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シリコンバレーの「無名の巨人」ソレクトロンを率いた台湾人経営者 Winston Chen氏の歩み

インタビューシリーズ 「シリコンバレーのアジア人企業家」

アジア

新領域研究センター 川上 桃子
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2014年10月
Winston Chen(陳文雄)氏
Winston Chen(陳文雄)氏


解 説

Winston Chen(陳文雄)氏は1941 年、台北市生まれ。成功大学を卒業後、1965年に渡米、ハーバード大学大学院にて工学博士号を取得。IBMでの勤務を経て、1978年にシリコンバレーの小さな電子メーカーであったソレクトロンに出資し、オーナー経営者となる。1995年までソレクトロンのCEOを務め、同社を世界最大の電子機器受託製造サービス(electronics manufacturing service、 EMS)企業へと育て上げた。同社は2007年に、フレクトロニクス社に買収された。

ソレクトロンは、短期間のうちにグローバルな生産拠点網と幅広い製品群を持つ巨大メーカーへと発展し、 EMSという業態を世に知らしめた会社である。しかし、1980年代から1990年代半ばにかけての同社の躍進過程を率いたのが台湾出身の元留学生であることは、あまり知られていない。

シリコンバレーにはアジア出身の元留学生が起業した企業が多数あるが、その多くは、特定領域で技術の最先端をいくニッチ型のハイテク企業である。これに対してChen氏は、小さな電子メーカーが数万人の従業員を擁するグローバルな巨大企業へと発展していく過程を率いた経験を持つ数少ない元留学生経営者の一人である。このインタビューでは、Chen氏にソレクトロンの急成長のトップマネジメントの経験を聞いた。

Chen氏の話からはまた、圧制下の祖国を離れて海を渡った台湾人留学生の心情や、移民起業家に活躍の場を開いたアメリカ社会への思いも伝わってくる。シリコンバレーの花形企業を陰で支えた「無名の英雄(Unsung Hero)」ソレクトロンの視点からみたIBM、アップル、シスコ等の姿も興味深い。このインタビューは、2014年8月21日に、サンタクララのヒルトンホテルで行った。

Q 圧政下の台湾から夢の大地アメリカへ

Q Chenさんは、1965年に留学のため渡米されました。ハーバード大学では何を専攻されましたか?
私は1941年に台北で生まれました。両親は日本統治下で教育を受けた世代です。私は成功大学で土木を学んだ後、1965年にハーバード大学博士課程で学ぶため、渡米しました。ハーバードで学んだのは応用力学、特に固体力学で、物質科学を中心に研究を行いました。実は、私はここで学んだことを、その後の人生に役立てることにはならなかったのですけれど。

Q 留学時には、アメリカに残りたいと考えていましたか?
あの頃は、一年に二万人の台湾人学生が留学のためアメリカに渡る時代でした。当時のアメリカは台湾とは比べようもなく豊かで、まさしく夢の土地でしたから、卒業後もアメリカに留まりたいと考える人が大多数でした。

しかし、私にとって、それにもまして大きな動機となったのが、政治的自由の問題でした。当時の台湾は国民党の圧政下にあり、白色テロ、独裁の悲惨な時代でした。私は、自分のような性格の人間がこのまま台湾に留まっていたら早晩、国民党に捕らえられるだろうと思っていました。

Q 台湾の若いエリートたちがアメリカに留まった背景には、当時の台湾の厳しい政治事情も関係していたのですね。
ええ。渡米後、私たち台湾人留学生は「同郷会」を組織しました。最初のうち、これは政治色のない単なる親睦のための集まりだったのです。しかし、すぐに国民党に疑惑の目を向けられ、幹部たちはブラックリストに載せられました。

私が渡米してから2年後の1967年、約500人の台湾人学生がニューヨークに集まり、国民党独裁政権への抗議を行いました。私も参加しました。多くの学生が、国民党を恐れて、目の部分に穴をあけた買物袋を頭から被って街頭デモに参加したことを覚えています。私はこれに参加したためブラックリストに載り、8年近く、台湾に帰国できませんでした。以後、 30年近くにわたって私たちは国民党への抵抗運動に参加し、間接的ながら「党外」勢力と、台湾の民主化を支援してきました。しかし、2000年に当選した民進党初の総統・陳水扁氏が汚職によって失脚したことには大変失望しました。我々は永遠の反対野党のようなものですね。

