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シリコンバレーの製薬ベンチャー起業家:Sam Chow(周三郎)氏の歩み

インタビューシリーズ 「シリコンバレーのアジア人企業家」

アジア

新領域研究センター 川上 桃子
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2014年5月
Sam Chow氏
Sam Chow氏

Sam Chow(周三郎)氏は1941年、台北県生まれ。台北医学院卒業後、留学のため渡米、1978年にWayne State Universityで薬学博士号を取得。大手製薬企業を経て1992年に友人らとインディアナ州Elkhartで製薬企業を創業するものの、経営破綻。その後、複数の製薬企業での勤務を経て、2000年に、友人とともに製薬ベンチャーのBioKey社をシリコンバレー(フリーモント)で創業し、現在にいたる。

製薬業は、製品開発から販売までに要する時間の長さと必要資金額の大きさ、政府による規制の厳しさといった特徴ゆえに、新規参入障壁が比較的高いセクターであり、米国でも、産業の主役は東海岸の大手製薬企業である。また、シリコンバレーの他のセクターとは異なり、華人起業家も多くはない。その点で、Chow氏の経験は興味深い。

Chow氏は、二度の創業を経験したアメリカでの40年以上の歩みを「環境から与えられたチャンスに応じているうちに、こうなった」と振り返る。しかし、本インタビューからみてとれるように、Chow氏が、大企業の薬学研究者からシリコンバレーの製薬ベンチャーの経営者へとなるにいたる過程では、Chow氏自身の起業への意欲と、Chow氏と台湾出身の友人たちとのつながりが重要な役割を果たしてきた。これは、シリコンバレーの半導体、ネットワーク、ウェブ技術関係で起業するアジア人エンジニアたちの経験と重なる。

本インタビューは2014年3月5日にフリーモントのBioKey社で行った。

Q まず、渡米するまでの経緯をお聞かせください。

私は、1941年に台北の郊外・南港の貧しい農家の三男に生まれました。家は小高い山の上にあり、小学校までは片道2時間を歩いて通学せねばなりませんでした。中学には姉の家から通いました。恵まれない経済環境であった分、勉強に打ち込みました。

大学は台北医学院に進学し、薬学を専攻しました。卒業後、1年間の軍隊での任務を終え、母校で助手を務めたあと、奨学金つきで、デトロイトにあるWayne State Universityの博士過程に進学し、1978年に博士号を取得しました。主専攻は薬学、副専攻は物理化学(physical chemistry)と生物物理学(biophysics)です。

Q 最初の就職先はどちらですか?

最初に勤めたのは、ニューヨークにあるレダリー研究所(Lederle Laboratories)でした。テトラサイクリン系抗生物質等で知られた研究所です。私はここで製剤研究者(formulation scientist)として5年間働き、仕事の内容も、製剤開発の準備的分析を行うpreformulationの担当から製剤開発(formulation development)担当へとレベルアップしました。レダリー研究所は福利厚生が充実しており、私は会社の負担でIona大学でMBAを取得しました。

1984年には、ヘッドハンティングを受けて、ニューヨーク州ロチェスターのPennwalt Pharmaceuticalに転職し、探索的研究を行うグループのリーダーを務めました。ここでは、イオン交換メカニズムを利用した液状持続放出(liquid sustain release)の研究を行い、多数の特許を取得しました。1988年にPennwaltはFisonsという大手製薬会社に買収されましたが、私はFisonsでパイロット生産および量産担当のマネージャーに抜擢されました。

最初の創業
Q Chowさんの最初の創業は残念な結果に終わったと聞いています。その経緯をお聞かせください。

Fisonsのマネージャーになって10年ほど経った頃、友人の誘いに応じて創業に参加することになりました。ある町で閉鎖された製薬工場が売りに出されているとの情報を得た友人から、ここを買収して会社を興そうという誘いを受けたのです。私は、薬学研究者としての入門的な仕事から始めてマネージャーにまで昇格し、一通りの経験を積んでいました。それを活かせる機会でもあり、挑戦しない理由はないと思いました。こうして創業に参加したのが、インディアナ州で1992年に設立したApex Pharmaceuticalです。

