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タイの政治混乱—その歴史的位置—

アジア

地域研究センター 重冨 真一
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2010年5月
ここ数年、タイの政治は混乱を極めている。2008年11月には、黄色の服を着た集団が、バンコク国際空港を占拠し、翌2009年4月は、赤シャツの集団がASEANサミットの会場になだれ込み、会合を中止に追い込んだ。2010年3月からは、赤シャツの集団が政府に国会解散を求めてバンコクの繁華街を2ヶ月あまり占拠し、最後は軍によって制圧されて、多数の死者や怪我人が出た。

以前のタイは、クーデタがあっても政治体制は変わらず、在タイ日本人ビジネスマンが、「自民党内の派閥争いのようなもの」と形容するほどであった。そうした政治の安定性が、海外から、とりわけ日本からの投資を引きつけてきた面が、確かにある。そのタイが「どうなってしまったの?」と、タイをよく知る人ほど思うに違いない。

タイのこうした「今」、を考えるには、「今」をいくら見ていてもだめである。これまでタイがどのような政治の歩みをしてきたのかを知らなければ、「今」と「これから」を考えることはできない。そのような視点から「今」のタイ情勢を見るならば、それがタイの民主主義発展の一段階にあるということが見えてくる。今の「混迷」は、タイの政治がさらに一歩前に進み出るための「産みの苦しみ」なのだ。

対立の構図と展開

現在の政治対立は、タクシン(元首相支持)派と反タクシン派の対立であるとされる(表1)。タクシン派は反独裁民主主義統一戦線(UDD)という運動体が中心となり、シンボルカラーは赤である。議会内ではタイ貢献党(プアタイ党)という野党(議席数では最大)がある。一方の反タクシン派は、民主主義人民連合(PAD)という運動体が中心となり、黄色をシンボルカラーとしている。議会内では、与党の民主党とその連立政権を支持している。
この2派の対立軸となっているタクシンは、2001年に首相就任し、タイ政治の中心に躍り出た。任期満了後の2005年総選挙でも大勝したが、2006年に入ると反タクシンの運動が拡大したため、タクシンは国民の信を問うとして解散、総選挙に打って出た。ところが主要野党は選挙をボイコットし、裁判所が選挙に無効の決定を下して政治が宙に浮く。そうした中、9月に軍部がクーデタを挙行して、タクシン政権は崩壊したのである。クーデタ政権は1997年憲法に代えて2007年憲法を制定・公布し、同時にタクシンの罪状を暴こうとした。しかし1年余り後に選挙をしてみると、またもやタクシン派の政党(人民の力党)が勝って政権に就いた。PADは再び街頭に繰り出し、空港が封鎖される中、憲法裁判所は人民の力党の解党判決を出した。人民の力党はタイ貢献党と名前を変え政権継続を図ったが、組閣工作の最中にタクシン派の一部が反タクシン側に寝返ったため、現在の民主党アピシット政権が生まれた。この多数派工作には、軍のてこ入れがあったとされる。タクシン派にすれば、この政権交代は軍の圧力によってなされたものであり、容認できるものではない。そこで今度はUDDが街頭に出た。

階層差だけでは説明できない

タクシン派と反タクシン派は、それぞれ支持層の違いを反映したものだ、と日本でも報道されている。確かにタクシン派には下層の支持が厚く、反タクシン派には都市中間層の支持がある。しかしタイではこうした対立が起きる以前から、階層による大きな格差が存在した(表2)。突如「階層」が現れたわけではないし、下層と中間層がそれぞれの違いを意識していなかったわけでもない。これまでと違うのは、対立が「階層の」対立として意識されていることにある。したがって、解かねばならない問題は、「なぜ階層という形で政治的対立が起きるようになったのか」ということなのである。
どこの国でも階層差はあり、階層による利害の違いもあり、また党派による政治対立もある。国民みなの意見が一致している国などどこにもない。それでも、現状を不満ながらも「受け入れる」状況があるから政治が安定するのだが、最近のタイはいつ対立が終わるのか先行きが見えない。選挙をやるとタクシン派が勝ち、反タクシン派は街頭に出て、司法や軍も入って、政権が崩壊する。それでもまた選挙をやらない訳にはいかないから、またこのサイクルが始まる。なぜ社会階層による支持の違いが選挙で「収まらない」のか。これがもうひとつ解かねばならぬ疑問である。なおタイの選挙は、政府から独立の選挙管理委員会が監督しており、選挙違反はあるものの、選挙自体の公正性が疑問視されているわけではない。

