、当社の強みの源泉となりました。他方で、同じ時期に同業者たちの市場退出が相次ぎました。

ノースカロライナ州グリーンビルに移転したSynnexのディストリビューション営業本部

ノースカロライナ州グリーンビルに移転したSynnexのディストリビューション営業本部

Q なるほど、戦略的に立地を見直すことで、新しい強みを創り出したわけですね。この時期の海外展開の状況はどうでしたか。この頃から再びアジアに目を向けたようですね。

1999年頃に、中国に再進出しました。自社用ERPの開発と、バックオフィス機能を担う大型のチームを北京に立ち上げたのです。この中国拠点の存在は、のちにIPOのためのロードショウをするなかで当社のセールスポイントの一つになりました。

中国での事業にあたり、大いに力になってくれたのが、1980年代半ばに我々Compacが中国から撤退するときに「時機がきたら再び中国にきてください」と言ってくれた張進さんでした。彼はその後、役所をやめてある上場企業に転身していました。1990年代半ば頃、彼は再び私をアメリカに訪ねてきて、「中国の環境は好転した」と力説しました。そこから再び行き来が始まり、1998年に、中国への再進出を決意しました。シリコンバレーでの人手不足、そして、中国の人件費の安さが大きな魅力でした。

張さんは大変有能な人で、我々にはとうていマネージできない中国での人材管理の仕事を引き受けてくれました。1999年と早い時期に北京に進出したおかげで、一流大学出身のいい人材を大量に採用することができました。数百人規模の採用をしましたが、いっせいにトレーニングできたので、非常に効率的でした。

当時は、台湾の人たちにも「中国にバックオフィス機能を立ち上げるなんて信じられない」と言われる状況でしたし、アメリカの同業者にもそんな動きはありませんでした。しかし、シネックスはまだ身軽で、創業者企業としての性格も強く、何より同業者とは違うやり方を模索してもいました。マイタックと組んだことで、中国での外注の実際を見ていたことも大きかったです。ただ、当社は、インドのアウトソーシング事業のGlobalizationではBPO(Business Processing Outsourcing)市場に進出するのに遅れましたが。

上場へ

Q 2003年にはついにニューヨーク証券取引所での上場を果たしました。

1999年頃から、上場の話が本格化しました。2000年に本格的にIPOの準備に入ったのですが、関係者が一同に集まるall hands meetingと呼ばれる準備会合を終えた頃から、ドットコム・バブルの崩壊が始まり、業績予想が達成できないことが明らかになったのです。この時点で一度、IPOをとりやめました。そして2001年の秋にはあの「9.11」が起きました。当社はこの直前にディストリビュータMerisel Canadaを買収したばかりで、北米でのディストリビューションビジネスは非常に好調になっていました。そこで再度、上場に向けた準備を進めたのですが、今度は2003年春にイラク戦争が勃発し、再びIPOを延期することとなりました。結局、3度目のタイミングで、2003年末にIPOを果たすことができました。

ニューヨーク証券取引所にて、IPOのセレモニーをかねてOpening Bellを行う

ニューヨーク証券取引所にて、IPOのセレモニーをかねてOpening Bellを行う

Q 世紀の変わり目のIT業界は極めて浮き沈みの激しい時期にありましたが、なんと、三度目の正直での上場だったのですね。

マイタックの出資を受けてから上場するまでの約10年間を振り返ってみると、やはり、彼らと組んで製造受託サービスに乗りだしたことが、特筆すべきできごとでした。また、この10年間は、積極的にM&Aを行った時期でもありました。マイタックからの出資によって資金力が高まったことで、積極的な買収戦略に出ることが可能になりました。特に大きな意味を持ったのが、1997年のComputerLandの買収です。ディストリビュータにとって最大の資産は、代理権です。この買収の主な狙いは、ComputerLandが持つ代理権と顧客の取得でした。ComputerLand、Gates/Arrow Electronics、そしてMerisel Canada等は、いずれも大型の買収となりましたが、他にも多数の買収を行いました。