憧れの職場・IBMへ、そしてシリコンバレーへ

Q 卒業後は、当時の理系エリートのあこがれの職場であったIBMに就職なさいました。
私は1970年に第一志望だったIBMに入社しました。配属先はメインフレーム用の高速大型プリンター部門で、私は機械分析に従事するはずでした。しかしちょうどその頃インクジェットプリンターという新しい技術が出現したため、私はそちらの部門で働くことになりました。

入社後3年目にインクジェットプリンター事業部がニューヨーク郊外からサンノゼに移管されたため、私は1973年にシリコンバレーにやってきました。しかし、当時のIBMは高速大型プリンターにインクジェット技術を応用しようとしたものの、失敗に終わりました。

これに関連しては、こんな逸話があります。IBMでの私の部下に大変優秀なエンジニアがいました。彼は、当時のアナログ電話の通信技術の裏をかいて無料で電話をかけられるブルーボックスという装置を発明し、実家にかける長距離電話に使っていたんです。しかしある時、それがばれて電話会社に訴えられ、IBMを解雇されてしまいました。のちに彼はHPに移って同社の小型インクジェットプリンター開発を主導し、HPの成功に大きく貢献しました。

Q IBMでの仕事はいかがでしたか?
アメリカは変化の大きな社会で、そのなかで働く人々は常に変化に適応し続けていかねばなりません。「それは私の専門ではないから私にはできません」というわけにはいかないのです。

私は大学院で固体力学を専攻しましたが、IBMではインクジェット部門で液体力学の研究をすることになりました。研究を2年行ったのち、IBMの幹部候補養成策の一環としてマーケティングや財務の仕事にも携わりました。さらに数年を経て、今度は、当時のサンノゼ研究所の主力であったディスクドライブ事業に移ることになりました。磁性工学の基礎知識も何もないまま、いきなり30人の部下をもつ身になったのです。

アメリカ人は率直です。新しい部下たちは、私に面と向かって「ディスクドライブのことは何にも知らないくせに、俺たちの上司だと?ばかばかしい」と言いました。こんな時、アメリカでは正直に事実に向き合わねばなりません。私は彼らに「ええ、あなた方の言うとおり、私はディスクドライブについて何も知りません。しかし私の仕事はあなたたちの仕事をやりやすくすること、あなたたちが必要な資源を獲得してくることなのです。どうか私に学ぶためのチャンスをください」と答えました。そう言ったからには必死で勉強をせねばなりませんでした。半年がたった頃には、部下たちからの信任が得られるようになってきました。

Q IBMでの体験から、何を学びましたか?
アメリカでは、部下は落下傘型の上司に挑んできます。それは、好ましいことです。私はIBMでの経験を通じて、後の職業人生にとってもっとも重要な資産となった「自分のチームの人々を大切にする」ということを学びました。30人でスタートしたソレクトロンを数万人規模の会社にまで育てていく困難な過程で、この資産は大きく活きました。

ソレクトロンのオーナー経営者になる

Q Chenさんは1978年に、ロイ・クスモト氏とともにソレクトロンのオーナー経営者となりました。その経緯を教えてください。
ソレクトロンは1977年に、日系人のロイ・クスモトと二人のインド人によって設立されました。ロイは大手ゲーム機メーカーのアタリで国際調達の仕事をしていた人で、他の二人はロイと付き合いのあった電子部品流通業者でした。創業当初のソレクトロンは、アタリのゲームコンソール関連の事業を行っていました。しかし最初の一年で大きな赤字を出してしまい、倒産しかかっていました。

私は1978年にソレクトロンに10万ドルを出資して、二人のインド人の持分を譲り受け、ロイと私が持分同率のオーナーになりました。またこれを機に、プリント配線板の組立事業に集中することにしました。従業員30名での出発でした。

Q IBMという人も羨む職場をやめて、なぜ倒産しかかっていた会社の経営に乗り出したのですか?
私の夢は最初から、自分のビジネスを持つことでした。私の継父は建設会社のオーナーで、私は13歳の時から、建設現場の手伝いをしていたのです。オートバイに乗って現場に行き、助監督をするという生活を5-6年もしたでしょうか。

ですからハーバードに留学していた頃から、創業したいという夢を持っていましたし、IBMに入ってからも早く自分の事業をしたい、と思っていました。8年の間に、30社ほどの買収を検討しましたが、貯金が足りなくていい会社は買えませんでした。いい会社は高い、安い会社は危ない。そんな状況が続いていたとき、ロイと私の共通の友人で、自らも事業家であった人に「リスクをとらなければいつまでたっても自分の事業を始められないじゃないか」と言われて、覚悟がつきました。当時の妻がスタンフォード大学フーバー研究所図書館で働いていて最低限の生活のめどがあったことも助けになりました。