タイの民主主義発展史

さてこうした疑問を念頭に置いたうえで、タイの「今」を考えるため、戦後タイの民主主義がどのように発展してきたのかをごく大雑把ではあるが見てみよう。タイは1973年までほぼ軍部による独裁政治が続いていた。1945年から73年までの28年間のうち、14年ほどは政党の設立が禁止されていたのである。28年間に行われた総選挙は、たったの6回。軍のリーダーが首相になり、軍と警察という暴力装置を後ろ盾にした政治をおこなっていた。

権威主義的な政治に公然と反旗を翻したのは、学生たちであった。経済成長に乗って急速にその数を増やした学生達は、1972年頃から明確かつ集団的に政治的主張をするようになる。そして1973年10月14日、政府による不正や不当逮捕に抗議して王宮前広場周辺を埋め尽くした学生や市民に対して軍が発砲し、多くの死者を出した(10月14日事件)。国王の介入を経て首相は亡命し、政治は民政に移管される。しかしまもなく軍は勢力を盛り返し、右翼の活動も活発化して、地方では農民運動のリーダー達が次々に暗殺された。そして1976年10月、軍は学生の集会を武力で鎮圧し(10月6日事件)、この後タイは再び強権的な政治に戻る。

弾圧を逃れた学生や農民活動家は森に逃げてタイ共産党に合流し、武力による反政府闘争を続けた。軍は力による統治の限界に気づき、むしろ農村の貧困削減により反政府勢力の力をそぐ方針をとった。1980年から首相になったプレームは、そうした軍の方針転換を主導した人である。かつて共産党のゲリラ活動がもっとも激しかった東北地方で陸軍を指揮し、その後陸軍司令官となった。

プレームは1988年まで首相の座に留まる。この時期のタイ政治は、「半分の民主主義」と形容される。なぜ「半分」か。まずプレームの時代には政党活動が認められ、選挙が行われた。ところが連立与党は、政党人ではない(当然選挙にも出ていない)プレームを首相に推してきたのである。閣僚には与党の有力議員が就くが、プレームは国家運営、とりわけ経済運営の要所を占める官僚を重用して政策運営をおこなった。また国軍と国王の支持がプレームを支えていた。「半分の民主主義」は、「半分しか」民主化されていないとも言えるが、1973年以前の状況を基準にすれば「半分だけ」民主化が進んだということでもある。それを行ったのがプレームという軍出身の首相であった。つまり軍主導による、民主化の段階である。

プレームは1988年に政界を引退し、国王への助言を任とする枢密院議員となった(後に枢密院議長)。一方、国政はいよいよ「全面の」民主主義へと一歩駒を進める。つまり選挙第1党の党首が首相を務める政治が始まったのである。しかしこの政権では閣僚による汚職が蔓延し、1991年、軍が「腐敗した政治を正す」という名目を掲げてクーデタをおこなった。本当の理由は国防相人事への不満であったが、この名目はある程度国民の支持を得た。ところがまもなく陸軍司令官自身が首相に就くと、政府批判が巻き上がる。1992年5月に反政府の集会は急速にふくれあがった。この時の集会参加者は、「携帯電話の群衆」などと呼ばれた。携帯電話を使って、仲間を呼んだり、情報を広めたりしたからである。当時、携帯電話はまだ高価だったから、それを持っているのは都市中間層以上であった。つまり都市中間層が軍による政府にノーを突きつけたというのである。このときも軍の発砲により多くの集会参加者が犠牲になった(暗黒の5月事件)。軍と市民の対立は、またしても国王の介入で終わり、首相が辞任した。