Q 上場を果たしたあと、Synnexは事業の多角化を進めました。どのような背景からだったのでしょうか。

上場に向けたロードショーのなかで、シネックスのマージン率の低さという弱みを指摘されました。それがきっかけとなり、2000年代には、受託製造ビジネスと並行して、BPO(business process outsourcing)事業にも展開するようになりました。そのひとつが、コールセンター事業への展開です。

上場から間もない2004年の初旬には早々と、BSAおよびdemand creationというBPO会社を買収しました。その後、2006年頃、ニューヨーク州ロチェスター(Rochester)で従業員約400人のテクニカルサポートセンターを買収し、さらにフィリピンのシスコのサポートセンター(数千人規模)、インドのコールセンターを次々と傘下に収めました。また、これは私が会長を辞めたあとの2013年のことですが、IBMのコールセンター(4万人規模)も買収しました。

現在、シネックスはConcentrixというブランドを用いて、世界で約10万人のコールセンタエージェントを有する業界屈指の事業者となっています。コールセンタービジネスは、ディストリビューション業務に比べれば売り上げは決して大きくはありません。が、マージン率は高く、P/E multipleが遙かに高いのです。2004年にBPO事業に進出したことは正解でした。1990年代に鍛えた製造部門のほうも、HYVEという新しいブランドでデータセンターの設備事業を大規模に展開しています。

アリゾナ州フェニックスにあるConcentrixのコールセンター。

アリゾナ州フェニックスにあるConcentrixのコールセンター。

Q コールセンタービジネスとディストリビューション部門との間にシナジー効果は働いたのですか?

HPやアップルは、ディストリビューション部門の重要なパートナーでもあるので、コールセンター事業を通じてカスタマーのサポートを行うことには、商品知識が活用できるというメリットがありました。また、我々が有するITインフラ、財務と労務管理のノウハウは、事業分野をまたいで共通で活用できる部分がありました。BPOでは、他にも、リース事業やプリンターのトナー残量管理システムといった事業を手がけましたが、規模は限られたものでした。

一方で、世紀の変わり目頃から、本業のディストリビューションの収益性が改善してきました。ドットコム・バブルの崩壊を経て、業界秩序が再編され、この事業でも儲かるようになってきたのです。

Q 上場したことは、シネックスの事業や経営にどのようなインパクトをもたらしたのでしょうか。

2003年の上場は、シネックスの経営のあり方に大きな影響を与えました。折しもアメリカでは、ドットコム・バブルがはじけ、エンロン事件が起きた直後でもあり、2002年にSOX法(上場企業会計改革および投資家保護法)が成立したこともあって、投資家のリスク低減策の一環として、情報開示や説明責任にかかわる規制が厳しくなっていたのです。企業統治改革が重視され、上場企業に対する規律づけが厳しくなった時期でした。

委員会制度への移行も大きな変化でした。上場前までは、私が案を出し、苗さんが賛成すれば、役員の選任も報酬制度も決められましたが、これを上場後は指名委員会、報酬委員会に委ねることになりました。例えば報酬制度についていえば、それまでのシネックスでは、サラリーに占める業績連動部分の割合を高く設定しており、特に高いポジションの役職ではその比率が非常に高い構造になっていました。他方で、現場レベルの人材については、会社へのロイヤリティを重視する視点からも、できるだけ解雇をせず、極力雇用を維持する、という方針を維持していました。こうした仕組みで長年うまくいっていたのですが、こうしたユニークな報酬制度の妥当性について、わざわざ外部のコンサルタントに評価を求めるということをやりました。

結果的には、外部コンサルタントの目からみても、シネックスの報酬制度はユニークな強みを持つものだという結論でした。実際、我が社の報酬制度は、ITバブルが崩壊した時期、当社の業績が相対的には安定したこともあって、業界の上位企業から優れた人材をリクルートするうえでもうまく働いたと思います。

IPO後は、投資家との向き合い方も変わりました。それまでは、とにかく利益を出すことが投資家に報いることだ、と思ってがむしゃらにやってきたわけですが、IPO後は、証券アナリストと向き合い、彼らに納得してもらうよう説明する必要が生じたわけです。日本と違い、アメリカの証券アナリストは大変優秀です。我々、経営者には予想の正確さが高度に求められます。一度、業績予想に失敗して株価が大きく落ち込んだときには大変な目にあいました。それ以来――これはどこの会社もだいたい同じでしょうが――業績予想を上回る実績をあげられるよう、予想に際しては保守的な姿勢を心がけるようになりました。とにかく、外部に向かって説明しなければならない、という状況が生まれたことには、それ相応の意味がありました。

