中国の対ミャンマー政策:課題と展望

政策提言研究

工藤 年博
2012年8月20日発行

※以下に掲載する文章は、平成24年度政策提言研究「中国・インドの台頭と東アジアの変容」第5回研究会(2012年8月2日開催)における報告を元に、加筆・修正したものです。


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欧米から制裁を科されてきた軍事政権時代を通じて、ミャンマーは国際社会における保護者としても、また経済的にも、中国への依存を高めていった。1948年の独立以来、ミャンマーがこれほどまでに中国への依存度を高めたことはなかった。しかし、2011年3月に23年ぶりに軍政からの民政移管が実現し、テインセイン政権が誕生すると、ミャンマーは対中国関係の調整に乗り出した。今、中緬関係は岐路を迎えつつある。本稿は中緬関係の歴史、中国のミャンマーにおける戦略的利益および政策を検討した上で、民主化時代の中緬関係を展望していきたい。

1.中緬関係の歴史

ミャンマーは1948年にミャンマー連邦として独立し、翌年10月に中国では中華人民共和国が設立された。1950年には中緬国交が成立し、1954年に周恩来首相が訪緬、「平和五原則」(領土・主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を確認した。1960年には中緬国境が画定された。これは中国が近隣諸国と画定した初めての国境線であった。両国の国境は、約2200キロに及んでいる。

ミャンマーでは独立後1960年代初頭まで、少数民族やビルマ共産党との激しい戦闘が続いた。1967年にミャンマーで反中国暴動が発生してからは、中国共産党が国境地域に追いやられていたビルマ共産党の支援を活発化した。1968年にはビルマ共産党がミャンマー国境を越えて侵攻し、1970年代初頭には中緬国境貿易の拠点を制圧した。1971年には中緬関係が正常化するが、中国は政府関係と政党関係を分ける二重外交を行い、その後もビルマ共産党への支援を続けた。しかし1978年に当時の鄧小平副首相が訪緬し、実質的にビルマ共産党への支援は終わった。

1986年から1987年にかけて、ミャンマー国軍はビルマ共産党に攻勢をかけ、ようやく国境貿易のルートを奪還した。1988年にミャンマーで軍事政権が民主化運動を弾圧するかたちで登場し、先進諸国は軍政を厳しく非難した。この時、中国はすぐに軍政を承認し、ミャンマー軍政との関係を築いた。1989年10月には、当時のタンシュエ副議長とキンニュン第1書記が訪中し、中国から経済協力や武器援助を受け、名実共に胞波(パウッポー、ビルマ語で「血を分けた兄弟」の意、中国(人)を親しみを込めて呼ぶときに使う言葉)になっていった。

しかし、ミャンマーで2011年3月に23年ぶりに軍政からの民政移管が実現し、テインセイン政権が誕生すると中緬関係は再び微妙な変化をみせ始めた。ミャンマー政府は中国への過度な依存から脱却するため、欧米諸国との関係改善を図り始めた。こうしたなか、日本は本格的な援助を再開し、企業も大挙して視察に押し寄せ始めた。アメリカも自国企業に対するミャンマーへの投資規制を緩和するなど、ビジネスへと動き始めている。こうして、民主化時代に入り、ミャンマーにおける中国の存在感は相対化されつつある。

2. 中国のミャンマーにおける3つの戦略的利益

中国はミャンマーにおいて、主に3つの戦略的利益をもっている。1つめは、エネルギーの調達と安全保障、2つめはインド洋へのアクセス、3つめは国境貿易と国境地域の治安である。

1) エネルギー調達・安全保障
エネルギーの調達、エネルギー安全保障は主に、ミャンマーから中国へパイプラインで天然ガスや原油を輸送する、あるいは国境地域に水力発電所を造って送電するなどのプロジェクトにより具体化されている。天然ガスについてはシェエーというアラカン州沖合の海底ガス田からミャンマーを横断するパイプラインの敷設が進められている。このパイプラインに併設して、原油のパイプラインの敷設も進んでいる。現在、チャウピューという町に深海港が建設中であり、ここに中東・アフリカから原油を運んできたタンカーを寄港させ、パイプラインで中国雲南省まで輸送する計画である。さらに、チャウピュー周辺を経済特区とし、中国と道路や鉄道で結び、ミャンマーの製造拠点にしようという計画もある。しかし、経済特区構想は具体的には進捗していないようである。現在,ミャンマーの輸出全体の約4割は天然ガスが占めている。シュエー・ガス田からの輸出は2013年内に始まる予定である。この輸出が本格化すると、ミャンマーはもうひとつ大きな外貨獲得源を得ることになる。