政治改革とは何だったのか

軍による政治に戻ることは許されないが、政党政治家による政治にも問題がある。タイの政治制度は根本的に改められねばならない。かくして1990年代は「政治改革」の時代となる。この「改革」は1997年憲法に集大成されるから、その規定から改革のねらいを推し量れよう。そこにはいかにして政治家の利己的行為を抑えるかという工夫がちりばめられている。選挙制度についてみると、選挙違反に対して厳しい罰則を設け、立候補には大卒以上という学歴要件を付ける。選挙区を小選挙区制に変えたのも、政治家が自己の利益により小政党を作って政治のキャスティングボードを握ることを抑制するためでもあった。

一方、下院議員を監視する制度も作られた。下院のお目付役たる上院議員は政党への所属を認めず、選挙運動にもきつい縛りをかけた。国会や内閣から独立した機関(選管や人権委員会など)を設置して政治家への監視機能を与えた。選挙区から選ばれた議員は当選後の入閣が実質的に不可能になるようにした。

改革を発議し主導したのは、「ニュー・エリート」とでも呼べる人々であった。政治改革の方向性を立てる委員会の長には、国立大学医学部の教授で長年民衆への医療サービス普及に力を注いできたプラウェート医師が指名された。具体的な憲法の素案を作ったのはチュラロンコン大学で公法を教えるボーウォンサックであった。憲法案は政治家ではない専門家(法学者、政治学者)と地方から選出された市民により構成される起草議会で作られた。地方で開かれた憲法案作りの公聴会には、地方の官僚や教員、知識人、NGO、ビジネスマンなどが参加して発言した。彼等は政治家でも、軍人でも、権威主義的な官僚でもない。しかし学歴高く、タイ社会の問題に関心深く、1970年代の学生運動を経験した者も少なくない。1980年代、水面下に沈んでいた彼等のエネルギーが、1990年代、「市民社会イデオロギー」に導かれて表面に現れたのである。

このように1990年代の政治改革は、いわば政治家性悪説(選挙区からの政治家は票を金で買い集めて選ばれてくるので、当選後は蓄財に励むようになる)を前提に、その行動を規制するための制度を「ニュー・エリート」の主導において作り出したものと言える。その裏には、次のようなロジックが隠れている。「地方の民衆は、選挙で金をばらまく候補者に投票するから、選挙では(何らかの規制をかけない限り)まともな政治家は出てこない」。一種の「愚民感」をそこに見ることができよう。

タクシンとは何だったのか

1997年憲法による最初の総選挙は2001年に行われ、タクシン率いるタイラックタイ党が議席の半数を占める圧勝をした。タクシンは元警察官僚で、自分の起こしたコンピューターや通信ビジネスが成功して、巨万の冨を持っていた。それを使って有力政治家を自党に取り込むと同時に、農村住民や都市下層をターゲットとした具体的政策を掲げて選挙をおこなった。たとえば30バーツ(約100円)で、医療が受けられる健康保険、低利で借用できる村ごとの100万バーツ基金、農家負債の返済猶予、小事業者向け融資などを始めると約束した。一種のマニフェスト選挙をしたわけだ。そして政権を握ると、これらの公約を次々に実施した。農村住民にとってこれらの政策の恩恵は大きい。このほかに、タクシンは国家予算の予備費を膨らませ、地方住民の要望に応えるための事業を自分の判断でできるようにした。タクシンに頼めば道や橋ができると、人々は思うようになった。

タクシン政権が4年の任期を満了して迎えた2005年の選挙で、3分の2議席を占める大勝利を収めたのは、有権者がタクシンの政策に高い評価を与えた証拠である。小選挙区制のもとで、人々は「タクシン首相」を選ぶべく投票したのである。農村住民にとって、もはや一票は数百バーツの売り物ではなく、自分らの裨益する政策を(それをおこなう政府を)選ぶ方法となった。タクシンは票の数こそ力であると理解し、自分の資源や国家の資源を動員して、票を集めたのだった。いわばタクシンは、「数の政治の再構成」をしたのである。