節税対策についても、後から問題になるような事態が生じないよう、従来のやり方を改めることになりました。非効率な面もありましたが、結果的には会社の透明性を高めることができました。

アメリカのIT機器流通サービス業界の上位3社は、イングラム(Ingram)、テックデータ(Tech Data)、そしてシネックスです。当初、シネックスの売上高は、イングラムの5分の1から4分の1、テックデータの4分の1から3分の1くらいでした。その後、我々は堅実な経営をしながら企業買収を積極的に続け、またマルティプルの持続的上昇も実現できたため、現在では、売上高でこそイングラムの約4分の1、テックデータの約3分の1の規模に過ぎないものの、時価総額ではテックデータを遙かに上まわっています。

Q シネックスの上場は、ファンさんご自身の経営者としての役割にも変化を引き起こしたのではないでしょうか。

Synnnexの経営者としての私の時間の使い方にも変化が起きました。対外的な説明責任に関わる仕事が増え、特に内部統制システムの構築の必要に迫られるようになりました。それまでは、重要な意思決定は、私と大株主が「OK」といえば行えたわけですが、もうそうはいかない。公開企業にふさわしい取締役会の仕組みづくり、取締役たちとの密接なコミュニケーションといった新たな仕事が増えました。

ただ私はアントレプレナーなので、型にはまった仕事よりも自分の好きなことをしたいと思う性格なのです。新しいビジネス、新しい会社を育てていくことに力を注ぎたい、という気持ちが強くありました。

また、私は以前から、60歳でSynnexの経営の第一線を退いて、もっと多くの時間をアジアで過ごしたいと思っていました。特に、日本に対しては、何かの形で貢献できればと願っていました。

SynnexのBoard memberおよびマネジメント・チーム(2009年)

SynnexのBoard memberおよびマネジメント・チーム(2009年)

事業継承へ

Q: ファンさんは、2008年にCEOの座を後継者に譲り、シネックスの経営の第一線から身を引かれました。この経緯、特に後継者選びのプロセスについてお聞かせください。

私はもともと、60歳になる2005年の引退を考えていました。「日本で何かしたい」という気持ちもあって、後継者選びを意識するようになっていました。苗さんは、この話を持ち出すたびに困った顔をしていましたが、IPOの成功を機に、私は後継者選びに本格的に力を入れるようになりました。

キーポジションにある重役陣の継承についても考えなければなりませんでした。そこで、委員会を設けて、次の世代の経営陣の選抜を開始しました。とはいえ、シネックスは私が一代で築いた会社で、企業文化もかなりユニークです。そんな事情もあり、取締役会も、私の考えを尊重してくれました。

私が白羽の矢をたてたのは、イングラム出身で、日系三世カナダ人のケビン・ムライ氏でした。彼はイングラムのなかで、平社員から身をたててCEO候補者2名のうちの一方になった人です。彼がその選にもれたあと、私は彼と連絡をとり、シネックスに誘いました。ケビンは慎重な人柄で、互いに一年ほどの期間をかけて丁寧にコミュニケーションを重ね、最終的に当社に来ることを承諾してくれました。まず、2008年の4月にケビンをCo-CEOとして迎え、彼には得意領域であるディストリビューション業務を主にみてもらい、私がアジア事業とBPO事業を管轄するという分業関係でやってみました。その後、同年12月にケビンにCEOのポジションを完全に委譲しました。ケビンは現存の経営陣とインフラをうまく活用して、6年の間に会社の株価を3−4倍にまで伸ばすことに成功しました。

