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連続起業家からエンジェル投資家へ Chun P. Chiu(邱俊邦)氏のシリコンバレー40年

インタビューシリーズ 「シリコンバレーのアジア人企業家」

アジア

新領域研究センター 川上 桃子
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2014年1月
Chun P. Chiu(邱俊邦)氏
Chun P. Chiu(邱俊邦)氏

【Chiu氏の経歴にみるシリコンバレーの3つの特質】
サンフランシスコ湾岸エリアの南に位置する「シリコンバレー」と呼ばれる地域は、世界のハイテク・イノベーションの中心地である。ここでは、過去半世紀のあいだに、半導体、コンピュータ、インターネット、ソーシャルメディア、バイオテクノロジーといった新産業が次々と立ち上がり、膨大な数のスタートアップ企業が生まれてきた。

イノベーションの揺りかごとしてのシリコンバレーには、以下のような特徴がある。第1に、移民起業家および移民エンジニアの多さである。Wadhwa et.al[2008]による大規模調査によれば、1995-2005年の間に創業されたシリコンバレーのスタートアップ企業の52%が、移民によって設立された企業だった1 。アメリカのイノベーションの中心的な担い手は、アジア出身者を中心とする移民エンジニアなのである。第2に、一人の起業家が立て続けにいくつものベンチャー企業を創業する「連続起業」現象の広がりである2 。シリコンバレーの起業家のなかには、創業した会社が上場したり高値で買収されたりして、企業価値が実現されると、新たな創業に挑む者が少なくない。はじめの創業の過程で得た知識・人脈・アイディアが、さらなる創業を誘発し加速するのである。第3に、ベンチャーキャピタル、エンジェル投資家といった資金提供者の中核的な役割である。シリコンバレーのベンチャーキャピタルやエンジェル投資家は、単なる資金の供給者にとどまらず、スタートアップ企業に経営知識を供給したり、経験の浅い起業家をこの地の人間関係のなかに導き入れたりして、優れた投資先企業の成長を後押しする(Ferray and Granovetter [2009])。

今回インタビューを行ったChun P. Chiu(邱俊邦)氏のシリコンバレーでの40年の活躍には、上でみた3つの特徴がいずれも明確に見て取れる。台湾生まれのChiu氏は、渡米後、友人が創業した企業への参加、HP等での勤務を経て、半導体企業を2度連続して創業した。2社それぞれをNASDAQ上場に導く成功をおさめた後は、私財を投じてハイテク・スタートアップの創業を支援する「エンジェル投資家」に転じて、活躍している。氏がインタビュー中で述べるNetScreen Technologyの支援の事例からは、エンジェル投資家が、若きエンジニア起業家を、実績のある経営者(シスコ元副社長)、著名ベンチャーキャピタル(セコイア・キャピタル)と結びつけるという重要な役割を果たしたことが分かる。氏の人脈が、日本企業(兼松、ヤマハ、セイコー)との提携、インド人との共同創業、上海出身の若者たちの創業支援というように、国境と世代を 、国境と世代を超えた広がりをもっている点も興味深い。

シリコンバレーの活力の源は、人々が持つアイディア・技術・人的つながり・資金が、国境や世代の垣根を越えて引き寄せられ、組み合わされ、新しい事業へと結実するプロセスにある。連続起業家からエンジェル投資家へと転じたChiu氏の40年の道のりからは、このダイナミズムが明瞭にみてとれる。

【Chun P. Chiu氏インタビュー記録】
日時:2013年12月4日、場所:Santa Clara、 Innobridge社にて。
聞き手:川上桃子


最初の創業まで
【問】Chiuさんは40年にわたって、起業家、投資家としてシリコンバレーの発展とともに歩んでこられました。まず、渡米されるまでのご経歴をお聞かせください。

私は、1941年に、台湾・台中で生まれました。台湾で高校を終えたのち、早稲田大学理工学部に進み、電力システムを学びました。修士課程在籍時には、電力中央技術研究所との共同研究に関わり、コンピュータを用いた送電シミュレーションの研究をしました。