良き人による政治—中間層の主張

議会で圧倒的多数を占めたタクシンは、次第に傲慢になり、人の批判を聞かなくなるし、自分や取り巻きの都合の良いように政策を決める。地方民衆の歓待を受ける姿は、国王をないがしろにしているように見える。そもそも中間層は、自由な言論を抑えられるということが我慢ならない。自由な競争こそ至極のルールであるから、汚職やネポティズムは許せない。また上層に属する人々にとって、自分と王族との近さは誇りでもある。中間層の不満は急速に広がった。ところが選挙では人数の少ない彼等に勝ち目はない。1990年代、政治の中心にいたはずの中間層が、いつの間にか政治的な力を失っていた。

そこで彼等は国王の権威を借りて(シンボルカラーの黄色)運動の正当性を主張し、司法と軍という権力を引き出すためにも、激しい街頭行動をおこなった。しかし倒す相手は曲がりなりにも民主的かつ自由な選挙で多数を得た政党による政権である。PADは自分たちの目指す民主主義の姿を説明しなくてはならない。

2008年、PADがタクシン派政権打倒の集会を続ける中、そのリーダー達は「新しい政治」というスローガンを掲げた。それを要約したのが表3である。それによれば、現在の選挙では良からぬ人々が選ばれてくる。よい政治とは、良い人(タイ語で「コン・ディー」)が国を治める政治であって、そのためには選挙で選ばれた政治家以外の代表が参加する政治にしなくてはならない。そして「一例」と言いつつも、選挙区選出議員は3割、それ以外を7割にするという数字を出した。

ではどうやって「コン・ディー」を見つけるのか。PADは職業集団から代表を選べばよいと考えたようで、弁護士、医師、教員、労働者、農民、学生、小売商、屋台・行商人などがそれぞれの協会を作って、そこから代表を出すという。確かにこうすれば、普通の選挙に出られないような人も国会議員になれるかもしれない。

数の政治—下層の主張

UDD集会場の路上に貼られた顔写真。中央上がプレーム枢密院議長。
UDD集会場の路上に貼られた顔写真。
中央上がプレーム枢密院議長。

一方、赤シャツ集団の主張は、「議会解散せよ」(選挙をしろ)の一点であり、PADの「良き人による政治」と対照をなす。誰がこの国を治めるべきかは、国民に決めさせるべきであり、その方法は選挙でしかありえない。UDDは「解散せよ」と言う代わりに、「権力を民衆に返せ」とも主張している。

UDDは運動の正当性を自らの民衆性に求めた。そして自分たちを「プライ」という少々古くさい言葉で呼ぶようになった。プライとは19世紀の半ばまであった身分制において、王族や貴族に労役の義務を負う平民のことである。当然そのような身分はとうの昔になくなっているのだが、あえてこの言葉を使うことで、自分たちの集合的アイデンティティを表現したのである。

リーダー達は集合行動やり方にも民衆的な要素を意識的に入れ込む。運動参加者から集めた血を首相府やアピシット首相邸、民主党本部前に撒いて、民衆の中にある呪術や精霊など超自然的現象への信仰に訴えた。赤シャツの集会場の舞台では、東北地方のモーラムという、旅芸人による謡い語りが披露されていた。UDDの集会場には、旧タイ共産党の帽子などが売られている。UDDのリーダー層に元共産党員が入っていることはよく知られているが、「コミュニスト」といえば「悪人」というイメージが作られてきたタイ社会で、この復権は興味深い。おそらく共産党の「虐げられた民衆の味方」イメージが肯定的に見られているのだろう。

一方、自分らの相手を「アムマート」というこれまた古くさい言葉で表現した。アムマートとは、官位の高い文官を表す言葉で、いわば「エリート」のことである。PADが「コン・ディー」と表現したものを、「アムマート」と言い換えて攻撃しているわけである。そこで「良き人」の典型、プレームを狙い撃ちにした。2006年のクーデタ直後にもUDDはプレームがクーデタの背後にいるとして、その私邸にデモをかけており、その後もプレーム批判の手を緩めていない。写真は集会場の路上に貼られた政治リーダーの顔写真で、中央上がプレームである。集会参加者がプレーム等の顔を踏みつけて歩くようにしてあるわけだ。