この継承は、シリコンバレーの事業継承のなかでも最も成功した事例であると誇りに思っています。

2009年のファン氏のリタイヤメントのパーティにて。

2009年のファン氏のリタイヤメントのパーティにて。

Q この時期からファンさんと日本との関わりが格段に深くなりますね。

2000年頃から、母校の九州大学との縁が復活しました。日本各地で講演をする機会も増えました。数十年来日本の企業と仕事をするなかで、私は、日本企業のマネジメント力の弱さという問題を痛感していました。そして、強いリーダーならば、変化に弱いこの日本の企業を変えられるのではないか、という思いを強くしていました。

電子機器卸売、関連サービスの丸紅インフォテクスの梅崎社長が私の九州大学での後輩だったので、私は2000年頃から、同社の買収に向けて積極的にアプローチしていました。なかなかウンと言ってもらえなかったのですが、2010年に丸紅が電子機器の流通業から撤退するという話を聞いて会いに行き、話がまとまりました。シネックスと私個人の合弁会社(SB Pacific)を設立して丸紅インフォテックを買収し、「シネックスインフォテック」として新たなスタートを切りました。私は自ら社長に就任し、買収後の最初の一ヶ月で黒字転換を遂げ、また最初の6カ月間に20を越える改革を実行しました。

しかし、この買収のディールをクローズした翌年の春、東日本大震災が起きたのです。3.11の当時は、私も妻も東京におり、特にホテルの高層階にいた妻は、いつまでも揺れ続ける部屋のなかで非常に怖い思いを味わいました。実は私は、豊洲に気に入ったペントハウスを見つけて買うつもりでいたのですが、妻が「あんなに怖い思いをするのは嫌だ」と言い出したのです。私は東京はとても好きなのですが、単身赴任は本当に不便ですからね。結局これがきっかけになって、早く後継者を見つけよう、ということになりました(笑)。知り合いから紹介された松本芳武さんが6月頃に後継社長として入社してくれ、シネックスインフォテックへの私の関わりはひと区切りつきました。

Q シネックスインフォテックとの関わりを通じて内側からみた日本の業界の状況はいかがでしたか?

日本が、ITシステムの面で非常に遅れていることに驚きました。伝票ひとつとっても、日本ではお客さんごとにフォーマットが違っていて、しかもなんでも「ハンコがいる」と言う。オフィスには、伝票を打ち出すプリンターが顧客ごとにずらりと並んでいる状況でした。

アメリカで買収した会社では、即日、シネックスのシステムへの切り替えができたものですが、日本ではユーザーのインターフェースが標準化されていないため、業務プロセスの効率化をしたくてもまるで前に進めない。もちろん、お客さんの声が効率化につながるのなら大歓迎ですよ。しかし、日本では、業界全体で、技術進歩の足を引っ張りあい、前進するどころか後退しているような状況です。

Q うーん、そうですか……。日本でも他にいくつかの会社の経営に関わっていらっしゃいますね。

2008年に、BPO事業の拡充の一環として、NDSという日本のデータ入力会社を買収しました。また2011年には、スリープロの筆頭株主になりました。スリープロの創業者は高野研さんという優秀な若者でした。20代半ばで東証マザーズに上場した彼の記録は今でも破られていないのではないでしょうか。実は私は2005−2006年頃、ぜひスリープロを買収したいと高野氏にさかんに持ちかけたのですが、彼は首を縦に振りませんでした。

しかし2010−11年頃、高野さんは不祥事の当事者となってしまい、会社も危機に陥り、彼は私に助けを求めてきたのです。そこで私は、シネックスと私が合弁で設立したSB Pacific社を通して、スリープロを買収し、立て直しを行いました。私としては、この会社をぜひ丸紅インフォテックと合併したいと思ったのですが、 タイミングが悪く、それは実現できませんでした。

立て直しにあたっては、当時のNDSの関戸社長(シネックスKKの社長)と私の九大時代の後輩2人を送り込みました。まず役員会の整理を行いました。半年もたたずに会社はなんとか黒字となり、バランスシートも次第に改善に向かいました。しかし、日本の会社の常で、変化に対して弱いとも感じました。

シネックスジャパンの関戸さん

ここで、シネックスKKの元社長で、現在はスリープロの代表取締役になっている関戸明夫さんの話をしておきましょう。彼は、私の数十年来の非常に親しい友人であるとともに、私の日本でのビジネスには欠くことのできないパートナーでもあります。