もう1つは、国境地域に水力発電ダムを建設し、そこで発電した電気を雲南省へ送るというプロジェクトである。既に送電が開始されているのは、ミャンマー最大級(600MW)のシュウェリー水力発電所No.1である。ここで発電された電力のほとんどは、中国に売電されている。また、中国電力投資集団が、イラワジ川上流において7つの水力発電ダムの建設を計画していた。しかし、そのひとつのミッソン・ダムの建設は、2011年9月30日にテインセイン大統領が建設凍結を宣言した。これはミッソン・ダム建設に伴う環境破壊、住民移転、あるいは文化的価値の毀損などが問題となり、国民が反対したためである。テインセイン大統領は、「我々は国民に選ばれた政府であり,国民の意思を尊重するのは当然である。我々は国民の懸念・心配に対して,真剣に措置をする責任を有している。それゆえ,ミッソン・ダムの建設は,我々が政権にいる間は,これを凍結する」(テインセイン大統領の議会へのメッセージより抜粋,2011年9月30日)と して、建設を止めた。しかし、残りの6つのダム建設については、計画が中止になってはいない。

ミャンマーでは現在、水力発電所45ヵ所、石炭火力発電所2ヵ所、ガス火力発電所1ヵ所の48の発電所建設が計画されている。これらが全て完成すれば、発電設備容量(installed capacity)は3万6635メガワットとなる。現在のミャンマーの発電設備容量が3413メガワットであるから、その10倍以上の設備容量が追加されることになる。そのうち、確認できるだけでも、中国企業が事業母体(implementing agency)となっているプロジェクトが35以上ある。また、ミャンマー企業が事業母体となっているプロジェクトであっても、発電機や建設資材は中国から輸入されることが多い。ミッソン・ダムの建設は凍結されたものの、今後、ミャンマーの電源開発において中国企業が大きなプレゼンスを持ち続けることに違いはない。

2) インド洋へのアクセス
陸封地形の雲南省にとって、ミャンマーをランドブリッジとしてインド洋へのアクセスを確保することは、交易ルートの確保としても、安全保障上も重要である。これが中国のミャンマーにおける2つめの戦略的利益である。2つのルートが構想されている。ひとつは雲南省の国境の町・瑞麗(ミャンマー側はムセ)とラカイン州のチャウピューを結ぶ道路・鉄道、およびチャウピューにおける港湾の建設、もうひとつはカチン州のバモーに河川港を建設し、イラワジ河を航行してヤンゴン港、ティラワ港へ出るルートである。2011年4月27日、中国鉄路工程総公司とミャンマー鉄道公社は、中緬国境のムセからチャウピューまでの鉄道建設に関する覚書を締結した。ミャンマーをランドブリッジとする構想は、中国が太平洋とインド洋の両方にアクセスをもつツー・オーシャン(two-ocean)戦略の一環である。

3) 国境貿易、国境地域の治安
そして3番目の戦略的利益は国境貿易ルートの確保、及び国境地域の安定である。中国・雲南省にとってミャンマーは最大の貿易相手国である。ミャンマーにとっても中緬国境貿易は同国の物流の大動脈である。中国の対ミャンマー輸出は2010年に対前年比+53%、2011年に+39%の伸び、中国のミャンマーからの輸入も2010年に対前年比+49%、2011年に+75%の伸びをみせるなど、順調に拡大している。