自覚的階層の登場

このように、現在のタイでは所属階層が自覚され、対立しているのである。自らが何であるかという集合的アイデンティティをもち、相手もひとつの集合に括ることで、その間の対立を意識する。はじめに述べたように、階層差の存在は今に始まったことではない。なぜそれが集合的に意識されるようになったのか。

まず、タクシンが受益者を特定した政策をおこなったことが始まりであった。小選挙区制とも相まって、農村住民や都市下層民は、選挙で政権を(政策を)選ぶ投票ができるようになり、自分らの圧倒的な数が政治的な力になることを知った。逆に都市中間層は、選挙における無力を自覚した。選挙の意味が所属階層によって対照的となったのだった。

二つ目に、集合行動自体が参加者の間に「われわれ意識」を高めることになる。黄色と赤というシンボルカラーをはじめ、PADは手のひらの形、UDDは足の裏の形をした小道具でカスタネットのような音をたてて集会を盛り上げた。集会に参加すれば、弁士から伝えられる情報をみなが共有するから、それぞれの支持者は同じ言葉、論理で話をするようになる。

三つ目に、彼我を分ける視座(フレーミング)の提供である。UDDのリーダーが、プライとアムマートという言葉を使ったのは、その好例である。これによって「我々」と「彼等」をそれぞれひとくくりにし、かつその違いを際だたせることに成功した。しかもこれらの言葉は、いつも社会的に見下されているという下層の人々の感覚にピタリとはまったから、力を持ったのである。

最後に、両派とも独自メディアを持っていることの意味が大きい。それぞれのリーダーはマスメディア・ビジネスに精通しており、衛星放送を使った独自の宣伝放送局を立ち上げた。またこの10年ほどで族生した「コミュニティ・ラジオ」という小規模放送局が、政治宣伝を流している。こうしてPAD支持者はPADの宣伝放送を、UDDの支持者はUDDの宣伝放送を、それぞれ視聴することで、支持者で情報の共有ができ、逆に相手の主張を耳にする必要はなくなっている。しかも衛星放送を使うことで、こうした亀裂が全国に広がった。

ルールの対立

ここまで述べてくれば、対立しているのが単にタクシンに対する支持・不支持の問題ではないことが理解されよう。対立に決着をつけるべきルール自体が対立しているのだ。赤シャツ集団は、選挙で決めようと提案しているのに対して、黄色はそうしたやり方では問題は解決しない、と言っている。ゲームのルールについて合意がないから、なかなか勝負がつかない。

この対立は、あるべき民主主義像をめぐる対立と言い換えることができる。PADは「良き人」による協議によって政治を進めるのがより民主的と考える。選挙のように投票行動だけで政治に参加するしくみは、結局、票を金で買う人々(つまり票を金で売る人々)に政治をゆだねることになり、よい政治は期待できない。こうした発想は、アソシエーションの代表による協議を通して公共圏の意思決定をするという「市民社会論」に類似している。いわば「質の政治」の主張である。

これに対してUDDは選挙こそが民衆の政治参加の場、手段であると主張する。下層民衆は確かに貧しく、教育程度も低いかも知れないが、それなりに考えているのだから、中間層や上層と同等の参加の権利を与えるべきだ。こうした下層でも政治への意思表出ができるのは(公共圏に参加できるのは)、選挙なのである。こちらは「数の政治」と言うことができよう。

ルールの基礎は憲法で規定されているのだが、PADは2007年憲法を支持し、UDDは1997年憲法の復活を求めている。1997年憲法が「ニュー・エリート」の政治活動によって作られたことからすれば、これは奇妙に思えるかも知れない。しかし1997年憲法は、タクシンのような強力な政治家を産む制度を含んでいた。だから1997年憲法がクーデタ政権によって無効にされたとき、その制定に努力した活動家達が、何らの抵抗もしなかったのである。2007年憲法では、小選挙区制は中選挙区制に戻され、上院議員の約半分は推薦による選考に切り替えられ、選挙管理委員会などの独立機関も政党政治家の影響ができるだけ入らないよう(司法の代表者の発言権が大きくなるよう)に変えられた。1997年憲法の制定を進めた人たちは、自分たちに都合良く機能する限りでそれを愛していたに過ぎない。タクシン側が1997年憲法を回復せよと言うのも同じことで、それが自分にとって都合がよい「民主主義」だからである。