彼は、私より3歳年下の1948年生まれです。早稲田大学を卒業後、東京海上に就職し、フルブライトの奨学金でMITにMBA留学をしました。そのときに、同級生として出会ったのが、私たちの付き合いの始まりです。

その後、彼は岳父の会社である三協工業の経営を継いだので、時々シネックスの仕事を手伝ってもらっていました。そのうちに彼が、「コンピュータ・ビジネスはおもしろい」と言い出しました。私は「この仕事は本業としてやるのでなければ無理だ」と言っていたのですが、結局彼は、会社をやめてアメリカにやって来ました。そして数カ月間、私のところで見習いをしたのち、シネックスKKを設立しました。

私が様子を見にきてみたら、彼は秋葉原に拠点と倉庫を構え、「出前一丁」と称して、秋葉原一帯の会社から午前に受けた注文を午後には配送する、という勤勉さで、積極的にビジネスをやっていました。秋葉原のお客さんたちから大いに感謝されており、その様子をみた私はすっかり感心してしまいました。

シネックスKKは1995年に創業したのち、2000年まで急激な成長を遂げ、売上高250億円にまで達しました。そこで関戸さんは上場の準備を始めたのですが、上場直前になって彼が電話をかけてきて「時価総額が6億円にしからならない」というのです。それでは1−2億円しか調達できません。ばかばかしくなり、上場は取りやめとなりました。

しかしその頃から日本ではバブル崩壊後の景気悪化がどんどん深刻になり、シネックスKKの事業も伸び悩むようになりました。それに日本では会社を買収したいと思ってもなかなか売ってくれない。そのようなこともあって、結局2005年に、シネックスKKをMCJに売却しました。このMCJは高島勇二氏が創業したBTOパソコンの会社で、上場時の評価額の高さで名を馳せ、「日本のデル」とも呼ばれた会社です。

その後、関戸さんにはNDSの買収に携わってもらいました。さらにスリープロを買収したあとはその社長、会長を務めてもらっています。

経営者の仕事とは

Q: ファンさんは、わずか数名で始めたシネックスをグローバルな大企業へと育て上げてきました。その経験をふりかえって、「企業を経営する」ということをどのように捉えていますか。

企業の経営は、財務管理や情報インフラストラクチャ、人的資源管理や評価のシステムといったハードウェアと、企業文化や価値観といったソフトウェアの両方が結びついたもので決まります。

このうちソフトウェアの面では、私は日本企業から随分影響を受けてきました。若い頃に松下電器の人たちとの付き合いがありましたが、あの会社では創業者の哲学が何代にもわたって継承されている。そのことに大変驚きました。とはいっても、同じ封建制でも、西洋のそれが契約ベース、東洋のそれが君主への忠誠をベースとしているように、文化は地域によって異なるものですがね。

シネックスの場合、創業当初は、私がセールスから財務までを一人で管理していました。会社が成長するにつれ、それでは回らなくなり、自分の代わりとなる人を探すようになり、やがて、個々の領域で私より優れた力を持つ人を雇うようになりました。そうすると、そういう人たちが、「コスト」ではなく会社の「資源」となるわけです。そして、この人的資源をいかに引き留められるか、確保し続けられるかが経営者にとってのチャレンジとなるわけです。

優れた人材を引きつけ続けるためには、会社が成長し続けなければなりません。企業は利益を出さないと、投資ができない。投資なくして成長はできない。そして、成長しない企業は優秀な人をとどめることができないのです。そういう意味でも、 1980年代にDTCのExecutive Presidentから言われた”You’ve got to make money“という言葉は、その後も長く身にしみ込んでいます。

Synnexの2009年までの成長は、会社の買収に満ちている

Synnexの2009年までの成長は、会社の買収に満ちている

一方で、採用したが使いものにならない、そういう人を無理にキープし続けることにも無理が生じます。無理を続けていると会社の荷物になって周りの人にアンフェアになってしまいます。会社というのはいくつもの輪がつながった鎖のようなもので、その鎖の強さは一番弱いリンクに等しいのです。だから弱い輪を取り除かねば、組織が強くなりません。しかし、普通の上司はそれをやりたがりません。同じことが、買収先の人材についても言えます。ComputerLandを買収した時には、同社の社長(president)と7人のVP(副社長)が移籍してきましたが、社長には買収翌日に去ってもらいました。VPのうちの6人も、半年せずに去っていきました。しかしそのなかで残ったただ一人の人は、今でもシネックスの非常に重要なポストについています。