渡米したのは1967年のことです。オレゴン州立大学の修士課程に留学し、主専攻にネットワーク研究、副専攻に半導体工学を選びました。これが、私が半導体の道へと進むきっかけになりました。当時のオレゴン州立大学は、スタンフォードと並ぶ半導体研究の重要な拠点で、校内にクリーンルームからパッケージングラインまでを擁し、非常に実際的な工学教育を行っていました。

修士課程修了後に就職したのは、ロサンゼルスの3Mでした。当時はベトナム戦争の最中で、私はここで軍事用のカセットテープレコーダの音声デジタル化に関わる仕事をしました。しかし戦争終結とともに軍事予算が削減されたため、転職し、クレジットカードの認証システムの開発に従事しました。

1971年に、オレゴン州立大学時代の台湾人の同級生がTIから独立し、米国人を社長に迎えて創業することになり、誘われてシリコンバレーへとやってきたのです。このあたり(Santa Clara、 Stender Way周辺)は、今でこそシリコンバレーの中心ですが、あの頃はまだ一面の畑でしたよ。

【問】Chiuさんがシリコンバレーに来るきっかけとなった電卓用LSIのCaltex社はどのような企業でしたか?

私の台湾人同級生たちが創業したCaltex Semiconductorの目標は、彼らがTIでやろうとして実現できなかった電卓用の高性能ワンチップICの開発でした。そのチップ開発は、日本の大手電卓メーカー・栄光ビジネスマシンの電卓向けでした。Caltexの資金も、栄光ビジネスマシンが提供していました。

Caltexでは、栄光から派遣されてきた4人の日本人エンジニアがロジック設計を、私たちがその半導体チップへの落とし込みを行うという分業体制をとりました。急ピッチで開発を進め、1971年に、世界最初の四則計算・メモリ機能対応の電卓用シングルチップの開発に成功しました。当時、電卓用チップのメーカーはたくさんありましたが、私たちはシングルチップの開発で他社に先行することに成功したのです。

【問】Caltex社はチップの開発から生産までを自社内で行っていたのですか?

はい。当時のシリコンバレーの企業は、どこも、開発から生産まで自社で行う垂直統合方式でした。しかし1970年代の初めにはすでに、生産量の変動への対応、ファブの稼働率維持のため、メーカー間で生産を委託しあう慣行が広がっていました。これが、後のファウンドリーの成立へとつながっていきました。

【問】CaltexからAMIを経て、HPへと転職された理由は何ですか?

私がCaltexでは働いたのは2年にも満たない短い時間でした。多性能の電卓用ワンチップの開発に成功したことで、Caltexには多数の引き合いが来たのですが、栄光ビジネスマシンは「このチップは栄光の製品向けに開発したのだから、他社に売ってはいけない」という方針を採ったのです。Caltexは、台湾人技術者らが米国人の経営者をトップに招いて始めた会社でしたが、米国人の社長は栄光側のこの方針に強く反発しました。これに対して、台湾人エンジニアたちは栄光との協力関係を保つことにしたため、経営側とは袂を分かち、ロサンゼルスに移って新しい会社を始めることになりました。私はどちらにも参加せず、当時、ASICの分野で主導的な地位にある企業であったAMI(American Microsystems)に入社することを選びました。AMIでは、時計向けチップ、次いでEPROMの開発プロジェクトのリーダーを務めました。

1976年にはHPに転職し、PC向けチップセットの開発に従事しました。当時の半導体メーカーというのは、どこも業績がとても不安定で、AMIでも大規模なレイオフが行われ、私たちはとても不安な思いをしました。ですから、安心して働ける会社で働きたいと思ったのです。幸運にも、人気が高く、入社の大変難しい会社であったHPに転職できたのですが、当時のHPは、従業員とその家族を大切にし、優れた人材マネジメント策をもつ素晴らしい会社でした。HP社からは、シリコンバレーの重要な起業家が多数育っています。半導体企業ではFairchild、システム関連企業ではHPが、人材の供給源になりました。

【問】HPを辞めて、1980年にIDTを創業されたのはなぜですか?