創業者チームは私を含めて5人でした。私を創業に誘ったのは、老舗製薬会社のバイエル(Bayer Pharmaceutical)に勤務していた友人で、彼がCEOとなり、私が最高科学責任者(Chief Scientific Officer)を務めました。私たち2人が創業の中心メンバーでした。その他、マネジメントチームとして、Fisonsからの参加者が一名、フィルムメーカーのコダックを辞めて創業に加わった人が一名いました。この4人が台湾出身者で、もう一人、白人のアメリカ人がマーケティングとセールス担当者として加わりました。

Apexでは、色素・アルコール・糖を使わない天然志向の薬品開発に狙いを定めました。アルコールや糖は、健康上、使わないに越したことはないもので、特に病気を持つ人は少しでも摂取量を減らした方が良いものです。私たちはこの点を強調するため、clear choiceというブランドを立ち上げました。

しかし、この会社は、事業自体はうまくいったのに、失敗に終わりました。原因は、成長速度が早すぎたこと、そして、出資を約束した米国人のエンジェル投資家が資金を振り込むべき段階になっても振り込みを実行せず、自己破産を宣告したことでした。我々は、その投資家を信じて、資産査定も行っていなかったのです。そして、その投資家が自己破産をした時にはすでに、大型の生産ライン拡張を実行した後でした。こうしてApexは破綻しました。1995年のことでした。

二度目の創業へ
Q それは残念なことでした。Apexが破綻した後はどうなさったのですか?

フロリダにあるAndrxという上場・製薬メーカーでVPを2年務めました。その後、友人の誘いに応じて、カリフォルニア州アーバインのStason社に転じ、1999年まで務めました。この時に、ここサンフランシスコ・ベイアリアに引っ越してきました。

その後、私を呼んでくれた友人が会社再編のなかで職を去ることになったので、私もこの会社を去ることにしました。次に、台湾からサンフランシスコに進出してきた会社のコンサルタントを務めましたが、この会社も途中で戦略が変わり、私としてはそのまま留まる理由もなくなりました。そんな時に、台湾人の友人のジョージ・リーと一緒にBioKeyを創業することを決意したのです。ちょうどドットコムバブル崩壊前で、シリコンバレーが資金的に非常に余裕のある時期だったことも後押しになりました。

会社設立の登記をしたのは2000年。自分たちでの出資に加えて友人や親戚がエンジェル投資家となってくれて350万ドルを集め、スタートしました。その後、ベンチャーキャピタルからの出資も得ました。

Q 大会社での「ガラスの天井」がアジア人の起業を促すと聞きますが、Chowさんの二回の創業の動機は何でしたか?

私自身は、大企業勤務時にも、「ガラスの天井」は体験しないで済んだと思っています。

創業の試みに加わろうと決意したのは、自己実現の願望からでした。二回目の創業については、関わっていた会社が方向転換してしまった、というやむをえない事情と、自己実現の気持ちの両方が働きました。資金調達ができる環境があったので、創業に踏み切りました。

Q BioKeyの事業モデルはどのようなものですか。製薬ベンチャーの難しさはどこにありますか?

当社のラインナップですが、米国食品医薬局(Food and Drug Administration、FDA)を通過した製品が4つあります。高血圧、コレステロール、静脈瘤、てんかんの治療薬です。

当社は営業部門を持たずにやっており、他の製薬会社へのライセンスを行っています。2006年に現在の敷地に移転してからは生産設備も持つようになりました。現在のビジネスモデルの柱は以下の二つです。第一に、技術(プラットフォームテクノロジー)を開発してライセンスするという事業です。第二に、2年前から始めた製品開発の請負です。ベイエリアには、アイディアと資金だけを持ち、開発設備を持たないバーチャルな製薬企業がたくさんありますので、その需要に応じるものです。

製薬企業は非常にお金がかかります。開発・生産用設備も高価ですが、臨床試験を一度やるのに50万ドルはかかります。しかも、製品開発から販売開始までに長い時間を要します。ですので、製薬業での製品開発段階では、カネが出て行く一方です。この点、開発請負は、段階ごとに支払いを受けられるので、資金繰りの面でも大きなメリットがあります。

シリコンバレーの複数の産業クラスター、東アジアとのリンケージ
Q シリコンバレーは、エレクトロニクス産業、ウェブ系スタートアップで知られています。メディカル関連企業も多いようですね。製薬業におけるこの地の位置づけはどうでしょうか?