人的資源管理という点では、従業員一人一人のパフォーマンスを把握することが重要になるわけですが、シネックスでは早い時期から、パフォーマンスのvisibility(可視性)を高めるためのインフラ作りに力を入れ、目標に対する進捗状況が一人一人について把握できるようなシステムをつくって活用してきました。

市場は常に変わっていくわけですから、その変化に対して常にpro-activeに、つまり先を見越して積極的に対応していかなければならない。そして適切な対応を取るためには会社の実態を詳しく把握しなければなりません。多くの日本の社長のように、かわいがっている部下から入ってくる情報に頼っているだけではダメなのです。

要するに、経営者というのは、牧羊者であるとともに牧羊犬でもなければなりません。みんなに目標を明確に設定し仕事をしやすいツールをつくったうえで、皆がきちんと働いているかどうかを見守っていなければなりません。

会社の文化と価値観

また、会社にとり、価値観というのは非常に重要なものです。それは従業員を公平に扱う上でも不可欠のものです。明確な価値観がないと、扱いが整合性を欠いてしまう。整合的な規範がないと、例えば問題がある人に厳しい処分を下そうとしても、「あの人は我が社にとって重要ですよ」と言われたらそれができなくなってしまう。そうなると「なぜあの人は許されなかったのに、この人は許されたのか」という状況が生じて、長期的に会社が悪くなっていくのです。私もかつて、非常に有能な人が会社の方針に反したため、やむを得ず辞めさせたことがありましたが、その苦い思いは今でも覚えています。

シネックスはミッションとして、「サプライチェーンの経済性を最適化すること」「すべての関係者のために価値を創り出すこと」「業界最高のサービスと製品をお届けすること」「忠誠、チームワーク、整合性、勤勉は美徳」といった会社としての価値目標を掲げていましたが、これらはコンパックの時代から引き継がれてきたものです。

Management focusとして掲げた3つのV(visibility, velocity, value)も、当社の経営の焦点を表すものです。まず、Visibilityは、シネックスにとり非常に重要な仕事の基準です。従業員一人一人の実績を可視化すること。目標に対する達成度等を数値化すること。そうすることで、評価に客観性がでてくるし、そうしてはじめて従業員を公平に評価できるのです。

二番目のVであるVelocityも重要です。決定のスピード、実行のスピードが遅ければ結果がでない。日本人は一般的に実行力は高いのですが、決定速度が遅いために、PC産業の変化のテンポについていけず、早くも1990年代に世界の舞台からはずれることになりました。バランスシートについても同様です。たとえ利益率が低くても、資産回転の速度が早まれば、収益は増大する。特にIT製品では、製品価格が急速に下落していくことが多いので、このvelocityが極めて重要です。

Synnexのミッションステートメント

Synnexのミッションステートメント

そしてValue。タイムスパンの取り方次第である活動が生む価値が異なることは踏まえつつ、一つ一つのアクティビティについて、その価値がコストを上回っているかどうかを把握しなければなりません。この点、日本企業の長時間労働は、「投入した時間に対してどれほどの価値を生み出しているか」という視点からみると、実に悪い習慣です。

天と地と人と

Q: 長い時間をかけて、ファンさんのこれまでの歩みについてうかがう機会をいただきました。今、Synnexの創業を振り返って、どうお感じになりますか?