5年ほど働くうちに、HPはあまりにも居心地がよくて、挑戦する機会が限られていると感じるようになりました。そんな時に、日立が開発したSRAMに触れて、刺激を受けたのです。これはいいチップだけれど、私たちはこれをさらに改良して、低電力・高速の優れたCMOSのSRAMを作れる。そう思いました。しかし、HPの社内で開発プロジェクトを提案したのですが、通りませんでした。まぁ、HPは半導体メーカーではありませんから、仕方なかったですね。

そこでHPの同僚だった私たち3人の台湾人と、インド人の同僚の4人で、独立創業することにしました。今ほどではないけれども、当時すでに、独立創業というのはよくある普通のことになっていました。

【問】HPで働いていた4人の移民エンジニアは、どのようにして半導体メーカーを創業したのですか?出資者と事業モデルについて教えて下さい。

出資者探しの過程では、京セラとも交渉したのですが、結局、ベイアリアの非常に有名な不動産ディベロッパーであるCarl Bergが主な出資者になりました。ちなみにCarl BergはSun Microsystemsへの出資やアップルの社屋の大家としてもよく知られています。あの当時、Carl Bergはフロッピーディスクドライブのメーカーにも投資していたのですが、彼は、その会社が直面していたパフォーマンスの向上と省電力化という技術課題の解決に、当社が開発予定のC-MOS技術が役立つかもしれないと考え、当社への出資を決めたのです。

最初の1年、我々は、技術開発を進めつつ、他社の工場を借りて生産を行いました。製品はSRAMです。我々3人の台湾人創業者は、私が設計、他の2人がそれぞれデバイスとプロセス技術の専門で、かつお互いの担当分野についての知識もあり、良い組み合わせでした。こうして我々は高品質のSRAMの開発に成功しました。後に自社工場も建設しましたが、この時、ディベロッパーでもあるCarl Bergは自ら当社の工場を建て、これを出資分にあてました。ですから、随分儲けたはずですよ(笑)。

当社が開発に成功したSRAMの主な販路はアメリカの軍事産業向けでした。ミサイル、軍用コンピュータ向けです。軍需向け市場では品質がよければ、高い価格で売れましたから、自社工場生産のコストの高さも十分に吸収できました。

IDTは、事業拡大のための資金調達を目的に、1984年にNASDAQに上場しました。

【問】シリコンバレーの半導体産業の発展の中心が軍需から民需に転換したのはいつ頃でしたか?

1987年くらいからのことだったのではないでしょうか。IDTでは、1985年頃からPC向けSRAMの生産への参入を考え始めました。実はこの前後、当社は台湾との提携を模索したのです。

1980年に、台湾では、政府の主導下で設立された工業技術研究院のパイロットプラントが企業化され、半導体メーカーのUMC(聯華電子)が成立しました。IDTは1983~84年頃に、このUMCへのSRAMの生産委託を試みたのです。しかし、当社から半年にわたってエンジニアを派遣し、UMCの技術者のトレーニングをしたのですが、当社のエンジニアが米国に引き上げてきたら、立ちゆかなくなってしまいました。けれども、同社総経理の曹興誠氏は、「SRAMは我々には技術的に難しすぎる」といい、当時のターゲットだったメロディチップICのような、低コスト・量産型の製品に力を入れる、という方針を採りました。彼らがSRAM向けにR&D資源を振り向けようとしない以上、我々も生産委託を断念せざるをえませんでした。

【問】生産技術レベルがまだ低かった台湾UMCに技術移転をしてでも生産委託をしようと考えたのは、なぜですか。

台湾の半導体産業のレベルを引き上げたいと考えたからです。また、アメリカで工場を建設するのに比べてUMCのコストが低いことも魅力でした。我々は、ライセンス料は不要だ、生産委託を受けてくれればいい、という考えでしたが、話はまとまりませんでした。