両国の貿易の内、どの程度が陸路を使った国境貿易で行われているのかは確たる統計がない。ここでは、中国雲南省の省都である昆明管轄の税関を通関したミャンマー向け(から)の財の取引を「国境貿易」と定義しておきたい。中国の通関統計では、税関別に輸出入動向を知ることができる。ミャンマー向け(から)の財が陸封地形の雲南省の昆明税関を通過するということは、その大方が両国の国境を陸路で通過した貨物と見なすことができるだろう。なぜなら、昆明の税関を通った貨物が、わざわざ中国沿海部やベトナムのハイフォン港を経由して、ヤンゴン港へと運ばれるケースは少ないと考えられるからである。もちろん、昆明空港を通じた空路での財の取引はある。但し、雲南省の対ミャンマー貿易については、取引される品目(機械、自動車、木材、農作物等)から考えて空路の利用は少ないものと推測される。こうした前提に基づき、中国雲南省とミャンマーとの国境貿易の比率を推定した結果は表1のとおりである。国境貿易の比率(昆明税関を通関した割合)は2005年において中国の対ミャンマー輸出総額の約6割、輸入総額の約8割を占めた。この割合はその後低下傾向にあるが、国境貿易が依然として両国の貿易において大きな役割を果たしていることは明らかである。
表1 中国の対ミャンマー貿易
表1 中国の対ミャンマー貿易
(注)「昆明税関経由のシェア」は中国の対ミャンマー輸出入総額の内、昆明税関を通関した輸出入額の割合。
(出所)中国税関(World Trade Atlas)データベースにて検索。

中国政府は雲南省とミャンマーとの間に、自国及び相手国の人・モノに加えて第三国の人・モノも通行できる第一級(国家クラス)の国境ゲート4ヵ所と、自国及び相手国の人・モノのみが通行できる第二級(省クラス)の国境ゲート12ヵ所を設置している。少し古い統計であるが、2006年時点の雲南省の主要な国境ゲート別(空路・海路を含む)の貿易額をみてみよう。近隣3ヵ国との陸路による国境貿易が約6割、昆明国際空港による空路での貿易が36%、瀾滄江(メコン河)の景洪港を通じた貿易が4%弱という割合となっている(表2)。この数字からでも国境貿易の大きな役割が分かるが、これを貨物輸送量(トン)でみてみると、じつに98%の貿易が国境貿易を通じて行われており、内陸・陸封地形の雲南省にとっての、陸路国際物流の重要性が明らかとなる。そして、ミャンマーとの国境貿易は雲南省の貿易総額の約3割、輸送量ベースでは約5割を占めた。
表2 雲南省国境ゲート別貿易額(2006年) 
表2 雲南省国境ゲート別貿易額(2006年) 
(出所)雲南省商務庁。

中緬国境の雲南省側の国境には、16ヵ所(主要なものだけで11ヵ所)の国境ゲートが設置されているのに対し、現在、ミャンマー側には正式には3ヵ所の国境ゲート(ムセ105マイル、ルウェジェー、チンシュエホー)しか設置されていない。これはなぜだろうか。じつは中緬国境の国境ゲートの多くは、ミャンマー側では少数民族勢力が実効支配する「特区」に設置されているため、ミャンマー政府の正式な国境ゲートと認められていないのである。 表2 のうちミャンマー政府の直轄地域に設置されている国境ゲートは、瑞麗と畹町のみである。これら2ヵ所の国境ゲートを通過した貨物は、ミャンマー側ではいずれも国境の町ムセやチューコックから十数キロ離れたムセ105マイルの国境貿易拠点で検査を受け、輸出入の手続きが行われている。一方、ルウェジェー(中国側は章鳳)はカチン独立軍(KIA)、チンシュエホー(中国側は清水河)はコーカン軍(MNDAA)の支配地域に設置された国境ゲートではあるが、実態としてミャンマー政府の影響力が強く働くため、正式な国境ゲートとして位置づけられているものと考えられる。すなわち、これら3ヵ所(中国側では4ヵ所)の国境ゲートを通過した財のみが、ミャンマー政府の統計に捕捉される国境貿易ということになる。他の国境ゲートを通過して輸出入された財については、ミャンマー政府の統計には出てこない。

では、なぜ中緬国境のミャンマー側には、少数民族武装勢力が実効支配する特区が設置されたのであろうか。これを知るには軍政が登場した1988年まで遡って歴史をひもとく必要がある。ミャンマーには人口の7割を占めるビルマ族を含めて、135ともいわれる多くの民族が住んでいる。1948年のミャンマーの独立以来、これらの少数民族のいくつかは分離独立、あるいはより大きな自治を求めて、武装闘争を戦ってきた。一方、ビルマ共産党は共産主義革命という国家体制の抜本的な改革を目指して、時に少数民族武装勢力と共闘しながらも、独自の戦いを続けてきた。すでに述べたとおり、1988年9月にミャンマー国軍は全国規模で盛り上がった民主化運動を武力で制圧し、権力を掌握した。この時、学生を中心として一万人ともいわれる民主化活動家がタイ国境へと逃れ、カレン、モン、カレンニー、パオなどの少数民族武装勢力との共闘を模索した。 ところが、当時これらの反乱軍には充分な武器がなかった。一方、中緬国境に拠点を置くビルマ共産党は、1970年代終わりまで続いた中国共産党の武器援助のために、依然として強勢を保っていた。