中国語に「天時地利人和」という言い回しがあります。ビジネスはまさしくこの言葉の通りです。スティーブ・ジョブズも、マーク・ザッカーバーグも、生まれる時代や場所が違っていたら、ああはならなかった。私の場合、シリコンバレーという地で、パソコン産業の急激な発展にいあわせたこと、そして李信麟、苗豊強といった人たちとの出会いや、シネックスの経営幹部となった人たちとの出会いが「天時地利人和」をもたらしてくれました。中国語にはまた「水高船高(水増せば船高し)」という表現があります。シネックスの成長はまた、パソコン産業の発展によって可能になったものでした。事業にはそういう、巡り合わせもまた付き物です。

Compac時代に作り上げたValue Statementは、Synnexの企業文化に継承されている

Compac時代に作り上げたValue Statementは、Synnexの企業文化に継承されている

日本企業についての観察

Q ファンさんは長年にわたって日本企業と深く付き合ってこられました。ここで、日本企業に対する観察についておうかがいしたいと思います。

グローバルな視点からみれば、自動車産業を除く日本企業の殆どはすでに立ち遅れてしまっています。日本企業は、とにかく変化のスピードが遅すぎるのです。その背後には、二つの要因があるとみています。一つ目は、日本社会が保守的でリスク嫌いなこと。二つ目は、riskとrewardのバランスの悪さです。日本は会社間の人の流動性が低いし、英語が不得意な人が多いから、海外への転職も難しい。会社を辞めると次の仕事が見つからない。その結果、リーダーも含めて、会社に大きな問題があることを分かっていても、リスクを負ってまで重大な決定をしようとしなくなっています。

日本のリーダーのもう一つの大きな問題は、会社の実務や現場のディテールを知らないことです。部長級くらいまでは実務を細かく把握しているのに、それ以上のレベルの人は、ディテールへの理解が足りない。ディテールが分からないと、会社の変革ができないのです。

これらの問題はいずれも、会社に雇われた「サラリーマン社長」の問題に起因しています。オーナー社長であれば、問題を解決することが自分にもたらすメリットがはっきりと分かるから、改革への動機が働くのですが、雇われ社長にはそれがありません。これを解決するには、取締役会が責任をもって報酬制度の工夫を行い、社長にとっての努力のメリットとリスクのバランスを改善することが必要でしょう。

日本についてもうひとつ問題だと感じているのがスタートアップの少なさです。アメリカでは過去数十年の間に多くの職場で海外へのアウトソーシングが進み、雇用の喪失が起きましたが、これを埋めたのが、インターネットをはじめとする新技術の興隆とともに出現した大量の中小企業でした。おそらくこれまでに数百万社のスタートアップが現れ、雇用の担い手となり、そのなかの一部は巨大企業に成長しました。

しかし日本ではスタートアップの力強い成長がみられません。その要因を「日本にはエコシステムがないからだ」と説明する人が多いですね。それはもちろん正しいのですが、もっと突っ込んでその原因を考えると、先に話したような、日本社会の保守性に行き着くと思います。それを変えるには、時間がかかるけれども教育が重要です。私と九州大学の付き合いはこうして始まりました。

Q 九州大学にQREC(九州大学ロバート・ファン アントレプレナーシップ・センター)を設立なさった経緯についてもお話しください。

2000年頃、九州大学を訪れた折に私のほうから「何かできないか」という話をしたのですが、当時はまだ大学が寄付金を受け入れる体制ができていませんでした。そこで当時の梶山総長と相談をして、九州大学がカリフォルニアオフィスを設立し、そこに寄付をすることにしました。また、九大の谷川徹先生、同大カリフォルニアオフィス所長の松尾正人さんのアイディアで、QREP(九州大学ロバート・ファン アントレプレナーシッププログラム)を立ち上げ、九大の学生のシリコンバレー研修を開始しました。スタンフォード大学の学生との交流やシリコンバレー企業の見学といった内容で、学生にとってもいい刺激になったようです。

その後、有川総長の時期に、国立大学が独法化され、大学側でも個人からの寄付を受け入れられる体制が整ったので、2010年12月にQREC(九州大学ロバート・ファン アントレプレナーシップ・センター)を設立しました。立ち上げにあたっては、私がMITのスローンスクールのボードメンバーであった縁を活かして、九州大学ビジネススクールの高田先生にスローンスクールに半年間の視察と調査をお願いし、授業科目のブループリントを作成してもらいました。