【問】その後、PC産業が立ち上がったことで半導体産業の競争パターンは大きく変化しましたね。

PC産業が成長を始めたことで、急速に生産のボリュームとコストが重要になっていきました。ここから、ファウンドリーが必要になっていきました。

二度目の創業
【問】IDTは1984年にNASDAQに上場しましたが、Chiuさんはそれからほどなく、1988年に新たにQSIを創業なさいました。第2の創業に挑んだ経緯を教えてください。

1984年に上場すると、IDTをともに創業した仲間は、当社を去って次の創業へと向かいました。これは、シリコンバレーの会社ではよく起きる現象です。株式公開を達成すると、創業時のメンバーや投資家のインセンティブは下がります。投資家は、優先株が普通株に転換されるためうまみを失いますし、ストックオプションも価格が高くなってしまっています。創業者たちも、IPOによって創業者利益を手にいれ、所有比率も低下するので、どうしてもインセンティブは下がるのです。

他の共同創業者たちとは違い、私はIDTの上場後もしばらく社内に残りました。1986年にはDSPの開発を出がけましたが、その後、マーケティングや経営といった未経験の方向に挑みました。IDT製品の日本市場への売り込みと日本での現地法人設立も手がけました。当時の日本は、世界で最も参入の難しい市場でした。IDTのSRAM事業での日本市場参入は、戦闘機向け部品の三菱重工への納入から始まり、富士通にはメインフレームコンピュータ向けでの売り込みをしました。アメリカの軍事産業向けより厳しい要求を受けましたが、おかげでIDTの実力も上がりました。

マーケティング、販売といった新しい領域での経験蓄積は、私の2回目の創業に非常に役立ちました。私は1988年にIDTを退職し、半年ほどおいたのち、1989年に IDTの同僚だったインド人のパートナーとともにQSIの創業に踏み切りました。

【問】QSIはファブレスですね。創業の過程と事業モデルについて教えてください。

 インド人のパートナーがプロセス技術を、私が経営全般をみるというかたちで創業しました。私は、IDT時代に日本の総合商社・兼松と深い付き合いができていたのですが、二度目の創業にあたっては、兼松セミコンダクターの力添えにより、セイコーおよびヤマハとの事業提携が実現しました。兼松セミコンダクターの新屋正治社長、新屋社長にご紹介いただいたセイコー電子・半導体本部の海老原さん、ヤマハの電子本部長だった石村さん(肩書きはいずれも当時)——ちなみに海老原さんと石村さんは私の早稲田大学での先輩にあたる方々でもありました——には大変感謝しています。

事業モデルですが、QSIがセイコーに技術をライセンスし、生産はセイコーの日本工場で行う、というかたちをとりました。また、マイルストーンを定めてそれを達成するたびにセイコーが当社への支払いを行う、という取り決めをしました。ヤマハもほぼ同様の条件で提携が成立しました。当社がセイコー、ヤマハの工場に人を派遣して先方のエンジニアと一緒に技術開発を行い、先方の工場で生産を行う、というものです。

実はこの頃、TSMCとの提携話もあったのです。しかし、あの当時のTSMCは技術者のリソースもまるで足りなくて、話がまとまりませんでした。後から考えると彼らの株式を取得するいいチャンスだったのに、もったいないことをしましたよ(笑)。

【問】それは本当に惜しかったですね。しかし、TSMCがこれほど急速に成長するとは誰も予想していなかったということでしょうか。

そうなのです。その後、数年してからまたTSMCとコンタクトがあった際に、彼らのレベルが格段に上がっていて驚きました。1990年代初頭にアメリカのエレクトロニクス業界は不況に陥ったのですが、その時にインテル、AMD、HPといったシリコンバレーの一流企業にいた台湾人が随分帰国してTSMCに入ったのです。それで見違えるようにレベルが上がりましたね。

ピュアファウンドリであるTSMCが成立したことで、シリコンバレーのファブレスが安心して事業を行える環境が整いました。1992年くらいからファブレスが増え始めたと記憶しています。

【問】SRAMファブレスとしてのQSIの事業環境はどのようなものでしたか?