タイ民主主義の今、これから

こうした今の状況を、先に振り返ったタイ民主主義の展開につなげて見るとどうなるだろうか。タイははじめ「軍部による強権的な政治」があった。それが1973年から76年の間に挑戦を受け、激しい対立があった。その後1988年まで、「軍による上からの民主化」過程があった。軍の重しがとれんとしたとき、またもや混乱が生じた。そして1992年から10年近く政治改革の時代になる。それは「良き人」が監督者となって政治を進める制度作りの過程であった。ところができた制度に乗って登場したタクシンは、「数による政治」を再構成してしまった。それによって農村や都市の下層大衆は、政治に影響力をもつことを自覚した。政治への参加、という点に限ってみれば、軍から政治家へ、さらに「ニュー・エリート」、一般大衆へと、その範囲や主役が拡大してきたのである。そして今、「良き人による政治」と「数の政治」が衝突している。これまでも政治制度が変わる時には、激しい衝突が起きていた。今回もそうした移行期を我々は目撃しているのである(図1)。
歴史の流れを押し戻すことは難しい。中間層が政治を動かし、下層は選挙で票を売るだけという政治構造に戻ることがよいはずもない。下層民衆自身も変化してきている。筆者が東北タイのコンケン県農村に住み込みで調査していた1989年当時、小学校を卒業後、さらに上の学校に進む村の子供は例外的であった。ところが2000年に同じ村で調査したところ、ほとんどの農家子弟が中学より上の高校や高等専門学校に通っているのである。2005年にこの村の中学校で生徒に将来の夢を聞いたら、「医者」と答えたのが何人もいた。昔は、せいぜい「兵士」か「警察官」だった。農家の子弟でも、農村にずっと留まっている者はむしろ少数派で、多くは都会での就業経験を持つ。彼等は都市の生活を経験し、都市中間層の生活を垣間見ている。一方の中間層も、農村や都市下層が金だけで動員されたのではないこと、赤シャツの主張は意外と多くの賛同者がいることに気づいてきている。

またPADの言うような「良き人の政治」を具体化するのは難しい。2006年クーデタの後、その評価を巡ってタイのNGOや社会活動家は割れて、相互に激しく批判し合った。社会に奉仕する「良き人」だったはずの人々も、どうやら「間違っていた」らしいのである。さらにUDDは意図的に「良き人」を攻撃してきた。もはやだれもが認める「良き人」を探すのは難しくなっている。そう考えると、結局は「選挙」によって雌雄を決するというルールを受け入れざるをえないであろう。あれほど選挙を見下していたPADも、昨年政党を作り、選挙参加の準備を始めた。

ゲームのルールさえ合意されてしまえば、じつは政策内容ではそれほど大きな対立はない。タクシン以後の政党は、どの政党もマニフェストを作るようになり、大票田たる下層を意識した政策を実施するようになった。アピシット政権ですら、タクシン派政権時代の政策を多く引き継いでいる。少し頭を冷やして考えれば、タクシン派も反タクシン派も、やっている政策にはあまり違いがない。今、農村の人々がタクシンに熱を上げているのは、タクシンが初めて農村住民をターゲットとしたばらまきをしたからであって、いわば一種の「元祖」ブランド効果なのである。「元祖」が本当にウマイかどうか、そのうち人々は冷静に判断するようになるだろう。そうなれば、いくらタクシンとその取り巻きが笛を吹いても、民衆は踊らなくなる。タクシン自身の、あるいはタクシンを巡る利害対立で、タイの政治全体が振り回されることもなくなるであろう。

その時、タイは選挙で、あまり代わり映えのしない政権や政策を選ぶ「普通の」民主主義国家になるのであろう。それは退屈ではあっても、安定した政治(政権ではなく)の実現である。しかし今回、政府がタクシン派の街頭行動を力でねじ伏せたことで、この後どういうルールでもって人々が競い合うのか、何らの合意も得られなかった。タイ政治安定化への道のりは、その結果かなり険しいものとなったといえよう。