科目数も設立当初の17から今では27に増え、基礎、応用、実践編にわたるアントレプレナーシップ教育を提供できる体制が整いました。この6年で延べ3,666人の学生が受講しています。ただ、MITとは違って、九大からはまだ学生のスタートアップが、新しい製品やサービスを市場に出すまでにはいたっていません。日本では親たちが、子どもには大企業に就職したり公務員になったりしてほしいと思うようで、こういう社会の保守性も関係しているでしょうね。

また現実問題として、起業家を支えるエコシステムも非常に未熟です。さらに、教員の方々も、研究や理論面では非常に優れていますが、企業の経験や実務の経験は、アメリカに比較してどうしても不足しています。

Q: そうした日本の起業教育、さらには社会のあり方に関わる問題をどのように変えていけばいいのでしょう。

九州大学も日本の政府も問題のありかをよくわかっており、様々なプログラムを進めています。私の方からは、これまでの経験と観察を踏まえて、ここ2−3年、九州大学に対して以下の三つの提案をしてきました。第一に、学生に対するメンタリングのプログラムをつくること。私の同級生たちをみていると、退職した後も大変元気で、自分の持つ知識や経験を若い世代に活かしてもらいたいという思いを抱いています。第二に、大学の部活動の経営を一種の経営トレーニングの場として利用すること。会社の役員会に相当する組織を設け、ここが各部に対して新入生の勧誘、対戦相手の分析、組織の運営、予算の管理、継承といった知識をトレーニングするような仕組みをつくる。運営方法は、部活のOBが現部員に教えるというふうにします。こういう仕組みを通じて、学生たちに企業経営のあり方を擬似体験してもらうのはどうかと考えています。第三に大学と卒業生のアライアンスの強化です。この強い関係が学生のインターンシップや就活動の助けにもなります。在学時代の後輩というだけでなく、一生のメンターになることも可能です。そして、強い絆ができると、母校への寄付やボランティアの講義を通じた貢献にもつながるかもしれません。私は2010年にシネックスの経営の第一線を退いたあと、 MITの大学運営にボードメンバーとして関与する機会が増えましたが、そのなかで感じたのがアメリカの大学と卒業生のつながりの深さでした。スタンフォードでは400人ほどのスタッフが同窓会関係の仕事に携わっています。これに対して日本では東大や慶応大学でも数十名の規模ではないでしょうか。

最後に、定年した人たちのもつ経験はこれからの日本にとっては非常に大きな資産でしょうね。その力をどう活用するかが日本社会の課題でしょう。また、日本政府が起業のエコシステムづくりのため、資金やインフラ面での投資をしなければスタートアップの成長は難しいままだろうと思います。Exitできるシステムがないと、投資家はなかなか動けないものです。この点、シンガポールや台湾は政府が積極的に動いています。そして、言うまでもなく、日本がグローバル化するうえでは、英語教育の改善も日本の重要な課題です。台湾や韓国に比べても日本人の英語力は劣っており、英語教育の改革が大きな課題ですね。

Q これまで7回にわたり、お話をうかがってきました。台湾から日本を経てアメリカへと渡ったファンさんの歩みは、第二次大戦後の東アジアとアメリカの関係を強く反映しているように感じます。

振り返ると、台湾で15年、日本で10年、そしてアメリカで約50年近くを過ごしてきました。私は常に新しい環境に向き合い続けてきたので、危機感と適応力は一般の人に比べて強いでしょうね。これは、私が率いたシネックスの急速な成長にも影響しただろうと思います。一方、第一線を退いてからのここ数年は、友人が世界のあちこちに分散しており、分野も様々で、環境や価値観もそれぞれに違うことを寂しく思うこともあります。

そして、最も残念に思ってきたことは、シネックスを創業してからはビジネスを常に最優先することとなり、家族と一緒に過ごす時間が十分にとれなかったことです。コミュニケーションがなかなか思い通りにいかず、家族には済まないと思っていますが、皆がそれぞれ自分の人生を幸せに生きていけることを心から願っています。

ファンさんのお話は、起業家の個人史であると同時にIT産業の同時代史、アジアとアメリカの関わりの物語でもあると思いました。長い時間にわたり貴重なお話をいただき、誠にありがとうございました。

本稿の内容及び意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。