もし仮に、ビルマ族民主化勢力、少数民族武装勢力、ビルマ共産党の大同団結がなれば、ミャンマー国軍にとって本当の(すなわち、権力を失いかねない)脅威となる可能性があった。ここに国軍はいかなるコストを払ってでも、反政府武装勢力(特にビルマ共産党)を中立化する必要に迫られた。好機はすぐに訪れた。1989年4月、ビルマ共産党が謀反により内部分裂したのである。同月17日、当時ビルマ共産党傘下にあった統一ワ州連合軍は州都・邦桑(パンサン、現在は邦康に名称変更)にあった党本部を急襲した。党幹部は中国の介入を期待したが、前年に登場したばかりのミャンマー軍政と関係を強めていた中国が事件に介入することはなかった。むしろ中国が介入しないだろうという予測が、ビルマ共産党内部での謀反を引き起こしたのである。ここにビルマ共産党は消滅し、エスニック・ラインで分裂した4つの武装勢力が登場した。すなわち、統一ワ州連合軍(UWSA、ワ族)、ミャンマー民族民主同盟軍(MNDAA、コーカン族)、東シャン州軍(ESSA、シャン族)、カチン新民主軍(NDA—K、カチン族)である。

ミャンマー国軍の対応は素早かった。キンニュン第一書記(当時)はすぐに中緬国境に入り、新たに登場した4つの少数民族勢力との停戦合意に成功した。これを鏑矢としてミャンマー国軍は次々と少数民族反乱勢力と停戦合意を結んだ。武力で中央の国家権力を掌握したミャンマー国軍は、皮肉なことながら、自らの権力を維持するために辺境では「和平」を選ぶという選択をしたのである。こうして1997年までに17の少数民族武装勢力と停戦合意が締結され、独立以来はじめて国内に大きな戦闘のない平和が実現した。停戦合意グループには大きな自治が認められる特区が与えられた。こうして、中緬国境地域の大方が少数民族勢力によって実効支配されるようになったのである( 地図 )。
地図:少数民族勢力支配地域と新ビルマ・ロード
地図:少数民族勢力支配地域と新ビルマ・ロード
(出所)Transnational Institute, "Neither War Nor Peace: the Future of the Cease-fire Agreements in Burma," July, 2009より抜粋。
新ビルマ・ロードの矢印は筆者が追加。

特区では少数民族勢力が国境貿易に独自に関税や通行料を課した。このため特区を通過する物流は、特区を越えてミャンマーと中国の大消費地へと結びつくことができず、大きく発展することができなくなってしまった。例えば、UWSAが実効支配するシャン州第二特区の州都であり国境ゲートでもある邦康(パンカン)からマンダレーまでは、サルウィン河を越えなければならないものの、200キロ少々という近さにある。中国側は国境の町・孟連に、既に国家第一級の国境ゲートとしても機能できる立派な建物と設備を設置し、本格的な国境貿易の開始に備えている(写真)。しかし、ここからマンダレーの間には11ヵ所ものチェックポイントが設置され、通過する村落においても通行料が取られているという。特区の存在が国境貿易の発展を阻んでいるのである。
中国雲南省普洱市に設置された孟連国境ゲート。<br/> 写真の手前側はUWSAが実効支配するワ州の州都・邦康。2009年7月29日、筆者撮影<br/> <br/>
中国雲南省普洱市に設置された孟連国境ゲート。
写真の手前側はUWSAが実効支配するワ州の州都・邦康。2009年7月29日、筆者撮影