ソレクトロン、爆発的成長を遂げる

Q 1970年代末頃のシリコンバレーに、電子製品の受託生産企業はたくさんありましたか?その主なビジネスは何でしたか?
ソレクトロンが創業した頃、シリコンバレーには数十人規模の小さな下請け会社が300社ほどありました。その多くは、ミニコンピュータメーカーや軍事産業関係の企業から、プリント配線板の生産委託を受けている工場でした。

そのなかで一番大きかったのはFlextronicsでしたが、それでも年間売上高は300万ドルくらいだったはずです。また全米でみればアラバマのSCI——ここは主に軍事向けのビジネスをしていました——が最大でしたが、その年間売上は2500万ドル程度でした。つまり、当時のこの業界には大きな企業がありませんでした。

Q 初期のソレクトロンの経営状況はいかがでしたか?
最初の5年間は、毎日、夜も昼もなくひたすら働き続ける、戦いの日々でした。特に最初の3年は本当に大変でした。毎週金曜に顧客からの小切手が送られてくるので、すぐさま銀行に持ち込んで換金し、次の月曜以降のめどをなんとかたてる。そんな状況が続きました。またロイは日本語ができたので、日本とのつながりを活かして、60回も訪日して顧客獲得に挑みました。

そうするうちに、パソコン産業が立ち上がったのです。ただひたすら生き延びるための奮闘を続けているうちに、気がつくと、1978年から1983年の間に、売上は40万ドルから5000万ドルへと爆発的に成長していました。従業員は、5年の間に30人から2000人に増えていました。それはもうカオスでしたよ!それでも我々はなんとか管理体制を築き、成長をマネージすることに成功しました。パソコン、HDD、続けて通信、さらに携帯端末と、次々に新たな波が押し寄せてきました。

Q 1980年代半ば以降、ソレクトロンは急激な成長を遂げていきます。Chenさんは、この爆発的な成長過程の舵取りをなさいました。何がこの躍進を可能にしたのでしょう。
ソレクトロンの成長の大きな要因となったのは、第一に、パソコンの波が生まれつつあったことです。第二にベンチャーキャピタルの存在も重要でした。私は、友人の創業を手伝った縁で、あるベンチャーキャピタリストと知り合ったのですが、彼は、1983年の時点でソレクトロンが25万ドルの初期投資で5000万ドルの売上をあげているということに大変驚き、翌年までに800万ドルの資金調達をしてくれたのです。

この資金が大きな意味を持ちました。日本と頻繁に行き来をしていたロイは、当時、日本で生まれつつあったSMT(surface mount technology、表面実装)技術の潜在性に着目しました。ソレクトロンは他社に先駆けて、日本からSMT設備を導入したのです。当時は一台20万ドルくらいする大変高価な設備でした。

Q 当時の主な顧客はどこでしたか?
IBMとHPです。特にソレクトロンの成長に大きな意味をもったのが、IBMからのメインフレーム用ディスクドライブの組立の受託でした。これは精巧で複雑な機械装置で、IBMでの組立コストは間接費用をいれて、時間あたり150ドルほどかかっていました。ソレクトロンではこれを時間あたり30ドルで引き受けるという提案をしたのです。当時のソレクトロンは、IBMの外注政策上は小さすぎて受注資格がない会社でしたが、私はIBMにいましたから、IBMスタイルの詳細な提案書を作成することができました。そして、私たちはIBMからの受注をとることができました。これが初期の成長の大きな鍵となりました。

もっとも、IBMのような会社は外注には消極的でした。社員の仕事が減るし、外注なんて品質が悪いに決まっているといった声も常にありました。そういった消極的な姿勢が、傑出した技術力を持っていたIBMの凋落を引き起こしていったのです。

それに対してアップル、サンマイクロ(*2010年にオラクルに吸収合併)、シスコといった新しい会社は、外注に対して格段に積極的でした。例えばサンマイクロは、生産を外注することで資産収益性が改善できること、間接費用の低いソレクトロンに任せたほうが安上がりであり、しかも自社で生産を行うより数段スピーディであることを見抜きました。