半導体産業では、1992年頃からPC市場向けの需要が本格的に立ち上がりましたが、残念ながら、日本の工場はthroughputが低く、価格が高くなってしまうという問題がありました。そのため、PC市場の成長の波に乗ることはできませんでした。

価格競争が激化するなかで、我が社も方向転換の必要に迫られるようになり、specialty SRAMに注力しました。他社に先駆けてネットワークチップの開発に取り組み、成功したほか、当社にとって非常に幸運だったことに、当初は市場化のめどがあまりたっていなかったquick switchという開発技術がインテルのCPUの電圧転換に採用され、非常に大きな収益をもたらしてくれました。これはまさに天佑でしたね。QSIの主な顧客はCisco、Sun Microsystemsといったシリコンバレー企業でした。また、生産面では、オーストラリアのファブの買収も行いました。

QSIは1994年にNASDAQへの上場を果たしました。1998年にアメリカの半導体産業が深刻な不況に見舞われた頃から、私はQSIの株主にとって最良の選択について考えるようになり、IDTと、QSIの合併に向けての協議を始めました。1999年に両社は合併しましたが、これはQSIの株主に大きな利益をもたらしました。ほどなくして私は、エンジェル投資家としての活動を開始しました。

エンジェル投資家への転身
【問】個人の資金でスタートアップ企業への投資を行う「エンジェル投資家」という存在は、シリコンバレーではいつ頃から現われたのでしょうか?その役割は何でしょうか?

エンジェル投資家の多くは、自分で起業して成功し、IPOや事業売却で財を成した人で、年齢は高いけれどもまだ高齢過ぎるというほどでもない、といった人たちが中心です。運用資金は個人の資産です。

エンジェル投資家のような人々は、シリコンバレーには、昔からいました。でも現在のように目につく存在になってきたのは1990年代半ばくらいからでしょうね。

エンジェル投資家のことを、「小額の投資者」のことだと思っている人が多いのですが、それは正しい理解ではありません。エンジェル投資家のポイントは「エンジェル」の部分にあります。エンジェル投資家は、それまでのキャリアのなかで築いたコンタクト、コネクションをフルに活用し、これぞと見込んだ起業家の成功を手助けします。取締役として経営にもコミットします。この「支援」の部分こそがエンジェル投資家のポイントです。

特に、スタートアップ企業とベンチャーキャピタル(VC)とを結びつけるうえで、エンジェル投資家は重要な役割を果たします。スタートアップ企業は、小さく手間もかかる存在なので、起業直後にはVCに相手にしてもらえません。他方、エンジェル投資家の多くは、起業家として会社を上場に導くなど、実績があり、名前も知られています。エンジェル投資家が仲介することで、スタートアップ企業にVCからの資金を導入することが可能になるのです。

【問】エンジェル投資家として活躍するには、起業家としての経験が重要なのですね。VCとエンジェル投資家の関係は補完的ですか?そうであるなら、どのように協力しあうのですか?

エンジェル投資家とVCは補完的な関係です。例えば、VCはしばしばスタートアップ企業に外からCEOを連れてくるので、創業者チームとの間にあつれきが生じるのですが、そんな時に、エンジェル投資家は両者の調整をします。スタートアップ企業が順調に成長し、VCが経営に関与する局面になれば、エンジェル投資家は創業者たちのメンター、助言者としての立場に退きます。

エンジェル投資家の1案件あたりの平均的な出資額は5万ドル程度です。数人のエンジェル投資家が集まっても、せいぜい50万~100万ドルしか集まりません。これはスタートアップ企業の約6-9ヶ月間の活動がファイナンスできるかどうかといったところですから、この間に出資してくれるVCを探さねばなりません。ちなみに今、私たちがいるこのInnobridge(注:インタビュー会場)は、VCとエンジェルの橋渡しを目的として設立された組織です。

シリコンバレーの台湾人エンジェルのなかには、ベンチャーキャピタリストになる人も多いです。私は他人のお金を運用するのはプレッシャーが大きすぎるので、エンジェル投資家の道を選んでいます。自分のお金であれば、投資に失敗しても諦めがつきますから。