これに対して、ミャンマー政府の直轄地にあった瑞麗=ムセの国境ゲートは、ミャンマーと中国の大消費地を結ぶことに成功し、大きく成長した。中国雲南省の瑞麗とミャンマー・シャン州のムセの国境ゲートを通過したトラックは、ミャンマー第二の都市で上ミャンマーの商工業の中心地であるマンダレーまで約460キロの道を走る。この道路は1938年に開通した援蒋ルートのひとつ、いわゆる「ビルマ・ロード」である。1998年にミャンマーの民間企業アジア・ワールドおよびダイアモンド・パレスが、BOT 方式で拡幅舗装することで、大型トラックの走行が可能となった。この道路の完成までは、マンダレー=ムセ間は難所が多く、車両が崖から転落するなど危険な山道であった。同区間を走破するのに、数日から雨期だと一週間もかかることがあったという。現在は12~16時間で走破可能である。道路整備を請け負ったアジア・ワールドは、かつての麻薬王ともいわれるローシンハンの息子が経営する会社である。ダイアモンド・パレスは国軍情報局関連の会社といわれる。民間企業がこの戦略道路を単独支配するのを避けるために、一区間を情報局関連の会社に所有させたといわれている。この国境貿易ゲートとルートの確保が、中国にとってのミャンマーにおける戦略的利益のひとつである。

このように、ミャンマー側の国境地域には少数民族武装勢力が存在している。すでに指摘したように、これらの武装勢力は長らく中国共産党の支援を受けて反政府活動を行ってきたのであり、いわば中国が残した負の遺産ともいえる存在である。少数民族武装勢力の支配地域では麻薬や覚醒剤が生産され、中国側に流れ込むなどの問題も起きている。中国は麻薬代替のために農業支援をするなど、その対策にも乗り出している。国境地域の治安は中国にとって重要な関心事である。

3. 中国の対ミャンマー政策

中国の対ミャンマー政策の1つめの特徴は、首脳外交である。2009年から2010年にかけて、中国共産党の指導者(中央政治局常務委員)9人のうち、李長春、習近平、温家宝の3人が訪緬し、ミャンマーからはタンシュエ議長が総選挙前の2010年9月に訪中した。2011年3月30日にテインセイン大統領率いる新政権が発足した後、4月2日には中国の賈慶林全国政治協商会議主席が訪緬した。5月12日には徐才厚中国共産党中央軍事委員会副主席が訪緬し、同月16日にはテインセイン大統領が訪中した。

しかし、2011年9月30日のテインセイン大統領によるミッソン・ダム凍結宣言以降、中央政治局常務委員は訪緬していない。この間、ミャンマー側からはティンアウンミンウー副大統領、ミンアウンフライン国軍司令官、ウンナマウンルウィン外務大臣等が訪中している。ようやく2012年7月10日に、孟建柱国務委員(公安相、警察権力のトップ)が訪緬したが、これまでのように経済協力の話はほとんど出ず、ミャンマー北部(カチン州)の治安に対する懸念が表明された。孟建柱国務委員は、ミャンマー北部ではカチン独立軍(KIA)と国軍との戦闘により、中国協力プロジェクトの実施が脅かされ、中国側へミャンマー難民が流入していると指摘し、改善を求めた。民主化時代を迎えて、中国の首脳外交は停滞している。

2つめの特徴は、軍政時代を通じた経済協力と投資の促進である。軍政時代、3人の中国共産党指導者の訪緬の際に、35の経済協力案件が合意された。中国の経済協力については2つの目的があるといわれる。ひとつは資源確保で、もうひとつは近隣諸国との友好関係である。ミャンマーの場合、両方の目的に沿っており、中国の援助は大きくなった。しかし、これに関しては様々な批判もある。ひとつは中国の経済協力プロジェクトによる天然資源の収奪である。とくに木材に関しては、持続可能性を無視した乱伐が批判されている。また、中国の経済協力資金によって本来民営化されなければならない国営工場が生き残ったり、あるいは増加したりして、ミャンマー軍政を支えてきたという批判もなされてきた。

2010年からは中国の対ミャンマー投資も急増している( <参考>最近のミャンマー外国投資受入状況 )。ミャンマーでは総選挙を目前とした2010年4~7月の4ヵ月間で、160億ドル近い外国投資が認可された。天然ガス、水力発電、鉱業(銅鉱山)などへの投資で、出し手は中国(香港経由を含む)、タイ、韓国であった。中国は従来、対ミャンマー直接投資ではあまり存在感がなかったが、2010年は中国の「投資元年」となった。