その後、IBMからは、PCジュニアというプロジェクトの大量の受注も受けました。ソレクトロンは再び、私のもとでIBM流の企画書をつくり、IBMの基準からすれば企業規模が小さすぎるにもかかわらず、受注を獲得することに成功しました。しかし残念ながらこのPCジュニアは、売れ行きが悪くて、途中でオーダーがキャンセルされました。IBMは、仕掛品や購入済みの部品を含め、キャンセルに伴う補償として2500万ドルを支払ってくれましたが、ソレクトロンはこの受注を見込んで2000人に雇用を拡大していましたから、大変困りました。ほとんど破産しかかりました。我々は、レイオフ等の会社のダウンサイジングを通じてこの苦境をなんとかしのぎました。1986年頃のことでした。

Q ソレクトロンの拡大のペースは極めて速いものでした。組織運営の面からみると、何がこのような急拡大を可能にした鍵だったのでしょうか?
ソレクトロンの組織ポリシーは、IBMとは間逆のものです。IBMでは大多数の従業員が、会社の売上高も収益も知らず、自分の努力が会社にどう貢献しているのかも知らないまま、働いていました。IBM時代、私は1日に14時間働きましたが、それでも同僚よりせいぜい給与が5%ほど高いだけ。なかにはまるで働かない同僚もいる。私はそんな状況が不満でした。

ですので、ソレクトロンでは少数の顧客ごとに部門を分け、各部門への徹底的な分権化を行いました。部門別の収益、コストを明確に把握するためにはリアルタイムの会計システムが不可欠ですが、ちょうどパソコンが勃興し、それが可能になったことが幸運でした。社員はみな「私は同僚より優秀で、同僚より働いているのに適切に評価されていない」という不満を抱くものですが、私は彼らに「さあ、自分の数字を他の部門と比較してごらんなさい」と、部門ごとの収益を見せることができました。

Q 部門ごとの分権化を通じて組織の肥大化のデメリットを避けたのですね。
ソレクトロン時代、私は土日ごとにオフィスに行ったものです。部下に残業させるためではなく、部下たちを家に追い返し、家族と過ごさせるために、です!しかし、彼らは「ここは私の部門なんだから、放っておいてくれ」といって、私の言うことを聞きませんでしたね。部門のトップはみな、小さな独立企業を経営するような気持ちで働いていましたから。

また私は、早い時期からストックオプション制度も積極的に推進しました。ロイ・クスモトはこれには反対で、1985年にソレクトロンを離れました。

Q 経営者として、分権化のほかにどのような点を重視されましたか?
ソレクトロンの成長のもうひとつの鍵となったのが、顧客の側で起きる変化への不断の対応でした。アップル、シスコ、サンマイクロといった会社は、今からみると、素晴らしい優良企業に見えるでしょう?でも、あの頃の彼らは実にめちゃくちゃな企業だったのですよ(笑)。

彼らはとにかく、バグがたくさんあろうと、新しい製品をつくったら市場に出してしまうのです。そして、ユーザーからのフィードバックをもとにすごい勢いで製品を改良していく。多いときには、1週間に10箇所もの設計変更の指示を出してくるのです。

顧客がひとつの設計変更を行うたび、我々サプライヤーの側では、部品の調達、納品、検査といった各ステップで、実に多くの変更が必要になります。しかし、顧客の側も混乱していて、我々への指示をきちんと行わない。なので、我々が最新の情報を知らされないまま、修正前の設計に基づいて生産してしまい、顧客からどなりつけられる、ということが日常茶飯事でした。

この状況に対応するため、ソレクトロンでは、毎朝定時に、各部門の責任者が集まって情報共有を行う仕組みをつくりました。また、毎週、営業部門が顧客のもとに出向き、ソレクトロンのパフォーマンスへの満足度を項目ごとに評価してもらう仕組みをつくり、問題の発見と解決に努めました。

Q Chenさんは、ソレクトロンの成功の鍵に、日本式の品質管理とアメリカ式の機動性の組み合わせをあげていらっしゃいますね。
ソレクトロンの成功の鍵は、日本式の生産工程管理と品質を実現したことにあります。よく知られているように、第二次大戦後の日本企業は、アメリカではほとんど影響力のなかったデミング博士が唱えた統計的プロセス管理を、非常に熱心に学び、取り入れました。ソレクトロンでも同様の統計的プロセス管理を取り入れました。これは良品率に、つまりコストに直結します。また当社はいちはやくSMTを導入しましたが、当時、SMTを使いこなすうえでは、高い精度を出す能力、作業環境に関わる様々なパラメータを統御する能力が必要でした。こういったシステムを構築していくために、博士号取得者を採用して研究にあたらせました。また、私自身のPh.Dとしての背景も役立ちました。あの時期、ソレクトロンほど熱心に品質管理に取り組んだメーカーはなかったでしょう。私たちは日本から多くを学んだのです。