【問】Chiuさんが投資案件を選ぶ際の基準を教えてください。

私はこれまで60ほどの案件に投資してきました。一番重視するのは、起業家のintegrityです。その人のビジネスへの姿勢の本質や、チームで仕事をしていける人柄かどうかを慎重に見極めます。残念ながら、人の見極めに失敗したこともありますよ(笑)。

これまでの投資活動のなかで、最も成功した案件は、ネットワークセキュリティ技術の NetScreen Technologyへの投資です。この会社の創業者たちは、中国・清華大学出身の3人の中国人で、みな米国の大学院に留学し、卒業後、Ciscoで10年ほど働いた経験がありました。彼らのほうから出資の打診があり、私の日本留学時代の友人で東大で工学博士号をとった上海出身の周順圭さん、Ciscoを退職したのち、エンジェル投資家となった台湾人の翁嘉盛さん、私の3人が中心になって立ち上げを支援しました。私たち3人が出資したのは1997年末のことです。私たちがお願いして、Ciscoで担当の副社長を務めたFrank Marshall氏に取締役会に入ってもらったことも、会社の成長にとって大変大きかったです。

2000年には私が交渉の中心に立って、シリコンバレーを代表する著名ベンチャーキャピタル Sequoia Capitalからの出資を得ることにも成功しました。その後、Net Screenは2001年に12億ドルでNASDAQに上場し、2004年にはJuniper Networksに43億ドルで買収されました。

【問】Chiuさんたちエンジェル投資家が、名声のある経営者の取締役会参加、著名ベンチャーキャピタルからの出資取り付けを通じて、中国人起業家たちの創業を全面的に支援したわけですね。実にシリコンバレーらしい逸話です。東アジア出身者の起業は今でも活発でしょうか?

最近のシリコンバレーでは、台湾人の起業は減ってきています。台湾内でTSMCのような魅力的な就職先が増えて、理工系学生の米国留学への意欲も以前ほど高くありません。他方、中国人の起業は着実に増えていますね。

【問】なぜシリコンバレーにはこんなに多くのエンジェル投資家がいるのでしょうか?台湾はシリコンバレーから大きな影響を受けていますが、台湾のエンジェル投資家の現状はどうですか?

確かに、台湾ではエンジェル投資家は少ないですね。台湾では創業者は、会社を自分の子どものように思って、経営権を手放したがりませんが、シリコンバレーでは違います。ここでは、創業して成功すると外部から経営者を招き入れて経営の第一線を退く、という慣行があるので、創業を経験した人たちがエンジェル投資家となっていくのです。

他方、台湾では創業者は経営者であり続けるか、完全にビジネスの世界から引退するかのどちらかになります。後者は後者で、もったいないと感じます。その人の持つ経験や価値をエンジェル投資家として活かせればいいのでしょうが、台湾ではその環境が整っていないのかもしれません。

もっとも、世界中に、シリコンバレーのようなところは二つとないでしょう。ここは本当にユニークな場所なのです。

【問】お話をうかがい、シリコンバレーのイノベーションを支える仕組みがどのように発展してきたのか、よく分かりました。本日はありがとうございました。

《参考文献》
田路則子[2009]「シリコンバレーのシリアル・エントレプレナー——半導体スタートアップのレポート」『赤門マネジメント・レビュー』8巻8号,493-506。
Ferrary, Michael and Mark Granovetter[2009], The role of venture capital firms in Silicon Valley's complex innovation network, Economy and Society, 38(2), 326-359.
Wadhwa Vivek, AnnaLee Saxenian, Ben Rissing and Gary Gereffi[2008], Skilled Immigration and Economic Growth, Applied Research and Economic Development, 5(1), 6-14.

脚 注
    1. 全米レベルのデータでみた移民起業家の国別内訳をみると、インド(1位、26%)、中国(3位、7%)、台湾(4位、6%)である(Wadha et a.[2008]、p.8)。
    2. シリコンバレーの連続起業者(serial entrepreneurs)については、田路[2009]を参照。


本稿の内容及び意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。