3つめの特徴はリアリスト外交である。中国の外交は、国境地域の治安、友好的な隣国の確保、エネルギー安全保障等、自国の戦略的利益の実現のために活用されてきた。一方、内政不干渉を前提として、人権、自由、民主化などの価値外交は全く行われてこなかった。

4.中国の対ミャンマー政策における課題

しかし、こうしたリアリスト外交の結果、ミャンマーでは反中感情が高まりつつあると指摘されている。中国政府、企業、人に対するミャンマー人のネガティブなイメージが生まれてきているのである。中国政府はミャンマー軍政を支援し、中国企業はミャンマーの資源を搾取し、中国人は成金で大挙してミャンマーに押しかけて来て土地を買っている。また、ミャンマー人女性を花嫁として中国へ連れて帰っている、などのイメージである。ミッソン水力発電ダムの凍結は、こうした国民の反中感情を背景として、新政権が決定したものである。中国はミャンマーにおける国・国民のイメージの改善の必要に迫られている。

さらには、すでに指摘したように、両国の国境地域の少数民族武装勢力は、中国共産党がつくりだした存在ともいえる。ひとたびミャンマー国軍と少数民族武装勢力との間で闘いがあれば、難民が大挙して中国側に流れ込むなど、中国は直接の影響も受ける。中国は、内政不干渉を前提としつつも、ミャンマー政府、国軍、少数民族武装勢力に働きかけ、その政治解決を側面支援する必要がある。

中国の対ミャンマー政策は、テインセイン政権とアメリカとの急接近によって大きく影響を受けた。両国の関係改善は日本の対ミャンマー政策を転換させ、本格的な援助の再開、日本企業の進出など、日本のミャンマーにおけるプレゼンスの拡大にも貢献した。今後、中国がミャンマーにおける戦略的利益を守るためには、逆説的ながらそれを前面に押し出すことを止め、ミャンマー国民の生活向上に資する経済協力を実施し、その成果を着実に見せていくことで国民の支持を得ていくほかはないだろう。その意味で、中国は民主化時代における新たな対ミャンマー政策の構築を求められている。

5. 日本の対ミャンマー政策への含意

ミャンマー軍政時代を通じて、日本の影響力、存在感は小さくなっていた。日本は欧米諸国と違い経済制裁をしてきたわけではないが、中国のように積極的に関与してきたわけでもない。その立ち位置は中途半端で、ミャンマー政府に対する影響力はかなり低下していた。

ところが、テインセイン政権の誕生と改革の進捗により状況が大きく変わった。テインセイン政権が欧米諸国との関係改善を進めるなかで、日本政府はいち早く5000億円におよぶ延滞債務の解決に道筋をつけ、本格的な援助の再開を決定した。これだけ大きな延滞債務の問題を、短期間に解決したことは日本政府のミャンマー支援に対する意気込みを示すものである。また、日本企業は労働集約的な製造業や農業、あるいは社会インフラの輸出などに関心を持っており、次々とミャンマーに視察ミッションを送っている。日本企業の進出はミャンマーにおける産業発展のドライビング・フォースになり得る。ミャンマー国民の良好な対日感情や、日本を友好国・先進国とするイメージなど、日本人にとっては暮らしやすく、働きやすい環境がミャンマーにはある。すなわち、両国はお互いの国の経済開発のための真摯なパートナーとなることができる。

今後の課題は、日本の外交全体あるいは成長戦略のなかにミャンマーを位置付け、ウィンウィンの関係を長期にわたって続けるための、グランド・デザインをいかに描くかであろう。ここ1年間でミャンマーにおける日本のプレゼンスは大きく回復した。この機会を利用して、両国関係の中長期的なあり方について、改めて構想しておく必要があるだろう。

<参考> 最近のミャンマー外国投資認状況

2010~11年度の2年間で2009年度までの約20年間の累計額の1.6倍の外国投資が認可された。中国(香港含む)、タイ、韓国の3ヵ国の企業が中心。投資分野は、電力(水力発電ダムの建設)、石油・ガス、鉱業などの資源開発が大部分。
対ミャンマー直接投資認可額(国別)
対ミャンマー投資認可額(分野別)