メディカルデバイスはシリコンバレー、バイオテク関連は南サンフランシスコとサンディエゴが強いですね。これに対して、製薬業は東海岸の老舗大企業が中心で、西海岸は少ないです。

シリコンバレーにメディカルデバイスが多い理由は、その産業特性が関係していると思います。メディカルデバイスの場合、「問題を見つけて解決策を商品化する」ことが鍵ですから、様々な着想がビジネスチャンスにつながります。ビジネスチャンスが多く、製薬業に比べれば規制も厳しくはなく、投資額も少なくて済みます。また、バイオテク産業では、コンピューティング能力の飛躍的な拡大が、新たな発展をもたらしています。

これに対して製薬業界では、人々の健康や人権への意識の高まりを受けて、政府による規制はむしろ、以前より確実に厳しくなってきています。臨床試験のフェーズ1-3をやり遂げるには、時間も資金もかかります。中小企業には難しいことが多いです。

Q BioKeyのような製薬企業にとってシリコンバレーに立地することのメリットとは何でしょうか?

資金調達の利便性と、技術情報の豊富さでしょうね。ニッチ型の製品で、しかも参入障壁が高い製品を見極めること、そのような薬物候補の選定が重要だと考えています。

また当社は、台湾、日本、中国、東南アジアの製薬企業が米国市場に進出する際の飛び石の役割を果たしたいと思っています。東アジアの製薬企業が米国進出するとなると、市場サーベイ、医薬品規制についての知識、ソフト・ハードの一からの立ち上げが必要になるわけですが、当社のような在米企業と組めばそれは不要です。すでに台湾企業とはそのような提携をしています。台湾の製薬業界は、国内市場の規模の小ささに制約されており、競争も激しいです。私は台湾で講演する機会がある時には、ぜひ米国の巨大市場に目を向けるように台湾企業に呼びかけています。

Q 東アジア企業が米国市場に参入する際の「飛び石」としての役割を果たしたいという考えは、創業時からありましたか?

ええ、台湾出身者としてそういう使命感はずっと持ってきました。自分の国、故郷にフィードバックをしたいと思っています。

Q 製薬業界でのアジア人のプレゼンスはどうでしょうか?アジア人起業家は多いのでしょうか?

製薬業界で創業して成功している華人は数えるほどしかいません。必要な投資金額が大きく、研究開発から発売までのサイクルが長いため、起業のバリアが高いことが原因でしょう。全体に、起業家は白人が多いですね。

ただ、台湾からの留学生は減っているようですが、製薬業界のインド人、中国人の数は着実に増えており、順調に昇進している人も増えています。彼らの創業の準備は整っていると言えるかもしれません。

渡米からの歩みを振り返って
Q Chowさんの学生時代には、医学・薬学系でも、米国留学は盛んだったのでしょうか?同級生のうち、渡米した人の割合はどのくらいでしたか?

盛んでしたね。正確な数字は分かりませんが、感覚的には、3-4割くらいだったでしょうか。

Q Chowさんは、留学のために渡米した時からアメリカに残りたいと考えていらっしゃったのですか?

いいえ!学位をとったら台湾に帰国して、故郷に貢献するつもりでした。アメリカで創業したいなどと考えていたわけではなかったです。私の歩みは、自分で計画してこうなったわけではありません。その時々の環境から与えられたチャンスに応じているうちに、こういう道のりを歩いて来ることになった。振り返るとそう思います。

大企業中心の製薬業界、しかも異国の地であるアメリカで、Chowさんの二度の創業のご経験は、興味深かったです。本日はありがとうございました。


本稿の内容及び意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。