ソレクトロンのもう一つの強みはアメリカ流の機動力です。私たちのビジネスでは、製品も、顧客の顔ぶれも、要求されることも急速に変化します。すでにお話ししたように設計変更も頻繁で、部品がトラックに乗ってこちらに向かっている最中に顧客から変更指示が入る、ということもしょっちゅう起きましたよ!日本企業には、こんなムチャな現場は管理できないでしょうね。

アメリカの優秀な営業担当者は、本当はできないことをできると言ってオーダーをとってくる嘘つきなんですよ(笑)。そして注文をとってきてから、あらゆる部署のお尻をたたいてなんとか不可能を可能にするのです。もちろん失敗することもありますが、そういう時は率直に謝罪する。そして長期的には不可能なことをやり遂げてしまうのです。

この急成長の過程を、私はマーケティングの中心人物として牽引しました。優秀な人々を雇い、部下に任せようとしたのですけれど、市場の変化があまりに急激であったため、結局は私がchief marketing strategist として、会社の発展を引っ張っていくこととなりました。

Q ソレクトロンの最初の海外展開はいつでしたか?
最初の進出先はペナンでした。顧客だったHDDメーカーのシーゲートやコナーからの要請にこたえるために1990年に現地工場を設立しました。その後、中国の蘇州をはじめ、全世界に拠点が広がりました。

Q ソレクトロンの最大時の規模はどのくらいだったのでしょうか。
従業員数では、インターネットバブルの崩壊が起きる直前に、全世界で8万人を雇用していました。この時点で、全世界に50以上の拠点を持っていました。

8万人のうち、2万人が米国での雇用、うち生産ラインの従業員数は1万人ほどでした。アジアへの生産ラインの移転は急速に進んだわけですが、シリコンバレーにはプロトタイプ生産のニーズもありましたし、軍需関連では、数百台から千台程度の生産量のオーダーもありますから、ここでやるべき製造業務は常にあります。その量は限られたものですが。

1978-2003年の間に、ソレクトロンは約50億ドルの税収をアメリカ合衆国にもたらしました。

CEOを退任する

Q Chenさんは1994年にCEOを退任されました。
1994年頃、中国でさらに規模を拡張しよう、という話が持ち上がりました。しかし私はすでに一年の半分を旅し、自分の時間がない状況があまりに長く続いていました。これからはもう少し自分の時間を持ちたいと考え、CEOを退任しました。その後は、招かれてインテル、Megatestの取締役等を務めました。

Q ソレクトロンは1990年代後半にも急成長を続けました。
1990年代後半になると、M&Aがソレクトロンの成長の駆動力となっていきます。しかしその頃には私はCEOから下り、取締役となっていました。そして私は取締役会では少数のM&A推進反対派でした。提案された案件の8割には反対したのではないでしょうか。初期のソレクトロンには年率40%の成長が可能でした。しかし一定の規模を越えたら、もう高成長は望めません。このまま拡張を続けていたらいつか破綻がくる、と私は言い続けていました。しかし、経営陣は、成長を維持し、高株価を維持せねばならないというプレッシャーにさらされ続けていました。

実際、あの時期、欧州、アメリカ、日本の企業は次々と工場売却を進めており、受注と引き替えに工場を買収しないかというオファーはふんだんにありました。ソレクトロンが買わなければ他社が買うだけです。しかしEMSの好況をみて参入も増えており、生産能力は次第に過剰になっていきました。

Q 1990年代半ば以降、台湾の受託生産企業が急成長を開始し、特にノートパソコンでは、クアンタ、コンパル等が受託生産を席巻するようになります。ソレクトロンはアジア勢の興隆をどうみていましたか?
当初、アメリカ企業は委託先として台湾企業をあまり信用していませんでした。顧客から受託した製品を模倣して自社ブランドで売る、ということが起きたからです。しかし、エイサーなどは、自社ブランド事業と受託生産事業を分社化することでこの問題を解決していきました。

クアンタやコンパルの台頭は、ソレクトロンには競争圧力でした。我々はパソコンの開発能力を有していなかったので、パソコンから方向転換し、シスコ等の新たな顧客が成長を遂げつつあったネットワーク分野へとシフトすることで対応しました。我々は常に「次にくる大きな波」が何であるかを探っていました。また新しい顧客のニーズに適応することに力を入れました。それは、ホンハイ等も同様でしょうね。

アジア人としてシリコンバレーに生きる

Q シリコンバレーのアジア人が活発に起業する背景に、大企業における「ガラスの天井」の存在を指摘する人は少なくありません。Chenさんの場合はいかがでしたか?
アメリカは公平な社会で、ここシリコンバレーで、あからさまな差別待遇をされることはありえません。が、私がいた時代のIBMの上層部は、白人の男性によって占められていました。十分な能力があれば一定の昇進はできます。けれども本当の上層部まで昇進できるチャンスは明らかに少ない。そのような状況のなか、華人たちは創業に向かうようになりました。

ただ、華人が興した会社を見ていると、多くの場合、一定の企業規模に達すると成長が止まってしまうのです。一つの要因は、マーケティングの人材を白人に頼る必要があり、そのマネージメントが決して簡単ではないこと。また、数百人規模まではマネージメントできても、それを越えることが容易ではないことが背景だと思います。

他方で、近年のシリコンバレーではインド人のプレゼンスが急速に高まっています。彼らは英語に不自由しないし、東アジア人より性格が積極的です。特にソフトウェア分野ではインド系が躍進していますね。

Q Chenさんはハーバードの大学院での留学生活を支えてくれた奨学金への感謝を、様々なかたちで大学や社会に還元していらっしゃるそうですね。
私はハーバードで学んだ4年間、毎年約4~5000ドルの奨学金をもらいました。生活には十分な額で、車が買え、貯金も少しできました。ハーバードはなぜ私にこうもよくしてくれるのだろう、と感謝もし、不思議にも思いましたが、卒業から20年を経て、母校への多額の寄付を始めた頃から、その理由が分かるようになりましたよ(笑)。

私は過去15年の間に、ソレクトロンの株式売却時に設立した基金から、母校に1500万ドルを寄付しました。現在、ハーバード大学は60億ドル、同大工学部は5億ドルをめざして資金集めを行っているので、私も積極的に動いています。

息子たちが通ったスタンフォード大学では、10年間理事を務め、10口の奨学金を寄付しました。スタンフォードでは、一口30万ドルの寄付金2口がペアにされます。基金の投資収益率が11%くらいですから、私は1年約3万ドルの奨学金を10人分、提供していることになります。過去15年のあいだに200人ほどの大学院生に奨学金を出せた計算です。スタンフォードは有給のスタッフ300人が資金集めに従事し、1年に10億ドルを集めています。

とはいえ、私の時代に渡米した台湾人留学生のうち、奨学金をもらえたのは、工学系を中心に1割程度のことで、残りの学生たちはアルバイトをして生活費を稼ぎながら苦学していました。また、留学生の多くは大学教授やエンジニアの道に進み、中所得者となりました。企業で重要なポジションに昇進したのは5-10%、事業家になったのは全体の3%くらいでしょうか。

Q シリコンバレーには成功したたくさんの台湾人起業家がいらっしゃいますが、Chenさんはその中でもグローバルな大企業を育て上げた方ですね。
今日の私の話を、Winston Chenの成功物語、と受け止めてはほしくないのです。むしろある国が新しい企業を生み出し、その企業が雇用を創出していったプロセスの物語として聞いていただきたいと思います。1990年代以来、アメリカは正しいことも間違えたこともしてきましたが、アメリカでは、国家ではなく経済システムが新たな雇用を創出し続けています。そして、アメリカは今にいたるまで一貫して最も強力な経済大国です。

私自身はシリコンバレーにいる無数の人間のなかの一人です。厳密に言えば、ハイテク業界の人間ですらなく、イノベーションを生み出す人々のサポーターであったと思っています。スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグ。彼らのような人々こそが、アメリカのイノベーションの真の主役です。

私たちは、「無名の英雄」でした。最前線で戦う兵士たち、壁に顔写真が掲げられるヒーロー達のために、黙々と食事を作り続けたコックのような存在です。でも、我々は無名ですが、十分に儲けましたよ(笑)。そういう点で、この社会は公平ですね。

本日は、非常に興味深いお話をありがとうございました。


本稿の内容及び意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。